つぶやき

12. 10. 12

EOSのCM(その2)

いおすのCM、いつ撮りにきたんですか?
って、島の連合自治会長さんに聞いたら
「今年の春よ。 4月の28んちだったわ。」
とのこと。

そうだよね。
あのCMの海の色、どうみても春の海の色だもの。

島に行くなら、春から夏だと思う。
夏もやはり海風が吹くから、
そんなに暑くて暑くて、ということもないし、、。


島のハードな季節は?
そりゃ、12月から2月だ。
北風がまともに吹くし、
遮るものが何もなくて、島に吹きつけるし。
本当に島の冬は生きていくのが辛くなる。

以下は謙介が撮った島の写真。

郷土唱歌  
Organ1

@たまひめさん
Tamahime2

俺が住んでいたころは、それでもまだ
温室で花の栽培をしている人がいて、
その花を都会に出荷して生計を立てたり
蛸を韓国から輸入して島の生簀に一時置いておいて
大阪の蛸の価格動向を見て、出荷するような
ことをやってた人もいたけれども、
今ではもうそんなことをする人はいなくなった、と
聞いた。
人口もあの頃は300人いたけれども、
今、どれくらいになったのだろう、、。
来年はまた瀬戸内国際芸術祭があるので
島に人がわんさか来ると思う。

夏も過ぎて、運動会も終わって
これから島は静かな季節。


@崎中のバアの家
Shima6

@灯台道
Toudaimichi2


@灯台の下の浜
Toudai4

@池 
Pond


              ×           ×


あさがおその後ですが
なんとアゲハチョウの幼虫に葉っぱをずいぶん食べられて
しまったのです。 これが9月の半ば
Asagao


これが今。
10gatu

8日のお休みに朝顔、片づけようか、って言ったら
まだ暑いからもうちょっと、と言われました。
でもまぁもう10月も中旬だし、、。
乾燥した種を採ったら。
たぶん、13日ごろには朝顔も片づける予定。
朝顔さん、どうもありがとう。


       ×       ×

ムラカミさんのノーベル賞については
賞とるの、難しいんじゃないかなぁ、、。

ここで謙介、もうすでに何度も言ってきたことなので
後出しじゃんけんにはならないと思って言うのですが。

ムラカミさん、お話の中で
人間の「動き」というのものは書いているんです。
誰がこう動いた、この人がああ動いた、
って。でも、それだけしかない。

そのとき登場人物がこんなふうに動いた、ということは
こういう感情を内蔵していたからこんなふうに動いたんだ、
ということが、読者に暗示的に伝われば、
それは小説上の表現として成り立つのですが、
それがムラカミさんの小説って
そういうのはあんまりなくて
作品の中では人の動きが描かれているだけ。


内面の心理描写とか、人物と人物の
感情のぶつかりあいとか、
葛藤とか、そういう人間の内面がどろどろと
出ているような小説ではない。

日本の若い子って、人間と人間のべたべたした
付き合い、って嫌いでしょう?

身体と身体だって、距離感を取らないといけない、って
考えてたり、そうしている部分があります。
ところがアジアのほかの国に行ったら、みんな
息がかかるくらいまで近づいて話をしたり
するのが普通ですが、日本だとそこまで近づくと
嫌がられるでしょ?

心理的にもちょっと距離をおいたおつきあいが
したい、と平静は思っている。
でも、そんなふうに思っているのに
もっと近くにいて欲しいとか、どうしてみんな遠いのか
なんて思っている人もいて、、。
だから日本人って、そういうふうな
他人と自分の間の距離の置き方、取り方で悩んでいる
人が結構多いんじゃないかなぁ。

そういうふうな日本人の、人と人との距離感で
いつも悩んでいる、というような感性に
ムラカミさんはすごく適合してるのだと思う。

ムラカミさんの登場人物、って
みんな一定の距離というのか何か皮膜の
ようなものに覆われていて、じかに触れない、
触れられないようにしてる。
ということで微妙な距離感が登場人物間にある。
むやみに近づけない。近づこうとすると
そういう接近からすぅっと逃れていくような
距離のとり方を登場人物同士がする。

そういう距離の取り方をしているのが
若い人にとって、魅力に映るんだろうな、
だからムラカミさんの
小説好き、っていう若い子が多いんじゃないか
って謙介は推測してるんだけど。


でもこういう小説で評価されるのって
たえず人と人の距離感で悩んでいる日本と
アメリカとヨーロッパの一部だけなんですよ。

ノーベル賞を受賞するような作品っていうのは、
内面の汚さがあっても、欠点がたくさんあっても
文章の力でぐいぐい押して押して押して、
押しまくって、そんな欠点とか汚さすらきっちりと
昇華してしまったような力を持った、
言ったら読者をねじ伏せる力を持った
小説じゃないと受賞にはつながらないでしょう。

でも、ムラカミさんの小説、そういうのとは
まるで違った作品傾向だから、
賞を、ということでは、ちょっと難しいのではないかなぁ、、
というのが謙介の意見です。


ムラカミさんの小説についてはそういうふうに謙介は
ずーっと前々から言ってるし、そういうことだと思っています。

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12. 10. 03

EOSのCM

キャノ○のいおすのCM見ていて、あ、と思った。


開始6秒後に映る島が、俺が3年間住んだ島。

1

本当にひどい上司で、嫌な思い出ばっかりだったし、
自然も過酷だったけれど、
あれまぁ。きれいに映っちゃって、、。
CMを見ていて、ちょっと複雑な感情。

別のバージョンの映像見てたら、
なんと自分が3年間仕事をしてた部屋が映っていて、、


見てたら部屋の中、俺が仕事してた
ウン十年前と全然変わってなくて、、。


そうして、

いろいろな記憶が映像と共に思い出されてきて
さらにさらに複雑な心境になってしまいました、とさ。

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10. 03. 31

花に嵐のたとえもあるぞ

謙介です。

しばらくお休みします、とご報告して以来、
さまざまな方からメールや書き込みで
こんなにたくさんの励ましをいただいたこと、
本当にありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。

俺が就職した時に目指したことは、
「余人にかえられない仕事をする人間になろう。」
ということでした。
誰でも他の人に代わりができる仕事ではなくて、
謙介でなければ、と言われる仕事をしたい、と思って
今までやってきました。

ちょうど今、年度末で、ひとつに自分の仕事のまとめを
抱えてふうふう言っていたのですが、
同時進行でよそのセクションから仕事の依頼がきたわけです。
「ソウルから来たこの書類、大至急で日本語に訳してくれる? 」
というので、書類が5通。
「申し訳ないんだけどさ、この文書、北京語に直してくれない? 
来週中に台北に送りたいの。」
というので書類が3通。
「明日までに、この賞状10枚書いてくれる? 」
というふうに他からのご依頼が、どーっと来てしまいまして。

うちの仕事場ではこういう仕事、
他の人が代わってできない仕事ばかりで、ですから
それはそれで、自分の目指す方向になっていて
いい、ということなのですが、、、。

でもまぁ大体がですよ、1デシリットルしか
入らない容積のコップに、いきなり18リットルくらいの量が
ドーンと来てしまったわけです。
それで、やってもやっても仕事が横から入ってきて、
片付かない状態になってしまいました。
それが仕事場の状況で、
さらに自分の家では、親戚の家に用事があって
どうしても行かなくてはならない、ということがありまして。
↓なところに急に日帰りで行ったり、ということもあったわけです。

