旅のはなし

08. 01. 25

金刀比羅宮のストロベリー・サンデー(こんぴら詣で:その3)

で、こんぴらの詣での続きですが
このこんぴらのお山には椿の木が多い、
というところからが今日のお話。

3年前にこんぴらさんに来た時は、
もう昔からある古色蒼然としたお休みどころが
あって、そこで100円のアイスとか
コーラの自動販売機が置いてあって
休憩できるようになっていた。

それがね、もうそんな古色蒼然としたお休みどころじゃ、
おされでない! という結論に達したのでせう。

だってさー、いまどき市ヶ谷の防衛省の中にさえ
スタバがあるご時勢ですしねぇ。あ、関係ないか。

それでまぁ、一丁おされなお休みどころをつくろうでは
ないか。ということで、新しく作ったのが
神椿というお休みどころ。

で、椿といえば、やっぱり
この会社。

Renri3

ということで、あたらしいお休みどころは、資生堂パーラーが
プロデュース。

だけどさ資生堂パーラーなんて、
名古屋から西はどこにもないのよ。大阪にだって
福岡にだってないのに、いきなりこんな草深い仲多度郡に
できちゃった。(笑) 

だけど、さすがに資生堂パーラーこんぴら支店って
いうわけにもいかないから、
Kamitsubaki1
「神椿」だってさ。

しかし、前は売店におばちゃんがいて、
「おばちゃん、このアイスもなかひとつ」って
言ってたのが、いまや美しいおねいさんに
(なんたってザ・ギンザ だって持ってる資生堂。
制服はとってもシック)
「ストロベリーサンデーください。」
ということになってしまった。お値段も
森永のアイスもなかというわけにもいきませず、
それなりにびよーーーーんとあがってしまった。


ここも高橋由一館と同じで、上から下りていく構造。
いちばん上の2階が階段の降り口で1階がカフェ。
地下1階がレストランという構造に
なってる。
Kamitsubaki2


地下1階のレストランは予約制だって。で、
1階のカフェでしばし休憩。店内はこんな感じ。
Kamitsubaki4
右側の有田焼の陶板の椿の絵は、もちろんさっきの白書院の椿の絵を
担当した、田窪恭治さんの原画を焼き付けたもの。

ここはセルフサービス。
ストロベリーサンデーをお願いする。で、トレーに載せて
席を探して、、やっと落ち着く。
ストロベリーサンデーはこんなの。

Kamitsubaki3


おさじに掬ってアイスを一口。うおおおおお。
ううううううんまい!
ハーゲンダッツのアイスなんかよりずっとうまい!
ごめんな。ハーゲンダッツでさえ、
「なんかより」程度だったんだよ。
まるで比較にならんかった。
うわぁ、こんなにおいしいアイス
久しぶりに食べたなぁ、っていう感じだった。
(まぁね。値段だって、ハーゲンダッツの倍しますから。)

だからこんぴらさんで、ストロベリーサンデー。
はぁ。こんなおいしいの食べたら、もういいや、帰ろ。
あ、いかんいかん。
まだ肝心のお参りをしていないや。
さて。

アイスをいただいて、滋養もつけたところで、
さぁ元気を出して、と ふたたび階段のぼりはじめます。
で、しばらくゆるやかに階段を上がると、旭社がある。
Hondou

豪壮な建築でしょ?
でさぁ、豪壮だもんで、ここを本宮と間違えた
慌て者のやつがおりまして。
誰かって?

森の石松よ。
次郎長親分から、こんぴら代参のお役目を
引き受けてさ、こんぴらまできて、
で、この旭社を本宮と間違えて、おまいりをすまして帰る、っていうような
ことになって。

まったくもって先達はあらまほっちゃんなことでございます。

はい。ここは本宮ではありません。
本宮はもうちょっと先、最後のフィニッシュの大階段を
のぼって、でないと到達しません。

多分ね、石松っつあんがここを訪れたときは、この
建物の入り口の辺に多分、線香立があったりして
もうもうと線香の煙が立っていたに違いないのです。
この建物、明治までは、金比羅大権現の別当寺で
お寺だったから。 ホラ、この前も言ったけど、
神仏分離なんて明治政府が言い出す前は
お宮とお寺なんて平気で一緒にあったもの。
だから、神社の境内にお寺の本堂があった、と。
で、さすがにこんぴらさんの本堂だからでかかった、と。
それがこの建物なんだ。 今は、「おら神社だよ。」なんて顔して
ますが、中を覗いたら、内陣と外陣に建物の中が
分かれてて、どう見たって、こりゃ、寺院建築だ、っていう
遺構が残っています。 でも今は神社のふりしている
建物なので、このだだっぴろい内陣で、雅楽を演奏したり、
巫女さんが広い空間を持てあます
みたいに、舞を舞ったりしているんだけど。

で、旭社を後にして、階段の下にある、お清め場でもう一度、口や手を
洗ったりすすいだりします。 そして、えっちらおっちら
ラストスパートにかかります。
「ひええええ、まだ、あるのー」と隣を歩くカップルの女の子が
言っています。
はぁはぁはぁ。」おばあさんは杖を頼りに息も絶え絶えです。
お、何か後ろから高校生くらいの男の子でしょうか、
軽やかにのぼってきました。さすがですね。
こちとらのようなおぢぃとは比較になりません。

さて。ようやっとご本宮に到着。
息を落ち着かせて、早速お参りです。
途中おみやげもの屋でエッチィなみやげものは見まくるわ、
パーラーでアイスは食べるわ、と
神さん参りに来ているくせに、肝心なことを
先にしようとせずにダラダラ来てしまいましたが、
ようやっと到着です。
のぼっただけの価値はあります。
ここからの眺めがこんな感じ。
Miharashi


手前の斜めに視界をよぎっているのが
象頭山(ぞうずさん)というこんぴらの山。
正面のおにぎりのようなぽこっとしたのが
飯野山です。
その奥には瀬戸大橋も見えます。
見晴らしをしばし眺めます。

それから絵馬堂に移動します。
こんぴらさんは海の神さまなので、
海運関係・漁業関係の奉納絵馬がほとんど
でした。古いところでは江戸時代末の
船の絵の額から新しいところでは
最新型のクルーズ客船まで。
いろいろな写真額が奉納されています。
Emadou
いろいろな絵馬というか祈念の写真が掲げてあって、
時代は移っても、奉納する人の海上安全・大漁を祈願する
気持ちには変化はないんですよね。
そんな、額を見ていっていると、全然見飽きることが
ありませんでした。
(けどまぁ、首が痛くなってしまいましたけどね。笑)


さて。本当はもう少し奥社というところまで行けたら
いいのですが、謙介はここまで来るのに
もうすっかり体力を使い果たしてしまっています。
なので、奥社はまたいつか、ということで、今度は
降りにかかります。

もう一ヶ所、金刀比羅宮の図書館に行かねばなりません。
この図書館は裏参道にあります。
Lib

久しぶりに、図書館に寄って、少し休憩して
本をパラパラと見ました。

図書館見学の後は、ひたすら
坂を下るだけです。今度は裏参道なので
お店は一軒もなくて、山の中をどんどん下ります。
そうして、ひっそりとした住宅街の中におりてきます。
その住宅地の中を歩きましたが、跡継ぎの人が
いないんでしょうか。昔、お金をかけて作った
豪壮なお屋敷が荒れるに任せて、朽ち果てている
という建物が何軒もありました。
そんな道を縫って、再び駐車場に。
車を走らせて、
お昼前には家に戻ってきました。
ということで、ここいらでこんぴらさん参詣の話を終えたいと
思います。
こんぴら詣りのお話。お付き合いどうもありがとうございました。


| | Comments (4) | TrackBack (0)

08. 01. 23

あ、急がなきゃ(こんぴら詣で:その1)

12日の土曜日、かばんの中を整理していて
「あ」と思った。チケットが出てきたんだ。
そうだ、この展覧会、もうすぐ
終わってしまうんだ。行かなきゃ、って。

ということで、3連休の最後、
14日の月曜に金刀比羅宮に
に行こうと、ようやくのこと、決心をつけた。

金刀比羅宮は仲多度郡の琴平町という町にある。
東京の港区の虎ノ門1丁目が
かつて芝琴平町って言ったのは
それはもちろん金刀比羅宮がそこにあるし、
この琴平から出た名前だったわけで。

だけどさ、名前が全国的に知られている
市町村って、それが逆に足かせになって
合併できなかった、ってね。奈良の明日香村
もそうだし、この琴平町もそう。ここも周辺の
町と合併するとか言ってたんだけど、やっぱり
町名がネックになって、断念した、って聞いた。
隣の自治体と合併して、全く別の訳のわかんないような
名前になってしまったら知名度がなくなるし、
だけど、かといって琴平を残したら、合併先の町民が
うちは琴平に吸収されたのか、って今度は怒りだすし。
だから結局3すくみ状態で、合併できなかった。
(まぁしたほうがよかったのか、しなかったので
正解だったのかはよくわかんないんですが。)


その琴平までは車で行く。
車を町営の駐車場において、街中を少し歩く。
琴平は金刀比羅宮の門前町なのだけど
昔ながらの旅館がこのところバタバタと
廃業してしまっている。前に来たときは
豪勢な江戸時代の立派な建築の旅館が
何軒か建ってたんだよ。それが全部なくなって、
更地とか駐車場になってた。
やっぱり、不景気だったり、旅の方法が以前とは
すっかり変わってしまったから、なんだろうね。


