おべんきゃう

18. 07. 11

こんなこと調べる人間なんてほかにあまりいないとおもうけど

今回の大雨による被害、
いくつか大きな被害があった個所がありましたが、、

地元の人に良く聞いてみると、
お天気だけでなくて
人災じゃなかったの? ということも
出てきました。

その一つがダムの放流です。
野村というところがあって、ここも
今回の豪雨で被害が
大きかったところなんですが、、。

謙介の住む町にもダムがあるんですが、こちらのダムは
ずいぶん早い段階から
ダムの放流をしはじめていたのです。
水曜日とか木曜日あたりから。

つまり貯水率が80パーセントくらいのあたりで
すでに流し始めていた、ということなのです。

他方、野村町のダムは、金曜日に貯水率が
100パーセントになって、
それから一気に流し始めたわけです。

今回被害に遭った人のコメントを聞くと
「水が急に来た」ということがあるんですが、
それとこのダムの放流が関係していないのか。

これからの検証が必要な気がします。
これがひとつ。

それとこれは我々がマスコミと付き合う時の
ポイントにもなると思うのですが、、

今回、被害状況の写真というと倉敷の北側の地区の
写真ばかりが出てきます。

水没した街を撮ると、確かにそれだけで被害の大きい
災害であった、ということはわかるかもしれません。

ですが、被害のあったのは、中国四国九州地区の各県に
及んでいます。どの県も被害の多少はあるのですが
そんなこと、あの被害の写真ばかり見せられたら
他の地域にまで想像が
行かないような気がするんですよね。

コメント欄にも書きましたが、高知への高速道路は
山が地滑りを起こして橋梁・橋脚もろともに流れ落ちてしまい
影も形もありません。

高知への運輸手段は
今や国道33号線しかないのが現状です。
それからJR四国は、財田川橋梁の橋台が傾いてしまった
ことをはじめとして、山崩れ、その他、復旧工事が必要な個所が
30個所ある、とのことです。

広島で言えば、呉・尾道方面へのアクセス道路はすべて
土砂崩れで今なお不通です。
JRも同様に不通です。

それから、離島とか山間部に行くと、水道の浄水施設
そのものが大きな損傷を受けたり、
浄水場から各戸へ供給される途中で
壊れてしまっていて、供給がストップしている
個所もたくさんあります。
ですから、避難所で水洗トイレが使えない。
手洗いがおざなりになる。
飲み物としての水が不足している。
何せ道が通れないので輸送手段が限られていて
水が運ばれない、運ぶことができない、という状態です。

避難所にいるのも田舎の事ですから
お年寄りが多い。
お年寄りにこの暑い毎日。しかも体育館の板の間ですから
寝ることもできにくいでしょう。
ニュースは東京からなので、見たり聞いたりしていても、
現実の報道になっていなくて、どこか他人ごと、という
感じがするんですよ。

ああ、こんな話をしたかったのではないのです。
歴史をやってきた人間として、の話です。

謙介さん、思うところがあって
延喜式内社を調べてみたわけです。


延喜式というのは、
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十が
延喜式 神名帳という別名のついた書物なんですが
これに何が書いてあるかと言いますと、、
当時「官社」に指定されていた全国の神社の
リストが書かれてあるわけなのです。

どういうことか、と言えば、平安時代に
既に信仰されていた、古い神社の
リスト、ということです。
古くから信仰されていた神社のリスト、
ということです。

これはどういうことかと言えば、
「神社の置かれるところはどういう場所か?」
ということになるのです。

謙介の睨んでいるのは、
神社の置かれる場所というのは
川の合流地点だったり、川筋の場所だ、
ということです。

つまり大水が出たりすると困りますし、逆に
水がなくては、当時の経済の基盤であった
お米ができません。水利というのは
古代の人の一大関心事、だったわけです。
ですから、大水が出て被害があるような場所
水の流れの分かれ目の場所には神社を
作って、川の流れが平穏でありますようにと
祈ったのだと思います。

