おべんきゃう

19. 02. 04

間違えた理由

何度か言ったことがありますが、
言語学って、結構陰険な学問です。

謙介は以前、外国人に日本語を教える、
ということをやっていたのです。

何度か例文を教えて、それを言ってもらって
書いてもらって、もう一度言ってもらって、と
反復して反復して、
それでも、生徒が間違える、ということがあります。

その時に、じゃあ、この間違いはどうして
起こったのか、ということを考えるのが
言語学のテーマでもありました。

人の間違いを類推して、
どうして間違えたのか、その原因を類推していく、
という学問です。

言語学をやった人間ってやーね、です。(笑)
だいたいが、人の話を素直に聞きません。
電車の中でも本を読んでるふりをして
人の話を聴いていて、この人は神戸の人やなぁ、
とかこの人は大阪の北のほうや、とか
分類していたりします。


どこか、「ネタにしよう 」という感じできいている、ところが
ありまして、、。
いけないとは分かっているんですけど、ついつい性で
話を聴いていたりします。


で、2月の2日のの土曜日ですが、パソコンで
あれこれとサイトを見ていましたら、
こんなんがありまして、、。

Img_5788_2

ふーん。高松って鎌倉とか藤沢とか
横浜と同じ県なんだ。


あまりにおもしろかったので
写真に撮ってしまいました。
MSN のサイトでしたが、、。

どうしてこういう間違いが起こったのか。


きっとこのサイトの作成時に
打った人が、かがわ、と打たないといけないところを
こう打っちゃったんでしょうね。

で、おそらくこのサイトを作成しているのは
首都圏のどこかでしょう。

もしかして、この文字を打ったのは
神奈川県の人かもしれません。

関東圏の人間にとって
「かながわ」と「かがわ」とどっちが
親しみがあるか、と言えば
そりゃもう、「かながわ」ででしょう。

そういうことで、ついついかがわのつもりで
手が無意識に動いて
一字余計に入れちゃった、
ということなんでしょうね。

こないだ、出勤途中に車の中で
NH〇のラジオを聴いていたら
アナウンサーが「四国地方のお天気です」
と言ったあとで、
「愛知県のお天気」と言っていました。
やっぱり、ついつい、
無意識に手が動いたり、言っちゃったり
ということがあるんです、よね。


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19. 01. 19

他力本願でいきましょー

センター入試、1日目受験生のみなさんは
いかがだったでしょうか?

たって、このブログを大学入試の受験生が
読んでいるとも思えないけどねー。
うちは読者年齢高めだと思ってはいますけど、、。


それはともかく。
もうここの段階に至ったら、他力本願でいかなければ
なりません。

というのが、この間、テレビ番組を見ていたら
「他力本願」の意味を誤解している、という
場面に行き当たったのです。

さっきセンター入試、といいましたけれども
その上の大学生も、今、後期試験の直前、
という時期です。


で、全然授業に出ていない学生さんが、、
テレビに出ていて、、
(センセイ、出席を取らないのですかね)

慌てて、授業に出ていた友達のノートを
写メに撮っている、というのが出ていました。

番組のコメンテーターが「他力本願ですねー」
と言っていたのですが、、

この言葉、
「他力」とあるんで、「他人さまの力を借りる」と
考えやすいのですが、、

他力本願という言葉の「他力」というのは
「他の人の力」ではなくてですねー
「仏さまのご功徳」のことなのです。

自分なりにしっかり精いっぱいやってきて、
もうこれ以上はできない、ところまでやった、と。

そこで、後は御仏に事の成就を祈る。

それが「他力本願」の意味であって、
自分以外の人の力に頼る、ということでは
ないんですよー。


謙介なんか、すぐにあきらめて、
というのか、最初から神仏に
おすがりする、という根性のなさで、、
あきまへんことでございます。


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19. 01. 17

「らしさ」(その2)