昔だと国鉄で琴平駅に着いて、
旅館に泊まって、翌日朝にこんぴら参詣
というスケジュールだったけど、今は、
バスでさっと来て、こんぴらさんを参詣して
さっと帰っちゃうもんね。滞在時間なんて
以前は2日かけてたのが、今や3時間くらいだもん。
だって四国からバスで行くと、岐阜までが日帰り圏だもんね。
松江・出雲も日帰り圏。
東京だって飛行機で日帰りしようと思えば、できるし。

だから逆に大阪の人から見ると
こんぴらは十分にバスで日帰り圏になる。
そりゃ旅館も衰退するわけだ。
これが駐車場近くのJR琴平駅。
Kotohirasta


ずっと昔からこの駅です。
昭和のはじめの絵葉書がこれ。
Kotohirasta2


ほらね、大して変更ないでしょ。

それから、高松琴平間を走ってる
私鉄の高松琴平電鉄の琴平駅がこれ。
Kotoden2

ちなみに同じアングルの昭和のはじめの絵葉書がこれ。
Kotoden12


それから琴平のお町内をふらふらと歩いて
鞘橋を見に行った。
Sayabashi1


この鞘橋は、上方落語にも
出てくる古くから知られた橋。
大坂(江戸時代は「おおさか」、
ではなくて「おおざか」、と濁るのが
正しい読み方ね。)の野崎参りと、
このこんぴらの鞘橋の行き違いには見知らぬ
同士が悪口を言い合うんだ。
それでその悪口の言い合いに
勝ったら運がいい、っていうことになってた。
そんな江戸時代からずうっとさまざまな人たちの
悪口雑言を聞いてきた橋は、
今は一年に一度、金刀比羅宮のみこしが
渡るときだけ、使われる橋になっている。
だからもう、かつてのような人びとの行きかう橋では
なくなっている。橋の架かっていた場所も
以前はもっと街中のにぎやかなところに架かって
いたのだけど、この橋では車が走れないので、
ちょっと上流の静かな場所に移築されてしまった。
だから今は静かにそこに在る。

鞘橋を見て、それから再びお町内に戻って
いよいよこんぴらさんの参詣に。
こんぴらさんといえば、やはり問題は「階段」。
謙介が、この展覧会に行かなきゃ、って思いながら
なかなか決断がつかずに行けなかったのは、もうひとえに
階段の問題があってさ。

一番下から、本宮までが785段。奥社までだと1368段。
ただしこれは表参道の階段。裏参道、っていうのがあってね。
そっちから上ると、たぶん300段くらいで済むとは思うんだ。
だけど、階段はなくてもずっと坂道をのぼっていくのは
同じ。それと裏参道は裏なだけにひっそりとしていて
時々殺人事件が起こる。ちょっと恐い。だから表参道で
のぼるほうがいいんだけどさ。

でもねぇ、考えただけで意気阻喪してしまいそうになるのよ。
まぁいいや。がんばってのぼることにいたしましょう。
何せ病人ですからね。常人の倍の時間がかかる。
少し上がると、目もくらくらしてくるけど、まぁ何とかかんとか
えっちらおっちらとのぼる。
江ノ島だったらさ、エスカーなんてこじゃれたものが
あるけどさ、こんぴらさんは駕籠しかないんだもん。
え? 駕籠のほうが渋いって? 

ただね、こんぴらさんの階段をのぼるには、ちょっとした
コツがある。(コツなんて大げさなものではないけど)
最初から飛ばさないこと。もう、それだけ。
最初は、階段の数も少ない。
Kaidan1


こんな感じ。数段あって、また数段。
でね、こんなのちょろいちょろい、って思って
張り切ってガンガン飛ばしてのぼっていきますと
途中から、こんなふうになりまして。
Kaidan2


最後のフィニッシュなんかこれでございますよ。
Kaidan3


最初からがんがん飛ばすと、途中で息切れして
最後のほうには、眼は回る、足へろへろ、息はたえだえ、
ということになるのです。そうなったときに、
フィニッシュのすんごい階段を見て、げげげ、って
のけぞっている人が結構います。
だもんで、こんぴらの階段のぼりは
最後のほうに体力を温存させておくこと。
地元の人間は、最初はものすごくゆっくり
のんびり上っていきます。
今日はこんぴらさんの参詣もあったけど、
途中の書院や宝物殿を見学して、こんぴらさんの
おされなカフェでアイスを食べる、
という目的もあったので、なおのこと体力を
残しておかなければなりません。
階段を上る人も、ちょっと前の初詣のときよりは
たぶん人も減って落ち着いた感じになっているはずです。
そんなことで謙介の階段のぼりもスタートしました。
ちょっと長くなりそうなので今日はここまでにします。


(今日聴いた音楽 ヨハネス・ブラームス作曲
 交響曲第一番 ハ短調 作品68 ウィーンフィル
 ハーモニー管弦楽団 指揮 カールベーム
 1975年5月ウィーンでの録音
 クラシックの人って、この曲、ブライチって言うんですよね。
 なんか発音嫌だなぁ。経済関係の人が、Bank of America
 のことをバンカメっていうのも嫌だな。だって音が
 汚いんだもん。)

| | Comments (2) | TrackBack (0)

07. 12. 30

大阪にて(Sentimental Journey その4)

急に大阪に泊まることになった。
場所は梅田。 ホテルはなんとかなったので、
じゃあ、ご飯だ。
梅田でご飯、ということで、久しぶりに
西梅田、ヒルトンプラザウエストの裏手に
ある洋食屋さんの「ネスパ」に行くことにする。
混んでないかなぁ、

ヒルトンホテルのきれいなディスプレイや、
イルミネーションを見ながら、
横断歩道を渡って、ヒルトンプラザ
ウエストの側に。 この建物の南、
通りからちょっと道を入ったところに
店はある。

外は、ちょっと分かりにくい
ところにあるわ、外装は目立たないわ、で
お客さん、来はるのやろか、なんていう
感じなのだけど、さすがは食べもんにうるさい
大阪のこと、みんな食事のおいしい店は
ちゃんと知ってる。やっぱりすごいなぁ、、って思う。

Nesupa_2

写真の奥、椅子がニ脚見えているのが「ネスパ」
の入り口。ね、すごくわかりづらいたたずまいでしょ。


ここの名物は「コロペット」 
コロッケとカツレツの両方の長所をあわせた
ような食べ物で、登録商標までされている。
肉・えび・鶏肉といろいろなコロペットが
あるのだけど、俺がいつもいただくのは、その
二品を選んで出してくれる盛り合わせコロペット。
この日謙介は牛肉とえびを選んでみた。

Colopet


コロペット自体に味が十分ついているので、
えびコロペットにはレモンをかけて、
牛肉コロペットにはマスタードを少しつけて
いただく。あ、おいしい。

それとともにとりあえず無事に何とか診察が
終わった、という気持ちで、すごくうれしかった。
おいしいものを食べると幸せになりますね。(笑)
ネスパはフランス語で、「ね、そうでしょ?」っていう
意味だとか。
ホント、おいしいよね。
ね、そうでしょ?(笑)

晩ごはんをいただいてから、久しぶりに梅田に
来たので、俺のサイトでリンクをさせてもらっている
堂山のSHIBEさんのお店に寄ってみた。
やはり店はSHIBEさんと話したい、っていうお客さんで
いっぱいだった。少しエッチで(いや、相当かなぁ、、笑)
だけど、それはそれとして酸いも甘いもきちんと
わきまえてて、いろいろ人生の話をしてくれて、、。
そりゃ、そういうSHIBEさんのファンも多いのも
分かる気がする。
俺だってファンだし、、。
久しぶりにいろいろと話をしたり近況のご報告などをして、
早めに失礼をしてホテルに戻る。(堂山はきっとこれから、の時間だった
だろうけど。)


翌日も大阪はいい天気。午前中、ちょっとゆっくりして
お昼前に心斎橋の古本屋に行って、ここまで来たから、
大丸の南の筋を東に行った明治軒でオムライスを食べる。
たてこんでてカウンターでささっといただいたので画像は無し。
(それからね、ここのレジのおばちゃんのたたずまいがいいの。
宝塚の男役の人が年を取った、っていう感じで、姿勢がピン
としているのと、声がいい。すごくしっかりしたアルトで。
謙介はひそかなファンだったりする。)
もちろんここのごはんもどれもおいしい。 銀串がいいなあ。


ごはんを食べているうちに、あ、ここやったら
周防町の庵月だってそう遠くないやんか、という
ことに気づく。こういうときは、ホント頭フル回転して
びびびと反応するの。(笑) 一体配線構造、
どうなっているんだろう?
ま、いいや。庵月で蕎麦薯蕷饅頭を買って帰ろう!と
思って、周防町に行って、庵月でお饅頭を買う。
ここの蕎麦薯蕷、なかなかの味で、おすすめ。
(お値段もなかなか、なんですけどねぇ、、)

大阪で謙介の好きな和菓子のお店となったら、
うーんあとは高麗橋の菊屋永寿さんかなぁ。
菊屋は奈良の郡山にも
あるけど。奈良のお店はは菊屋英寿と書く。
(何か○カタさんみたいな名前ですが)
菊屋さんでは御城之口餅が好き。(笑)