そういうことで、今回の倉敷の大水の出水地点と
延喜式内社の配置を見てみましたら、
合流地点から800メートル東のところに
菅生神社という神社がありました。

それから菅生天津神社が1キロ東に
ありました。

百射山神社が3キロのところにありました。

何と都窪郡の神社3座すべてが
この川の合流地点の近くにあった、
ということです。

多分ね、ここの合流地点の
洪水は昔から頻繁にあった、ということ
なんでしょうね。だからこそ、
それを鎮めていただくために古代の人は
ここにお社を作って信仰の対象としたのでしょう。

延喜式の神社の配置を見ますと、
そういう土地の事情が
垣間見えてくるように思います。

でも、たいていの人は、「そんなこと」と言って
バカにして顧みもしないの。

科学・コンピュータの時代にばかばかしい
とか言って。

だけど、歴史に学ぶとか、人の生活の中からの
経験に基づくこと、ってそうした実際に被害を
受けたことからの信仰ですからね、
それなりに意味の
ある言葉と思うんですよ。

ということでここに書いておきたいと思います。

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18. 06. 21

どっちも違うよ

なんやしらんけど、
「お菓子の八つ橋がえらいもめてはるねんて」という
お話を聞きました。

わーわーと言っておいでのようですが、
あのお菓子の原型になったようなものが
実はそこここにあります。

たとえばこれ。
同じ京都なんですけど、
丹波の園部で作られてきた
「からいた」というお菓子です。
Karaita1

このお菓子の製造元の初代
大槻惣右衛門氏は、園部のお殿様、
小出家に仕えていた武士だったそうで、
あの朝鮮出兵の際には、
海を渡って進軍したんだとか。

やがて、飢え死にしそうな時に、
民家に残されていた小麦粉と、
兵糧として持っていた朝鮮飴を使って、
煎餅のような非常食を作ったのが、
このからいたのもとになったもの、という伝承が
あります。

八つ橋は米粉で作られていますが、
Karaita2
こちらは小麦粉で作られています。

それから、伊賀に行けば「かたやき」
というお菓子があります。
24igakatayaki


直径が5~6センチくらいの円形のお菓子で
それそれは堅いものです。食べる時は
お菓子と一緒に木づちがついているので
それで破壊 割りながら食べる
というお菓子です。

しかも、あまりにかたいので歯で噛み砕く
ことができません。飴のように口の中で
少しずつ溶かしていく、という食べ方を
しなくては文字通り「歯が立ちません」

これは伊賀のお菓子なので「忍者の携行食」
ということになっています。


忍者の携行食かどうかは、よくわかんないのですが
山に入って生活する人の携行食であった、
というのは間違いがないように思います。

八つ橋の場合、実はその発祥が
「聖護院」というところが、意味がある、と
思うんですよね。

聖護院というのは山伏のお寺です。

だから八つ橋の原初形態は、
おそらくはこの園部の「からいた」のようなもので、
そもそもが山伏の携行食、として作られたもの
だったのでしょう。

それが京都風の洗練を受けて
次第に形状の進化をしていって
お琴の形に、となっていったのだと思います。

謙介の大学の時の同級生で
M平くんという人がいました。

彼の家のお仕事が山伏なのです。
で、彼も山伏です。

映画とか本で、山伏という存在は
知ってはいましたが、友達にそういう
家業の人がいる、ということには
ちょっとびっくりしたことがありました。
大学であった時は、普通にシャツとか
ジーンズ姿ですが、山伏姿になったら
兜巾をして、ほら貝を吹いて、という
いでたちです。
ゼミの発表の時の姿とあまりにかけ離れていて
驚いたことがありました。

園部のからいた、というお菓子、
派手さは全然ありませんが、
何とも言えない滋味があって、
それが長らく丹波の人の支持を
受けてきたのだろうなぁ、と思います。

八つ橋もそういう食べ物だったのが
いつしか変化して今の形状になったのでしょう。

あないに目くじらたてへんでもええやん、
と思うのですが、、。

なぜに今なの? という、クエスチョンマークが
頭の中についている謙介なのでした。


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18. 06. 04

氷河期とバーゲンセール

今回のタイトル、いったい何なんだ、ということなんですが、、

氷河期とバーゲンセールが結び付く、
という不思議なお話なのでございます。

江戸時代に氷河期があったのは、
ご存じだったでしょうか??