Shichijyo

(どこだかおわかりになりますか? )

行ったら、行ったでどうせですから、ついでにあちこち寄りたいし、、。
というわけで、要するに身体のことをすっかり横に措いて
しなくてはいけないこと、自分のしたいこと、を優先してしまった結果、
まぁ、当然と言えば当然なのですが、
ばったり倒れてしまう、ということに立ち至ってしまったのでした。

先週の水曜日、診察日だったのですが、行ったら、
さすがに主治医からも「こらあかん。」と言われ、一晩、病院に
留め置かれて帰ってきたようなことでした。
もうちょっと自分の身体の自覚を持ってね、と
こんこんとお説教をされました。(一行反省)

おかげさまで先週ばったり倒れてから、お休みももらったり
一番忙しい仕事の山も片付いたので、
ようやく俺のほうも、何とか立ち直りつつある、と
いう状況です。

自覚しなさいね、と言われた謙介ですが、4月は4月で、
個人的に用事があったり、またなにやら仕事が重なってきそうです。
でも、今回のこともあるので、もうちょっと自分なりに
仕事のこと、身体のこと、見直していきたい、と切に
思っています。
またすこしずつ更新していきたいと思います。


今日は3月31日。
学校や職場で年度末の一区切りを迎えた
という人もおいでかもしれませんね。
うちの仕事場でも今日で何人かの人が退職されました。
去年、今年と、特に仕事場で仲の良かった人が
退職してしまって、(予想はしていたものの)
心に大きな空洞ができてしまったみたいで、
しばらくの間は、このままの気持ちを抱えていかなければならないのかな、
とため息ながらに思っているところです。

謙介にとってのこの時期は、そんなふうに「ひとつの区切り」と
いうことで、ついつい時間の流れとか、今までのことを振り返ったり
思い出したりしてしまいます。
みなさんの春はいかがでしょう?

季節は移り、カレンダーはまた1枚、新しくなりますが、
このブログはここでもうちょっと続いていくと思います。 たぶん。

うちのこのブログによくお話を書き込んでくださる
b-minorさんにお会いしたとき、彼が

「ほら、よくいるじゃないですか。それまで書いていた
ブログを止めては、どこかに移転したけど、すぐに飽きてやめて、
また他所に行って、新しくはじめては、またすぐ飽きて止める、
そうしておいてまた別な場所ではじめる、そういう中途半端な
やり方って自分は大嫌いです。」
とお話くださったのを覚えています。
「そんなのだったら、しばらく休んで、その場所でまた再開したら
いいじゃないですか。あちこちに移動して書いては途中でやめ、
書いてはやめを繰り返す、そんな中途半端なやりかたをする人間なんて、
僕は信用できないです。」と、強い力を
こめてお話されたことを思い出します。

俺の朝鮮語の先生も「嫌になって休むときって
あると思う。けど、大切なことは、休みながらでも
息長く続けること。」 とおっしゃいました。
(まぁこれは語学の勉強について、でしたけど。)


今日のタイトルは、改めて言うまでもありませんよね。
中国晩唐時期の詩人、 于武陵の『勧酒』という
五言絶句の詩から、です。


勘酒     (酒を勧む)


勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵<きんくつし>)
満酌不須辞 (満酌辞するを須<もち>いず)
花發多風雨 (花發<ひら>けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)

この詩を井伏鱒二がこう訳しました。


この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ


「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ。」
まったくもってその通りだと思います。
先のことなんてどうなるか分かりません。
けれども、今、こうして自分はここに居て、
目の前には友達がいます。
その事実は確かなものです。
ひととき、同じ時間を共有しあった、という現実は
確かにここに在ります。

中国にいたとき、いつも思ったのが「今」ということでした。
日本では「将来」、とか「先々のこと」を考えさせられるのですが
中国は徹底的に「今」でした。
今、こうして会っているじゃないか。
この今の時間を楽しもうではないか。
中国の人の考えは徹底的にそうでした。


うちのブログは、進歩とか前進、というような
ことはあんまり(というのかほとんど)
ありませんけれども、(笑)
それでも自分が生きた記録として、
俺はこの場所で棒を折らずに「今」を重ねていきたい、
と思っています。

ご心配いただいたこと、励ましてくださったこと、
本当に自分にとって大切な宝物だと思っています。
どうもありがとうございます。
心からの感謝の気持ちをこめて
今後ともよろしくお願いいたします。

    


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10. 03. 09

ペイパー・ムーン

今日の昼食は、今月末で退職する人の
お別れ食事会をした。
その人は、こんな変わり者の謙介を珍重してくださって
本当にいろいろなところで
配慮をいただくことも多かったし、折りにふれては
あたたかい言葉をかけてもらったりしていて、
感謝の気持ちをどれほど言ってもいい足りない気がする。

その人は3月31日付けで退職する。
俺同様、この街には仕事をするために来ていた人だったので
「故郷に帰るのですか? 」と聞いたら
「いや、田舎には戻らない。」ということだった。
何でも4月に入っても最初の10日ほど、
こちらの街でいろいろと手続きが残っていて
それを片付けた後、来月の半ばにこの街を出て
神戸の灘に引っ越すのだ、と伺った。

日本の異動の季節も大分分散化の傾向にある、とは
言っても、まだお役所や大部分の学校は
3月が年度の終わりで、4月新年度開始
っていうところが多い。
だからやっぱりまだまだこの時期、卒業とか入学、入社、
それから転勤とか、長かった仕事一筋の生活に区切りを
つけて、、、
という理由で引越しをする、という人も結構多いのだろう。

それから、大きな引越しはないにしろ
仕事場の中でセクションが変ったとか
同じ市内の中で別の支店に配属された、とかで
やはり新しいセクションに遷る、ということも
あるかもしれない。

3月はやっぱりそういう今まで親しんできた人が
いなくなる、というので、ものを想う季節に
なってしまう。
俺は去年、今年と、2年連続で親しかった人が
仕事場からいなくなっていくことになるので
それがやはりちょっと辛い。

今日は大橋純子さんのペィパームーンを聴いた。
この歌の主人公たちは「つきあっていたカップルが別れる。」
という歌なのだけど。歌詞の中に

「生きていようね 駄洒落のように
いつか涙流して 笑う日も来る
淋しくて 眠れぬ夜は
ペイパー・ムーンで
たまに逢えればいいじゃない」


というところがあって、この部分の歌詞が
ものすごく好きなのだ。
生きていたら、これからも大きな波が
次から次へと押し寄せてきて
息つくヒマもない、という生活。
文字通りの「修羅の巷」。
そんな中でも、またいつかお互い何とか生きていて
かつての友達にまた会えたらいいな、
そんなふうに思う。