歌舞伎の「形」というのか、歌舞伎が歌舞伎として
どうしても外せない「決まり事」のことを「規矩」と
いいます。

このIさんは、脚本家です。
お芝居を作るにあたっては、
「演出家」という人がいます。

Iさんの作った脚本を、役者がどのように
演じるのか、どのように演じさせるのか、
ということで、どのような舞台装置を作って
その舞台とか舞台装置の中で
役者をどのようにどのように動かすか、
一切合切を考えて指示出しをする人です。

そこで、このIさんがかつてかかわった
歌舞伎専属の人以外の演出家の話に
なりました。

お聞きしたのが、蜷川さんと、三谷さんと
宮藤さんの3人のことでした。

3人とも非常に特徴的な演出をされた、
と聞きました。

まず、蜷川さんですが、2005年に
シェイクスピアの『十二夜』を歌舞伎作品として
公演したときのことを話されました。

もともとは市川團十郎丈と尾上菊五郎丈の
團菊祭の公演が予定されていたのでしたが、
團十郎丈の病気が再発して、公演ができなくなって
しまいました。

そこで、その公演の穴埋めを
急遽する必要が出たわけです。
しかし、菊五郎だけでは、
7月一か月の公演を満員にして持たせる
ということはできない、と菊五郎丈は冷静に
考えたといいます。

そこで、話題性を持たせたら、
客は食いつくに違いない、
ということで、蜷川さんの、沙翁歌舞伎を
持ってきた、ということだったそうです。

その時に、脚本を書いたのが今回講師だった
Iさんでしたが、蜷川さんは、演出の途中で
何度もIさんに向かって、「これは歌舞伎の表現としては
有りですか? 」ということを訊かれたそうな。
蜷川さんは、歌舞伎が歌舞伎として
成立するための「形」というものがある、ということを
本能的に分かっていて、絶えずそのことを
気にかけていらっしゃった、と、いうことでした。

三谷さんの演出は、ご本人の頭の中に
明確なこれ、というものがないのだ、
ということでした。いくつかの方法で
役者にやらせて、どれがいいのか、
となったら、うーん、と言って頭を抱える、
ということだったそうで、、。

これを聴いて、謙介、あ、溝口健二監督じゃないか
と思ってしまいました。溝口さん、
役者に演技をさせて、どっちがいいのか、
ということはわかるのだけど、
この場面では、こういうふうにやってくれ、
と明確に役者に指示する、ということは
なかった、ということです。

宮藤さんは、もう自分のやりたいように
マイペースでやってしまう。
そもそも歌舞伎の「形」なんて、
最初から無視している、
ということでした。

謙介の中での歌舞伎の理解というのは、
能という古典劇と、明治以降の新劇の
橋渡し、というものだ、ということなのです。

ですから、能の「こちんこちん」の形でもない
けれども、明治以降の新劇のような「形式」から
放たれた演劇形式でもない。

だからまだそれでも「形」というものは
残っていて、それが、言ったらまぁ
歌舞伎として歌舞伎を成り立たせている「もの」
というような理解です。だもんで、能ほどではないけれども
形というのはやはりあるのだ、という理解です。

その形としては、「成駒屋」の形であったり
「松島屋」の形であったり、「成田屋」の形で
あったりもしますし、もっと大きな歌舞伎としての
形であったりもする、というようなことでしょうか。

Iさんのお話をお伺いしながら、
そんなふうな歌舞伎のことを考えたり
して、研究会はお開きになったのでした。

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19. 01. 16

「らしさ」(その1)

先日、「がくじゅつけんきゅうかい」があるので
来ませんか、と、別のところからお誘いが
来たのです。

いつですか?
と聞いたら、1月の12日なんだけどさぁ、
ということでした。
世間では3連休の初日です。

そこに行くということは、
業務で行くということになります。
3連休の初日によりによって仕事かよ、とか思いつつ
で、誰が来るのぉ?
 とめんどくささ100パーセント
聞いたわけですよ。