お江戸の8月の気温が、日中、
20度行くか行かないか、だった、と
言われています。
昼間の日盛りで20度ですから、
朝晩は冷えました。
8月というのに、みなさん、冬物の
布団で寝ていたりしたわけです。

その結果、どうなったか、といえば、
当然作物ができなかった。

今だったら、農薬がありますから、
少々の低温で生育不良で枯れかかったら、
農薬を作物にじゃんじゃんかまして(あら、お下品)
枯れないようにする、ということが可能なのですし、
実際そういうことをやっています。
(農家である謙介のアパートの大家さん談)

でもまぁ江戸時代にはそんな農薬なんて
ありませんから、気温が低かったら
できるはずの作物が育たなかった。

その結果、飢饉がきたわけです。
江戸時代、何度か飢饉が来ていますが、
その背景には江戸時代が氷河期であった、
ということもありました。

加えて江戸時代の経済は、
農業が基礎ですから、作物ができないということは
経済活動にも大きな影響がありました。

そういう時に、政治はどうしたか、といえば
失業対策事業を展開したわけです。

土木工事をしました。

失対の土木工事なんて、大昔から全然変わんない、
という方法であることがよーくわかります。

大坂(おおざか)で言えば、大川の浚渫をしました。

大川は淀川から毛馬の閘門で枝分かれして、
桜宮とか中之島辺を流れる川です。

浚渫をしないと、琵琶湖から流れてきた土砂が
溜まって、土地が高くなってしまい、したがって
水が流れず、逆流して、大坂の町が水浸しに
なったりしたわけです。

でもね、大坂の街なんて、ちょっと考えたら
分かることですが、琵琶湖から言えば
位置的に河口、なわけです。

そんな河口をちょっといじったくらいでは
淀川なんて全然だめで、しょっちゅう氾濫していた
わけです。
氾濫と気候不良で作物ができないというと
余計に餓死者が出る、ということですね。

それで、根本的に淀川ぜーんぶを
浚渫しようということになりました。

この工事のことを、「お救い大川ざらえ」
と呼びました。
失業対策事業ですから、
「お救い」ですよね。

でね、この「大川ざらえ」をもじったものが、
「大蔵ざらえ」という名称なのです。

ほおら、ここで氷河期がバーゲンセールに
つながった。(笑)

H290216_b1_2


今時大蔵ざらえなんて
言う言い方していないのかなぁ、と
思いながら検索してみたら、結構な数出てきて
今も使われている言葉だ、ということが
分かりました。

でも、この「大蔵ざらえ」のもとが、氷河期の飢饉の
失対事業の名称だったなんてねぇ、、

言語にはこういう意味の跳躍がありますからねぇ、、

いくらAIが発達してきた、ったって、
こんなふうな言葉の変化には
まだついてくることができないんじゃ
ないか、と思いますです。

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18. 05. 20

吉野離宮

吉野(奈良県)で、古代の大規模な建物の遺跡が
見つかった、というニュースが先日ありました。

日本書紀を見れば、持統さんなんかは
もうしょっちゅう吉野に行っていた、
という記録があります。

年に4回とかいう年もあって、、、
持統さん、在位中に総計33回だか
行っていたはずです。

じゃあ、次に出てくる疑問は
何しにyouは吉野まで?
ということになりますですね。


吉野という場所が神仙思想による聖地で
そこに行くことによって、このヤマトの国を
統治する力を身につけるため、で
あった、というのが、定説です。

そういうのって、現代の人にとっても
分かることではないのでしょうか。


今の人だって、「パワースポット」にこだわる人が
いるではありませんか。

持統さんにとって吉野がパワースポットで
あった、と考えたら、よろしいのではないでしょうか?

