おべんきゃう

18. 11. 21

来年、なんですけど、やっぱりするんで、しょうね

ちょっと今日は、旅行の話を中断して
謙介の専門の話をします。

もうすぐ11月23日が来ます。
世間的には、11月23日というと勤労感謝の日、
ということになってはいるんですけど、、。

宮中ではこの日、新嘗祭(にいなめさい)を行います。

新嘗祭って、
じゃあ誰が何をするのか、
ということなんですが、
天皇がその年に取れたお米をいただく、
という儀式です。

何? お米を食べるのが儀式なの?
っていうことですが、
古代の信仰として説明しますと、
この豊葦原瑞穂の国でとれたお米には
穀霊が宿っています。

で、それを、11月の23日にいただくのです。
どうしてそれが儀式なのか、と言えば、
旧暦に直すと、11月の23日というのは、
今の12月の20日ごろになるわけです。

つまり冬至の日です。
冬至の日ってどんな日ですか? (笑)
そうですね、1年で一番昼間が短い日です。
ということは、一番太陽の力が弱まる、
という日です。

天皇家というのは、天照大神の子孫ですから
基本的に太陽神を信仰します。

太陽の力が一番弱くなった冬至の日に
この豊葦原瑞穂の国で取れたお米を
いただくことで、このヤマトの国を治める
力を身につける儀式が新嘗祭の意味です。

天皇の即位後の初めて折には
大嘗祭をいたします。

大嘗祭の時は、占いでもって
悠紀の国と主基の国を決めます。

その決め方は、
亀の甲羅に火を当てて
その裂け方で、決めています。

そうしてその悠紀の国と主基の国で取れた
お米を大嘗祭の時にいただくことになっています。

平成に改元になった時の悠紀の国と
主基の国は、大分と秋田でした。

秋田・大分のそれぞれの県内でよい土地を
選んで、そこに悠紀斉田(ゆきさいでん)
主基斉田(すきさいでん)を作ってそこで
古式にのっとった形で田植えを行い、稲を生育させ
お米を収穫します。
そのお米を大嘗祭に使う、ということです。


即位の年には大嘗祭を行い、
そうして翌年からは、ずーーーーーーーーーっと
新嘗祭を挙行して、統治する力を今風に言えば
チャージしていったわけです。

実はこの繰り返し行事を行う、ということに
大きな意味がありました。

繰り返すことによって、その祭儀の意味が強められ
天皇の統治する力も強くなっていく、という意味が
あったわけです。

万葉集でも「つらつらつばき」とかいうふうな
同じ言葉の繰り返しがよくでてきますよね。

あと、例えば「いやさか」という言葉があります。
「さか」は「栄える」という状態ですが、
「いや」はいよいよいっそう」です。
つまり、単に栄えているのではなくて、
栄える状態がどんどんと重なって、
より一層栄えている、と。
この「より一層」というのを古代の人尊んだわけです。
「七重八重」とかいうでしょう。
単に一重ではなくて、何重にも重なったのが
勢いがあって、力があって、良い、とされました。


でもまぁ、今上天皇の場合は、
来年の4月30日まで、ということが
決まってはいます。
それでもまぁ、やはり儀式は儀式、
ということでしょうし、あと、5か月は
天皇でおいでになるわけですから、
今年も即位儀礼をされる、
ということなのでしょうね。

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18. 11. 03

面倒なのでうっちゃってたんですけどねぇ。

このところ、更新ができていなくてすみません。
あ、今日のタイトルですが、このブログを書くのが
面倒というのでは決してありません。

ブログを書くのはもう大好きなことなのです。

アクセスしていただいた方、本当にすみません。
(というのか、アクセスしてくださる方がいるのか???
という疑問もあるのですが)

と、いうのが、ずーっと自分のための申告書類を
作っていたのです。

あるところから、コーディネーターの資格を取らないか、
と、言われていたのです。

その資格を取ったら、あっちこっちに行って
説明とか解説にしに行かないといけないのです。

今なんて自分の毎日の業務だけで
手一杯なのに、よそにまで出張していって
他の人のお世話までできません、
と、思ったし、そうなるのが予想できたので、、
(それに面倒くさいし)
しません、って言ってたんですけどね。