というところで、帰る時間。
梅田に戻って、
親戚のおっちゃんの車に
乗せてもらい、1泊2日になってしまった旅は
終わったのでした。


ながながとお話におつきあいくださいまして
どうもありがとうございました。

      ×       ×       ×


さてさて。
今年一年間、俺のブログ「終着までは、何哩? 」
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
ちょうど、きりのいいことに、今回のこの記事で
300個めになりました。


「世の中には本物とにせものがあるからね。
謙介は、目指すのであれば、本物を目指すんだよ。」
まだ20歳だった俺の目を見て、そう言って
くださったのは、実践禅学を教えていただいた
大森曹玄老師でした。
人間にも本物とにせものがあるからね、
にせものの人間がいたら、よく見ておいたらいい。
だけど、お前は志を高く持っていくんだよ、とも。

老師はそうも教えてくださいましたが、
今の自分を見ていると、果たして老師の教えが
どれくらい自分の中で生かされているか、と自問すると、
本当にトホホな状況で、
内心忸怩たるものがあります。

けれども、こうしてブログをはじめて
ひとつだけ、こころがけてきたことは
世の中の流れは流れとして
自分に正直にあることと、自分にきちんと
向かいあって、自分をごまかさない
ということでした。

自分が納得できる文章を、というスタンスで
ここまでやってきました。

自分の身の丈で、
納得できるものを書いていきたい、という
気持ちはずっと変わっていません。


間口をやたら広げて、拵え(こしらえ)だけを
にぎやかにしても、仕方がありません。
実力もないのに、見栄をはっておしゃれなことを言っても
仕方ありません。めっきはすぐにはがれてしまいましょう。
夏目の金ちゃん 漱石先生もそうおっしゃいました。
俺は俺のペースで歩いて行きます。
ええええ。頑固者ですから。(笑)

今年一年、
そんな謙介をずっと見守ってくださったこと
本当に感謝しています。
そんなおかげで
ここまで歩いてくることができました。
本当にありがとうございました。
それから、今年後半はなるべくいろいろな人に
会いたい、とお話したら、今回書かせていただいたyasuくんや
ヒシくんをはじめ、いろいろな人にはじめてお会い
したり、再会したりすることができました。
そんな出会いにも感謝したいと思います。

こんなやつの作っているブログですが、よろしければ、
来年もおつきあいをしてやってください。


それではみなさま
どうぞよいお年をお迎えくださいますよう。


(今日聴いた音楽  ベートーヴェン作曲 交響曲第9番
飯森泰次郎指揮  演奏 関フィル フェスティヴァル第九合唱団  
 2007年11月演奏 録音CD )


| | Comments (2) | TrackBack (0)

07. 12. 28

御室から嵐山へ(Sentimental Journey その3)

妙心寺の北門を出て、一条通を西に歩く。
この辺、道幅が狭くて、上下一車線ずつでさえ
幅が取れない。そのうえ、高尾・山越へのバスの
通り道だから、上下のバスだって頻繁に通る。
だから結構車の行き来は多い。でも、道は狭くて
歩道なんてしゃれたものはないから、両側の店の
前を車に周囲しながら、へばりつくように通らな
ければならない。
妙心寺寺内お散歩は割に距離を歩いたので、
ちょっとお茶をしようか、ということになる。
もともと退蔵院があかんかったら、こっち、
っていう候補にしていたカフェが、仁和寺の前に
あったので、そこに行くことにする。
一条通をひょこひょこ歩いて、やがて金閣寺・
龍安寺からの観光道路と一条通が交差する
三つ角のちょっと手前のビルの一階に
めざす「さのわ」がある。

Sanowa1

Sanowa2


前に花園寺の内町に住むうちのおばが、よく
この近所のお豆腐屋さんが昼だけ出している
定食がおいしいねん、って言って、よく来てた
時に、ついで(笑)に発見した店で、名前は前から
聞いていた。お菓子と、そのお菓子に合ったお茶
(日本茶)を出してくれる、というお店。
二人であれこれと見て、メープルシロップを
使った焼き菓子と、ほうじ茶、というとり合わせに
する。 おばの話では店は落ち着いてて、、、
なんて言ってたのに、たまたま家族連れの先客が
どーっと入ってきて、あれま、というような混雑状態。
お店の人も恐縮してくださって、
「ちょっと待ってくださいね。」としきりに
声をかけてくださる。


こちらは例によってyasuくんと話をしていたので
お茶の出てくる時間は大して待った、という気は
しなかった。運ばれてきたほうじ茶をいただく
一口いただいてから、あ、と思う。 普通のほうじ茶
よりさらに焙じかたを強くしたもので、ちょっと個性的な
味がする。ほうじ茶、ってあったけど、一口いただいて
みると、よくあるほうじ茶の味とか香りではなくて
もっと味わいがきつくて、それから
ちょっと煙でいぶしたような香りとか味わいが残って、、、。
味で言うと、それは二条御幸町の柳桜園の
刈番茶に近い味やなぁ、と思った。


さて、だんだん日も暮れてきたし、そろそろ行きましょうか、
ということでさのわを出る。
仁和寺の山門の前から南を見ると、ちょうど双が岡の
北の端が眼に入ってくる。
夕暮れで、ちょっと暗かったけど、
こんな感じ。

Omuro1_2

そこから、福王子の交差点に出て、左折する。ちょっと
行くと、嵐電の高架に出る。高架の下に嵐電の駅(その駅
は今年の春から「宇多野」と駅名が変わったのだけど、
俺は以前の高雄口のほうがしっくり、とくるなぁ。)があって
そこから電車に乗ってもいいのだけど、ちょっと歩いて、
住宅地の中を通って、次の鳴滝から電車に乗る。
福王子から鳴滝に向かう途中にて。
北西方向から見た双が岡
Omuro2

鳴滝の次が常盤。俺の家は以前、その
常盤にあったので、もうこの辺は昔なじみの懐かしい場所だ。
とはいえ、やはり京都を離れてしばらく経ってしまったので、
場所の感じもずいぶん違っている。
人はいさ心も知らずふるさとは、、ということをやっぱり想う。
あのころあった鳴滝の駅前の○日新聞の専売所も
見たらなくなっていた。


やがて、遠くから電車の走行音が聞こえてきた。
がたごと音をたてながら、緑とクリーム色の電車が入ってきた。
電車は、同じように嵐山のライトアップを見に行く人なのだろう。
通勤ラッシュとまではいかないけれど、普段の電車に比べたら
格段に混んでいた。 やがて電車は動き出し、程なくすると
丸太町を越えて、常盤の駅に着く。電車から混んだ人の
間越しに、駅の外をのぞいてみたけれど、外はもう暗くて
何も見えなかった。 再び動き出した電車は、一気に坂を
駆け下りて、山陰線の高架の下をくぐって帷子の辻に
着いた。この電車はここまでで、俺たちはここで
ホームを移動して、電車を乗り換える。


今乗っていた北野線の電車でさえ結構混んでいたので
たぶん四条大宮から来る電車はそれ以上に混んでますよね、
って話をしていたら、二両連結の電車が入ってきた。
やっぱり混んでいた。電車はここから一直線で西に走る。
車折神社(くるまざきじんじゃ)鹿王院(ろくおういん)
と駅に止まって、終点の嵐山。

嵐山も考えたら、ずいぶん久しぶりなこと。
駅前で、嵐山花灯路のパンフレットをいただく。
Arashiyamasansaku


俺は、7時過ぎに梅田で、親戚の人と待ち合わせを
していたので、6時すぎにはここを出発しなければ
待ち合わせに遅れてしまう。とすると、逆算したら
ライトアップの場所を見る時間はそうない。せっかく
誘ってくれたN先生のお寺にもちょっと行って、帰ってきて
って思ったら、時間がない。仕方がないので常寂光寺は
あきらめて、渡月橋のほうを中心に見ることにする。


渡月橋の向こう、小倉山はライトアップされてこんな
感じだった。この写真はこの小倉山に○悲閣というお寺があって
そこの住職をしているOくんがくれた写真。
Togetsukyou

Oくんは、ボウズなのに、若い美人の奥さんをもらっている。
「どうやって知り合ったん? 」って聞いたら、
「それはですねぇ、、はははは、ですよ。」
「何? そのはははは、っていうのんは。」
「ボクがへへへへ、って言ったら横にいたんです。」
ということだそうです。
はいはい。
おへんじ二つ程度でうけたまわらさせて
いただいておきます。


Oくんは、たまに渡月橋の
たもとで托鉢をしているので、ひょっとしたら、
あ、見た、っていうことがある人もいるかもしれない。
渡月橋からちゃんと写真を撮ろうとしたのだけど、何せ
すんごい人で、「橋の上で立ち止まらないでください!」
って警備のおっちゃんが連呼しはってるので、
写真を撮ることもままならないまま、橋を渡りきってしまう。


この渡月橋を渡るときに関西の人間なら必ず出る
話が十三参り(笑) 十三歳になった時にこの橋の
向こうにある法輪寺へ行って、おまいりをして
知恵を授かって帰るという儀式。それで、
必ず言われているのは
どんなことがあっても「この渡月橋を渡りきるまで、
ふりかえったらあかん。」ということ。
そうしないと折角いただかはった知恵が逃げてしまうから、、
ということらしい。
うーん。渡月橋で振り向かなかったんですけどねー。(笑)