で、今まで、書紀の記録はあったのですが、
実際の吉野離宮の場所がわからなかった、
のです。

で、今回、宮滝の辺から、大きな構造物の
遺跡が出てきた、ということです。
規模とか、その状況からみて、
おそらくこれが吉野離宮の建物跡なのでは?
 

ということですね。
で、ぐーぐーるで検索をしていたら、
こんなのが出てきたのですが、、、

このお方、吉野離宮はぜーったいに宮滝なんかに
あった、なんていうことは信じらんない!
というスタンスで文章をお書きです。

読んでいたら突っ込みどころ満載で、、、


「そして、この吉野川は敵の侵入を防ぐ
自然の水濠の役割をも果たしているのである。
そのような訳で吉野宮は北岸に造営されるはずがない。」

とあるんですけど。 この時代の天皇の住まいって
そういう外敵がやってくるのに備えて、地形的に防御する
場所に造った、なんていうことはまーったくありません。

そもそもが持統天皇の藤原京なんて
のっぱらの真ん中に造ったわけですから。
その次の平城京だってそうですね。

「再述するが、聖なる神仙郷「よしの」は
吉野川の南岸でなければならないのだ。」

っておっしゃっているのですが、
離宮の置かれるのには複合的に考えないと
いけません。


謙介、もちろん吉野の宮滝遺跡には
参りましたし、このブログでも
行った時のことをお話したことが
ありましたね。


宮滝遺跡のお向かいには、
山の形の美しい象山があります。
万葉集では柿本人麻呂、山部赤人が
吉野離宮に来た時に、この象山の歌を
作っているのですよ。

このおっちゃん、万葉集のことについては
なぜか一切触れられていないのですが、、。
そういう歌人の歌などを見ても
象山と吉野離宮は近接した場所に
ないといけませんし、、。
今回の発掘結果は、その歌が改めて
宮滝にあった離宮で歌われた、
ということの証左になったのではないか、
と思います。

(ということで今日聞いた音楽は
 さだまさしの「まほろば」にしておきました。
 吉永小百合さんの「奈良の春日野」も
 ききましたけれども、、、。)


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18. 03. 12

日本史の復習シリーズ(その5)

屋島ケーブルは屋島の南側なのですが、
ここから屋島の東側に移動して
ここに来ました。
と、いうことで、ここが源氏と平家の戦いが
行われた場所です。

Yoichi3_2
平家物語の中で、那須与一の扇の的のくだりは
古文の教科書にもよく出てくる場面では
ありますし、、実際平家物語中の白眉の場面でも
ありますから、読んだ、という人も
おいでになるかもしれませんね。

この岩が、扇の的に当てるにあたって
那須与一が祈った、と言われる岩です。
Inoriiwa_2

そこから百メートルほど行ったところが
これ、です。
右側の石のところに馬の脚をかけて
左奥の四角い看板の場所あたりに
的が来て、そこへ向けて矢を放ったのだそうで。
Yoichi2_2

これが近くにあった
マンホールのふた。
Mure

それからこれが
香川県警のイメージキャラクター「ヨイチ」
別にカタカナで書かなくてもいいんじゃ
ないか、と思うのですが。
Yoichi

これで日本史の復習シリーズが終わりです。
お読みくださってありがとうございました。


とはいえ、この日のお出かけはまだまだ
続きます。
(あと3回くらい)
よろしかったらお付き合いください。


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18. 03. 08

日本史の復習シリーズ(その4)

今日のお話、実は前回の翌日のことになるのです。
加えて今回は場所的には、日本史に出てくるのでは
ありますが、、、きょうの場所はあまり日本史には
関係がありません。
次回に期待をしていたただきたい、と思うのですが。