そうしたら、こんなコーディネーターは
誰でもできるもんやない、あんたは適格や
といろいろと言ってくださるし、、
もうねぇしつこく、取ってよ取ってよ取ってよ、
って言われるし、、

その資格取っても
やたら出張はないから、ということでした。

で、違うセクションの人に、
その資格取って、出張増えた?
と聞いてみたんですが、 
出張はないよ、と、いうことだったので、

まぁそういうことなら、ということで
コーディネーター、資格を取ってもいい、
と、返事をしておきました。

この資格を取るための、試験はないのです。

そもそもがコーディネータしてよ、って
いうお話があった段階で、
「この人間だったらやってもらっていい」
というのか、そういう人にしか話を
持って行ってないようなのですけど、、。


で、提出書類が3通必要でして、
自分が今まで業務上経験してきたことの調書を
書いて提出するのが2種類と、
うちの仕事場の人事担当の人間の推薦状が
必要なのだそうです。

この調書は、前に別のところに提出する必要が
あって、2010年までは書いていたのですが、
そこから2018年現在までのところについては
書けていなかったわけです。

で、その調書、それはそれは
詳細に書かないといけないのです。

謙介さんは幸いにも日記をつけていますので、
あの時に何をしたのか、どう思ったのかは
その日記を見ればわかるので、
そう難渋することもありませんでした。

日記から、業務上の主だった出来ごとを
ピックアップして、メモして、業績調書に
書き入れていきました。

なんだか、昔、夏休みの絵日記を
8月の末になって一気に仕上げた時の
気分になりましたです。

まぁその調書の加筆作業に7日ほどかかりました。
加筆そのものは、そう時間がかからなかったのですが、
書き入れるフォームをいろいろと変えていたのです。
その作業に結構時間がかかりました。


それから、人事担当のところに持って行って
その調書を見せつつ、
推薦状を書いていただき、書類を提出したのでした。
ふう。

9月にそれまで準備していた研究会の司会が終わって
ちょっと暇になるのか、と思ったのですが、
相変わらず忙しい毎日です。

ですが、その間隙をぬって、できるだけ
ブログの更新をしたいと思います。

まぁそんなことですが、たまに、
あ、更新しよったかなぁ、と思い出してくださって
見に来てくださったら、と思います。

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18. 07. 11

こんなこと調べる人間なんてほかにあまりいないとおもうけど

今回の大雨による被害、
いくつか大きな被害があった個所がありましたが、、

地元の人に良く聞いてみると、
お天気だけでなくて
人災じゃなかったの? ということも
出てきました。

その一つがダムの放流です。
野村というところがあって、ここも
今回の豪雨で被害が
大きかったところなんですが、、。

謙介の住む町にもダムがあるんですが、こちらのダムは
ずいぶん早い段階から
ダムの放流をしはじめていたのです。
水曜日とか木曜日あたりから。

つまり貯水率が80パーセントくらいのあたりで
すでに流し始めていた、ということなのです。

他方、野村町のダムは、金曜日に貯水率が
100パーセントになって、
それから一気に流し始めたわけです。

今回被害に遭った人のコメントを聞くと
「水が急に来た」ということがあるんですが、
それとこのダムの放流が関係していないのか。

これからの検証が必要な気がします。
これがひとつ。

それとこれは我々がマスコミと付き合う時の
ポイントにもなると思うのですが、、

今回、被害状況の写真というと倉敷の北側の地区の
写真ばかりが出てきます。

水没した街を撮ると、確かにそれだけで被害の大きい
災害であった、ということはわかるかもしれません。

ですが、被害のあったのは、中国四国九州地区の各県に
及んでいます。どの県も被害の多少はあるのですが
そんなこと、あの被害の写真ばかり見せられたら
他の地域にまで想像が
行かないような気がするんですよね。

コメント欄にも書きましたが、高知への高速道路は
山が地滑りを起こして橋梁・橋脚もろともに流れ落ちてしまい
影も形もありません。

高知への運輸手段は
今や国道33号線しかないのが現状です。
それからJR四国は、財田川橋梁の橋台が傾いてしまった
ことをはじめとして、山崩れ、その他、復旧工事が必要な個所が
30個所ある、とのことです。