中ノ島についたらいろいろとイベントをやってた。
伏見の利き酒っていうのをやってたのでyasuくんは
早速試してみていた。
謙介はお酒はドクターストップなので
ただよってくる香りをかいだだけでしたけど、、。
それでもあたりはすごい人で、
このイベントは成功してた、っていうことだろうね。

何せ、12月は観光客が少ないから、、。
さてさて。時計を見ると、もうそろそろ
大阪に行かなくちゃならない時間。

なごりは尽きなかったのだけど、
俺はここから阪急で、梅田に出ることにした。
また会いましょうね、ってyasuくんと再会を
話す。yasuくん、丁寧に、本当に「お見送り」という
言葉のままに俺を送ってくれた。感謝感謝。


案外知らない人が多いのだけど、
阪急って桂から枝分かれして、嵐山まで
来てるんだよ。
まぁねぇ、嵐山の駅が、ちょっと不便な場所に
あるので、地味な感じなんですけどね。

Arashiyama3


阪急嵐山の駅です。
照明がなかなか凝ってるでしょ。
この辺にも友達の家があって、時々寄らせて
もらってたなぁ、、。そいつは引越しして
しまって今は兵庫県に行ってしまったけど、、。
月日は経つものです。それが無常ということ
なんだろうけど。ふぅ。


桂から、松尾とかを通って、嵐山まで。
道のりはほんの数駅、8分くらいのものなんだけど、、
桂で河原町からの特急に乗り換えて、
7時前に梅田に着いたのだった。

と、ここで、親戚の人の車に乗せてもらって
その日のうちに帰る予定だったのだけど、
ちょっと都合が悪くなって、帰るのは翌日に
なってしまった。 いそいで駅前の旅行案内に
行って当日のホテルを見てもらう。
宿舎を確保したところで、、
そこからの話は、大阪編、ということで、もう一回
書きます。 またまた長くなったので、
今日はここまでにします。


長々とした文章、お付き合いくださって、
いつもどうもありがとう。


(今日聴いた音楽 京都慕情 歌 渚ゆう子
 2000年 録音版 今日はもうこの歌しかありません。

 ♪遠い日の愛の残り火が 燃えてる嵐山~ 
  苦しめないで ああ 責めないで 別れの辛さ知りながら 
  遠い日は二度と帰らない 夕やみの桂川

 ですもんね。 
 謙介は残り火どころか、燃えカスの炭だってありませんけど。笑)


| | Comments (0) | TrackBack (0)

07. 12. 27

妙心寺・御室 (Sentimental Journey その2)

さて、花園駅からゆるゆると上がってきた道は
下立売(しもたちうり)通りに面した妙心寺の
南総門の前に着く。実は、前にも話したことあるけど
ここには門がふたつある。


ひとつは一般人用の南総門。 
Myoushinji1

もうひとつは
天皇・および天皇の勅使用の勅使門。


Myoushinji2

実は妙心寺の中に入ると分かるのだけど、
お寺の伽藍配置は、南総門ではなくて、
天皇の入る勅使門の延長線上の
縦一線に伽藍が並ぶ、という配置になっている。

先日、ヒシくんとご一緒させていただいた
九州の国立博物館、来年早々の展示が「京の五山展」
だそうで、その予告のポスターがあちこちに
貼ってあったんだけど。
京都五山っていうのは、京都にある臨済宗のお寺を
格付けしていったものなんだ。


第一位が嵐山の天龍寺。二位が同志社の
横にある相国寺三位が祇園にあって、
俺たちの大学の書道の授業の
学外展をよく引き受けてくれていた建仁寺。
この建仁寺に栄西が中国からお茶の木を持って
帰ってきて植えた、のが日本のお茶のはじまりな。
祇園の花街(かがい)の中にあるお寺。) それから四位が
東福寺(ここも紅葉で有名だよね。)
第五位が万寿寺。

これは最終的に足利義満が決めたのだけど
すごく恣意的な並びだなぁ、って思う。
第二位に入ってる相国寺なんて、義満が
この五山を決めたわずか2、3年前にできたばっかり
の寺でさ、格なんていうようなものなんて、
まだこのころは全然なかったものね。だけど
相国寺を足利さんがてこ入れしてたから、そのせいで
入ってる。実際、臨済宗の寺で、ここの5つより
もっと寺格も高くて、力も持っていたはずの
妙心寺も、大徳寺も実は入っていないものね。
まぁね、これはあくまで足利さんの都合がいい
ラインナップで決まった、っていうだけだし。

「都合のいい悪い。」歴史の流れなんて、そんなものだ
もんね。
時の権力者に都合がよかったら、それが主流になるし
都合の悪いものだったら、抹殺されたり、
闇に葬られたりする。
京都五山も、まぁそんな選ばれ方の結果、
っていうところなんだろうね。 


さて、妙心寺。
この日は社葬があったから、妙心寺も結構気は
使ってたみたいね。
だって、めったに開けない南総門、
全開にして開けてたし。
(そう。普通の場合、南総門って滅多にあくことがないんだ。
いつだったか妙心寺の宗務総長が滅多にあけないようにしてる、
って、自分でそう言ってたくらいだし、、。だもんで
いつもは、脇にある、小さい通用口から出入りするから。 自動車は
もうちょっと東にある花園会館の脇の道から出入りするように
なってるから、自動車はこの南総門は原則的に通行しない。)

あのね、最初の謙介の計画では、まず仏殿を見学して
それから法堂(はっとう)の天井の狩野探幽が描いた
龍の天井絵を見て、それから妙心寺の中の塔頭寺院で
退蔵院(たいぞういん)っていうお寺があるんだけど
そこで、国宝の絵を眺めたり、
お庭を眺めながら、お抹茶をいただいて、
のんびりする、という計画だったんだ。ところがところが、その
退蔵さんのある一帯がさーさっきから何度も言ってるように
その降って沸いたような社葬の人で、あふれかえってて
静かにお抹茶をいただく、なんて無理だねぇ、、ということで、
で、やむなく計画変更。 と、いうより、妙心寺の
本坊の法堂でお葬式をしているので、何せこの法堂の
周囲の塔頭寺院も人通りが多くて、落ち着いて
いない感じだったの。計画変更。やれやれ。


妙心寺の中は、本山の妙心寺の本坊と、その周囲に
サテライトのように存在する小さな塔頭寺院で
成り立っている。
でね、妙心寺では、その塔頭の
お寺を呼ぶときは、お寺の名前の下に「さん」づけを
するのが慣わしなんだ。東林院(とうりんいん)だったら、
「東林さん」だし、東海庵だったら「東海さん」っていう
具合に呼ぶ。
妙心寺の塔頭のお寺の中でも「専門道場」を持ってる
お寺がいくつかあってね。専門道場、っていうのは
別の名前で言えば僧堂とも言うんだけど、
お坊さんの卵の修行道場のこと。

この僧堂に何年か行って修行をして、一人前のお坊さんに
なれる、というふうになってる。この僧堂で修行してる
ところが時々、ドキュメンタリー番組なんかになって
放送されることがあるよね。
(座禅組んでるところとか、おかゆを食べてるところとか)
だから逆に言えば僧堂に行ってなければ、一人前の
お坊さんにはなれない。

じゃあ、一人前のお坊さんって何? っていったら
お葬式のときに死者に引導を渡せるお坊さんということ。
もっと分かりやすくいえば、一人前のお坊さんでなければ、
お葬式は主催できないんだ。
だから、見習いのお坊さんだと、死者にお経を上げるときに
行ってお手伝いをすることはできても、それだけ。
妙心寺の山内にはそんなお坊さんのための専門道場を
持ってるような有力な塔頭が何か寺かある。
前にも話したけど、霊雲院とか、東海庵とか。
で、こういう専門道場で若い坊さんの指導をする住職は
自然、学識だってすぐれた方だから、こうした有力な
塔頭寺院の住職が、選ばれて妙心寺派のトップである
管長になる、ということだってある。


まぁそれはともかく。
何せ本坊の周囲がざわざわとしているので、
落ち着いた場所を求めて、北のほうにどんどん
進んでいった。 途中霊雲院の前で、
「ここが、時代劇なんかで、よく使われるんです。」
という説明をする。お女中が歩いていると松の木の
陰から、怪しい侍が出てきて、お女中を
襲おうとする。ね、そんなシチュエーションの
場所でしょ、とか。(笑) それから、さらに北に。
やがて北総門が見えて、その向こうに衣笠山が
見えてくる。さすがに北門周辺は、静かな感じ。
ただ、これで簡単に妙心寺を抜けてしまうのも、
なんだかなぁ、、っていうことで、そこから東にいって
妙心寺の山内をもう少し散歩しよう、という
ことになる。


その間、yasuくんとは歌舞伎の話にはじまって、
いろいろな話をした。
こないだ、俺がブログで九州はいい。九州はいい、
と力説してしまったもので、彼は来年の2月、
博多座に歌舞伎を観に行く、という話をしてくれた。
今回の博多座は若手の花形歌舞伎。何かとお騒がせの
獅童なんかも出るの。(笑) お騒がせといえば
来年のこんぴら大歌舞伎は成田屋(海老蔵)が
仕切らはるんですよー。 っていう話をしたり、、。

yasuくんは歌舞伎のこともだけど
伝統芸能に詳しいので、こちらも話していて、とても
楽しかったし、こちらのことを一々説明なんてしなくても
さっと分かってくれるので、とても楽だった。
そうして、妙心寺をあちこち歩いて、
再び北総門のところに戻る。
ここで門を出る。目の前の通りが一条通。
そう。これが平安京の一条通。
この一条通を西に向かって歩く。
道は、かすかな傾斜を持ちながら
御室の仁和寺の前へと続いている。

