おべんきゃう

24. 03. 19

源氏についての

今年の大河ドラマ、平安時代になりましたね。 従来は、安土桃山時代の最後のころ(信長・秀吉・家康の時代)か、 幕末の辺(坂本龍馬の活動した時期)を なんとかのひとつ覚えみたい(でも、そうでしょう? ほとんどその時代ばっかり じゃないですか)みたいにドラマ作ってましたが、、 さすがにネタ切れでしょう。

『源氏物語』は、最初に習ったのは高校の国文の授業でした。 1年、2年の古文は、教科書に載った様々な時代の 作品を読んでいきましたが、3年の古文は ずーっと『源氏物語』をひたすら読んでいく、という 授業でした。謙介の最初の出会いは、ですから高校の古文でした。 で、高校を卒業して某大学 文学部国文学科というところに 進学いたします。謙介の行った国文学科の基本ポリシーは 最終的に専攻は決めて、その作品研究をするのだけど、 それまでの時期は、上代(古代)から近現代文学まで 一通りの作品を購読して、各時代の文学の作品研究は 最低限やんなさい、というものでした。 それで、当然、授業の中には、中古文学(平安時代の文学)も あったのです。ですが、、謙介、その中古の先生となんだか しっくりいかないところがありました。ありていに言ってしまえば 嫌いな先生でした。でも、その先生の科目で、国文法通説 というのがありまして。それは必修(浮世の義理)だったので、 いやいや取ったのでした。(助詞、助動詞論でした) 最終講義のあと試験がもちろんありまして、、、次の学年最初に 教務課からいただいた成績をみたら93点も取れていて、、 よかった、この嫌な先生の授業を落第して2年間もとるような ことだけは避けられた、とホッとしたことを覚えています。 ですが、やはり国文科に来たのですから、源氏くらいは 通読しておかないとけないだろう、ということで、 1年生の終わった春休みに、1週間くらいかけて『源氏』を 読み通した、ということがありました。 若いって、すごい集中力ですよね。今だったら『源氏物語』 1週間で通読は無理でしょう。 くわえて、その時の読書記録を見たら、文学史の授業で 習った、田山花袋とかの作品も読んでいるんですよね。 我ながらすごいなぁ、と感心したりいたします。 さて。話を『源氏物語』の成立事情に戻します。

平安時代、紙は大変な貴重品でした。
例えば、清少納言が枕草子を書くに至ったのは、
内大臣の藤原伊周(ふじわらのこれちか)が
中宮定子と一条天皇に紙を献上するわけです。
清少納言さんは中宮定子にお仕えする女官だったわけですね。
その献上された紙を見て、中宮定子さんが清少納言に
「帝は『史記』を筆写されたけれど、これに何を書いたら
いいかしらねぇ」とご下問されたわけです。
すると清少納言は「そりゃあ、枕(枕詞などが書かれた書物)
でございましょう」と答えます。そうすると中宮定子さんは
「なら、お前(清少納言)にあげるわ」と申されて、清少納言さんに
その紙を下賜されます。 まぁそれで枕草子ができたと、
いうことです。

平安時代、紙の製法はすでに中国から入ってきていて
紙漉きはされていたようです。しかし、そうそう大量に
紙は生産されなかった。だから紙は大変な貴重品だったわけです。
ここでも内大臣が、天皇に献上するような貴重な品物で
あった、ということが分かります。

まぁ今でも書道用の手すきの最上等の紙は、結構なお値段が
するのですけれども。全紙大で1枚2000円とかね。

で、紫式部さんに話が行くのですが、、
源氏物語はご存じのように大長編小説なわけです。
ということは、結構大量の紙を使って書かれている、
ということです。さっき清少納言の話をしたように
紫式部さんは、源氏物語を書くにあたって、
大変高価な紙を、大量に使える立場にあった、
ということです。 そういう経済的に強力な力を持っていた人、つまりは 紙のような貴重な品を、しかも大量にかつ継続的に入手し、 購買できる経済的裏付けの力を持ったブレーンというのか スポンサー的な存在の人がいないと、源氏物語は存在し 得なかったわけです。 紫式部という優れた書き手がいたこと、 そして、紫式部の書く文章を、おもしろいおもしろい と、特に目をかけていた宮中の女性読者がいたこと。 そして、大量の紙を継続的に供給できる財力を持った ブレーンの存在。こうした稀有な環境がそろって あのすぐれた恋愛小説は成立したということなのでしょう。 和紙の文化史から見ても、『源氏物語』は特筆される ものであった、ということが分かるような気がいたします。