広島で言えば、呉・尾道方面へのアクセス道路はすべて
土砂崩れで今なお不通です。
JRも同様に不通です。

それから、離島とか山間部に行くと、水道の浄水施設
そのものが大きな損傷を受けたり、
浄水場から各戸へ供給される途中で
壊れてしまっていて、供給がストップしている
個所もたくさんあります。
ですから、避難所で水洗トイレが使えない。
手洗いがおざなりになる。
飲み物としての水が不足している。
何せ道が通れないので輸送手段が限られていて
水が運ばれない、運ぶことができない、という状態です。

避難所にいるのも田舎の事ですから
お年寄りが多い。
お年寄りにこの暑い毎日。しかも体育館の板の間ですから
寝ることもできにくいでしょう。
ニュースは東京からなので、見たり聞いたりしていても、
現実の報道になっていなくて、どこか他人ごと、という
感じがするんですよ。

ああ、こんな話をしたかったのではないのです。
歴史をやってきた人間として、の話です。

謙介さん、思うところがあって
延喜式内社を調べてみたわけです。


延喜式というのは、
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十が
延喜式 神名帳という別名のついた書物なんですが
これに何が書いてあるかと言いますと、、
当時「官社」に指定されていた全国の神社の
リストが書かれてあるわけなのです。

どういうことか、と言えば、平安時代に
既に信仰されていた、古い神社の
リスト、ということです。
古くから信仰されていた神社のリスト、
ということです。

これはどういうことかと言えば、
「神社の置かれるところはどういう場所か?」
ということになるのです。

謙介の睨んでいるのは、
神社の置かれる場所というのは
川の合流地点だったり、川筋の場所だ、
ということです。

つまり大水が出たりすると困りますし、逆に
水がなくては、当時の経済の基盤であった
お米ができません。水利というのは
古代の人の一大関心事、だったわけです。
ですから、大水が出て被害があるような場所
水の流れの分かれ目の場所には神社を
作って、川の流れが平穏でありますようにと
祈ったのだと思います。

そういうことで、今回の倉敷の大水の出水地点と
延喜式内社の配置を見てみましたら、
合流地点から800メートル東のところに
菅生神社という神社がありました。

それから菅生天津神社が1キロ東に
ありました。

百射山神社が3キロのところにありました。

何と都窪郡の神社3座すべてが
この川の合流地点の近くにあった、
ということです。

多分ね、ここの合流地点の
洪水は昔から頻繁にあった、ということ
なんでしょうね。だからこそ、
それを鎮めていただくために古代の人は
ここにお社を作って信仰の対象としたのでしょう。

延喜式の神社の配置を見ますと、
そういう土地の事情が
垣間見えてくるように思います。

でも、たいていの人は、「そんなこと」と言って
バカにして顧みもしないの。

科学・コンピュータの時代にばかばかしい
とか言って。

だけど、歴史に学ぶとか、人の生活の中からの
経験に基づくこと、ってそうした実際に被害を
受けたことからの信仰ですからね、
それなりに意味の
ある言葉と思うんですよ。

ということでここに書いておきたいと思います。

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18. 06. 21

どっちも違うよ

なんやしらんけど、
「お菓子の八つ橋がえらいもめてはるねんて」という
お話を聞きました。

わーわーと言っておいでのようですが、
あのお菓子の原型になったようなものが
実はそこここにあります。

たとえばこれ。
同じ京都なんですけど、
丹波の園部で作られてきた
「からいた」というお菓子です。
Karaita1

このお菓子の製造元の初代
大槻惣右衛門氏は、園部のお殿様、
小出家に仕えていた武士だったそうで、
あの朝鮮出兵の際には、
海を渡って進軍したんだとか。

やがて、飢え死にしそうな時に、
民家に残されていた小麦粉と、
兵糧として持っていた朝鮮飴を使って、
煎餅のような非常食を作ったのが、
このからいたのもとになったもの、という伝承が
あります。

八つ橋は米粉で作られていますが、
Karaita2
こちらは小麦粉で作られています。

それから、伊賀に行けば「かたやき」
というお菓子があります。
24igakatayaki


直径が5~6センチくらいの円形のお菓子で
それそれは堅いものです。食べる時は
お菓子と一緒に木づちがついているので
それで破壊 割りながら食べる
というお菓子です。