                      (つづく)


(今日聴いた音楽 キースジャレット ケルン・コンサートから
 パート1 1975年1月24日演奏)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

07. 12. 26

妙心寺・御室(Sentimental Journey その1)

まだ残暑が厳しかった9月のころ
姉からめずらしく電話がかかってきた。
「何? 」
「あんたの病気、今、どういう状態やのん?」

と、訊かれたので、毎週の通院の状況、現在の
ところの身体の調子、主治医の治療方針などに
ついて話をした。
俺がそう話した後で、
「あのなぁ、私の知ってる○○さんが、
よかったら、話してあげるけど、って言ってくれて
んねんけど、あんた、その病院のセンセに一度
診てもろて、今、受けてる治療方針でいいのか
どうか、検討したらどうえ? 」

「それ、いっぺん前にやってんねんで。」
「そやけどあんた、それ、最近の話か? 」
「一昨年のこと。」
「ほら、そんなことやろ、ておもたわ。そんなもん、
前に診てもろてから、結構時間が経ってんねんから
また状態も変わってるかもしれへんやないの。
ここいらで、もういっぺん、きちんと診てもろうときよし。」
ということで、その先生に診ていただくことになり、
がんセンターから検査結果のデータ、
所見などを書いた書類をいただいて、紹介をいただいた
京大病院の先生のところに行った。(前に診ていただいた
先生とは別の先生。もっとも前に診ていただいた先生は、
定年退官になっていて、もう病院にはおいでに
ならなかったけど)

12月14日金曜日に診ていただいて、先生のお話を
伺った結果は
今のところは、謙介が、今、がんセンターで主治医から
受けている治療方針とその検査方法・治療方針で
問題ありませんということだった。(まぁ、実際問題
として、今の治療法と、もうひとつの方法か
とりあえずの方法は2つしかないから、実質的にはどっちを
選ぶか、の問題だけなのだけど。)

まぁせっかく上洛したんやし、ということで
今年後半の俺のテーマ、「いろいろな人にお会いして
話をしたい! 」ということで、今回は
前々から、サイトにリンクもさせていただいて
いるし、よく書き込みをしてくださっているyasuくんに
会いたいなぁ、というメールを送っておいた。 前にも
実は京都に行く機会があって、その時にお会い
できませんか、ってメール送ったことがあったのだけど、
その時は、お互いの都合がつかなくて、、残念なことに
会えずじまいに終わっていたのだった。だから今回は
そのリベンジ、でもある。そしてそして、yasuくんからは、
「その日は空いています。」
といううれしいお返事をいただいてお会いすることに。


で、折角の京都のどこで何を見よう、、って思って
思案していると、大学の時、青年心理学の
授業を受けたN先生から
「うちの寺、12月にライトアップするねんで、機会があったら
見においで。」というメールをもらっていたことを
思い出した。 「今年はまだ紅葉が残ってるで。」とも。

N先生の家は、嵐山の常寂光寺というお寺。
ライトアップ中はこんな感じ。(先生にいただいた写真)

Kenshos_temple

このお寺は、紅葉の名所で大抵のガイドブックに
紅葉の名所って出てくるくらい、嵐山・嵯峨野近辺では
有名なお寺。
結構いろいろな人のブログにも、「紅葉を見に常寂光寺に
いきました」って記事が出てたりしてた。
ただね、このお寺は紅葉だけじゃないんだよ。

もうすぐお正月がくるけど、百人一首なんて家でしたりする? 
あのね、その百人一首なんだけどさ、藤原の定家さんが、
いろいろな歌人が詠んだ歌の中から、選び出して
百人一首を編んだ。
その定家さんの山荘跡に、後世、創建されたお寺が
常寂光寺なんだ。
百人一首ってちゃんと言うときは、「小倉百人一首」って
言うんだけど、その小倉っていうのが、
ほら、この常寂光寺のうしろの小倉山から来た名前。
定家さんね、「名月記」っていう日記を56年間延々と
書いててさ、(もちろん国宝指定)
その中に、小倉山の山荘にこもって、百人一首を編集した、
ってちゃんと記述があるから、それは確かなことだと思う。
そんな定家の小倉山の山荘跡が、この常寂光寺。
ちなみにN先生は、俺が学生だったころは、大学の心理学の
先生をしながら、その一方でこの寺の住職もしてた。(今は
大学はもう退官して住職だけになってるけど。)

そのN先生からのメールを思い出して、そや、嵐山や、
って、思い出した。

今年、ちょっといろんな人のブログ見てて
不思議だったことがあったよ。
ゲイの人のあちこちのブログで紅葉見に京都へ
いきました、ってあったんだけど、行った場所が
みんな清水寺と龍安寺っていうの。あれ、
どうしてなんだろう?


清水さんって、そりゃあ、確かに紅葉、あるけど、
京都の東の方面で、っていうんだったらさ、
高野(たかの)の奥の曼珠院とか、詩仙堂とか。 
それから京阪で終点の出町柳までいってそこから
叡山電車に乗って貴船なんかに行けば、
もっときれいで色のグラディエーションのきれいなものが
見られるのに。

貴船で人が多くて、、って言ったって、清水さんほどは
いないし、、。それに人が多くて嫌、っていうのなら、
八瀬に行く途中の叡山電鉄の三宅八幡の駅降りて
すぐの蓮華寺なんか人も少なくて、紅葉、きれいだ、
って思うけど、、。他にいいところいっぱいあったのになぁ、、。

それとさ、龍安寺は、禅寺だからさ、
紅葉を求めて、っていうことで言えば
大して紅葉なんてない。
紅葉より、使用後のコンドームが落ちてたりしてさぁ。


もうこの季節だから、外庭のほうで、
夜、野外で、あはんうふんいいわいいわもっともっと
なんてやってるカップルはいない、って思うけどね。
え? いるんだよ。世界遺産のお寺で、
夜中に仲良しスキンシップしあうカップルが。

俺の友達が、この龍安寺で
夜警のバイトしてたの。 夜警のバイトの主な任務って
夜中にカップルが来て、あはんうふん、、ってさせないように
見回りをする、っていうのが仕事だったんだから。(笑) まったく。
野暮ったらありゃしない。

友達が夜警のバイトをしてたので、龍安寺は
晩に遊びにしょっちゅう行ってた。夜警のバイト生の部屋
っていうのがあってさ、そこで、話をしながら、
おこたに入って、コーヒー飲んだり
みかん食べたり、ケーキ食べたり、、、と、
すっかりのんびりしておりました。
で、そのまったりこたつに入って話をしてた建物自体は
世界遺産だったりするの。(笑) 

だから龍安寺って言われてすぐに思い浮かぶことって言うと、
俺にとっては石庭じゃなくてさ、
夜、ちょうど今頃だったかなぁ、、。
のんびりとおこたに入って友達と夜中まで議論というか
話をしたこと。
龍安寺に紅葉、、って書いてたら、だからちょっと不思議な
気はするの。どうして龍安寺なの? って。


まぁいいや。 それはともかく。
今回、嵐山も回りましょう、っていう話になったんだけど、
実は京都の人間って、あんまりカップルで嵐山に行くのは
好まない。カップルで嵐山に行くと、そのカップルはダメに
なるよ、っていう「伝説」があるから。
って、前に友達に行ったら、「え? 嵐山? ウソやん、
オレ、植物園って聞いてたで。」
「えーー植物園かぁ、、植物園を追加追加。」
そうしたら別の友達が、「豊国廟も言うてたわ。」
「豊国廟って、(秀吉のお墓だよ。)あんなとこ、わざわざデートで行くか?」
と思ったけど
豊国廟も追加追加。(笑)

まぁ、今回のは特段カップル、というわけでもないし、、
よし、としましょう。

それでyasuくんに
「花園駅で待ち合わせて、妙心寺から御室、鳴滝に
抜けて、そこから嵐電に乗って、嵐山まで行って ライトアップした
嵐山を見て、解散、っていうのどうでしょう。」とプランを
送ってみた。すると「それはとてもいいですね。」
と言ってくださったので、花園駅集合が決定。

待ち合わせは午後3時にJR山陰線の花園駅。
あ、そうそう、こないだ○りとてちんの話から「愛宕山」の
話をしたよね。その、愛宕山の写真も撮ってきたよ。
これがそう。

Atagosan

これはJRの花園駅から西へちょっといった花園黒橋の
高架の上から撮ったもの。こないだ日曜の高校駅伝で
ここもコースだったんだよ。
この写真の手前を南に下りていくと
西京極の競技場。北に行くと福王子の交差点で、
高尾・宇多野・御室方面に別れる。

俺がこの近くに住んでたころは、
この高架からだって、それはそれはきれいに愛宕山を望めたものなんだけど
いまや建物がいろいろ建ってしまって、何だか限られた部分しか
見えなくなってしまって、ちょっと寂しい。

右側の紅葉した木の茂っているのが見えるのが、
双が岡(ならびがおか)。この岡の東の山すそに
吉田兼好さんが住んでて、あの徒然草を書いたんだ。
そらから、真ん中の茶色い建物が双が岡病院。
それでその左手奥に見えているのが、愛宕山。   