そうしたら、松竹の歌舞伎担当の
脚本書く人なんだけどさ、
というお話です。「ふふふ。こない?」

「行きますよ。行きますとも、
ええもちろんですともさ」ということで
でかけたのでした。

会の開始は午後2時だったのですが、
ちょっとその前に、構内の売店に行ったりする
用事があったので1時20分くらいに会場に着いたのでした。

これが構内なんですけど、本当に寒そうです。

会に先立って講師の先生が
持参してきた資料を見せてくださいました。
講師の先生は松竹のIさんで芸文室の
の方です。

テーマは「規矩を守る」。

去年、歌舞伎ではアニメのワンピー○、とか
ナル○を原案にした、歌舞伎の上演がありました。
今度はジブリの「風の谷のナウシカ」を
歌舞伎公演でする、というし、、。

まぁねぇ、歌舞伎の演目のテーマって
何でもあり、ですから
そういうのもあり、だろうな、とは思います。

心中ものなんて、そもそもが
今でいえば、週刊誌ネタの記事を
芝居に仕立てたものですしね。


で、次です。
じゃあ、なぜ歌舞伎の敷居が高いのか? ということです。

若い人に、歌舞伎を見たことありますか?
と聞くと、ほとんどの人がない、と言います。

じゃあ、落語はどうか? と聞いたら
落語になると10人中、5、6人は見たことがある、
と言います。

で、歌舞伎の敷居が高い理由としては
まず、観覧料が高い。
それから、
落語と違って、東京、京都、と言った
大都市では常設の小屋もあって、
歌舞伎の公演も頻繁ですが、

地方都市に至っては
公演回数が限られています。
だから見る機会が非常に少ない。

それともうひとつ、ということで
先生、これを出してこられました。

押隈です。(まぁ見りゃわかるけど)

Img_5711


歌舞伎役者が隈取をするわけですが
公演が終わった後で、その隈取の顔のまま
羽二重の生地を顔に強く押し当てて、
生地に隈取を遷したものです。


でね、問題なんですが、、
この隈取、大成駒と言われた
6代目中村歌右衛門丈の
「関八州繋馬」という演目の「胡蝶」
という役の隈なんですけれども、、。
(胡蝶と言いながら鬼ですからね)

でもってこっちの隈
Img_5710

これは「暫」と書いていますからわかりますよね。
こっちは17代目市村羽左衛門丈のものです。
お二方とも、人間国宝でいらっしゃって、
同じ平成13年にお亡くなりになっています。

暫の隈のほうは「赤い隈」です。
胡蝶のほうは「茶色い隈」です。

これはどういうことかというと、
歌舞伎の約束事で、赤い隈の登場人物は
「正義の味方」ということになっています。
鬼というのはたいてい「茶色」とか「青い」隈です。

実は歌舞伎にはそういう「決まり事」というのか
「約束事」が結構あります。

講師の先生は、それを知って観る、
観ない、で楽しみの度合いが違ってくる部分が
ある、と。そういう歌舞伎の世界の決まり事
が、若い人の歌舞伎はわからない、
ということにつながっているのでしょうね、
というお話でした。

ただね、たとえ「ナルト」とか「麦わらの一味」を
歌舞伎でやったとしても、
歌舞伎の「決まり事」に則って作られていれば
それはきちんと歌舞伎である、
ということが言えるのだと思います。

形式を知っていて、それをどういうふうに
裏切るのか、どういうふうに破るのか、
ということを考えて行ったものであれば
「型破り」ということになりますが、
形式も知らず、単に無茶苦茶やった、だけ
というのであればそれは「形無し」にしか過ぎない、
ということです。

謙介が↓字を感心しないのは
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きちんと楷書の字の勉強をした、という
ことが、この人の書いた字からは
まったくもって読み取れないからです。