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22. 08. 10

十何年も前から言ってるんですけどね。

さて。夏休みになりました。
読書感想文を書かないと、、、と謙介が言ったら
このブログを以前からお読みの方は、
ああ、またこの季節になりましたか、というようなものですが、、

謙介さんは前々から、読書感想文なんて
本の感想を書くんじゃない。
その本を読む前と読んだ後で、「あなたの感情や行動が
どう変化をしたのか、その軌跡を書くの」と
それはそれは何度も何度も言ってまいりました。
そうしたらさ、脚本家の三谷〇〇さんが
8月10日付のこの記事で同じことを言ってた。

最初、感想文って、そういう変化を書くの、って書いたら
えらい批判を受けましたけれども。(笑)
謙介は、もう十何年も前からずーっとそう書いてね、って
言ってたんですけどね。
今年もまた読書感想文で世のおとうさん
おかあさんがたが悩む季節が来たようです。

 

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21. 08. 30

「う〇こ」じゃないやつ(その3)

エレベータと動く歩道であがりますと
博物館が見えてきました。
心なしか、建物もう〇この形状に見え、、

Img_1492

(謙介、いい加減 う〇こ う〇こと連呼するのは
止めなさいと御叱りを受けそうですね。)
いやいえ、う〇こなんていうようなことはありません。
近寄ってみたら、かっこいい建物でえす。

Img_1496
と取ってつけたような言い訳を書いておきませう。

入り口でアルコール消毒、検温をします。
36度2分でした。
関所の入館ご許可をいただけたので、
次はチケット売り場にいきます。

Img_1494
それでチケットを買って、会場に行ったのでしたが
もう入り口で驚愕でござんした。
すごい人なんです。

密どころの騒ぎじゃなくて、
おしあいへしあい状態。
こんなんええんか、と思わず思いましたもん。

でもまぁ、展示品は、そりゃ人だってくるわ、
というような逸品ぞろいで、、、
国宝・重文目白押しでした。
最初は、天皇の代替わりの時に
九州の各地から贈られた品々の展示がありました。
長崎からべっこう細工のアルバムとか
鹿児島から薩摩焼の壺とか
沖縄から琉球漆器の硯箱とか、、
でした。
次に帝室技芸員の方々の作品群がありました。
上村松園とか横山大観とか竹内栖鳳とか富岡鉄斎とか
まぁ名だたる人の秀作です。
それから、宮内庁の所蔵の文化財、
ということで、、
聖徳太子と二皇子の画像とか
若冲とかある中に、粘葉本
和漢朗詠集も来ていたわけです。

それがね、すごく良かったのが、
歌集の本なんて、普通の人は殆ど興味がないんだと思います。


謙介的には素晴らしい作品ですが、
世の中の大半の人はまぁ、そんなものか程度の物だったのでしょう。
それが証拠に、和漢朗詠集の展示のところ、人がほとんどいなかったし、
たまに来る人が居ても、殆どの人は作品そのものを見ないで
解説だけ読んでおしまい、という人ばかりでした。

でもまぁそのおかげで謙介は15分くらいその作品を
見ることができたのでした。
しかもです。
たまたま開いてくれていたページというのが
謙介が最初にかな書道を習った時に
先生から指示されて書いたそのページだったのですよ。

文字通り謙介の原点の原典がそこにありまして、、
見た時に、思わずこみあげてくるものがありました。
謙介の習ったお手本は、モノクロのものだったのですが
目の前のものは当然本物ですから、、、
料紙の色、墨の濃淡、潤渇、よくわかりました。
なーるほどねぇ、、