最初に行ったのは、高松琴平電鉄、地元では
「ことでん」と言っていますが、
ことでんのやんやんやしまえきでございます。 
ことでんの駅には創業当初から改築していない駅舎が
いくつかあるのですが、ここもそのひとつです。
(ただし駅舎、昔はピンクなんかに塗られていなかった、
とは思いますが)
Yashima1

やんやんやしまえきから、緩やかな坂を上って行きますと突き当りに
新馬場公会堂という建物があります。

Yashima21

今はこんな公民館が建てられているのですが、
数年前まではここにこういうものがありました。
Yashima22

ここから屋島山上までのケーブルカーが走っていました。
戦前はずいぶんと利用客も多かったのです。

太平洋戦争の間は不要不急路線に指定されて
一時撤去されていましたが戦後、復活しました。

しかし戦後、ドライブウエイができて山上まで車で
行けるようになりました。加えてケーブルカーの駅は
電車の駅からも離れていましたし、山上でも
屋島寺とか展望台から離れていて使うのが不便でした。
そういうことで利用客がどんどん減って行って、
とうとう運転休止になってしまいました。

あくまで、休止であって、廃止ではありません。
公民館の裏に行くと、このように
ケーブルカーが置かれています。


Yashima2
でも、窓ガラスは割られているし、、、。
数年前まで片方の車両は山上駅にあったのですが
ワイヤーが切れたら大変、ということで
二両とも山麓の駅に下しています。
Yashima3


このようにレールも残っています。
Yashima8

ケーブルカーは定位置に停車しているのですね。
車両と乗車位置の矢印の表示がピタッと合っている
ところがまたまた哀しみを誘ってしまいます。

Yashima5

このケーブルカー、運休する予定日に故障があって
最終営業日を待たずして、そのまま休止に
なってしまいました。

しばらくは営業譲渡先を探していたのですが、、、
屋島に上る人も昔のようには多くありませんし、
上るとしたら車で行きますし、、、
そういうことでこのケーブルカーの再開は
難しいだろうなぁ、と思います。

ケーブルカーというと、反射的にフニクリフニクラを
思い出す謙介なのでした。

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18. 03. 07

日本史の復習シリーズ(その3)

前回は菅原道真の赴任していた国庁跡を
見ました。

今ではもう田畑の下になってしまいましたが
平安時代はこの場所に役所がおかれ
たくさんの人が行きかっていたのだと
思います。

時の流れは、こんなふうに
何もかも変えてしまうのですね。

今日はちょっと時代がさがりますが
やはり日本史の復習シリーズです。
国庁跡から南を見ると、背後に小高い丘が
視界に入ってきます。
今日はこの丘の話です。
Tudumigaoka1
実はこの丘も日本史の中に出て来るんですよね。

丘に近づいてみます。
この丘、「鼓が丘」という丘なんですが。
この丘の上に、黒木の御所という建物が
ありまして。

ここに保元の乱で配流になった崇徳院の
御所があったのです。今は鼓岡神社、
という神社が建っています。
Tsuzumigaoka3

位置関係が絶妙ですねぇ。
一応は流人とはいえ、元天皇ですから。
国司よりもちょっと高い場所に御所を作る。
ということだったのですね。
今は丘の上にこのような小さな神社が建てられています。


Tsuzumigaoka4

小さな拝殿には、閑院宮載仁親王の書になる
鼓岡の扁額がかかっていました。
Tsuzumigaoka5
参道の脇には、崇徳院の御製、
例の「瀬をはやみ 岩にせかるる、、」の歌碑が立っていました。
崇徳院は、この場所で京の都に強烈な恨みを持ちながら
一生を終えた、ということです。