しかも、あまりにかたいので歯で噛み砕く
ことができません。飴のように口の中で
少しずつ溶かしていく、という食べ方を
しなくては文字通り「歯が立ちません」

これは伊賀のお菓子なので「忍者の携行食」
ということになっています。


忍者の携行食かどうかは、よくわかんないのですが
山に入って生活する人の携行食であった、
というのは間違いがないように思います。

八つ橋の場合、実はその発祥が
「聖護院」というところが、意味がある、と
思うんですよね。

聖護院というのは山伏のお寺です。

だから八つ橋の原初形態は、
おそらくはこの園部の「からいた」のようなもので、
そもそもが山伏の携行食、として作られたもの
だったのでしょう。

それが京都風の洗練を受けて
次第に形状の進化をしていって
お琴の形に、となっていったのだと思います。

謙介の大学の時の同級生で
M平くんという人がいました。

彼の家のお仕事が山伏なのです。
で、彼も山伏です。

映画とか本で、山伏という存在は
知ってはいましたが、友達にそういう
家業の人がいる、ということには
ちょっとびっくりしたことがありました。
大学であった時は、普通にシャツとか
ジーンズ姿ですが、山伏姿になったら
兜巾をして、ほら貝を吹いて、という
いでたちです。
ゼミの発表の時の姿とあまりにかけ離れていて
驚いたことがありました。

園部のからいた、というお菓子、
派手さは全然ありませんが、
何とも言えない滋味があって、
それが長らく丹波の人の支持を
受けてきたのだろうなぁ、と思います。

八つ橋もそういう食べ物だったのが
いつしか変化して今の形状になったのでしょう。

あないに目くじらたてへんでもええやん、
と思うのですが、、。

なぜに今なの? という、クエスチョンマークが
頭の中についている謙介なのでした。


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18. 06. 04

氷河期とバーゲンセール

今回のタイトル、いったい何なんだ、ということなんですが、、

氷河期とバーゲンセールが結び付く、
という不思議なお話なのでございます。

江戸時代に氷河期があったのは、
ご存じだったでしょうか??

お江戸の8月の気温が、日中、
20度行くか行かないか、だった、と
言われています。
昼間の日盛りで20度ですから、
朝晩は冷えました。
8月というのに、みなさん、冬物の
布団で寝ていたりしたわけです。

その結果、どうなったか、といえば、
当然作物ができなかった。

今だったら、農薬がありますから、
少々の低温で生育不良で枯れかかったら、
農薬を作物にじゃんじゃんかまして(あら、お下品)
枯れないようにする、ということが可能なのですし、
実際そういうことをやっています。
(農家である謙介のアパートの大家さん談)

でもまぁ江戸時代にはそんな農薬なんて
ありませんから、気温が低かったら
できるはずの作物が育たなかった。

その結果、飢饉がきたわけです。
江戸時代、何度か飢饉が来ていますが、
その背景には江戸時代が氷河期であった、
ということもありました。

加えて江戸時代の経済は、
農業が基礎ですから、作物ができないということは
経済活動にも大きな影響がありました。

そういう時に、政治はどうしたか、といえば
失業対策事業を展開したわけです。

土木工事をしました。

失対の土木工事なんて、大昔から全然変わんない、
という方法であることがよーくわかります。

大坂(おおざか)で言えば、大川の浚渫をしました。

大川は淀川から毛馬の閘門で枝分かれして、
桜宮とか中之島辺を流れる川です。

浚渫をしないと、琵琶湖から流れてきた土砂が
溜まって、土地が高くなってしまい、したがって
水が流れず、逆流して、大坂の町が水浸しに
なったりしたわけです。

でもね、大坂の街なんて、ちょっと考えたら
分かることですが、琵琶湖から言えば
位置的に河口、なわけです。

そんな河口をちょっといじったくらいでは
淀川なんて全然だめで、しょっちゅう氾濫していた
わけです。
氾濫と気候不良で作物ができないというと
余計に餓死者が出る、ということですね。

それで、根本的に淀川ぜーんぶを
浚渫しようということになりました。

この工事のことを、「お救い大川ざらえ」
と呼びました。
失業対策事業ですから、
「お救い」ですよね。

でね、この「大川ざらえ」をもじったものが、
「大蔵ざらえ」という名称なのです。

ほおら、ここで氷河期がバーゲンセールに
つながった。(笑)