3時ちょっと前、花園駅に行ってみるとすでに
yasuくんが来てくださっていて、やぁやぁ
とごあいさつ、ということになった。何せ初対面なうえに
謙介は携帯電話は持たない主義なので、
事前に着ていく服は、、って打ち合わせをしておいたので
すぐに発見できた。

それがお会いしての第一印象なんだけど、yasuくんの服、
それはそれはシックで、、。ジャケットは色を抑えて、
その分、ネクタイは、鮮やかで、、その色のセンスが
もうすごく良かった! さすが、いろいろとお芝居を
観ているからだろうか、そういうセンスが自然に練れてて、
はぁ、さすが、だなぁ、って謙介はただただ感心。


それがね、ひとつ計算が違ったことがあってさ。
俺、花園駅で待ち合わせをしたのは、ここの駅だと
改札口がひとつで、おまけに乗降客が少ないから
間違わないだろう、というもくろみだったのに、当日
なんだか知らないけど、
妙心寺で、どこかの会社のえらいさんの
社葬だかがあって、その帰りの人で、駅はごったがえしていた。
(そんなもん、知らへんがな、っていうところですが。)


花園駅から、まずは新丸太町通り沿いに、妙心寺に
行きたかったのだけど、その社葬の人の流れで、
その道は歩きづらそうだったので、裏道を抜けて、妙心寺に行った。
ちょっと長くなりそうなので、今日はいったんこれで措きます。


(今日聴いた音楽 シューベルト歌曲集 冬の旅から 
  菩提樹  歌 ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ
  伴奏 ピアノ演奏 ダニエル・バレンボイム 1979年1月 
ベルリンにおける録音)

| | Comments (4) | TrackBack (0)

07. 12. 07

鉄ちゃんごころを刺激する (西への旅;その3)

実は九州に来て、もうひとつ
楽しみなことがあった。
それはJR九州の鉄道車両を
生で見ること。(笑)
JR九州の車両って、ほかの
JR各社の車両に比べて、
個性的なデザインのものが多いように
思う。
まずはうちの姉が先日鹿児島に行った
時に撮ったものから。
これが九州新幹線のつばめ。(鹿児島中央駅にて)
Tsubame

今は熊本県の新八代から、以前は西鹿児島
という名前だった鹿児島中央駅まで。
博多から新八代までは、つばめリレー号
っていう特急に乗る。今はつばめリレー号
になってるけど、このリレー号が、
九州新幹線ができる前までは、つばめだった。
だから先代のつばめ、だね。

Tsubame3

JRってホント「つばめ」っていう名前、好きだよね。
国鉄時代も「燕」っていう特急あったし、
野球の球団名だって、
今でこそヤクルトスワローズだけど
あそこはかつて国鉄が持ってた、「国鉄スワローズ」が
そもそものはじまりだし、、。だから国鉄の人というか
JRの人の頭の中に、どうしても「つばめ」っていう
愛称を使いたい、っていう欲求が強烈にあったんだ、
って思う。だから延々と使い続けていて
今のつばめが四代目のつばめ。

九州新幹線の今の「つばめ」のロゴは、
何か小学生がお習字でいっしょうけんめい
書きました、っていう感じの文字。

Rogo1


まじめでていねいで、一生懸命書こう、っていう
ひたむきさがよく出てる。
だから字から出てるインパクトが強い。この
インパクト、っていうのがやっぱり書き文字の
強みだね。普通にデザインした文字では
そんな目を惹く、とか印象に残る、っていうことにならないもの。
こんなのもある。
Rogo2


それからこれが車内。
つばめの中のいすの布は京都の西陣織だって。
Tsubame2


それから別の車両のことを。

これが長崎行きの「かもめ」。左は「ゆふいんの森」号(博多駅にて)
Kamome

こんな車両たちを見ていたら、
おもしろい、っていうのか
ちょっと乗ってみたいなぁ、
っていう気がしてくる。
今でこそ、どこの地方に行っても高速バス
が結構頻繁に走ってるけど、
九州って、以前から西鉄を中心とする
バスのダイヤがすごく発達してて、
便数も多かったし、だからすごく便利で
価格的にも安いから利用も多かった。
それを何とかJRのほうにお客さんを
って言うんで、JR九州は個性的な
車両を作って、バスの客を、何とか
鉄道のほうに、、っていうこともあるみたい。

普通電車だってすごくデザインがおもしろい。
ねいちゃんがやっぱり九州で乗った普通の通勤電車がこれ。
Kagoshimatsukin2
黒い面構え。
中だってこんなの。
Kagoshimatsukin1

ちなみに椅子の黒い皮は本物の牛さんの皮だって。(もーもー)
茶色いところは木を使ってる。
ね。 こんな電車、首都圏とか関西圏ではちょっと
お目にかかれないでしょ。(笑)
え? JR九州が個性ありすぎ、って?
そうかもしれない。(笑)

で、行ってみるまで、俺、全然知らなかった
のだけど、門司にJR九州のやってる
鉄道資料館があってさ。あ、ここ行ってみたい
って思った。
でも、行ってみたい、って思ったのはいいけど、
翌日は、再び家に帰らなきゃなんないしさ。
病人だしあまり無理もできないし。
高速艇の時間は10時50分、って決まってるから
それまでの時間が勝負、っていうことで。
資料館の開館時刻が午前9時なので、
7時28分に博多を出発する快速に乗る。これだと
門司港駅到着が8時55分。
門司港に着いて、荷物をコインロッカーに
預けて、すぐに駅近くの資料館に行く。
Shiryoukan1

資料館は何両かの実物車両と、九州を中心とした
鉄道の発達の歴史を説明した資料館の建物、
それからミニチュアの鉄道車両を実際に走らせる
ことのできるコーナーからなっている。
実際に走らせるコーナーは、残念なことに時間切れで
行けなかったのだけど、車両の展示コーナーでは
実物に乗れたのもあったし、なかなかわくわく
するような時間を過ごせた。

九州で走っていたキューロク。
Shiryoukan2

1941年製造の関門トンネル用の電気機関車
Shiryoukan3

寝台電車の月光
Shiryoukan5

外の展示車両を見た後は、資料館へ。資料館自体の建物も
昔の国鉄の赤レンガの倉庫が転用されていて
趣がある感じ。
Shiryoukan


中では、ちょうど「関門航路」の歴史展、っていう
特別展示をやっていた。
で、びっくりしたのは、門司港駅の
関門連絡船乗り場の入り口角に
今も残っているんだけど、
直径5センチ×15センチくらいの小さな窓が
あってさ。ここで、その船に乗ろうとして通過する人、
船を下りて上陸してきた人の監視をしていた、って。
そんなこととか、富士とか
つばめのヘッドマークを見てたら、
Shiryoukan6


あ、もう
船に乗る時間が迫ってきていた。後10分で、船の出港時刻。
やれやれ、、あえなく時間切れ。
もうちょっといたかったなぁ、という気持ちを残しながら
俺は九州を離れたのだった。


これにて九州の旅の話はおしまい。
次からは、After the Game の後編連載を開始します。
迷いに迷っていたハルは、どうなるのでしょうか。
もうしばらくあいつの話につきあってやってください。
よろしくお願いします。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

07. 12. 06

大宰府にて(西への旅;その2)

出張をしなければいけなくなった。
行き先は九州の福岡。


昨年度、ある研究会の当番を俺が担当していた。
その研究会の総会で昨年度の業務報告を
どうしてもしなくては
ならない、ということになった。それで出張。
今年の会場は福岡。

出張、って言ってもなぁ、、。
退院してすぐだし、、主治医は
たぶんあまりいい顔をしないのは
もう分かりきったことだし、、。
俺もどう主治医に切り出したらいいものか、ちょっと迷った。
ええい。ダメならダメで仕方ない、、。
「先生、実は、今度福岡に出張しなくては
いけなくなったのですが、、」と診察の後、
言ってみた。
「あまりうろうろしないように。手洗いはよくしてくださいね。」
と散々注意とご指導を受けたのだけど、、。
「行ってもいいですか?」
「まぁ仕方ないねぇ。」
ということで、(笑) 俺の福岡行きが決まった。


門司に上陸して博多に。会場まで博多駅から
歩いていく。
定刻になって、会議がはじまる。俺が
昨年度の報告と、継続だった問題の
経過報告と、その他を説明して俺の責任は終了。

飛行機で日帰りでもよかったのだけど、
折角来たんだし、、ということで、
謙介のブログのリンク先の”ヒシ型バブル”の
ヒシくんと待ち合わせて大宰府に。

ヒシくんは、福岡には住んでいないのだけど
俺が福岡まで来る、と言ったら、わざわざ会いに
来てくれた。うれしいやら、ありがたいやら。感謝。

お昼を駅前で食べた後
地下鉄で天神に出て、西鉄に乗り換えて
ニ日市。ここでさらに乗換えで大宰府へ。
途中天神からニ日市までは西鉄の特急に乗る。
特急の車両は古いほうの黄色い電車。
俺たちがホームで待ってたら、後ろの女子高生が
「黄色い電車よ。」と誰かに言ってた。

やがて出発時刻になって走り出したこの特急電車が
飛ばすこと飛ばすこと。もうヤケクソみたいに
飛ばす。
ものすごいスピードで、電車がばらけてしまうのでは
ないかしらん、とふと思ったり。(笑) つり革にぶら下がって
いたのだけど、それでも身体が支えきれなくて
転びそうになったことが何度か。