御宮から丘の裾沿いに少し西に行くと
「内裏泉」という泉がありました。

Tsuzumigaoka2

この泉の水を崇徳院がつかっていた、ということです。
そしてこの泉のある場所は谷筋にあたっているので
夏でも決して水が枯れることはなかった、という話です。


さて。この国庁跡周辺の
歴史探訪はこれだけです。
再び埋文センターに戻って、
車を置かせていただいた
お礼を言って、次の場所に移動をしました。

埋文センターから車で12,3分ほど走ると
バイパスの道路沿いに出ました。
バイパスには別名があって、「さぬき浜街道」と言います。
地元の人は単に「浜街道」と言っていますが。
Matsuyama2

この浜街道沿いに石碑が建っています。
ここが「松山の津」跡、と書かれています。


Matsuyama1
この松山の津が国庁への荷物、
国庁からの荷物の上げ下ろし場所でありました。

そして道真さんも崇徳院もこの松山の津に着いて
四国に上陸した、ということになりました。

道真さんは、この松山の津で漢詩を作っているのが
菅家文草の中に出てきますから、
この松山の津に来たのは間違いないでしょう。

ただ、この場所が松山の津であったか、と言えば
最近の研究では、ここから1キロほど南東の場所の
あたりがそうであった、という説が有力です。
まぁ大きく言えば「この辺だった」ということには
なりますが。(笑)

今回は崇徳院を中心にお話をしました。
次回も日本史シリーズ、続きますです。

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18. 03. 06

日本史の復習シリーズ(その2)

埋蔵文化財センターで
国庁跡一帯の地図をいただきました。

それを見ると、大体小一時間あったら、
国庁に関係していた場所を回れそうな感じ
でした。

この日はお天気も良くて、ちょっと前のような
寒風吹きすさぶ、というような天候では
ありませんでした。
うらうらとした春の日。

気温はそう高くはなかったのでしたが
風はなかったので、歩こう、という気になりました。

埋蔵文化財センターは小高い丘の上にありました。
丘を下っていくと、まずあったのが
開法寺跡、でした。
この開法寺は、道真さんがこちらに居た時に
作った漢詩の中にも出てくるお寺です。

詩の中に、国庁はこの開法寺の西に在り、
という詩句が出てくるので、お寺と国庁の
位置関係がおのずからわかるのです。
Kaihoji1
今は、この塔の礎石しか残っていないのですが、
道真さんの時代には、朝夕に鐘の音がして
読経の声も聞こえていたことでしょう。

お寺の跡からさらに少し北に行こうとすると
左側に小さな段差が見えてきます。
下の写真中央に段差があるのが分かりますか?
Gake
この段差の上がおそらく国庁の跡だろうと
考えられています。
そして段差の手前が綾川という川であった、と
いうことです。

田んぼの端の三叉路を左折してしばらく行くと
国庁跡の石碑が見えてきました。
Kokucho

国庁跡から北西に行った田んぼの中、
この辺が倉庫のあったところだそうです。
Souko

倉庫跡、たって、今では麦畑、なんですけどね。
この麦できっとうどんができるのでしょう。(笑)

建物の跡は今や地面の下で
確認することはできません。
ですが見渡す遠くの山々の稜線は
きっと道真さんが見ていた山々、
ということなのでしょう。

最近、道真研究もずいぶん進展してきました。
それとともに、昔から言われていたことが
最近の研究の結果、「違うよ」ということに
なってきています。

たとえば大宰府に左遷されたのは
時平の讒言による、ということが
今までは言われてきましたが、
最近の研究では、時平と道真は
そうそう悪い関係ではなかった、
という研究結果が出ています。

讒言はしていないだろう、というのです。
つまり時平ではない、他の誰かが
道真を陥れようとした、ということなのだそうです。

ここ讃岐での生活も、以前は不本意で
ろくなことがなかった、というものでしたが、
最近では、讃岐から帰った後の詩作の内容の
深化ということが評価され、彼の国司の4年間の
生活はその人間的な内面の成長をうながした、ということが
言われています。

そんなことを思いながら、はてさてこの地で
道真さんは何を思って暮らしていたのかなぁ、と
謙介は考えていたのでした。
今日はここまでといたします。


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18. 03. 05

日本史の復習シリーズ(その1)