と思いながら、ずーっと作品を見ることができました。
この展覧会のチケット、決してお安いものでは
なかったのですが、和漢朗詠集をひとしきり見ることができて
ついでに感動まで与えてくれて、、、
本当に満足を得た展覧会であったなぁ、と
思ったのでした。


梅が枝餅は食べられんかったけど(まだ言ってる)
自分の原点を再確認出来て、、
本当に心充たされた気持ちで、博物館を後にしました。

で、結局博物館には2時間半ほどいました。

そのうちの15分をずーっと和漢朗詠集の前にいた、、。

帰りはさすがに土曜の夕方でしたから、、、
電車の便もまぁ頻繁にありまして、、
と言っても、やはり電車相互の接続が悪くて
あっちで15分、こっちで10分と待って、、
夕方にアパートに帰ってきたのでした。

 

 

 

 

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「う〇こ」じゃないやつ(その2)

土曜日、11時過ぎに家を出発しました。
バスで私鉄の駅に行って、そこから逆方向の
電車に乗ろうと思ったのですが、
後、20分電車が来ない、と時刻表にありました。

Img_1474

今ね、コロナの影響で、ここの私鉄、減便しまくって
います。俺ね、一応、この私鉄って、
日本でも大きい方の私鉄だから、
電車なんて5分か遅くたって10分以内に
1本くらい走ってる、と思ってたの。
確かに減便します、というニュースは聞いていたんだけど、、
土曜日にですよ、電車が20分に1本って
一応大手の私鉄で、考えられなーい、とか
思いました。
謙介の実家のある街の田舎の小さい私鉄だって
15分に1本は走ってるの。
それが大手で20分間隔って、、
びっくりしましたわ。

で、まぁそのうちに20分が経過して電車が来ました。
この駅で降ります。

Img_1475
謙介の頭の中のような駅名やなぁ、って。
あはははは

実はこの近くに今度九州に来てからの
謙介の主治医をお願いした病院がありまして、、
先日、定期検診を受けたのですが、その採血の結果が
出ますから来てね、ということがあって
行ったのでした。

主治医の先生、何かその日は暇だったんでしょうかねぇ、、
謙介に何かおすすめの本はありますか?
という変化球の質問を投げてきたわけです。
変化球が来たと思ったら、やはり、打ってやらないと、
とか変な山っ気を起こしてしまい、、。
診察結果そっちのけで本の話を延々としていたという
患者と医師。
でまぁ終わって再び駅に行ったのでしたが、
本の話を延々としていたので、乗るはずだった
特急に乗れず、、
次の電車が来るまで、今度は30分待ち。
さっき20分で驚きましたが、今度は
30分ですよ。大手私鉄で(こればっかり)
電車が30分間隔って、信じられませんわ。

で、特急が来ましたので、これに乗りまして、、
途中の乗換駅で降りたわけです。

Img_1476
ホームを移動して、暫くすると電車が来ました。
「旅人号」ですよ。

Img_1501
え? 旅人? どこの旅人? 
決まってるじゃあーりませんか
大伴旅人さんですよー。

 

ほらほら、令和の出典が万葉集で、
しかも、この辺で詠まれた歌ですから、、
令和観光振興、ということで、はじめたんだったですが、、
最初はよかったんですけどねぇ、、、
2年目からあかんようになってしまって、、

 

とはいえ、令和の里、ということで、やっているみたいです。
で、終点に着きました。

Img_1499

実はバスも旅人号。今までは飛梅とか言っていたのに。

俺ね、まぁせっかくここに来たんで、やっぱり来たら
梅が枝餅でお茶でも、、と思ってたんですけど、
お土産用しか売っていないの。
中で食べるのは全部禁止。

お土産用たって、10個入りしかない。
いやまぁあんこは好きですけど、
一人であんこもち10個って、、、
ちょっと、、ということで楽しみにしていた
梅が枝餅は無し、ということになってしまいました。(悲)