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今時大蔵ざらえなんて
言う言い方していないのかなぁ、と
思いながら検索してみたら、結構な数出てきて
今も使われている言葉だ、ということが
分かりました。

でも、この「大蔵ざらえ」のもとが、氷河期の飢饉の
失対事業の名称だったなんてねぇ、、

言語にはこういう意味の跳躍がありますからねぇ、、

いくらAIが発達してきた、ったって、
こんなふうな言葉の変化には
まだついてくることができないんじゃ
ないか、と思いますです。

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18. 05. 20

吉野離宮

吉野(奈良県)で、古代の大規模な建物の遺跡が
見つかった、というニュースが先日ありました。

日本書紀を見れば、持統さんなんかは
もうしょっちゅう吉野に行っていた、
という記録があります。

年に4回とかいう年もあって、、、
持統さん、在位中に総計33回だか
行っていたはずです。

じゃあ、次に出てくる疑問は
何しにyouは吉野まで?
ということになりますですね。


吉野という場所が神仙思想による聖地で
そこに行くことによって、このヤマトの国を
統治する力を身につけるため、で
あった、というのが、定説です。

そういうのって、現代の人にとっても
分かることではないのでしょうか。


今の人だって、「パワースポット」にこだわる人が
いるではありませんか。

持統さんにとって吉野がパワースポットで
あった、と考えたら、よろしいのではないでしょうか?

で、今まで、書紀の記録はあったのですが、
実際の吉野離宮の場所がわからなかった、
のです。

で、今回、宮滝の辺から、大きな構造物の
遺跡が出てきた、ということです。
規模とか、その状況からみて、
おそらくこれが吉野離宮の建物跡なのでは?
 

ということですね。
で、ぐーぐーるで検索をしていたら、
こんなのが出てきたのですが、、、

このお方、吉野離宮はぜーったいに宮滝なんかに
あった、なんていうことは信じらんない!
というスタンスで文章をお書きです。

読んでいたら突っ込みどころ満載で、、、


「そして、この吉野川は敵の侵入を防ぐ
自然の水濠の役割をも果たしているのである。
そのような訳で吉野宮は北岸に造営されるはずがない。」

とあるんですけど。 この時代の天皇の住まいって
そういう外敵がやってくるのに備えて、地形的に防御する
場所に造った、なんていうことはまーったくありません。

そもそもが持統天皇の藤原京なんて
のっぱらの真ん中に造ったわけですから。
その次の平城京だってそうですね。

「再述するが、聖なる神仙郷「よしの」は
吉野川の南岸でなければならないのだ。」

っておっしゃっているのですが、
離宮の置かれるのには複合的に考えないと
いけません。


謙介、もちろん吉野の宮滝遺跡には
参りましたし、このブログでも
行った時のことをお話したことが
ありましたね。


宮滝遺跡のお向かいには、
山の形の美しい象山があります。
万葉集では柿本人麻呂、山部赤人が
吉野離宮に来た時に、この象山の歌を
作っているのですよ。

このおっちゃん、万葉集のことについては
なぜか一切触れられていないのですが、、。
そういう歌人の歌などを見ても
象山と吉野離宮は近接した場所に
ないといけませんし、、。
今回の発掘結果は、その歌が改めて
宮滝にあった離宮で歌われた、
ということの証左になったのではないか、
と思います。

(ということで今日聞いた音楽は
 さだまさしの「まほろば」にしておきました。
 吉永小百合さんの「奈良の春日野」も
 ききましたけれども、、、。)


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18. 03. 12

日本史の復習シリーズ(その5)

屋島ケーブルは屋島の南側なのですが、
ここから屋島の東側に移動して
ここに来ました。
と、いうことで、ここが源氏と平家の戦いが
行われた場所です。

Yoichi3_2
平家物語の中で、那須与一の扇の的のくだりは
古文の教科書にもよく出てくる場面では
ありますし、、実際平家物語中の白眉の場面でも
ありますから、読んだ、という人も
おいでになるかもしれませんね。

この岩が、扇の的に当てるにあたって
那須与一が祈った、と言われる岩です。
Inoriiwa_2

そこから百メートルほど行ったところが
これ、です。
右側の石のところに馬の脚をかけて
左奥の四角い看板の場所あたりに
的が来て、そこへ向けて矢を放ったのだそうで。
Yoichi2_2