「別れ」というどうしようもない現実があって
ちょっと寂しくなるこの時期なのだけど、
このからっとしたアップテンポの歌を聴いて
少しはその悲しさを紛らわせたい。


   もっと酔わせてね あなたの胸で
   生きる辛さをね 忘れさせてね
   ペイパー・ムーンは裏街のパブ
   ペイパー・ムーンは別れ話に
   お似合いね

   心配しないで 私なら
   明日の行方も ヒラヒラ
   紙切れのような 青春だわ


   ついてないのよね あなたと私
   星のめぐりがね 合わなかったの
   でもいつか やるせない日に
   ペイパー・ムーンで
   たまに逢えれば いいじゃない

   ペイパー・ムーンは裏街のパブ
   ペイパー・ムーンは淋しがりやの 吹きだまり


   いつわりだらけの都会でも
   もしも愛が真実なら
   銀紙の月も輝くはず


   生きていようね 駄洒落のように
   いつか涙流して 笑う日も来る
   淋しくて 眠れぬ夜は
   ペイパー・ムーンで
   たまに逢えればいいじゃない


この曲をはじめて聴いてから、30年くらい経った
けれども、こうして歌詞を書きとめてみても
やっぱりかっこいい曲だなぁ、って改めて思う。


お別れの季節。
それまで毎日のように会っていた友達や同僚とも
もう会えなくなりはする。

「随処為主、立処皆真」

こんなところで禅の『臨済録』を出してくるのは
ちょっと場違いかなぁとも思うけど、
どこに行っても、また移っていった場所で、
その人らしさを失わずに、しなやかに生きていって欲しいと
心から願う。

会えなくなっても、俺はあなたのことを
折にふれてちゃんと思い出すからさ。(笑)

いつかまた、とは言うけれど、
俺なんか、病気があるから
先の予定として、「じゃあ、この日にまた会いましょう。」
なんて決めにくいし、
果たして、この次、ったって、、
どうなるか、正直なところは分からない。

それだけじゃない。誰にだって
予想もしなかったことが、急に目の前で起こったり、
本当に生きづらいことだって、もう本当にあり過ぎるくらいあって、
そんな山なす問題の前で、ためいきをついて立ちつくす
しかない今の世の中だ。

でも--------
そう、それでも。
またいつか、最後に別れた時のままの気安さで、
どこかで会えたらいいなぁ。

いつかまた。
その時までお互い、がんばって生きていこうね。

毎年この時期、この曲を聴いては、
そんなふうに思うのだ。

(今日聴いた曲 ペイパー・ムーン 歌大橋純子)

  

 

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10. 02. 25

孤独

毎年俺の属している仕事場では研究報告書を発行しているのだけど、

ここずっと俺が編集担当になっていて、印刷所から来る
校正原稿を各執筆者に渡したり、執筆者と原稿の
打ち合わせをしたり、という用事がこの時期は増える。

今年はその執筆者の中に韓国の人が入っている。
彼は非常勤でうちの仕事場に関わっている人。
普段は韓国の大田(テジョン)に住んでいて、
年に何度か、こちらに来る。

印刷所からあがってきた校正原稿は
うちの仕事場の人には、紙で印字された
原稿を渡し、韓国の人のものはメールで
添付ファイルで印刷所から送ってもらう。

そうして、俺のパソコンを経由して、原稿は
大田に送られて、直してもらった後で、再び
うちを経由して印刷屋さんに行く、ということになっている。

え? そんなの、印刷屋さんからダイレクトに
韓国の大田に送ったらええやん、ということだよね。

ホントはそうしたいのだけど、その韓国の人が
書いた原稿(日本語の原稿)、印刷所に出す前に
「謙介さん、一度、日本語のおかしいところが
ないか、見てくれない? 」ということで
俺が一度見て、おかしいところがあったら
まとめてチェックをして、大田の彼に一度聞いて
それで直したものを印刷所に渡すようにしているので、

印刷所からのやり取りの途中に俺のところを
一度経由する、ということが入る。

その校正作業も終わって、明日、目次とか、ページとかの
最終確認をするところまで来た。
明日、その確認が終わったら、最終校正の終わった原稿を
印刷屋さんに渡し、後はもう印刷作業に入ることになっている。

今日、その大田の人に、どうしてもメールでは
正確に意味が伝わらないことがあったので、
電話をして、打ち合わせをした。
きちんと伝わらなかったらどうしよう、と思っていたことは
杞憂に終わって、びっくりするくらいさっと用事は終わって
少し世間話にをした。
「ケンスケ氏は、テジョンに来たことがあるの? 」
「うん。何度か行ったよ。」

ソウルにいたとき、友達にその大田出身の人がいて
何度か彼の実家に遊びに行ったことがあったのだ。

大田。
今でこそ、鉄道の京釜線の中では大邱(テグ)と並ぶ
大きな都会なのだけど、その昔は何せ何にもないところで
広い広い平野に田んぼしかなかった。
だって、あきれるくらい田んぼしかなかったから「大田」って
いう地名になったんだもの。(笑) ここが何で発展したか
と言えば、この大田駅が全羅道方面への鉄道(湖南線)の分岐点
になったから。 乗換駅になったために街は次第に
大きくなっていった。
だから以前はその分岐駅での別れの哀愁を歌った
大田ブルースなんていう歌だってあったし、、。

でも最近は、そういう鉄道の分岐、という意味づけではなくて
ソウルと釜山のほぼ中間点にあるという地の利を生かして
さまざまな研究機関の集積が増えてきている。
街の位置づけが最近では大きく変ってきたのだ。

ソウルに住んでいたときのこと。ソウルって本当に空気が
汚くてさ。おまけに大陸気候だから、時期によっては
ものすごく乾燥するし、、。
それで風邪をこじらせたのが発端で、ちょっと重い病態に
なったことが一度あった。
それでも恵まれていたのは、比較的近いところ
(東大門)に国立のメディカルセンターがあって、
そこに行って、治療を受けることができたことだった。
まぁ、何とか治りかかったん頃に、、、
その大田の友達が、何の前触れもなくいきなりやってきて、
「ソウルは空気が汚いからさー、俺明日、田舎に帰るから
一緒に来る。分かった? 」と言った。
「田舎に帰る、って? 」
「大田だよ。明日の晩の8時のバスな。」
「え? だ、だって、俺、仕事が、、。」
「そんなもの、病気なんだから休め,,,ほらよ。」
と、そう言うと俺に携帯を突き出してきた。「すぐに
明日から1週間休みます、って電話する。」
「そ、そんな、、。」
「身体を壊してまで仕事をする意味なんてない。」
彼の言葉に促されて俺は、当時の仕事場に
電話をして、1週間の休みをもらった。
「ホラみろ、ちゃんと休ませてくれたろ? 」
「うん。」

そうして次の日の晩の7時に南部バスターミナルで
待ち合わせをして、ちょっとご飯を食べて、8時の
バスに乗った。
バスの発車までは人の出入りもあったし
ソウルに買出しに来た、担ぎ屋のおばさんたちの
頻繁な携帯電話の話す声で、バスの中は喧騒を
きわめていたのだけど、やがてバスが発車して
高速に乗るころになると、車内は静かになった。

窓の外を光の帯がいくつもいくつも流れていく。
出発した時はまぶしいようなビル街の照明が
キラキラしていた窓の外も、いつしか窓の外の
灯りはポツリポツリ、というふうになっていった。