でまぁここに来た以上は、先にお参りをさせていただくのが
筋でしょう、ということで、参詣を先にいたしました。
殆ど人なんていないかなぁ、、、と思って行ったんですが
結構な人が来られていました。

Img_1487_20210829163801

まぁあまり人が写らないように、と思って
少なめの写真を載せますが、、
結構人出は多かったのでございます。
お参りを済ませたので、横の公園のほうに行きました。

Img_1488
ここからエレベータと動く歩道で一気に博物館まで
行けるようになっているのです。
今日はここまでといたします。

 

 

 

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「う〇こ」じゃないやつ(その1)

のっけからすみません。いきなりのタイトルでございますが。
でもこんなこと言ったのは、謙介じゃありません。
謙介のかな書の先生だった上嶋茂〇センセイですよ。

上嶋先生、かなを書く時のポイントして、墨の濃淡のほかに
墨の潤渇、ということをいつも言われました。
墨の濃いところ、その対極のかすれ、その両方が
調和したところにかなの書の美しさがある、ということでした。
(まだほかに、字の間、とか配置とかもおっしゃいましたが)

その逆に、濃い墨ばっかり、かすれのない字のことは
「う〇こやね」の一言でばっさり切っておしまいでした。
毎回の授業、最初に先生の書に対するお話があった後、
学生各自の書いて来た作品の添削指導があったのですが、、
その時、濃い墨ばっかりで、かすれがないと、
「♬ う〇こ、う〇こ、うんうん う〇こ」
と即興のう〇この歌を歌いながら
「こんな墨ぼたぼたの字ぃ。書いてたらあかんで」
というのが常でした。


先生の即興のう〇この歌、もう吹き出してしまいそうで、
近くの机で書いていて、笑いをこらえるのに
苦労した記憶がありました。

その先生が、「ええなぁ」と言っていたのが
高野切、寸松庵色紙、粘葉本和漢朗詠集
あたりの作品でした。
その先生のお眼鏡にかなった粘葉本和漢朗詠集が
近所の博物館に出張展示されている
(会期は明日 29日まで!)
ということで、万難を排し、万象を繰り合わせて
(おっさん、言うことがいつも大げさですけど)
博物館まで出かけたのでした。
この「粘葉本和漢朗詠集」かな書道か図書館学でも
やっている人間じゃないと読めないようなものですが、、
「でっちょうぼん わかんろうえいしゅう」と
読みます。
粘葉本、というのは、製本の形式の一つで、、
どんな本かと言えば、日本国語大辞典によると、

 印刷または書写した一枚の紙の文字面を
 内側に中央から二つ折りとし、その折り目を並べ重ねて、
 折り目の外側に糊をつけ、各葉を接着させて一冊とする。

製本形式の本なのです。 糸で綴じずに糊で貼ったので
その部分を虫が食べていって、あまり長期保存に向く
製本形式ではありませんでした。なので廃れてしまったんですけどね。

和漢朗詠集を書いた後、その粘葉本形式で綴じたものが
この粘葉本和漢朗詠集、というものです。
これは、宮内庁の所蔵なので、めったなことには実物を見ることは
できません。今回も特別展示ということで、やってきたものだったのでした。
長くなりました。今日はここまでといたします。

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21. 08. 03

読書のペース

前の職場では、本があまり読めなかったんです。
一つは読みたいと、という気が起こらなかった、
ということもありますし、気分的に読書、
ということにはならなかったんですよね。
高校生の時、ほどではないんですけどね。
高校生の時は、4冊くらい同時進行で読んで
いたんですけどね。
まず、家で読む本。 それから交通事故で
頭の骨にヒビが入ったので、1年の時は自転車通学
だったのですが、1年の後期から3年の1学期まで
バス通学にしていた時期があって、、
その時は、行き帰りのバスの中で読む本がそれぞれ1冊
すつありました。それから学校で読む本があって、、
同時進行で4冊読んでいたのですが、、
あの時はこんがらがったりしませんでしたねぇ、、。