途中でヒシくんといろいろな話をした。
二人とも書道をしているので、字とか紙、墨の話とか
記事にある農業の話とか。いろいろと話ができて
楽しかった。そんな話をしているうちに電車は
西鉄大宰府駅のホームに到着。
門前町のいろいろなお店の前をさらに話をしながら、
太宰府天満宮へ。
あたりからは梅が枝餅の香ばしい香りがする。
(でもここでは食べない。笑)


過去と現在と未来をあらわしているという三つの赤い橋を渡り、
門をくぐって天神さまの境内に。
天神さまの境内でやたら聞こえてくるのは韓国語。


もうねぇ福岡なんて、釜山からあっという間だから、、。
韓国の高校生が修学旅行でたくさん来ていた。
拝殿の向かって右にある飛梅の木はもう葉がすべて落ちて
枝だけになっていた。


西に流された菅原道真を慕って一夜のうちに
京都からこの大宰府に飛んできた、という伝説を持つ
飛梅の木。
今でもこの飛梅の木が、大宰府の梅の木の中で春になって
一番最初に花をつけるのだと聞いた。 


さらにその飛梅の後ろにある門を抜けて
梅園に行こうとして俺は息をのんだ。
あざやかな紅葉が俺の目に飛び込んできたのだ。


Dazaihu

そこから少し歩いて、お石の茶屋まで行く。
お石さんというしっかりしてて、なかなか美人だった
女性が、天神さまの裏の梅園で梅が枝餅を商う茶店を
はじめたのが、そもそもの始まりだとか。


店の開いているのを見て
後で梅が枝餅を食べにきましょう、と言って、
もう一度境内に戻る。

そこから今度は新しく出来た、九州国立博物館に行く。
大宰府天満宮に来た客を集客しようと、天満宮の
境内のはずれから、エスカレーターと
動く歩道を乗り継いで、博物館の入り口に到達できる
ようになっている。
なにやら横から見た第一印象は、
巨大なう、、、みたいだなぁ、と。

Kyukokuhaku2

一階で入場券を買い、3階の常設展示場へ。


館内は順路は一切なくて、
好きなところから見て欲しい、ということだ。
場所柄、大陸・朝鮮半島と、日本の交渉史が
メインテーマ。
日本書紀・上代の歴史は謙介の専門なので、
ついつい熱く語ってしまう。ヒシくんは、そんな
話を、きちんと聞いてくれる。
展示品は、本物も多かったのだけど
レプリカも結構あって、、、まぁ仕方ないのはないんだけど、、(笑)
さすがに新しい博物館なので、ビジュアルとか音によっても
展示テーマを理解させようとする意識が結構働いていた。
実際に展示物に触ることのできるコーナーもあって
それはそれで面白かった。


ここでも聞こえてくるのは圧倒的に韓国語。
「あの仏像かわいい。」とか
「ホラ、もう集合時刻だ。」
とか「晩は何時にホテル入りするんだ? 」とか。
日本人の見学客も結構多いとは思うのだけど、
日本語はあまり聞こえてこなくて、声高に聞こえてくるのは
韓国語が多かった。館内には、日本語で「他のお客様の
ご迷惑にならないように大きな声でお話になるのは
おやめください。」って書いてあったけど、あんなの、
ハングルでも書かなきゃね、って思った。


建物は鉄骨を基礎に木をいたるところに使った建物。
ちょっと構造が関空のターミナルビルに似た感じがした。
Kyukokuhaku1

エスカレーターで下りながら
ヒシくんが、「何かまだ建設途上のような建物ですよね。」
と感想を言う。
「ねぇ。こんな足場みたいな鉄骨むき出しだったら、
そう思うよね。」 
しかし、こんなガラス張り、誰が汚くなった
ガラスを洗うの? とか。(笑)
後は一階のミュージアムショップをちょっと眺めて、
博物館を出る。

これで謙介は日本に4つある国立博物館
(東京・京都・奈良・大宰府)
を全部見学できた。
他の3つ(東京・京都・奈良)
は元々が宮内省管轄の帝室博物館
だったから、ちょっと雰囲気的にお高くとまってる、
っていうのか、威圧感もあったりするのだけど、
さすがに九州の国博は、最近できたのと、
場所が九州っていうこともあるせいか、
その辺はすごく親しみやすい感じがした。
館内を巡回してる館員の人もニコッと笑って
こんにちは、なんてあいさつしてくれるし。
(京都や奈良の国博で、係りの人がニコニコして
こんにちはなんてあいさつしてくれるなんて
一度もなかったし、そんなこと考えもつかない。)


博物館の見学も終わり
そろそろ小腹がすいてきたので、
もう一度天満宮に戻り、境内を抜けて
「お石の茶屋」へ。
梅が枝餅を頼むとお茶と焼きたての
お餅を程なくして持ってきてくれる。

Oishichaya1

前にもサイトで書いたのだけど、
このお石の茶屋は、さだまさしの「飛梅」
という曲の中にも登場する。
この歌の中では、主人公のカップルは、
「僕がひとつ、君が半分」梅が枝餅を
食べることになっているのだけど、
本日の二人は、おいしいおいしい、と言って
パクパクとふたつお餅を食べてしまったぞ。

お石の茶屋から出て、再び天神さまの境内を突っ切って、
門の外に出た。
そろそろ日が翳りはじめた参道をさっきとは逆にたどって
西鉄の大宰府駅へ。

ヒシくんと話していて、言葉の話題になった。
ヒシくんは、「九州の人の話って、喧嘩してる
みたいに聞こえるでしょ。」と言った。
言葉のアクセントが結構大きいから、
そういうふうに聞こえないこともないけど、、、

九州の人は会話の中によく「ですね。」
という言葉を遣う。
その理由はすごく哀しい理由だ。

昔、学校で方言は一切遣っちゃいけない、
っていう教育がされていた時期があって、
方言を使うのが禁止されたりしたことがあった。
特に九州は、そういう学校教育の中から
方言を徹底的に排除しようとした。

だけど、つい方言が出てしまう。
そんな出てしまう方言をカモフラージュするために
「ですね。」っていう言葉が遣われた。
「ですね。」ってさえ言っていれば、とりあえず
方言でなはい、と。 今もその名残があって
九州の人が、インタビューなんかされたら
中にこの「ですね。」が頻繁に聞こえてくる。
「ですね。」ってそんな哀しい過去を持って
いる言葉なんだ。


でも九州に来ると、俺は気持ちがホッとする。
俺が出会ってきた九州出身の人はみんな、
たまたま、俺の周囲の、という特別だったの
かもしれないけれど、

小さなことにこだわらない。
確かに話し方とか動作には
ぶっきらぼうなところもあるけど、
心を開いてくれて、相手のことをすごく親身に
考えてくれている。え? そんなところまで
考えてくれるの? なんてびっくりするくらい
本当に心の許容範囲が広いなぁ、って思う。

そんな心の結びつきがしっかりあるから、博多どんたくとか
長崎のおくんちみたいな地域の祭りが
今もしっかりと根付いているんだろうね。

再び博多に戻って、ちょっとお茶をして
ヒシくんとお別れする時間がきてしまった。
ああ、なんて気持ちのいい時間はさっさと経って
しまうのだろう。最後に握手をして
博多駅で二人は別れたのだった。


ヒシくん、どうもありがとう。

(今日聴いた音楽 さだまさし 飛梅)

| | Comments (4) | TrackBack (1)

07. 12. 05

海峡の街で (西への旅;その1)

Kanmon


写真は門司港から見た海峡の風景。
対岸は山口県の下関市。
下関の「関」と門司の「門」の
一字ずつを取って、関門海峡。
写っている橋は関門橋。


別の言い方をするなら、
ここは源平の合戦の行われた壇ノ浦。
そう、この場所で源氏と平家は戦って、
安徳天皇以下、平家の人びとは
海の底へ消えた。


それから、この写真には写ってはいないけれど
もうちょっと左に眼を向けると平べったい島が見える。
ここが巌流島。
あの宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った島。 
巌流島と壇ノ浦って、実はすぐ近く。

どうしても出なくてはいけない会議があって、
福岡に出張することになった。
俺は迷わず高速艇で九州に渡ることにした。

Seamax


高速艇だと、九州上陸は門司港。
乗っていた高速艇が門司の港に接岸して、
桟橋に降り立って、俺はしばらく風に吹かれて
この海をじっと眺めていた。

俺の母方の祖父は船乗りだった。
この対岸の下関と釜山を結んでいた
国鉄の関釜連絡船の一等航海士だった。
だから、この海は、俺の中では、
じいちゃんの仕事場の海。
祖父は、まだ働き盛りのときに、
米軍機の空襲を受けて船と運命をともにした。
だからじいちゃんは俺が生まれるはるか前になくなり
じいちゃんのことはほとんど知らずに育った。

だけど、
そのじいちゃんの血は、俺という人間につながっていて
そのじいちゃんの孫は、今、こうしてじいちゃんがかつて暮らした
下関の対岸の街に立っている。
じいちゃんがいなかったら、当然、今の俺、という存在も
ない。 じいちゃんと俺をつなぐ記憶の糸こそ細いけれど、
命の糸は、こうして確実に俺へとつながっている。