家々の明かりが遠く近くで見えた。
みんなその家には家族がいて、
帰るべき場所があって、、待っている人がいて、、
なんだろうな。と思った。

自分は今、外国にいて、知らない場所に向かって
バスに乗っている、、。
俺は、どこへ行こうとしているのだろう。

そう思うと、今までソウルに来て何ヶ月も
そういう「孤独」ということは全然思わなかったのに、
急に胸が締め付けられるような気持ちに
俺はなった。
それまで考えもしなかった「独り」ということを
俺は強烈に感じた。

この国で、待っている人は誰もいなくて
帰る場所も、待っていてくれる誰かもいなくて、、
確かに横には、厚意をかけてくれた友達は
いたけれども、でも、いつの間にか寝てしまった
彼の寝息を聞きながら、やはり俺は孤独だ、
と思った。

俺はそんなことをずっと考えながら窓の外の
光の帯をずっと眺めていた。

大田、というとその時のことを俺は反射的に
思い出す。
あれからずいぶんな歳月が経った。
けれどもあの時感じた「孤独」は
今も自分の中に潜んでいて、時々、意識の表に
現われ出る。

そうして暗い目でガラス窓の外をひたすら睨んでいた
その時の自分を、たまらなくいとおしい、と思ったりするのだ。

(今日聴いた歌 夜のバス 歌 井上陽水
 アルバム 陽水Ⅱ センチメンタル から
 音源はLPレコード)


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10. 02. 02

記事とともに思い出したこと

Salinger

先日、サリンジャー氏がなくなった、と
新聞の訃報欄に記事があった。
添えられてあった作家の写真は
彼自身がマスコミ嫌いだったから、
ものすごく若かった時期のものか、1981年ごろの
(たって、もう30年も前)ものだったようだ。
いつだったか、その1981年よりはもうちょっと後で
そのころ、新潮で「フォーカス」という写真週刊誌が
あって、確かその中に、どこかのスーパーで
サリンジャー氏を待ち伏せして撮った写真が出ていた。
ただでさえマスコミ嫌いの上に、隠し撮りされたために
サリンジャー氏はものすごく怒って、カメラマンの方に
向かってきた、その写真だった、と記憶している。

まぁそういう偏屈と言われる作家ではあったけれど
謙介は彼の作品は好きだった。

最初に読んだのは「フラニーとズーイ」だったと思う。
友達がサリンジャー、おもしろいから読んでみ、
と勧めてくれた。その時、彼の持っていたペンギンブックス
をパラパラと斜め読みしたら結構おもしろそうだったので、
次の日にバスに乗って三条まで出て、河原町にあった
丸善の京都支店に行って買ったのがこの本、だったと思う。

当時の丸善って、土曜の午後や日曜はお休みだった、から
平日、学校が終わってから買いに行ったんじゃなかったかなあ。
土曜日の午後なんて2時だったか3時だったかになると、
丸善は本日の営業終了、っていって
ガラガラとシャッターを下ろしてたものね。

当時は、サリンジャーの訳は二種類出ていた。
角川文庫から鈴木武樹センセイの訳のものと、
新潮文庫から野崎センセイの訳と。
どちらとも読んでみたけど、
原文の雰囲気を大切にして訳をしているのは
角川の鈴木訳のほうかな、と思った。


新潮の野崎センセイの訳では、なんだか
登場人物のお言葉が上品すぎて、
そういうスラングをめったやたらに口走る
ようなヤツには見えなかったのだ。
ちょっと優等生ぽいよなぁ、って思った、
その点、鈴木訳のほうは、文章が生き生きとしていて
動きもあったし、おもしろかった。
おまけに新潮のは「フラニーとゾーイ」なんて書いてあったし。
そんなの「ズーイ」だろう、って俺は思ったりした。

鈴木訳は、荒地出版社とか何社かから出していたのだけど
訳者の鈴木センセイが
まだまだこれから、という若さだったのに
胃がんで亡くなってしまわれたせいも
あったのだろうか。
早々に絶版になってしまった。
それでも丹念に本屋を巡っていったら
まだ俺が探していた頃は、売れ残り(!)が
ひょい、と本屋の棚にあったりして、その都度喜んで
買っていた。
俺の持っているのは角川文庫と荒地出版社と
東京白川書院のものだ。
iいつかサリンジャーは何度か繰り返して読む
大切な本になった。
ライ麦畑、、のほうは何度かの引越しでも
忘れずに持って移動していたのだけど、
何度目かの引越しの時に見失ってしまった。
そうしてすぐに2代目を買った。それが今の本。

丸善でサリンジャーを買った後は、
河原町通りを少し上がってそのころあった
ちきりやというカウンターだけのコーヒー屋さんに
入った。
店主のおじいさんのくゆらすパイプの煙のにおいと
店の中に低く忍び込んでくる街の音を聞きながら、
俺はあの店のカウンターで本を読むのが好きだった。

過去のことを懐かしむ、というのではないけれど、
なんだかあの頃は、今よりずっとずっと
生活の中にゆとりがあった、と思う。
今は加速度的に早まる時間の流れの中で
毎日毎日きりきり舞い。
やれやれ。

気がつくとフラニーとズーイの本も紙がすっかり黄ばんで
しまったし、ライ麦畑、、にいたっては、
ページがバラバラになりかかっている。
そう。『時間』は確実に経過しているのだ。


あの頃にはもう戻れない。

だけどだけど。
自分にはあそこであんな時間を過ごせた思い出が
あるということは本当にうれしい。
誰にもそんな思い出があるように思う。
『あのころ』のことを思い出すと、
心がわくわくするような、
そうそうそうだった、と
思い出すような、そんな記憶。


サリンジャーの記事を見ていたら、
あの頃の風景がいくつか浮かんできた。
大きなガラス窓の向こう、
街を歩いていた人。
行き交っていた車。


実家に帰ったら、今度は『九つの物語』を
もう一度読んでみよう、と思った。

(今日聴いた音楽 グッバイ・スクール・デイズ
 歌 ハイファイセット 音源はLPレコード)

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09. 11. 12

大してときめかなかったのはどうしてなのだろう

前途のある若い人が亡くなるというのは
本当に胸がふたがれる思いがします。
こないだ、広島で見つかっていまだ犯人の
捕まっていない、大学生の女の子の
殺人事件もそうですね。

事件に巻き込まれてしまった
彼女の卒業した高校には、商業科と、
もうひとつ実務英語科という科が
ありました。彼女はその実務英語の
卒業です。商業科は、簿記などの
商業科の科目を中心に勉強する
科だったのですが、実務英語科は
「英語」という名前こそついていますが
実際のところ、あの学校の特別進学コースでした。
国公私立を目指す生徒を受け入れるという
コースです。