それが去年の秋ごろから、ちょうど九州に引っ越すのが
決まったあたりから、とんでもなく本を読む量が
増えてきました。
高校生の時は、落窪物語とか堤中納言物語とか
もちろん源氏とかつれづれとか古典も読みましたし、
高橋和巳に田辺聖子(なんじゃこれは、というような
ことでした)とか読んでいました。
なので、作家の振れ幅は大きいと言えば大きいのですが
それでも、小説中心、というあたりはぶれていなかったようです。

で、おっさんになったら、もう読む本がめちゃくちゃで、、
『鬼才 五社英雄の生涯』『沖縄と私』
『汚名 第26代沖縄県知事 泉守紀』
『「意識高い系」の研究』
『森有正全集』に『森有正先生のこと』
森有正せんせいは、本当に久しぶりに読んでいます。
森有正先生のこと、という本は、某装丁家の先生が
書いた本ですが、その先生、どうも、森先生の
愛人だった、というような話がありました。
謙介の最初の仕事場に、時々来ていた西村〇さんと
いう作家の方がおいででした。その人が薦めて
くださって、謙介小説を書くようになったのでしたが、
その西村さんの原作を映画にしたのが、五社さんだったの
です。五社さんの映画と言えば、
例のなめたらいかんぜよ、の『鬼龍院花子の生涯』とか
同じ宮尾登美子作品の『陽暉楼』とかが有名ですかね。
もう男と女の欲望とか本能の果てみたいな映画
ですけど、、。この本を読んで、どうして
五社さんが西村さんの小説を映画化したかったのか
よーくわかりました。
『沖縄と私』は中野好〇さんのエッセイです。
この一番最後の部分に、中野さんの学校時代の
野球部の先輩であった、島田叡さんのことが出てきます。
島田さんはご存じのように、27代の沖縄県知事
だった人で、米軍の総攻撃開始直前の沖縄県知事
なって、沖縄県の行政を担いました。米軍の空襲に
遭いながらも那覇から首里、首里から南部へと移り、
最期は摩文仁のあたりで消息を絶ってしまったのでした。
(今も最期はわからないまま)
その島田さんの思い出、人となりが、部活の後輩であった
中野さんの文章で書かれています。
それが、この本を読むまで全然知らなかったのですが
中野さん、謙介が今年の3月まで住んでいた家の
すぐそばのご出身だった、ということです。

今年の3月まで住んでいたところは非常に不思議なところで
県の生涯学習センターというところに行ったら
県出身者で、文学だのスポーツだの、それぞれのジャンルで
活躍した人の記録がある資料室があるんですけど、、文学でも
正岡子〇だの石田波〇だの〇東碧梧桐だのは出てくるんです。
でも、大江健三〇とか、この中野好〇は記録がないことに
なっているんです。不思議ですわぁ。ふふふ。(嘲笑)

しかし、最近読んだ本、ものの見事に文学がないですねぇ、、。
これが10代とおっさんの違い、なんでしょうかね。

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21. 05. 26

あらまぁ

大学院の時の恩師から、
「一応生きてる。ちゃんと仕事もしてるわよ」という
連絡が来ました。かかわった本が出たし、読んでね♬ とか。

先生の専門は歌舞伎でね。
謙介、院試の口頭試問で、先生から「歌舞伎の成立事情について述べよ」
という問題が出ましてですね。その時に「出雲阿国のはじめた舞踊が
次第に煽情的になっていって、そこからやはり売春を介在するように
なっていって、風紀が紊乱するというので、女性の歌舞伎舞踊は
ダメというようになりまして、そうしたら男やったらええやろ、
ということで、若衆歌舞伎にしたら、
イケメンのにいちゃんたちがこんどはウリセンをしてしまい

再び幕府から若衆歌舞伎は風紀紊乱であーる。けしからん、ということになって
野郎歌舞伎になって、、それでまぁ今に至りました」
というような回答をした記憶がありました。 ふふん。