下関の街はすっかり変わってしまって
かつてじいちゃんが生活していたころの面影は
いまやほとんど残っていないだろう。
でも、人や街並みは変わったとしても、背後の山の風景は
おそらくあのころのまま、だろうと思う。
それから、門司の街。
ここは昭和のはじめの街並みがそこかしこに
残っている。おそらくじいちゃんが眺めたんじゃないかな、
と思う建物もまだたくさんある。


Jrkyushu

1920年代のアメリカの建築様式の影響が残る
上の写真のビルは、元は○井物産の門司支店として
建てられたものだとか。できた時は関門で一番の
高層建築だった、とのこと。
大陸への玄関口、九州の玄関として
この地にこんな大きなビルを建てた、という
意志がはっきり伺えるような気がする。
戦後財閥解体でこのビルは、国鉄が買い取って
つい先年まで、JR九州のビルとして使われて
いたらしい。

Osakashosen

赤レンガの旧大阪商船門司支店の建物


Nttmoji

門司電信電話局の建物。この建築は大正時代の末だそう。


Mojicastum

門司税関

こんな建物がまだできてピカピカのころ、
じいちゃんは、見たかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は予定の電車が
来るまでのしばらくの間、
この街を、少し歩いてみた。
そんなふうに思うと、自分の中でなかなか
像を結ぶことができないじいちゃんのことも
なんとなく少し、分かったような気がするから
不思議だ。(笑)

俺はこの街へ来たかったのだ。
そしてこの海峡を見てみたかったのだ。


じっと海を眺めていると、
潮風に乗ってかもめが一羽
対岸の下関へ渡っていった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

07. 11. 23

愛宕山

昨日、今日と、高知に住んでいる友達カップルが
元気? と言いながら遊びにきてくれた。
こうやって、話に来てくれるのは、なかなか遠くまで
行けない自分には、すごくうれしいことだ。

二人も温泉に入りたい、ということなので、夕べは
近所の最近リニューアルした温泉に行った。
その後、お風呂上りにはお飲み物、ということで
ドライブスルーのスターバックスに行った。
遅い時間だったのに、それも田舎のスタバなのに
結構な人がいて、驚いた。

今日は、遅く起きて(そのためゴミ出しに遅れて
しまった。笑) 食事をしてもらってから、
ジャングル風呂に行ってきた。
今日は本当にまぁびっくりするような快晴で、
気持ちのいい一日だった。
こんな日には、ホントどこかにふらっと旅に出たいと思う。
ジャングル風呂は、大きな温室の中の
あちこちに浴槽がある、という感じで
あれこれ、いろいろなお風呂に入って
結構楽しかった。

今日はお休みなのと、実は、アップしようとして愛宕山の話を
書いていたんだけど、あまり遅くなると、時期を逸して
しまいそうなので、今日は、小説はお休みにして
愛宕山の話をします。小説、楽しみにして
きてくださった方は、ごめんね、ということで何卒ご容赦。


入院してたとき、毎朝8時15分からやってる
○HKの連続ドラマ「○りとてちん」を見ていた。
見ていた、というか、ちょうど朝ごはんが終わって
食器を配膳室に返しに行った時に、配膳室の前にある
テレビに○りとてちんが映っている時間だったこともあるし。

実はこのドラマには、俺の父方のおっちゃんも
出演していているので、ちょっと注目はしてたんだ。
と言っても平生はこんな8時15分なんて、もう勤務中だし、
いつもは見られなくて、オヤジが録画してるのを
週末まとめて実家で見る、ということだったけど。


先週の土曜日だったか、見ていたら、劇中で『愛宕山』の
噺をやっていた。


愛宕山は、右京区の常盤に住んでいた俺にとってはもう
なくてはならない山。朝起きて、窓を開けると正面に
愛宕山が見えた。
愛宕山は京都でいちばん標高が高い山。
標高は924メートルもある。


俺がはじめて落語の愛宕山を聞いたのは、
米朝さんのものだった。もう20年位前の独演会で。

この噺っていうのは、大坂のミナミで仕事をしくじった
一八と茂八(いっぱち・しげはち)の二人の太鼓持ちが京都に来る。
京都は祇園町で太鼓持ちをはじめる。

その時に、ある大店の旦那が春になったから
気候もいい、っていうので、「野駆け」をしよう、という
ことになって、祇園から愛宕山をのぼって、途中
起こるさまざまなことを面白おかしく噺に仕上げた、
というもの。
野駆けというのは、そうだなぁ,,,,,,今で言えばハイキング
っていうところかな。

最初愛宕山を知らない二人は、「そんな山なんか
けんけんでのぼりますわ」なんて言ってたんだけど、、。
旦那がかわらけ投げの代わりに
大判小判を愛宕山の谷にばら撒いた
のを太鼓持ちの一八が傘をパラシュート代わりにして
谷に下りていったり、今度登るときは、そこに生えている
嵯峨竹をしならせた反動で、びよおおおんと上がってくる
とかいう、ちょっとシュールな部分もある噺。


すごくスケールの大きな表現力が要求されるし、
途中で音曲が何箇所か入るので下座の
お囃子の人との連携も要求される。愛宕山って
なかなか難しい噺だ
というのは後になって知った。


京都の地理が分かってる人間なら、祇園から愛宕山へのぼった
なんて聞いただけでこの噺なんて実際には「あり得へん」って
すぐに言うと思う。
だってさ、祇園から愛宕さんのふもとまで、すでに9キロ
くらいあってさ。そこから芸妓衆がよ、標高924メートルの山に
登る、っていうの。


俺ね、京都に住んでたときに、祇園の八坂神社の下の
祇園会館でオールナイトの映画を見て、早朝に祇園から
常盤の家まで歩いて帰ったことがあったけどさ。あのころは
まだ10代とか20代の前半で、体力だってそれなりに
あったけど、やっぱり歩いて帰るのは、ちょっとしんどかった。
祇園からだと常盤までは6キロか、それ以上あったものね。
だけど、愛宕山なんて、常盤からまださらに西へ4キロ
くらい行くんだよ。そこが山のふもとだからね。
そこから924メートルの登山っていうことになる。だから
まぁ実際には、あり得へん話、っていうことだろうって思うけど。

まぁそんな事実を落語に要求しても仕方がないしね。
おもしろおかしうに話ができてたら、それでいいわけだし、、。(笑)


オヤジに聞くと、戦前は嵐電の(京福電車)嵐山の駅から、
愛宕山のふもとまで、電車が走ってて、そこから愛宕山に
のぼっていくケーブルカーもあった、とのこと。
太平洋戦争の時に、無駄な路線、っていうことで廃止に
なったんだそうな。

ちょうど化野の念仏寺の辺りを走ってた、という話を聞いたことが
ある。

岡山から新幹線に乗るとね、大阪と京都の境の大山崎を
超えると電車は北を目指して走る。長岡京、向日町、
を超えて、桂の辺りで電車は緩やかに右にカーブして
桂川の鉄橋をわたる。 このとき北の窓に愛宕山が
見えてくる。
愛宕山を見ると、あ、京都に戻ってきた、って
胸がわくわくしてくる。右京区民だった俺にとっては
比叡山よりも家の窓をあけて毎日眺めていた
愛宕山が何といってもやっぱり愛着が深い。


ちょうど今頃になると、京都市内では、時雨が
起こり始めたりする。それまで天気はうららかに晴れて
いたのに、京都の背景をなす山々の稜線が白くかすんで
くると、さっきまで晴れていた空が急に白くなって。
山の辺りが白かったのが、さあっと平野部にまで
その白いかたまりが吹き渡ってくる。 それは冬のまだ
早い時期では、細かな雨粒だったりするのだけど、
冬が深まってくると、それはみぞれだったり、もっと寒くなると
雪に変わる。

下京の京都駅辺りでは雨だったものが
北大路では霙になって、洛北の八瀬あたりでは雪になる。

そんなお天気の変化を右京区民にまっさきに教えてくれるのが、
この愛宕山。愛宕山に雲がかかってくるとやがて雨が降ってくる。
愛宕山を見て、少し先のお天気の状態を知る、というのが
冬の右京区民の習慣だったりする。


京都の人にとって愛宕山っていうと、台所に貼る
火伏せのお守りがすぐに思い浮かぶんじゃないかな。
おくどさん(かまど)の前にはもう愛宕さんのお守り。
これは京都の人には切っても切り離せないようなものでしょう。

愛宕山には愛宕神社っていうのがあって、ここのお祭りが
なんとまぁ暑いさなかの7月31日晩から8月1日の朝に
お参りすると千日分のご利益がある、っていうんで
この時におまいりする人が多い。バスも終夜運行する
みたいだし、、。

その暑い中にこの愛宕さんにおまいりして火伏せのお札を
いただいてくる。苦行の末にいただくので、なんだかご利益も
倍増(笑)のような気がする。(笑)

Atagofu_2


謙介の場合は、学校の愛宕山登山。 
冬になったら、体力をつける、っていうので愛宕山登山、っていうのが
必ずあってさ。まぁだけど文化系だった俺たちは冬場だけだったけど、
運動部の連中は、もう週末のたびごとに
トレーニングでひいひいいいながら、この愛宕山に登ってた。
だって、924メートルもあるんだもん。なかなかハードだよ。
「けんけん」でなんかとても上がれませんわ。(笑)

落語の『愛宕山』を聞きながら、
そういえば、とあの頃のことを懐かしく思い出した謙介なのでした。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