今回から何回かに分けて
日本史の復習シリーズ、を
やって行きたいと思います。

というのか、地元で日本史の教科書に出てくる
場所をあちこち回ったので、その記録を
書いていく、というだけなんですけど。(笑)

ということで第1回目は
菅原道真さんでございます。

年始の初もうで、道真さんのお力におすがりして、、
という受験生の人たちも多いのではないか、
と思います。 東京の湯島天神とか、
京都の北野天満宮とか、福岡の太宰府天満宮とかは
大変なことになりますですね。

で、道真さんは国司でこちらに来られていました。

国司でも「遙任」国司、と言って、
実際に任地に行かなくてよい、という
国司もあったのです。

ですが、道真さんの場合は
そうした遙任ではなくて、実際にそこに
行かなければならない、国司でした。

歴史書にも、彼が国司に任命されて
こちらに来ていた、という記述もありますし、

また、実際、菅家文草(かんけもんぞう)
という彼が作った漢詩の作品集があるのですが
その中に彼の国司時代の漢詩がたくさんあります。

ということで、道真さんがこちらに来て
4年間をお過ごしになった、というのは
歴史的に明らかなことでありましょう。

まず、道真さんの居た付近の資料が
欲しかったので、「埋文」に行きました。
あ、正式には「埋蔵文化財研究センター」と言います。
ここがその「埋文」です。

Maibun1

埋文では今、こんな展示をしていました。

Maibun2

考古学は謙介の学問分野にも密接な関係が
あります。上代文学なんて、文字の文献が
少ないですから、当時の人の暮らしを
考察しようとすると、どうしても
こうした考古学の研究成果を
使って証明する、ということになります。

それでね。
学部生だった時も、考古の研究室に
よく顔を出していたわけですよ。

なんですが、
文学部の中で、考古の研究室だけ、それはそれは
異質でございました。

国文の研究室っていうのは、本ばっかり、
というのが基本的な構成です。

史学だって、大抵の研究室は本ばかりです。
でも、考古だけ違っていました。
入ったら汗臭いし、
置いてあるのはスコップとか赤白の棒とか
巻尺とか。あ、それに負けずに多かったのが
酒瓶でしたねぇ。
もうねぇ、研究室じゃなくて、飯場でしたよ。飯場。

まぁそんな異質な研究室に行ったのです。
ただね、その時に、史学科の友達で
民俗学を専攻していた奴がついてきてくれて
考古の研究室の人に、「こいつは国文なんやけど
古事記・日本書紀の研究をやっとってな」と
いろいろと仲介をしてくれたので、本当に助かりました。

もし仮に、考古の研究室にいきなり行って
質問をしたら、考古の人たちも
「こいつ、いきなりでなんやねん」ということになって
いたかと思います。
史学科の友達がいろいろと言ってくれたので
その後もあれやこれや質問に行くことができたし、
そう異分子扱いもされることなく
質問をすることができたのでした。

考古学、というと、未だに
その時の飯場のイメージが強烈で
ついついそんなことを思ってしまうのでした。
(もちろん埋蔵文化財研究センターは
そんな飯場のようなところではなくて
きちんとしていましたが。笑)


センターの中の展示室の
展示を拝見したあと、事務室に行って、
国庁跡の資料はないですか?
とお尋ねしましたら、
いろいろな地図をくださいました。

それから、「この辺を回るのでしたら、ここに車を置いておいて
まわったらいいですよ」ともおっしゃってくださいました。

と、親切におっしゃってくださったので、御好意をうけて
車をセンターに置いて回ることにしたのでした。

長くなりました。今日はここまでといたします。

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17. 12. 05

即位儀礼

今上天皇の退位・次の天皇の即位の日程が
決まった、というニュースが先日報道されていました。

謙介、毎度言いますが、
学部の時に研究していた内容が
一部、天皇の即位儀礼に関係した箇所もあったり、
大学院の時の研究が、六国史に出てきた
死亡記事全部を比較検討する、
というものだったので、
当然、六国史に記載された天皇の崩御、
新天皇即位 改元 という記事は
ずーっと調べていました。