センセイからのメールで、
何を書かはったんかしらんと思ったら
男色大〇の解説だって。
わははー

Img_1332

今回のは、武士編と歌舞伎若衆編の2冊からなっていて
センセイの解説はもちろん、歌舞伎若衆編の方でしたよ。

で、送られてきた本のカタログを見たらさぁ、、
男色大〇の横が、三島由紀〇って。(笑)
まぁいいけど、、、なんだかとっても恣意的な
配列だなぁ、、と。
早速取り寄せて読んでみたいと思ったのでございました。

 

 

 

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21. 02. 14

至急必要だったんだってば(その2)

転害門は正面から入れませんから、よこっちょから
東大寺の境内に入ります。
入ってしばらくまっすぐ東へ歩いていきます。

そうしたら、今度は塀がありますので、それに沿って
さらに行きます、、と。
見えてきました。

Img_0669
と、言ったって、なんだこりゃ、というものですが、、

これだったら分かります、よね。

Img_0675
正倉院でございます。はい。
今、ちょうど正倉院の外側の公開がありまして、、
それを見て写真を撮る、ということも
今回の旅のミッションでございました。

正倉院は、本当に奇跡のような建物です。
もし、この建物が大仏殿の南側にあったとしたら、
こうして現在までこの建物が残ることはなかったでしょう。
当の大仏殿も、大仏殿の前にあった塔も何度も火災に遭って
います。

正倉院がこの東大寺の北側のひっそりとした場所に置かれた
という位置関係が、よかったのだと思います。
この位置関係も昔の人の知恵だと謙介はいつもこの場所に
来るたびに思うのです。

Img_0671

謙介は、この北側の静謐なたたずまいが本当に好きです。
大学時代も、授業が休講になったり、時間ができたら
この東大寺の北側に来て、芝生の上に座ったりして
ぼーっとする時間をよく持ったものでした。
何十年ぶりかにこの場所に来れたことは
本当にうれしかったです。

Img_0676

正倉院を出て水門町の写真家入江泰吉さんの旧宅に行ったのですが
新型コロナ感染拡大防止なのでしょうね。
本来の休館日は月曜で、行ったのは金曜でしたが
閉まっていました。

ちょうどお昼になったので、この旧宅の横にある
喜多○というお蕎麦屋さんに入りました。
ここのお蕎麦は更科系の白いお蕎麦で、上品な感じの
お蕎麦でした。 ふわふわ卵のお蕎麦、
というのを注文しました。

Img_0680

ふわふわ卵の中に、ゆずの皮が忍ばせてあって
その香りが何とも言えないアクセントになっていて
おいしくいただきました。

お蕎麦をいただいて、県庁の東側の
交差点を左折して、東の方に行きました。
このあたりからの東への道が謙介は本当に
好きです。

Img_0683
以前はこの並びに、日吉館という奈良に来た
古美術、歴史研究の人が良く泊まる旅館が
ありました。ここのおばあちゃんが仕切っていた
旅館だったのですが、この名物おばあちゃんが
亡くなって、旅館の営業も終わりになりました。

謙介も万葉集の調査で、毎日毎日住んでいた京都と
奈良を往復して調査をするのは時間がもったいない
時があって、その時はこの日吉館を利用させて
もらったものでした。
今は日吉館の跡は、更地になってしまっています。

Img_0691

この日吉館の前が、奈良国立博物館です。
(国立じゃないってば。ぶつぶつ)

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今、ちょうどお水取りの展示と、国立博物館の
「なら仏像館」になっている旧本館を建てた
当時のいきさつについての展示をしていました。

Img_0690
この旧本館の設計は片山東熊でした。
東熊の工部学校での卒業制作の設計図も展示されていました。
建物の意匠の横に、精緻な英文筆記体の説明が
ありました。さっき精緻な、と言いましたが
本当に美しい筆記体で、ペンで書かれた精緻なものでした。
建物の意匠もきれいでしたが、その英文の美しさに
謙介は感心しました。
その卒業制作の裏側に指導教官のコンドルの
評が書かれていて、英文、構成はよくできているけれども
過去の研究について、飛ばしたりした部分がある。
それと、設計の中のいくつかの部屋が狭い、
というようなことが書かれていました。