「楷書」の「形」も知らずに
いきなり無茶をやってもなぁ、、
ということがあるんです。

歌舞伎とか書道とか、日本の芸事というのは
ああ、やっぱりそうだよなぁ、、と
思いながら先生の話を聴いていたのでした。

長くなりました。
いったんここで措きます。


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18. 11. 21

来年、なんですけど、やっぱりするんで、しょうね

ちょっと今日は、旅行の話を中断して
謙介の専門の話をします。

もうすぐ11月23日が来ます。
世間的には、11月23日というと勤労感謝の日、
ということになってはいるんですけど、、。

宮中ではこの日、新嘗祭(にいなめさい)を行います。

新嘗祭って、
じゃあ誰が何をするのか、
ということなんですが、
天皇がその年に取れたお米をいただく、
という儀式です。

何? お米を食べるのが儀式なの?
っていうことですが、
古代の信仰として説明しますと、
この豊葦原瑞穂の国でとれたお米には
穀霊が宿っています。

で、それを、11月の23日にいただくのです。
どうしてそれが儀式なのか、と言えば、
旧暦に直すと、11月の23日というのは、
今の12月の20日ごろになるわけです。

つまり冬至の日です。
冬至の日ってどんな日ですか? (笑)
そうですね、1年で一番昼間が短い日です。
ということは、一番太陽の力が弱まる、
という日です。

天皇家というのは、天照大神の子孫ですから
基本的に太陽神を信仰します。

太陽の力が一番弱くなった冬至の日に
この豊葦原瑞穂の国で取れたお米を
いただくことで、このヤマトの国を治める
力を身につける儀式が新嘗祭の意味です。

天皇の即位後の初めて折には
大嘗祭をいたします。

大嘗祭の時は、占いでもって
悠紀の国と主基の国を決めます。

その決め方は、
亀の甲羅に火を当てて
その裂け方で、決めています。

そうしてその悠紀の国と主基の国で取れた
お米を大嘗祭の時にいただくことになっています。

平成に改元になった時の悠紀の国と
主基の国は、大分と秋田でした。

秋田・大分のそれぞれの県内でよい土地を
選んで、そこに悠紀斉田(ゆきさいでん)
主基斉田(すきさいでん)を作ってそこで
古式にのっとった形で田植えを行い、稲を生育させ
お米を収穫します。
そのお米を大嘗祭に使う、ということです。


即位の年には大嘗祭を行い、
そうして翌年からは、ずーーーーーーーーーっと
新嘗祭を挙行して、統治する力を今風に言えば
チャージしていったわけです。

実はこの繰り返し行事を行う、ということに
大きな意味がありました。

繰り返すことによって、その祭儀の意味が強められ
天皇の統治する力も強くなっていく、という意味が
あったわけです。

万葉集でも「つらつらつばき」とかいうふうな
同じ言葉の繰り返しがよくでてきますよね。

あと、例えば「いやさか」という言葉があります。
「さか」は「栄える」という状態ですが、
「いや」はいよいよいっそう」です。
つまり、単に栄えているのではなくて、
栄える状態がどんどんと重なって、
より一層栄えている、と。
この「より一層」というのを古代の人尊んだわけです。
「七重八重」とかいうでしょう。
単に一重ではなくて、何重にも重なったのが
勢いがあって、力があって、良い、とされました。


でもまぁ、今上天皇の場合は、
来年の4月30日まで、ということが
決まってはいます。
それでもまぁ、やはり儀式は儀式、
ということでしょうし、あと、5か月は
天皇でおいでになるわけですから、
今年も即位儀礼をされる、
ということなのでしょうね。

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18. 11. 03

面倒なのでうっちゃってたんですけどねぇ。

このところ、更新ができていなくてすみません。
あ、今日のタイトルですが、このブログを書くのが
面倒というのでは決してありません。

ブログを書くのはもう大好きなことなのです。

アクセスしていただいた方、本当にすみません。
(というのか、アクセスしてくださる方がいるのか???
という疑問もあるのですが)

と、いうのが、ずーっと自分のための申告書類を
作っていたのです。

あるところから、コーディネーターの資格を取らないか、
と、言われていたのです。

その資格を取ったら、あっちこっちに行って
説明とか解説にしに行かないといけないのです。

今なんて自分の毎日の業務だけで
手一杯なのに、よそにまで出張していって
他の人のお世話までできません、
と、思ったし、そうなるのが予想できたので、、
(それに面倒くさいし)
しません、って言ってたんですけどね。


そうしたら、こんなコーディネーターは
誰でもできるもんやない、あんたは適格や
といろいろと言ってくださるし、、
もうねぇしつこく、取ってよ取ってよ取ってよ、
って言われるし、、

