一次資料にまず当たれ
今年は太平洋戦争が終結して80年ということで
いろいろな催しがありました。
それから最近の流行? なんだと思いますが
動画サイトでいろいろな人がそれぞれの立場で発信を
しておいでです。
すいません。謙介、ああいういろいろな意見の動画
サイトとか見ません。見たって仕方ないと思っていますし。
後世の人がそれぞれ自分の歴史観で言っているのを
聞くのであれば、われわれがまず第一にしないといけないのは
一次資料に当たる、ということだと思うのです。
例えば、こんなことです。
謙介が松山にいたときに、司馬さんの『坂の上のなんたら』が
話題になりました。あの「しょうもない顛末」については
何度も話をしたと思いますので、いまさら繰り返しませんが、
そもそもがあの坂の上のなんたら、というお話は作者の司馬さんの歴史観で
書かれたものにしかすぎません。司馬史観に立っての物語です。
「さかのうえのくものまちづくり」とか言い出した人は、
東京生まれで東京育ちの人で、
その人のそれまでの人生で松山になんか住んだこともない人でした。
その人が松山市長選に立候補することになって
たまたま自分がかつて読んでいた「松山出身の有名人」がいっぱい出てくる
小説の主人公たちをモチーフに「坂の上のなんとかの街づくりを
します」とスローガンに掲げたわけでした。
それを言ってこられた松山市民は驚きました。
それは司馬さんのお話の世界のことであって、そんなもの真顔で
街づくりっていったいどうするの? というのが大方の意見でした。
それと同じ理屈です。
80年ということで、いろいろな出版物が出ていますが
その多くは書いた人の主観に基づいて歴史事項の再検討、
再発見というような立場で書かれているわけです。
それは書いた人の主観から見た歴史事項であって
それは真実なのでしょうか?
と思うのです。
真実は、そういう書き手の主観を一切外して冷静な立場に立って
資料を見ないと、見えてこないのではないかと
思います。
図書館情報学では、原典のことを一次資料といいます。
例えば源氏物語であれば紫式部が書いたといわれる原典
そのものが一次資料です。そして源氏物語の注釈書とか
源氏物語の参考資料は二次資料、源氏物語を題材に
まとめた論考は三次資料という人もいます。
与太話で、あの本は面白かった、よく書かれてた
とか言っている分には二次資料三次資料でもいいでしょうし、
趣味で見ている分には
それでもいいと思います。
そういうことを否定はしません。
ですが、ちょっと怖いな、と思うのは、そういう二次資料とか
三次資料を基に、それが正しいと思って議論のベースにしようとする人が
世の中にはいっぱいいることです。
どうしてそれがわかったのか、といえば、
この前の選挙を見ていたら、そういう二次資料とか三次資料を
ベースにあーだこーだと演説している人がいて、、、
この人の情報リテラシーってどうなっているのかねぇ、と
思ったことがありました。
戦後80年になって、戦争経験をした人がどんどん亡くなっていくなか
ますます必要なことは、まず一次資料に当たることじゃないか、
そのうえで自分なりの考えを持つこと。
2016年の9月でしたか、当時勤めていた謙介の職場に
シスター渡辺が来られて講演をしてくださいました。
シスターは結局、その年の12月の終わりにご帰天
されてしまうので、本当に亡くなる直前の最後の
講演ということになったのだろうと思います。
その時のテーマが人を赦すこと、というテーマだったかと
思います。ご存じのようにシスターのご尊父は
陸軍教育総監の渡辺錠太郎さんでした。2.26事件で
お父さまが射殺されたのを経験されて、その時のことを
お話しくださいました。
考えたら、犬養道〇先生ともご一緒に仕事をした関係で
先生にはいろいろと直接お話をお聞きしました。
2.26事件も、5.15事件も、それぞれその場にいた方から
お話を聞けたのは本当に稀有なことだった、と思います。
やはり歴史の資料は一次資料にまず当たる、
歴史を見ていくことの要点はやはり
それに尽きるのではないか、と自分は思います。




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