若いとねー、よくやっちゃうんですよ。
自分のやったことが一番すぐれていると思って
過去の研究史の整理とか、実証結果の整理を
すっ飛ばして、自分のやったことだけ書くの。
自分が一番偉い、とか思ってるからねぇ。(微笑)
でも若い才能と情熱がほとばしったような
設計図は圧巻でありました。

展覧会を見て、博物館を出て西に行きました。
奈良県庁舎に行きます。

Img_0699
快晴、というわけではなかったのですが
まぁ晴れていたので、眺望はどうだろうか、
ということで、一般開放されている
屋上に上がってみたのです。

スカッと晴れ、ということではありませんでしたが
それでもそこそこ見ることができました。

Img_0695
これは東側。手前に三角形の山が見えているの
わかりますか? これが阿倍仲麻呂さんが
三笠の山に出でし月かも と詠んだ三笠山なのでございます。

こちらは東北方向。若草山と大仏殿。

Img_0696

二月でしたがうららかな日で、
上がってよかったと思いました。

さて。ミッションもほとんど終わりました。
あと一つ。
近鉄の奈良駅に急ぎました。
奈良から今度は東大阪の枚岡へ。
奈良から大阪難波行の快速急行に乗って
学園前まで。ここで後続の各停に乗り換えて
枚岡まで行きました。
最後に河内国の一宮、枚岡神社を参詣しました。

Img_0705

お参りを終えて、枚岡から阪神尼崎行の各停に
乗って大阪難波まで。
難波からOCATへ、でバスに乗って帰った、という
ことでした。

今回もお読みくださってありがとうございました。

 

 

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21. 02. 13

至急必要だったんだってば(その1)

4月からの仕事に必要な資料とその写真が欲しかったのです。
確かにグーグルの画像とかで検索したら
その画像っていくつかヒットはするのですが、、
他人様の写真を勝手に使うのは著作権法違反ですし、、
そういうことはやりたくないですし、、、
でもこの時期なぁ、、うろうろするのはなぁ、、
とぐるぐると思考停止になること、何十回と繰り返した結果、
ええい! ということで、行ってきました。
何処へ。見たらわかります。
高速バスでOCATへ行きました。

Img_0625

難波から近鉄の奈良線の快速急行で新大宮へ

Img_0627

新大宮で降りて、北に行きます。

国道24号線と平城京の一条通の交差点に出ます。

Img_0630

ここに奈良市立の高校があるのですが、
この高校の傍らに芸亭の推定地という碑が建っています。
ここかつて石上宅嗣(いそのかみ やかつぐ)の邸があって
宅嗣さんの蔵書だった本を、一般に公開して見せた、
ということが行われました。その建物の名前が「芸亭」
というものでした。

Img_0635

このことは続日本紀(しょくにほんぎ)
に出てくる記録なんですけどね。

この「芸亭」というのを「うんてい」と読む読み方なんですが。
「芸」を「うん」と読みます。
実は、この「うん」と読む読み方がこの「芸」という字の
正式の読み方なんです。
と、言うと、「芸」は「げい」だろ? と言う人が
ほとんどなんですが、実は正式にはこの字は「うん」の
読みが正しいのです。
理由はこうです。
第二次世界大戦後、筆順の多かった感じの新字体の漢字を
造りました。例えば「醫」を「医」とか、「樂」を「楽」とか。
その中で「藝」の字の字体を「芸」にしちゃったんですね。
ところが、実はすでに「うん」と読む「芸」の字があったわけです。
新字体を作った人がこの「芸」のあることを知らなかったんです。
そのために「芸」が「げい」になっちゃったんです。
後から書道界の字に詳しい人たちが、「芸」は「うん」という
読みの字がありまっせ、と言ったんですけど、
もうねぇ、「芸」げいで登録して、公布した後だったので、
失敗作は今もずーっと続いている、という状態なんですわ。