その資格取っても
やたら出張はないから、ということでした。

で、違うセクションの人に、
その資格取って、出張増えた?
と聞いてみたんですが、 
出張はないよ、と、いうことだったので、

まぁそういうことなら、ということで
コーディネーター、資格を取ってもいい、
と、返事をしておきました。

この資格を取るための、試験はないのです。

そもそもがコーディネータしてよ、って
いうお話があった段階で、
「この人間だったらやってもらっていい」
というのか、そういう人にしか話を
持って行ってないようなのですけど、、。


で、提出書類が3通必要でして、
自分が今まで業務上経験してきたことの調書を
書いて提出するのが2種類と、
うちの仕事場の人事担当の人間の推薦状が
必要なのだそうです。

この調書は、前に別のところに提出する必要が
あって、2010年までは書いていたのですが、
そこから2018年現在までのところについては
書けていなかったわけです。

で、その調書、それはそれは
詳細に書かないといけないのです。

謙介さんは幸いにも日記をつけていますので、
あの時に何をしたのか、どう思ったのかは
その日記を見ればわかるので、
そう難渋することもありませんでした。

日記から、業務上の主だった出来ごとを
ピックアップして、メモして、業績調書に
書き入れていきました。

なんだか、昔、夏休みの絵日記を
8月の末になって一気に仕上げた時の
気分になりましたです。

まぁその調書の加筆作業に7日ほどかかりました。
加筆そのものは、そう時間がかからなかったのですが、
書き入れるフォームをいろいろと変えていたのです。
その作業に結構時間がかかりました。


それから、人事担当のところに持って行って
その調書を見せつつ、
推薦状を書いていただき、書類を提出したのでした。
ふう。

9月にそれまで準備していた研究会の司会が終わって
ちょっと暇になるのか、と思ったのですが、
相変わらず忙しい毎日です。

ですが、その間隙をぬって、できるだけ
ブログの更新をしたいと思います。

まぁそんなことですが、たまに、
あ、更新しよったかなぁ、と思い出してくださって
見に来てくださったら、と思います。

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18. 07. 11

こんなこと調べる人間なんてほかにあまりいないとおもうけど

今回の大雨による被害、
いくつか大きな被害があった個所がありましたが、、

地元の人に良く聞いてみると、
お天気だけでなくて
人災じゃなかったの? ということも
出てきました。

その一つがダムの放流です。
野村というところがあって、ここも
今回の豪雨で被害が
大きかったところなんですが、、。

謙介の住む町にもダムがあるんですが、こちらのダムは
ずいぶん早い段階から
ダムの放流をしはじめていたのです。
水曜日とか木曜日あたりから。

つまり貯水率が80パーセントくらいのあたりで
すでに流し始めていた、ということなのです。

他方、野村町のダムは、金曜日に貯水率が
100パーセントになって、
それから一気に流し始めたわけです。

今回被害に遭った人のコメントを聞くと
「水が急に来た」ということがあるんですが、
それとこのダムの放流が関係していないのか。

これからの検証が必要な気がします。
これがひとつ。

それとこれは我々がマスコミと付き合う時の
ポイントにもなると思うのですが、、

今回、被害状況の写真というと倉敷の北側の地区の
写真ばかりが出てきます。

水没した街を撮ると、確かにそれだけで被害の大きい
災害であった、ということはわかるかもしれません。

ですが、被害のあったのは、中国四国九州地区の各県に
及んでいます。どの県も被害の多少はあるのですが
そんなこと、あの被害の写真ばかり見せられたら
他の地域にまで想像が
行かないような気がするんですよね。

コメント欄にも書きましたが、高知への高速道路は
山が地滑りを起こして橋梁・橋脚もろともに流れ落ちてしまい
影も形もありません。

高知への運輸手段は
今や国道33号線しかないのが現状です。
それからJR四国は、財田川橋梁の橋台が傾いてしまった
ことをはじめとして、山崩れ、その他、復旧工事が必要な個所が
30個所ある、とのことです。