普通科の高校なら、学区制があって、
彼女の住んでいる市からは、県庁所在地の市の
普通科の高校には受験・入学はできない決まりがあります。
ですが、商業高校は普通科ではありませんから、
全県下の区域から入学は可能だったわけです。でも、単なる
商業科に行くのであれば、彼女の地元の町に
県立の商業科の高校がありますから
そちらに行けばよかったわけです。しかし、
そうではなくて、わざわざあの高校の実務英語科に行った、
ということは、たぶん勉強もよくできたのでしょうし、
大学に進む、という意志が最初からはっきりとしていた
のでしょう。加えてわざわざ遠いところの学校に行かせる、
というのはそうした彼女自身の希望をご家族も尊重し、
応援していこう、ということだったのでしょう。
その程度のことは、地元に住む人間であれば、
容易に想像がつきます。

そんな彼女の生が、こうした形で閉じられなければ
ならなかった、というのは、彼女自身も、そうして
周囲の人も、みんな戸惑いと大きな憤りを
抱えて立ち尽くすしかない、と思います。

この日曜日に亡くなってしまったうちの仕事場の同僚の
若い人も、かつて俺ががんセンターに入院していたときに
同じ病室にいて亡くなってしまった大学生の男の子も同じ
ことを思います。
まだそんな歳で、、、これからなのに、と、抗いようのない
現実の前で、それでも、どうしても思ってしまいます。

とまれ、坂出の女の子の事件はまだ解決に至っていません。
おそらく犯人は男だと思いますが、
本当に早くに、犯人が捕まって、事件の全貌が明らかに
なって欲しい、と、朝、新聞を見ながら思っています。


          ×       ×


話を変えます。こういう話ばかりだと
あんまりお読みくださっているほうも
ちょっとなぁ、という気持ちになると思いますので、
このことはここで一旦措くことにします。
この間、俺が行った、コンサートとお話の会が90分ものの
番組になって土曜の午後、NHKから放送があるようです。
午後3時5分から4時半ちょっと前まで。
でもね、あの時に、そのお話の会に行って、
俺、ちょっと気がついたことがありました。
目の前に男前の本木氏がいたわけです。
生本木です。
でも、それを淡々と見ている自分がそこにいました。
どうしたことか、さして胸もドキドキせず、
冷静に座って音楽会の進行を見ている自分がそこにいました。
そういえば、昔、「寿司食いねぇ」なんていう歌
歌ってたよなぁ、とか。
もうちょっとドキドキしてもよかったような気もするのですが、
全然そういうふうにはならずに、至極落ち着いたものでした。
その心の動きが自分のことながら、ちょっと不思議な気がしました。

ひとつは、彼が出演する、というのが予めわかって
いた、ということもあるでしょう。
しかしそれをいうのであれば、今までもう数え切れないくらい
ミュージカルだって芝居だって歌舞伎だって能狂言だって
見てきたわけです。コンサートだって行きました。
そういう人が出るのが分かっていて
それでもその人が舞台に現れたら、やっぱりドキドキ
したし、頭の中だって冷静になんかいられずに
うわわわわわぁ、となりました。
知っていても、そうなったのです。
しかし、今回はそういうことがありませんでした。

おなじゲイの友達に、「ちょっと前に大リーガーの岩○選手の講演を
聞きにいった時はもう少しドキドキしたんだけどなぁ、今回は
ものすごく冷静でさー、なんかそれがすごく不思議だったんだけど、、。」
って言ったら、
「アホか。そんなもの、岩○選手はあんたの好みで、
もっくんはあんたの好みの範囲に入っていなかった、
それだけのことでしょ? 」
と言われてしまいました。
「ああ。」と一応笑いながら答えたのですが、
自分の気持ちの中で、整理して考えてみると
ちょっとそれも違うように、思いました。

京都にいたころは、右京区の常盤に住んでいました。
隣は太秦です。
当然のように撮影所とかフィルムの現像所で
バイトをしていました。
そういうところにいると、必然的に役者さんを
見かけます。 たまに家の風呂が故障して、
三条通の撮影所近くの風呂屋に行ったりすると
あ、この人、映画で見たことある、という役者さんを
銭湯でみかけたりすることもありました。
もちろん中にはカッコいい人も多々いたわけです。
いや、スターという人ではなくて、まだ大部屋の役者さんの
中にだって、やっぱり役者ですからね、普通の人とは
顔の水準が(笑)やはり全然違っていたりしました。
考えるとね、そういうカッコいい人を見た時も、
謙介、大してときめきがなかったのですよ。

目の前にいた本木氏の話を聞きながら、そういえば
撮影所でバイトしてたときもそうだったよなぁ、、
と思い出していました。
で、そうか、と思いました。
芸能人って、外見も含めてやっぱりその技量とか
才能にちゃんとした違いがあって欲しい、と思っているんだ、
違っていてくれてこその人だと思っているんだ、
という意識が自分にあるのだ、と
気づきました。
「だって、芸能人ってそういう人なんだもん。」
っていうことでしょうか。
やっぱりプロだったら、違うぞ、っていうところが
ないとね。多分そういう意識で見ていたから
存外冷静だったのかなぁ、と思い当たりました。

だから歌手なのに、しかも自分の作った歌なのに、
コンサートで3度もずれた音程で歌を歌う歌手って、
歌詞がいいから、とか、ゲイの人たちに人気がある、
と言われても、友達がいいから聞けよ、って
勧めてくれても、謙介の自分の中では
ちょっと許せないなぁ、と思ったりするし。
そうしたことで、見ていたんだな、と
思いました。

自分の心の動きとか、感情の行方、っていうのを
冷静に分析してみると、まだまだ
どうしてなのか、っていうところがあります。
多分、自分が自分のことを一番わかっていなかったり
する(笑)っていうことなのでしょうかね。


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09. 03. 18

さくら舞い散る道の上で

俺の住む街は昨日、染井吉野の開花宣言が出た。
(本日だけ、さくらバージョンのテンプレート。)
来週後半は花見ですかねぇ。
うちの近所のお寺の桜もついさっき撮ってきたのは
こんな感じ。


Sakura2009

ちょうど今は卒業式のシーズン。
何か自分のこともあれこれと思い出してしまった、、。

学校を終えて、その時家族の住んでいる街に
戻らなければならなくなり、
自分が育った京都の街をとうとう離れることになった。

「そうしたら、元気でな。」
「うん。ありがとう。」
何人かの友達が見送りにきてくれた。
朝10時ごろだったと思う。
うらうらと晴れた日だった。
俺以外の人間にとっては、その日も
次の日もまた同じような日のそのうちの
1日にしか過ぎない日だったろうに。

車は住み慣れた常盤から新丸太町通りに出て少し東に行き、
花園黒橋から立体交差に乗って南に走った。
愛宕山がどんどん後ろになって行く。桂川に沿いながら
南に下って、今度は西国街道を目指した。
俺はもう一度窓を開けて京都の街を見た。


その風景は、昨日までともちっとも変わらなかったし、
俺がいなくなろうとしている今日以降もこの街に住む
人にとってはきっと同じような
明け暮れが続くだけなのだ。

車は西国街道に入った。
「あーあ。いよいよお別れやなぁ。」
俺は、もうちょっとで泣きそうになるところで
神戸まで送ってやる、と言ってくれた友達に
言った。
「また、いつでも戻ってきたらええねん。」
「アイ シャル リターンや。
みな居てるんやさかい。
帰ってくる場所なんていくらでもある。」
「うん。」
俺はそれだけ答えるのがやっとだった。
乙訓(おとくに)のたけのこ山を眺めて、車はいつか
京都から大阪に入っていった。