で、「芸亭」の取材をして、今度は一条通を東に行きます。

ずいぶんと歩きますと道の左側、(北側)に御陵が見えてきます。

Img_0651

これがまぁ、聖武天皇と皇后の御陵なわけです。

Img_0652
皇后ということですから、光明皇后ですね。

こっちが聖武さんの御陵

Img_0655

でもってこっちが光明子の御陵

Img_0656

更に東に行きます。道がだんだん狭くなっては来ますが
古い家々が並んでいて、いかにも古い街のたたずまいが
あって、趣がある感じがします。

Img_0650

謙介ね、10代の頃なんて、こういう古い家って
全然興味がなかったんですけどねぇ、、。
どうしたもんでしょうね。今はこういう町家とか
古民家に惹かれてしまいます。

で、普通の家々が並んでいるのですが、突き当りに
突然古代が顔を出します。

Img_0663

さっきの聖武天皇陵だってそうですよね。
ごく普通の民家の中にそういうものがあって、、
そういうところが今の奈良らしいです。

Img_0668

長くなりました。佐保路の一番東まで来た
ところで、いったん区切りとします。
以下次回。

 

 

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20. 12. 27

謙介版の今年の漢字

毎年、暮れになると今年を総括する漢字というのが
清水さんで書かれて、発表になりますけれども、
今までは、謙介、すごく批判的でした。
一年にいろいろなことがあって、それを一字でなんて
到底表現できんやろ、無理やん、とか。
そう思っていました。

けれど、今年に限って言えば、なんですが、
自分自身のことを考えて、一字で表せ、
と言われたら、すっ、と出てきたのです。
「転」という字です。
なんたって、7月1日に転居をいたしました。

それだけではありません。
8月に申請書類をまとめて某所に送りました。
そうして、9月に1次の書類選考に通りました、
という連絡をいただきました。
2次の面接がありまして、次に3次の実技試験と
口頭試問がありまして、11月末に正式な連絡がありました。
来年の4月から来てもらえますか? ということでした。
と、いうことで、転職をすることになりました。

実は今までも何度か転職をしようと思って
処々方々に書類を送っていたのです。
もう一体何度、こんな書類を書いたことか。

ちょうどこの1次審査の直前にNH○の
朝ドラを見ていたのです。
そうしたら、山崎〇三郎さんが出てきて
「栄冠は君に輝く」を歌っている回を見ました。
今までにろくなことがなかったですから、
「あーあ栄冠は君には輝かない」とか自嘲的に
歌っていたのでしたが、、
この歌を聞いてしばらくして1次に通り
2次審査にも通り、とうとう3次にもパスして
採用が決まってしまったのでした。
後から聞いたら、1人の募集に32人の応募があった、
と聞きました。
こんなことがあって、今年の朝ドラの
山崎さんのあの歌は謙介的にも
改めて忘れられない歌になりました。
(昔、ブラスバンド部にいたときに
もちろん演奏したことはあって、知った曲では
ありましたが。)

そういうことで、来年は転職の上に、転居をします。
(今住んでいるアパート、結局1年も住まなかった
ことになります。結構気に入っていたんですけどね)
あ、来年も謙介の漢字は「転」かもしれない。(笑)

こんな歳になって、転職するなんて
思ってもなかったですが。こんなことも
あるんですねぇ、、。と改めて思ったような
年の瀬です。

新型コロナウイルス対応でバタバタした
今年ももう終わろうとしています。
実は、先日、その来年からの職場に行って
事務手続きについていろいろと詰めてきました。

新型コロナ感染防止で、あちこち移動するのは
ちょっとなぁ、とは思ったのですが、
どうしても必要なことなのでねぇ、、。

行っただけの意味はあって、業務の具体性とか
関係の人たちとの挨拶、顔つなぎもできました。
それから来年からの住居についても
決めてきました。

その時の旅の記録について、更新できるようでしたら
もうちょっと書いていきます。
またよろしかったらお付き合いください。


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