広島で言えば、呉・尾道方面へのアクセス道路はすべて
土砂崩れで今なお不通です。
JRも同様に不通です。

それから、離島とか山間部に行くと、水道の浄水施設
そのものが大きな損傷を受けたり、
浄水場から各戸へ供給される途中で
壊れてしまっていて、供給がストップしている
個所もたくさんあります。
ですから、避難所で水洗トイレが使えない。
手洗いがおざなりになる。
飲み物としての水が不足している。
何せ道が通れないので輸送手段が限られていて
水が運ばれない、運ぶことができない、という状態です。

避難所にいるのも田舎の事ですから
お年寄りが多い。
お年寄りにこの暑い毎日。しかも体育館の板の間ですから
寝ることもできにくいでしょう。
ニュースは東京からなので、見たり聞いたりしていても、
現実の報道になっていなくて、どこか他人ごと、という
感じがするんですよ。

ああ、こんな話をしたかったのではないのです。
歴史をやってきた人間として、の話です。

謙介さん、思うところがあって
延喜式内社を調べてみたわけです。


延喜式というのは、
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十が
延喜式 神名帳という別名のついた書物なんですが
これに何が書いてあるかと言いますと、、
当時「官社」に指定されていた全国の神社の
リストが書かれてあるわけなのです。

どういうことか、と言えば、平安時代に
既に信仰されていた、古い神社の
リスト、ということです。
古くから信仰されていた神社のリスト、
ということです。

これはどういうことかと言えば、
「神社の置かれるところはどういう場所か?」
ということになるのです。

謙介の睨んでいるのは、
神社の置かれる場所というのは
川の合流地点だったり、川筋の場所だ、
ということです。

つまり大水が出たりすると困りますし、逆に
水がなくては、当時の経済の基盤であった
お米ができません。水利というのは
古代の人の一大関心事、だったわけです。
ですから、大水が出て被害があるような場所
水の流れの分かれ目の場所には神社を
作って、川の流れが平穏でありますようにと
祈ったのだと思います。

そういうことで、今回の倉敷の大水の出水地点と
延喜式内社の配置を見てみましたら、
合流地点から800メートル東のところに
菅生神社という神社がありました。

それから菅生天津神社が1キロ東に
ありました。

百射山神社が3キロのところにありました。

何と都窪郡の神社3座すべてが
この川の合流地点の近くにあった、
ということです。

多分ね、ここの合流地点の
洪水は昔から頻繁にあった、ということ
なんでしょうね。だからこそ、
それを鎮めていただくために古代の人は
ここにお社を作って信仰の対象としたのでしょう。

延喜式の神社の配置を見ますと、
そういう土地の事情が
垣間見えてくるように思います。

でも、たいていの人は、「そんなこと」と言って
バカにして顧みもしないの。

科学・コンピュータの時代にばかばかしい
とか言って。

だけど、歴史に学ぶとか、人の生活の中からの
経験に基づくこと、ってそうした実際に被害を
受けたことからの信仰ですからね、
それなりに意味の
ある言葉と思うんですよ。

ということでここに書いておきたいと思います。

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18. 06. 21

どっちも違うよ

なんやしらんけど、
「お菓子の八つ橋がえらいもめてはるねんて」という
お話を聞きました。

わーわーと言っておいでのようですが、
あのお菓子の原型になったようなものが
実はそこここにあります。

たとえばこれ。
同じ京都なんですけど、
丹波の園部で作られてきた
「からいた」というお菓子です。
Karaita1

このお菓子の製造元の初代
大槻惣右衛門氏は、園部のお殿様、
小出家に仕えていた武士だったそうで、
あの朝鮮出兵の際には、
海を渡って進軍したんだとか。

やがて、飢え死にしそうな時に、
民家に残されていた小麦粉と、
兵糧として持っていた朝鮮飴を使って、
煎餅のような非常食を作ったのが、
このからいたのもとになったもの、という伝承が
あります。