学校では自分のしたいことを全てやった。
その時の自分は、それまでの間、一生懸命
やったし、そこからの変な自信が、自分は
もう何だってできる、みたいに思っていた。
このことをこれからの仕事にいかして、
いける、と思っていた、、、。

でも就職していざ、仕事にかかると本当に
自分の力のなさを知った。毎日、自分の
キャパシティ以上のことをどんどん要求されて
それに十分答えられない自分に嫌になり
情けなく思った。その話はまた日を改めて。

前にも言ったけれど、俺のいた学校の国文科の連中と
きたら、本当に変わり者ぞろいというか、どこでどう
集めたら、こういうヤツらが集まるかなぁ、というような
人間ばかりだった。
新入生の合宿がセミナーハウスであったのだけど
その時、話に出たのが、大阪の桜ノ宮の
ラブホの比較研究。
「アホ、○○○○○なんてあかんのじゃ。
×××は、ブランコがあんねん。それに乗ってやな、
こうやるとなぁ、、」
「×××なんて高いだけやんけ。」

そういうラブホ談義がこちらで交わされていたと思ったら、
向こうでは、最近読んだ本の話をしてたんだけど
その本が、まーたコムツカシイ本の話で、、
ヨシモトタカアキの今度の本は、とか
〇〇は、最近ダメだとか、、。
あっちのほうでは、ブルースについて熱く語る
にいちゃんがいたり、、。

もう横で聞いていた謙介さんは、どちらも「さよか。」というほか
なかった。

学校に出てくるのは試験のときだけで、
後はひたすらバンドで好きな音楽をしてたヤツ、
写真に熱中していて、被写体を追ってしょっちゅうどこかに行き、
これまたたまにしか学校に出てこなかったヤツ。
それでも驚くことに、センセイはそんな奴らが、
今、どこで何をしているか、案外きちんと把握していた。
これは学生の人数が少なくて、センセイが学生の顔を
全部把握できていたらからできたことだろうと思う。
ある日、今から、ゼミがはじまる、という直前に
センセイの部屋に行ったら、センセイは、電話を
かけていた。「アホ、さっさと、蝶々追うのんもええ加減にして
定家の歌に戻ってこんか。単位やらへんぞ! 」
その声は、センセイの研究室に入ったものの、電話中で、もう一度外に
出た、俺のところまで聞こえてくるような大きな声だった。

(しかしまぁ世間の人から見たら、蝶々取りも
藤原定家も浮世離れしている、という点では
同じかもしれない、けど。)

「ええで。電話済んだわ。」
「Iやけどな。写真に撮りたい蝶々がいてる、って
鹿児島にいてんねん。あいつ、今日、発表やのに、
すっぽかしよって。アリヨはアリヨでピアノばっかり弾いてて
全然出てきよらへん。」
それでもその次の週のゼミの日、当たり前のようにIもアリヨも出てきた。
そうして担当だった新古今の歌の解釈をして
みんなで、その歌についてディスカッションをした。
終わってから、黒板を片付けている横でセンセイが
ため息まじりに言った。「Iの歌の解釈、やっぱりすごいなぁ。
センスあるわ。蝶々ばっかり追わえてへんと、ちょっとはまじめに
したら、モノになると思うんやけどなぁ。
どうや、変わりもんの意見は? 」
「センセイ、変わりもん、って誰ですか? 」
「あんたやあんた! 」
「ボク、変わりもんやないです。」
「謙介が変わり者やなかったら、うちの国文なんてみんな
常識人ばっかりやで。それに変わり者に限って
自分はまともやのまじめやのと言うのや。」
「はいはい。Iの歌の解釈のセンスは俺もすごくいいと
思います。」

やがて時は移り、少しずつそんな連中もキャンパスから
いなくなっていった。 雨月物語で卒論を書いた
アリヨはアメリカに渡ってブルース専門のピアノ弾きになった。

変わり者の謙介さんは、
もうちょっとやってみるか? とセンセイに言われ
少しキャンパスでの暮らしを延ばした。
それでも、必ず終わりの日は来る。
月日は移り、とうとう自分もその場所を去る日が来た。

おもしろかったヤツらとの別れはそれはあっさりしたものだった。
「ほなな。」
最後の飲み会を四条でしたとき、そう言ってみんな明け方の
京都の街に散っていった。
俺はあの春の明け方の風景を今もはっきりと思い出すことができる。

それはまるでまた来週、いつものように教室で会うかのように、
軽い軽いあいさつの言葉で。
ほなな、の連中とは、それっきり、になってしまった。
大体学校にいるときから把握が難しい連中だったのだ。
いまやどこにいるか分からない。

一度だけ、そんな中の一人と偶然会った。
場所は近鉄大和八木のホームで。
いきなり後ろから名前を呼ばれたのだ。
「え、あ、 〇〇? 」
「久しぶりやなぁ。」
そのときはお互いの電車が来るまでの15分
二人でしゃべり倒した。
俺の乗る、名古屋行きの特急が来た。
「ほなな。」
「元気で。」
後からやっぱり住所を聞いておいたらよかったか、とも
思ったけれど、どうせ聞いたところですぐに変わるし、、。
と思い直した。また縁があったら会えるだろう。

「ほなな。」と、また明日続くように別れていく。
それがあいつらとなら普通にできる、と
思う。

今でもたまに連中のことを思い出す。
やつらときたら、まだ20代で、いつも突然に俺の前に現れては
「あのころ」を思い出させて、また霞の中へと消えていく。
たぶん地球上のどこかで元気でいるのだろう。
いや、そう思いたい。


だけど、こんなことだってある。
15日の晩、そろそろ仕事場の街に出かけようか
とした頃、電話があった。
「もしもし。〇〇さんのお宅ですか? 」
「はい。」
「謙介さんいますか? 」
「はい。オレですけど。」
「私、大学のときに一緒だった、△△です。覚えていますか? 」
と、相手は俺が全然記憶にない名前を言った。

「懐かしいなぁ、、今から会えますか? 」
「無理です。今から、仕事場のほうの家に戻るから。」
「××の〇〇〇町のほうですか? 」
その町名の読み方は間違っていた。
「またかけてね。」と最後までフレンドリィに語った彼女は
そうして電話を切った。
「ばーか。」

思えばその電話は怪しさ爆発の電話だった。
どうして俺と親しかったはずの人間が、本人が出ているのに
謙介さんいますか? なんて言わないといけないのか。
俺の仕事場のほうの住所は電車の駅にもなっている
地名なので、その街に住む人間なら、何の間違いもなく
読めて当然の地名なのに、彼女は間違った。

まぁ相手が女性だったから、結婚して改姓ということも
あるかもしれない、と、思って念のために
本当にいつも同じ研究室で一緒に調査をしたりしていた
〇〇さんに話をした。
「△△っていう人が親しげに、話してきたんだけど
そういうヤツ、いた? 結婚して改姓した、とか言うの
俺疎いから、わかんないんだけど、、。」
「そんな人居てへんわよ。」
彼女は言下に言った。
「改姓とかもない? 」
「そんなものないわ。」