これが近くにあった
マンホールのふた。
Mure

それからこれが
香川県警のイメージキャラクター「ヨイチ」
別にカタカナで書かなくてもいいんじゃ
ないか、と思うのですが。
Yoichi

これで日本史の復習シリーズが終わりです。
お読みくださってありがとうございました。


とはいえ、この日のお出かけはまだまだ
続きます。
(あと3回くらい)
よろしかったらお付き合いください。


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18. 03. 08

日本史の復習シリーズ(その4)

今日のお話、実は前回の翌日のことになるのです。
加えて今回は場所的には、日本史に出てくるのでは
ありますが、、、きょうの場所はあまり日本史には
関係がありません。
次回に期待をしていたただきたい、と思うのですが。

最初に行ったのは、高松琴平電鉄、地元では
「ことでん」と言っていますが、
ことでんのやんやんやしまえきでございます。 
ことでんの駅には創業当初から改築していない駅舎が
いくつかあるのですが、ここもそのひとつです。
(ただし駅舎、昔はピンクなんかに塗られていなかった、
とは思いますが)
Yashima1

やんやんやしまえきから、緩やかな坂を上って行きますと突き当りに
新馬場公会堂という建物があります。

Yashima21

今はこんな公民館が建てられているのですが、
数年前まではここにこういうものがありました。
Yashima22

ここから屋島山上までのケーブルカーが走っていました。
戦前はずいぶんと利用客も多かったのです。

太平洋戦争の間は不要不急路線に指定されて
一時撤去されていましたが戦後、復活しました。

しかし戦後、ドライブウエイができて山上まで車で
行けるようになりました。加えてケーブルカーの駅は
電車の駅からも離れていましたし、山上でも
屋島寺とか展望台から離れていて使うのが不便でした。
そういうことで利用客がどんどん減って行って、
とうとう運転休止になってしまいました。

あくまで、休止であって、廃止ではありません。
公民館の裏に行くと、このように
ケーブルカーが置かれています。


Yashima2
でも、窓ガラスは割られているし、、、。
数年前まで片方の車両は山上駅にあったのですが
ワイヤーが切れたら大変、ということで
二両とも山麓の駅に下しています。
Yashima3


このようにレールも残っています。
Yashima8

ケーブルカーは定位置に停車しているのですね。
車両と乗車位置の矢印の表示がピタッと合っている
ところがまたまた哀しみを誘ってしまいます。

Yashima5

このケーブルカー、運休する予定日に故障があって
最終営業日を待たずして、そのまま休止に
なってしまいました。

しばらくは営業譲渡先を探していたのですが、、、
屋島に上る人も昔のようには多くありませんし、
上るとしたら車で行きますし、、、
そういうことでこのケーブルカーの再開は
難しいだろうなぁ、と思います。

ケーブルカーというと、反射的にフニクリフニクラを
思い出す謙介なのでした。

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18. 03. 07

日本史の復習シリーズ(その3)

前回は菅原道真の赴任していた国庁跡を
見ました。

今ではもう田畑の下になってしまいましたが
平安時代はこの場所に役所がおかれ
たくさんの人が行きかっていたのだと
思います。

時の流れは、こんなふうに
何もかも変えてしまうのですね。

今日はちょっと時代がさがりますが
やはり日本史の復習シリーズです。
国庁跡から南を見ると、背後に小高い丘が
視界に入ってきます。
今日はこの丘の話です。
Tudumigaoka1
実はこの丘も日本史の中に出て来るんですよね。

丘に近づいてみます。
この丘、「鼓が丘」という丘なんですが。
この丘の上に、黒木の御所という建物が
ありまして。

ここに保元の乱で配流になった崇徳院の
御所があったのです。今は鼓岡神社、
という神社が建っています。
Tsuzumigaoka3

位置関係が絶妙ですねぇ。
一応は流人とはいえ、元天皇ですから。
国司よりもちょっと高い場所に御所を作る。
ということだったのですね。
今は丘の上にこのような小さな神社が建てられています。


Tsuzumigaoka4

小さな拝殿には、閑院宮載仁親王の書になる
鼓岡の扁額がかかっていました。
Tsuzumigaoka5
参道の脇には、崇徳院の御製、
例の「瀬をはやみ 岩にせかるる、、」の歌碑が立っていました。
崇徳院は、この場所で京の都に強烈な恨みを持ちながら
一生を終えた、ということです。