八つ橋は米粉で作られていますが、
Karaita2
こちらは小麦粉で作られています。

それから、伊賀に行けば「かたやき」
というお菓子があります。
24igakatayaki


直径が5~6センチくらいの円形のお菓子で
それそれは堅いものです。食べる時は
お菓子と一緒に木づちがついているので
それで破壊 割りながら食べる
というお菓子です。

しかも、あまりにかたいので歯で噛み砕く
ことができません。飴のように口の中で
少しずつ溶かしていく、という食べ方を
しなくては文字通り「歯が立ちません」

これは伊賀のお菓子なので「忍者の携行食」
ということになっています。


忍者の携行食かどうかは、よくわかんないのですが
山に入って生活する人の携行食であった、
というのは間違いがないように思います。

八つ橋の場合、実はその発祥が
「聖護院」というところが、意味がある、と
思うんですよね。

聖護院というのは山伏のお寺です。

だから八つ橋の原初形態は、
おそらくはこの園部の「からいた」のようなもので、
そもそもが山伏の携行食、として作られたもの
だったのでしょう。

それが京都風の洗練を受けて
次第に形状の進化をしていって
お琴の形に、となっていったのだと思います。

謙介の大学の時の同級生で
M平くんという人がいました。

彼の家のお仕事が山伏なのです。
で、彼も山伏です。

映画とか本で、山伏という存在は
知ってはいましたが、友達にそういう
家業の人がいる、ということには
ちょっとびっくりしたことがありました。
大学であった時は、普通にシャツとか
ジーンズ姿ですが、山伏姿になったら
兜巾をして、ほら貝を吹いて、という
いでたちです。
ゼミの発表の時の姿とあまりにかけ離れていて
驚いたことがありました。

園部のからいた、というお菓子、
派手さは全然ありませんが、
何とも言えない滋味があって、
それが長らく丹波の人の支持を
受けてきたのだろうなぁ、と思います。

八つ橋もそういう食べ物だったのが
いつしか変化して今の形状になったのでしょう。

あないに目くじらたてへんでもええやん、
と思うのですが、、。

なぜに今なの? という、クエスチョンマークが
頭の中についている謙介なのでした。


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18. 06. 04

氷河期とバーゲンセール

今回のタイトル、いったい何なんだ、ということなんですが、、

氷河期とバーゲンセールが結び付く、
という不思議なお話なのでございます。

江戸時代に氷河期があったのは、
ご存じだったでしょうか??

お江戸の8月の気温が、日中、
20度行くか行かないか、だった、と
言われています。
昼間の日盛りで20度ですから、
朝晩は冷えました。
8月というのに、みなさん、冬物の
布団で寝ていたりしたわけです。

その結果、どうなったか、といえば、
当然作物ができなかった。

今だったら、農薬がありますから、
少々の低温で生育不良で枯れかかったら、
農薬を作物にじゃんじゃんかまして(あら、お下品)
枯れないようにする、ということが可能なのですし、
実際そういうことをやっています。
(農家である謙介のアパートの大家さん談)

でもまぁ江戸時代にはそんな農薬なんて
ありませんから、気温が低かったら
できるはずの作物が育たなかった。

その結果、飢饉がきたわけです。
江戸時代、何度か飢饉が来ていますが、
その背景には江戸時代が氷河期であった、
ということもありました。

加えて江戸時代の経済は、
農業が基礎ですから、作物ができないということは
経済活動にも大きな影響がありました。

そういう時に、政治はどうしたか、といえば
失業対策事業を展開したわけです。

土木工事をしました。

失対の土木工事なんて、大昔から全然変わんない、
という方法であることがよーくわかります。

大坂(おおざか)で言えば、大川の浚渫をしました。

大川は淀川から毛馬の閘門で枝分かれして、
桜宮とか中之島辺を流れる川です。

浚渫をしないと、琵琶湖から流れてきた土砂が
溜まって、土地が高くなってしまい、したがって
水が流れず、逆流して、大坂の町が水浸しに
なったりしたわけです。

でもね、大坂の街なんて、ちょっと考えたら
分かることですが、琵琶湖から言えば
位置的に河口、なわけです。

そんな河口をちょっといじったくらいでは
淀川なんて全然だめで、しょっちゅう氾濫していた
わけです。
氾濫と気候不良で作物ができないというと
余計に餓死者が出る、ということですね。