そうやって人の思い出を利用して、変なことをしようと
してくるヤツもいるんだよね。
どうせそうやって思い出で釣っておいていざとなったら
碌でもない話だろう。
思い出は大切にしておきたいのに。

友達だから用事を頼む、
頼まれる、そういうことも当然あるし、
そいつのために何かをする、とか
してもらう、っていうことだってある。

でも、それはやっぱり友達として時間を
かけて話をしたり、何か協力し合って
ひとつのことをしたり、経験を一緒にするとか
そういう時間とか、お互いの理解を重ねて
それで親しさが深まって、それで自然に
そういう気持ちになったら当然出てくることじゃないか、
と思う。

俺ね、ブログにランキング用のアイコン貼ってない
理由ってそれなの。読んでくれるのは本当に
ありがたいと思う。読んでくださる中には
おそらく親しい人だっていると
思うけど、会ったこともない不特定多数の人に
「アイコンクリックしてね」 なんて俺、人に頼むの
すごく心理的に抵抗があるんだもん。

そこまで気安く頼んでいいのか、って。
そういうのが全然気にならない、
っていう人もいるだろうけど、俺はそういうの
全然見ず知らずの読んでくださっているだけの人に
頼めない。
なんだか、そこまで頼んでいいのか、って思う。
だからそういう何かを頼まないといけないような
ものは極力外している。

まぁそれは人の考えだからいろいろだとは思うけど。


「ともだち」って親しげに言ってきて、人の「思い出」に乗じて
大切なものを利用しようとしたり、
その宝物を壊しにかかってくるヤツがこの世の中にはいる。
自分たちは、何か意図とか目標とかが
あるのだろうが、そういう人の心を利用して
平気で人の思い出の中に踏み込んでくる、なんて
俺はそういうヤツは絶対に許せない。
やれやれ。
世間にはこういうのもいるからなぁ。


(今日聴いた音楽 さくら 独唱 歌 森山直太朗)

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09. 01. 25

愛子おばさんへ

こんばんは


今日は愛子おばさんに手紙を書きます


おばさんにこうした手紙を書くのは
去年の春以来のことですね


去年の春に俺の仕事場に電話をもらって
おばさんが再入院する、ということ
そこで使用されるらしい薬について
それでとりあえず俺が 調べられるだけ調べて
その資料に添えて送った手紙以来
ということになりますか ね

本当は封書でおばさんに手紙を
送ろうと思いました
しかし投函しても その手紙が
おばさんの許に届かないかもしれないなぁ
と思いなおして こうしてウェブ上に出すことに
しました

この方法のほうが おばさんにどこかで
読んでもらえる機会があるかもしれない と
思ったからです


本来なら おばさんと俺が知り合うなんて
いうことはなかったかもしれませんね
おばさんは俺の友達のIの下宿の大家さんで
俺はその下宿に訪ねてきた
彼の友達に過ぎなかったのですから

しかし それがいつか俺が京都に行ったら
おばさんのところで泊まらせていただくような
ことになるなんて 下宿人でも何でも
なかった俺をここまで厚遇してくれるように
なったこと そしてそれがもう20年続いたこと 
縁というのは 本当に不思議としかいいようが
ない と今にして改めてそう思います


大体俺とIの関係は変と言えば変だったですよね
おばさんも よく言っておいででした
ホンの数百メートルの近い場所に住んでいながら
時々文通をして手紙を出し合いしていたのですから


でもその手紙のおかげで 俺がおばさんの印象に
残ることになったのですから 人生何がどう影響を与えるか
分からないものです


おばさんは本当に字にうるさい人でしたね
他人にもうるさかったけれど おばさんご自身にも
とても要求水準が高かったように思います

俺は決しておばさんの字が下手になった なんて
一度も思ったことはなかったですよ 

でも、おばさんは練習をせんようになって もうあかんわ
下手になってしもうた ってそんなことを繰り返し
俺に言ってましたよね


決してそんなことはないのに 


ある日 Iのところに来た俺の封書の字を見て
いやぁ ちゃんとした字書く子やね とほめて
くださったのが、おばさんと話をするようになった
はじめでしたよね

以来 最初はIを仲介にしていた話が
いつの間にかI抜きで話をするようになり とうとう最後は
遊びにおいで というふうになってしまったのでした

おばさんはとにかく元気でした
やがてあの下宿は、大学のラグビー部員だけの
寮になりましたけれど、そのラグビー部の寮生を
引き連れて、ごはんを食べにいっていた
おばさんの雄姿 いまでもはっきり覚えています


ラグビー部の連中を 二言目にはあほや 
あんな子らかなんわ なんてしょっちゅういいながら
いつも気にして世話をして 
俺はそんなおばさんをとてもいいなぁ、と思って見ていましたよ
世話好きなおばさんは 俺にも何かと気遣ってくれましたね
そのおかげで 花園のあのおばさんの家は
俺にとって最後はベースのような場所になっていました

京都に行って 花園駅で降りて
南に歩いて
おばさんの家に行くのが本当に楽しみでしたよ


Hanazonosta12


月日は流れて 
いつのまにやら
花園駅もすっかり変わって
しまいました 

上と下 これがまったく同じ場所だと
俺は今もって信じられません
俺にとっての花園駅は いまだどうしても
上の写真の駅です

Hanzonosta2

去年の12月のはじめだったでしょうか
何日間か 俺が仕事から帰ったら 留守番電話のお知らせランプが
点滅していましたときがありました
そしてそれは2 3日続きました
そんなことがあって また一週間くらいしてから
2 3日そんなことが続きました


用件は と言えば入っておらず 電話が
あった ということだけがそこに記録として
残されていました

でもね その時 俺は気づいたのです
ただ、それは理由もなく なんとなく でした
しかし俺は気づいたのです


電話は多分 ご親類の方がかけてこられたのではないか
と思いました  おばさんのご親類と俺は全くの
面識がありませんでしたよね
おばさんは一人暮らしでしたし おばさんの
親類の方なんて俺 とうとう知らないままでしたし

だからきっと留守番電話に声を吹きこむのを
躊躇されたのかなぁ と思っています


こないだ実はおばさんの家に電話をかけて
みました すると 「この電話は現在使われて
おりません 」というアナウンスが流れました


去年の春に、左京区の大学病院に入院する前 
おばさんは、俺に「平安墨宝」という書の
本を送ってくれましたよね その時も俺 ひそかに
思ったんです 「これ 形見分けじゃないだろうね 」って

その時 俺は首を左右に振りました
その時はまだ おばさんのがんはごく微小で
まだこういうことになるようには思えませんでしたから

でもおばさんは俺にはっきりと言いました
骨に転移したからねぇ


あかん とおばさんは言ったけれども
とはいえ おばさんはいつも前向きで
どんなふうな身体の状態になっても
自分らしさ を失いませんでしたよね

あかん と いいながら それでもおばさんは
俺の目には元気そのものでした
本当にその強さ に俺は感心します

どうしてそんなふうに強くいられるのか?
俺はその気持ちの強さのもとを知りたいです


おばさんは俺のことをずいぶんかってくれて
いましたけれども こうして空から俺のことを
見て どうですか?


