先日、淡路島に住んでいる父方のおばちゃんと話をする機会が
ありました。父の葬儀が一段落したこととか、
うちの家庭のことなどの報告をひとしきりしたのですが、、、
その後はまぁ雑談というのか世間話になりまして、、
「あの人すごいねぇ」ということになりました。
もちろんあの人、というのは、先日まで淡路島の所属する県の
知事だったあの人のことで。
経歴を見たら、その知事だった人、高校の時なんて、
謙介が少し前まで住んでいた町の高校に行っていた、とありました。
まぁ謙介が住んでいたのは街の東側でしたし、
あの人のの通っていた高校は街の西側だったし
あ、でも中央にある繁華街ですれ違ったかもしれないなぁ、とか
思いました。
周囲ではあの人のメンタルをもうすごい、としか
いえない、という話が飛び交っています。
謙介は、あの人の度重なる会見のところで
不思議だったことがありまして、、
亡くなった西播磨県民局〇さんのことについて
あの元知事が、「心からお悔やみを申し上げたい」
と何度も言ってたんですが、、、一向にこちらに
その言葉が響いてこなかったのです。
口先で一応、そういう定番の言葉を言っているだけ、
という感じがして仕方なかったんです。
西播磨県民局〇さんもですし、優勝パレードの
調整で亡くなった方への弔意もそうですし、、
あの人が言っている背後の気持ちというのが全然
伝わってこなかったのです。
それで思ったのは、あの人はそういうことが分からなくて
どこまでも「自分」しかないのだろう、ということでした。
「ぼくちゃん」だけしかないのです。だから人の気持ちが
分からない。他者というものがいて、その人がどういう
ふうな気持ちでいるのか、という推定をする能力が
欠落しているのではないのかなぁ、ということを
考えました。
だから、「ぼくちゃん」という自分のテリトリーが
傷つけられたから、(県民局長の通報によって
自分の尊厳が傷つけられた、とあの人は思ったのでしょう)
それはそれは異常とも思えるような反応だった。
そしてその自分を傷つけたやつを探し出して
徹底的に究明して、その傷つけようとしたやつを
糾弾せずにはいられなかった。
多分、あの人の中では、「ぼくちゃん」しかなくて
他者というものが分かっていないでしょうから
周囲がいくら知事のさまざまなパワハラや
その他のことの責任追及したところで
あの方は「はぁ?」という程度なのではないでしょうか。
どこまでも自分さましかないから、
その考え方についていけない他者が出てくると、
激怒したり物を投げたり、というような振る舞いに
出たのでしょう。
ぼくちゃんがあれ欲しいと思ったら、「ちょうだい」です。
ぼくちゃんが欲しいのだから、欲しいと言って何が悪いのか、
というようなことなんじゃないでしょうか。
今回の失職、知事選再出馬、だって
「ぼくちゃんはもう一度出たいぞ」ということを
思ったからの再出馬、ということなのでしょう。
そこには他者というのは一切介在していなくて
(自分自身に都合のいい他者は存在するが
それは元知事に対して都合よく使える人間だけ
という認知構造なのだろうと思われます)
前明石市長さんが、あの元知事と話をして
「県知事となってどのような施策を行いたいのですか?」と
質問して、「ひたすら県知事になることとしか
答えずあきれた」という記事も読みましたが、、
あの人の頭の中はぼくちゃんは知事、というだけですから、
そりゃそれしかないわなぁ、と思いました。
あの人のいう「県政」といっても、何せ他者というものが
一切見えていないわけですから、本当に必要な人に
どのようにしたら、役に立てる施策を行うのか、
という観点の県政ではなくて、
あくまで「ぼくちゃん」が何をするのか、何をしたいのか
でしか判断できない施策しか行えない、自分中心の施策
でしかない、という気が濃厚にします。
淡路島のおばちゃんとの話は、
「もうあんなんかなんわー(あんなのは閉口するわ)」
「まぁせやけどおばちゃんは元気で居ってね」
というような話で終わったのでしたが、、。
しばらくどうなるのか、見てみたいと思っています。
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