それで、根本的に淀川ぜーんぶを
浚渫しようということになりました。

この工事のことを、「お救い大川ざらえ」
と呼びました。
失業対策事業ですから、
「お救い」ですよね。

でね、この「大川ざらえ」をもじったものが、
「大蔵ざらえ」という名称なのです。

ほおら、ここで氷河期がバーゲンセールに
つながった。(笑)

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今時大蔵ざらえなんて
言う言い方していないのかなぁ、と
思いながら検索してみたら、結構な数出てきて
今も使われている言葉だ、ということが
分かりました。

でも、この「大蔵ざらえ」のもとが、氷河期の飢饉の
失対事業の名称だったなんてねぇ、、

言語にはこういう意味の跳躍がありますからねぇ、、

いくらAIが発達してきた、ったって、
こんなふうな言葉の変化には
まだついてくることができないんじゃ
ないか、と思いますです。

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18. 05. 20

吉野離宮

吉野(奈良県)で、古代の大規模な建物の遺跡が
見つかった、というニュースが先日ありました。

日本書紀を見れば、持統さんなんかは
もうしょっちゅう吉野に行っていた、
という記録があります。

年に4回とかいう年もあって、、、
持統さん、在位中に総計33回だか
行っていたはずです。

じゃあ、次に出てくる疑問は
何しにyouは吉野まで?
ということになりますですね。


吉野という場所が神仙思想による聖地で
そこに行くことによって、このヤマトの国を
統治する力を身につけるため、で
あった、というのが、定説です。

そういうのって、現代の人にとっても
分かることではないのでしょうか。


今の人だって、「パワースポット」にこだわる人が
いるではありませんか。

持統さんにとって吉野がパワースポットで
あった、と考えたら、よろしいのではないでしょうか?

で、今まで、書紀の記録はあったのですが、
実際の吉野離宮の場所がわからなかった、
のです。

で、今回、宮滝の辺から、大きな構造物の
遺跡が出てきた、ということです。
規模とか、その状況からみて、
おそらくこれが吉野離宮の建物跡なのでは?
 

ということですね。
で、ぐーぐーるで検索をしていたら、
こんなのが出てきたのですが、、、

このお方、吉野離宮はぜーったいに宮滝なんかに
あった、なんていうことは信じらんない!
というスタンスで文章をお書きです。

読んでいたら突っ込みどころ満載で、、、


「そして、この吉野川は敵の侵入を防ぐ
自然の水濠の役割をも果たしているのである。
そのような訳で吉野宮は北岸に造営されるはずがない。」

とあるんですけど。 この時代の天皇の住まいって
そういう外敵がやってくるのに備えて、地形的に防御する
場所に造った、なんていうことはまーったくありません。

そもそもが持統天皇の藤原京なんて
のっぱらの真ん中に造ったわけですから。
その次の平城京だってそうですね。

「再述するが、聖なる神仙郷「よしの」は
吉野川の南岸でなければならないのだ。」

っておっしゃっているのですが、
離宮の置かれるのには複合的に考えないと
いけません。


謙介、もちろん吉野の宮滝遺跡には
参りましたし、このブログでも
行った時のことをお話したことが
ありましたね。


宮滝遺跡のお向かいには、
山の形の美しい象山があります。
万葉集では柿本人麻呂、山部赤人が
吉野離宮に来た時に、この象山の歌を
作っているのですよ。

このおっちゃん、万葉集のことについては
なぜか一切触れられていないのですが、、。
そういう歌人の歌などを見ても
象山と吉野離宮は近接した場所に
ないといけませんし、、。
今回の発掘結果は、その歌が改めて
宮滝にあった離宮で歌われた、
ということの証左になったのではないか、
と思います。

(ということで今日聞いた音楽は
 さだまさしの「まほろば」にしておきました。
 吉永小百合さんの「奈良の春日野」も
 ききましたけれども、、、。)


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