明治以降は、天皇一代で
ひとつの元号、
ということにはなりました。
ですが、日本史的にみれば、そんなもの
ごく最近のことであって、

江戸時代以前は、もう
数年でぱっぱぱっぱと元号を変えていたり
したこともありましたし、

飛鳥時代なんて、天皇が変わったら
都もぱっぱぱっぱと変えていましたのでね。

謙介的には、元号が変わる、と言っても
「ああ変わりますねぇ」という程度
のことなのではありますが。


新しい天皇が即位して、元号が変わったら
新しい時代になったのか、と言えばそうではないのです。

やはり、大嘗祭を経なければ、
正式に天皇が即位した、
ということにはならないように思います。


まぁその前に即位礼正殿の儀という儀式が
ありまして、即位を公に宣明し、
即位を内外の代表がことほぐ儀式というのが
ありますが。

大嘗祭は、音読みすれば「だいじょうさい」
なのですが、やまとことばで言うと
「おほにへのまつり」と言います。

日本の国のうち、卜占でもって
悠紀(ゆき)と主基(すき)の国をそれぞれ
選定しまして、天皇がそこで採れたお米を
神さまとともにいただく、という儀式です。

ちなみに平成の時の悠紀の国は秋田県で
主基の国は大分県でした。

神さまと一緒にこの悠紀・主基の国で
それぞれ作られたお米を
いただく、ということで、この国を統治する
力を体内に宿す、という呪術的な儀式です。

この大嘗祭は即位後、一度行い、
その後は、毎年新嘗祭という祭りを行います。

新嘗祭の日は11月23日。
今は「勤労感謝の日」ということになっていますが、
あれは本来新嘗祭の日だ、ということです。

毎年、秋にこの国で作られたお米をいただくことで
天皇はこの国を統治する力を体内に宿す、
という意味がありました。

冬至は、今の暦では12月の21日~22日ごろですが
旧暦ですと、11月です。

冬至は昼間の長さが一番短くなった日ですね。

天皇家は太陽信仰ですからね。
アマテラスさんのご子孫ですもん。

つまりは一番統治の力が弱まるのが
冬至の日、ということになります。

そこで、大嘗祭・新嘗祭で、
この国で採れたお米をいただいて、
今風に言えば、パワーチャージをしていた、
ということです。


この大嘗祭を経て、天皇ははじめてこの国を
統治する力を得る、ということだったわけです。

だもんで、宮中の数ある儀式の中でも
践祚大嘗祭は別格の儀式なのです。

この体内に祖霊の力を取り込む、
という儀礼は、今でも痕跡のように
あちこちに残っているのです。

京都の葵祭の時に、参列者が
髪に葵を挿すのもそれですね。
葵の持つ呪術的な力をそこに取り込もうと
したわけです。

お寺の本堂の前に、大きなお線香立があって、
そこからもうもうとお線香の煙が上がっていますが、
そのお線香の煙を、頭とか手とか足とか
いろいろなところにつけるようなことをしている人が
よくいますが、あれだってそうですね。

仏さまの功徳を身体の悪いところにつけて
治してもらいたい、という信仰ですよね。

即位儀礼は、その時々の記録に残っていたりはしますが、
案外その時々の経済事情とかで、方法が違っていたり
します。

ああいう儀礼になったら、やたら伝統的伝統的
という人が必ず出てきますが、謙介はちょっと
聞いてみたい気がします。
「あなたの言う伝統的、っていつのことなの? 」とか。
「六国史にそうあったのですか? 」とか。

なので、その基本的な「思想」の部分として
どうしても変えられない、譲れない、という部分は
残して、改変ができそうなところは、現代風に変えても
いいんじゃないか、と思うんですけどね。


そんな思いで即位儀礼を見てみたい、と
思っているのです。

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