何や 思ってたのと全然違うやないか
どうしようもないやっちゃ って呆れ果てて
おいでかもしれませんね

本当に俺という人間は ぐずぐずで どうしようも
ない奴です 自分でも時々 本当に嫌に
なることがあります もてあますことだって
しょっちゅうあります

おばさんがもし 俺について こんなヤツ
あかんわと思われたのであれば
それは正解だと思います


本当にどうしようもない あかんたれです
弱くてダメな人間です

でもね それでも ね


こんなどうしようもないヤツですけど
おばさんから受けたさまざまな厚意は 俺の一生の
宝 だと思っているのですよ 
このいただいた大切なものを 俺は生きているうちに
誰かにまた渡さないといけないなぁ
と思っています 

誰かにこのおばさんからいただいた
自分の周囲の人を大切に思ってやまなかった
このあたたかな気持ちや心遣いを自分も同じように
すること  それがおばさんの厚意に報いることだ 
と考えているのです

それと同時に 少しでもおばさんに
「少しは ましになったやないか」って いつかどこかの
空の下で そう言ってもらえるようにはしないと
いけないですね


どうしようもないヤツですが そんなふうに考えたりも
しているんですよ

おばさん

あたたかくなって 俺の体調もおちついていたら 
一度 上洛します そしておばさんの家のあった場所に
行ってみます

こう書きながらも どこかで予想をしている自分がいて
そんな思いについて どうか違っていて欲しい とも
切に願っている自分も またいます

また 字や食べ物の話が
できたらいいのですけれど 
いや できますよね


今までのおばさんとの会話、
声や表情や笑い声や そんなことが
後から後からとりとめもなく浮かんできます
ひとまず今日はこれで措きます 

また話に行きます
おばさんがいつも別れ際に言ってくれる
「おおきに」が聞きたくて

会いましょうね また
絶対ですよ


約束ですよ



Atagosan

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08. 12. 10

口上のような、説明のようなもの

はい。
テンプレートを「ひこにゃん」にかえてみました。
ココログにはこんなテンプレートもありまして、
何年か前にこういうのありますよ、
って、頒布があったときに、
それを謙介は保存していました。(笑)


しかし、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)が今生きていて
このひこにゃんを見たら、なんと
おっしゃいますでしょうか。
ちょっと聞いてみたい気もします。
なおすけさんもいっそ「なおりん」にするとか。
おほん。失礼いたしました。

今やってるNHKの大河ドラマはそのなおりんの
生きた幕末の時代の
話ですよね。 歴史として幕末という時代を見ると
もうずいぶんな昔のようにも思えるのですが、平成4年に
亡くなったうちの母方のばあちゃんのそのおっかさんの
若いとき、というと幕末だったりするんですよね。
そう考えたら幕末ってとんでもなく大昔のことでもないなぁ、
という気もします。

そういえば、うちのご先祖は近江の出らしいです。
そういうご先祖がえりもあって(ホンマか。)
ひこにゃんを持ってきたりした、という
こともあります。

じつは謙介、先日ひこにゃんを
見たんですよ。謙介の実家のある街と
彦根は姉妹都市なので、先日
ひこにゃんが四国に来ていたんです。
うちのオフクロ、ほんま物見高い人
なので、連れていけということになって
その会場に行ってひこにゃんを
見に行ったわけです
さすがひこにゃんは、
VIP扱いでしたね。一回の公開時間は
15分少々。しかも一日2回だけのお披露目、
ということでした。ひこにゃんに握手ができるの
ですが、これがお子様限定で、それもにこにゃん握手券の
抽選に当たった人のみ。
やれやれ。ひこにゃんに会うのも至難の技です。


そういえば、前に四国って影が薄いという
話をしました。
あ、やっぱりな、って思うことがありました。
あるゲイの方のブログで、こんぴら大歌舞伎の
ことを書いているのがあったんですが、
文章の中に「高松の琴平」とありました。

高松市と琴平町は全然別です。
琴平町は仲多度郡琴平町。
高松市は高松市で、別です。
だから高松の琴平というのは存在しません。
そんなもの、神戸の加古川とか
横浜の茅ヶ崎っていうようなものです。

そう。あり得ない間違いではありますが、俺は
間違ったその人を責めるつもりは
まったくありません。
その方、近畿地方にお住まいの方のようですが、
四国なんてそういう認識のされ方でしか
ないのだなぁ、と改めて思いました。
「やっぱり、そうだろうよ。」とか。(笑)
人間、その場所によほどの興味があるとか
何かしらの利害関係がからんでいるとか
そういうふうなことでもないと、
案外自分の生活圏の外は
「暗黒」だったりします。

前に天気予報を見ていたときに
東京からの天気予報でしたが、
そのキャスター、徹頭徹尾首都圏のお天気の
説明しかしませんでした。
おそらく彼女の頭の中には、
鹿児島とか宇和島とか金沢とか青森といった
他の地方は全く思慮の外、だったんでしょうね。
自分は首都圏に住んでいる。それだけ。
他の地方のある、ということまでは
思いが至らない。
人間、多分そんなものだと思うんですよ。
親戚が居るとか、興味がある場所、
というのなら別ですが、そうでないと
自分が住んでいる以外の場所なんて
そうそう興味の生まれるような
ものでもないでしょうし、、。

あ、いや。俺は地理好きですから(笑)
そういうよその場所っていろいろと
知りたい、っていうことはありますけど。
でも、そういう人ってどちらかと言えば少数派
だろうと思います。

社交儀礼で「一度四国に行きたい」と
おっしゃる方もおいでですが、
その実、いつかその約束は忘れられて
それっきり、っていうこと多いです。
あ、それが悪い、っていうんじゃないんです。
多分一度行きたい、っておっしゃったときには
興味はあったかもしれない。
でも、そのうち、四国に対する興味なんて
どんどん喪われていって、
いつかそんなこともあったかねぇ、、なんて
いうようになると思います。
ええ、そういうふうなこと
何度もありました。
やはり四国には距離感の遠さとか
行ってみたい気持ちにさせる決定力のなさ
とか、そういうものがあって、それが微妙に
影響を与えているように思います。


話は変りますが。
あっちもこっちも
不景気な話ばかりですよね。
仕事の話でも
明日から来なくていい、とか言われたり、
残った人は残ったで、会社は追加の人は
増やさないから、ひとりが3人分くらいの
仕事を抱えることになりますよね。
みなさん、無理をしているんじゃ
ないでしょうか。そのうえ、
年末進行で早めに仕上げろ、
って言われたり、打ち合わせは
あるし、残業は増えるしねぇ。
ボーナスは出ません、という話も聞きます。

あっちこっちでもう
ストレスの溜まりまくり!
というような話を聞きます。
そんな12月のとげとげした気持ちを
まぁひこにゃんでも見て
のんびりしていただきたかった、
ということもあります。

気持ちもトゲトゲして
イライラさせられることも
多いですよね。
でも、しなければいけないことも
多々はありますが、
何より大切なのは
自分の身体です。
どうぞ、お忙しい時期とは
思いますが、一日の中で
どこかでゆったりできる時間が
あったら、と思います。

お忙しい時期とは思いますが
お元気でお過ごしください。

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