御宮から丘の裾沿いに少し西に行くと
「内裏泉」という泉がありました。

Tsuzumigaoka2

この泉の水を崇徳院がつかっていた、ということです。
そしてこの泉のある場所は谷筋にあたっているので
夏でも決して水が枯れることはなかった、という話です。


さて。この国庁跡周辺の
歴史探訪はこれだけです。
再び埋文センターに戻って、
車を置かせていただいた
お礼を言って、次の場所に移動をしました。

埋文センターから車で12,3分ほど走ると
バイパスの道路沿いに出ました。
バイパスには別名があって、「さぬき浜街道」と言います。
地元の人は単に「浜街道」と言っていますが。
Matsuyama2

この浜街道沿いに石碑が建っています。
ここが「松山の津」跡、と書かれています。


Matsuyama1
この松山の津が国庁への荷物、
国庁からの荷物の上げ下ろし場所でありました。

そして道真さんも崇徳院もこの松山の津に着いて
四国に上陸した、ということになりました。

道真さんは、この松山の津で漢詩を作っているのが
菅家文草の中に出てきますから、
この松山の津に来たのは間違いないでしょう。

ただ、この場所が松山の津であったか、と言えば
最近の研究では、ここから1キロほど南東の場所の
あたりがそうであった、という説が有力です。
まぁ大きく言えば「この辺だった」ということには
なりますが。(笑)

今回は崇徳院を中心にお話をしました。
次回も日本史シリーズ、続きますです。

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18. 03. 06

日本史の復習シリーズ(その2)

埋蔵文化財センターで
国庁跡一帯の地図をいただきました。

それを見ると、大体小一時間あったら、
国庁に関係していた場所を回れそうな感じ
でした。

この日はお天気も良くて、ちょっと前のような
寒風吹きすさぶ、というような天候では
ありませんでした。
うらうらとした春の日。

気温はそう高くはなかったのでしたが
風はなかったので、歩こう、という気になりました。

埋蔵文化財センターは小高い丘の上にありました。
丘を下っていくと、まずあったのが
開法寺跡、でした。
この開法寺は、道真さんがこちらに居た時に
作った漢詩の中にも出てくるお寺です。

詩の中に、国庁はこの開法寺の西に在り、
という詩句が出てくるので、お寺と国庁の
位置関係がおのずからわかるのです。
Kaihoji1
今は、この塔の礎石しか残っていないのですが、
道真さんの時代には、朝夕に鐘の音がして
読経の声も聞こえていたことでしょう。

お寺の跡からさらに少し北に行こうとすると
左側に小さな段差が見えてきます。
下の写真中央に段差があるのが分かりますか?
Gake
この段差の上がおそらく国庁の跡だろうと
考えられています。
そして段差の手前が綾川という川であった、と
いうことです。

田んぼの端の三叉路を左折してしばらく行くと
国庁跡の石碑が見えてきました。
Kokucho

国庁跡から北西に行った田んぼの中、
この辺が倉庫のあったところだそうです。
Souko

倉庫跡、たって、今では麦畑、なんですけどね。
この麦できっとうどんができるのでしょう。(笑)

建物の跡は今や地面の下で
確認することはできません。
ですが見渡す遠くの山々の稜線は
きっと道真さんが見ていた山々、
ということなのでしょう。

最近、道真研究もずいぶん進展してきました。
それとともに、昔から言われていたことが
最近の研究の結果、「違うよ」ということに
なってきています。

たとえば大宰府に左遷されたのは
時平の讒言による、ということが
今までは言われてきましたが、
最近の研究では、時平と道真は
そうそう悪い関係ではなかった、
という研究結果が出ています。

讒言はしていないだろう、というのです。
つまり時平ではない、他の誰かが
道真を陥れようとした、ということなのだそうです。

ここ讃岐での生活も、以前は不本意で
ろくなことがなかった、というものでしたが、
最近では、讃岐から帰った後の詩作の内容の
深化ということが評価され、彼の国司の4年間の
生活はその人間的な内面の成長をうながした、ということが
言われています。

そんなことを思いながら、はてさてこの地で
道真さんは何を思って暮らしていたのかなぁ、と
謙介は考えていたのでした。
今日はここまでといたします。


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