おげいじゅつ

23. 11. 18

「わがあこがれの美の郷」は?

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謙介、こないだから、ずっと↑の
組子さんが自死した事件のその後の報道を
見ています。

たぶん自分自身も、小学校から果ては大学院まで、
いじめやらアカハラに遭ってきました。

辛い辛いことがあって、もうどうしようもなくて
追い詰められて、もうどうしようもない、
というところまで行ってしまって
残った考えは死と言うことしか思い浮かばなかった、のでしょう。

親御さんにしてみても、大切に育ててきた娘さんだったのに、
愛する自分の娘をそんなことで喪わなければ
ならなかったご家族の心境はを想像すると、
こちらまでもらい泣き
してしまいます。(おっさんは涙もろいもので)

あそこの上級生による指導と言う美名による
しごきというのかいじめはもう昔から有名でした。
いじめの話を最初に聞いたのは、オヤジからでした。

オヤジの友人が、元そこにいた方を奥さんとして
迎えたのです。
その奥さんの子どもさんが中学に入って
ある運動系の部活をはじめたそう。
ところがトレーニングがきつくて、辞めたい
ということになった時に、「あんたなぁ、
〇〇の練習なんてそんな甘いもんやないねんで」とか
言ったことがあったとか。それをたまたまオヤジが
聞いていて、「そんなにきついんか」ということで
いろいろと聞いたのだそう。それを話してくれました。

もうそれはずいぶん昔のことですが、、要するに
あそこの体質はもうあれでずーっとやってきていて
しかもそれを「誇るべき伝統」としてきていた、
ということなのでしょう。

よく教育界がブラックといわれますが、
今回のことは、その「教育界のブラック」の考え方と、
日本の伝統的な芸事は「血のにじむような努力が必要」
という考え方があって、「芸の向上には苦労をしないといけない」
というのが、間違った方向へ進んだ結果なのではないのか、

ということを謙介は思っています。
何でも根性で乗り切れ、ということです。

そもそもがあそこは「劇団」ということにはなっていますが、
基本的に言うと、あの劇団は、付設の音楽学校の卒業生の
公演という解釈です。ですからあの劇団に関して言えば、
団員という言葉より「生徒」という言い方をよくします。

生徒だから、上級生の言葉には絶対服従、
どんな暴言でも「親身なご指導」と思って聞かないと
いけない、ましてや演出家の先生の意見は、
絶対である。


加えて、日本の伝統的な芸事は、
血のにじむような苦労を数多く行う、
そうした苦しいことを我慢してやってこそ
一人前になれる。
という考え方が根底にあって、ああいうことになったのでは、
と思うんですよね。


だから、あの時も、団員で亡くなった方がいたのに、
上級生が、残った人間だけで公演をしようと言った、
というのは、「弱いから、根性がないから死ぬんだ」
という考え方がそこにあって、それが言わせた言葉では
ないのか、と思います。

 

今度のことで、今までの悪弊にいろいろとメスが入って
変わってくれたらいいのですけれども、、
次期理事〇も恫喝するようなことを平気で言ってるし、、
謙介もああもう済んだわ、と思いました。
どうなるんでしょうかね。
今しばらく事の推移を見ていきたいと思います。

 

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23. 05. 13

パイプオルガン

Ikunoさんが先日、パイプオルガンの記事で文章を書かれていました。


謙介は、パイプオルガンか、、ああ、懐かしい、とか思ってしまいました。
と、いうのが、前の職場にそのパイプオルガンが
ありまして、、。これです。

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せっかくのパイプオルガンですから年に何回か
演奏会をしよう、ということになりまして、、。
まぁそこまでは良かったのですが、、。

何の因果か 何かのご縁だったのでしょうねぇ。そのパイプオルガン
演奏会実行委員というようなお役目をしろというようなことに
なりましてですね、、。
最初の話でえは、演奏会の当日、会場整理とか受付をやってもらえれば、、
という話で、そう拘束時間はないのよ、という話でしたが、、


実際はポスターの作成から、オルガンのマイスターをお呼びしての
調律の日程調整から、オルガニスト(すべて海外の方)の
滞在日程の調整という事前の準備から、演奏会広報、
前日の会場設営、当日の受付、後始末等々、
で、これらの仕事は本務の仕事以外の仕事なので、、
演奏会が近づくたびに、本務の仕事と、演奏会の仕事と
二つが一度に来てとんでもなく忙しかったです。

オルガン演奏会に拘束されっぱなしで、、

あ、そういう演奏会実務のことじゃなくて
パイプオルガンのことでしたね。
職場にあったオルガンは、1981年に日本人のSさんという方が
造られたものでした。Sさんがドイツにパイプオルガンの技術を
学んで、マイスターとなって帰国されてしばらくして取り組まれたもの、と
聞いています。
パイプオルガンとお付き合いをするようになって
設置後も定期的にメンテナンスに来られていた
このマイスターからいろいろな話を聞きました。
パイプオルガンはやはり普段からよく使ってもらいたい、
というお話が印象に残っています。
日頃からよく使って、楽器全体をよく鳴らすようにしておいて
もらいたい、ということでした。そうすることで
楽器隅々の部品が動き、それが結局メンテナンスにも
なっている、というお話でした。

楽器全体を鳴らすようにする、というのは
そのオルガン全体の音程や仕組み、能力まで熟知していなければ
できないことであって、実は本当に難しいことです。

さっき演奏会で外国からのオルガニストを招聘して
というお話をしました。演奏会自体は日曜日1日だけでしたが、

オルガニストの方は金曜日に関空経由で日本に来られて、
国内便に乗り換えてうちの職場最寄りの空港に来られました。
そして金曜の午後からオルガンと向かい合われる
ことが多かったです。

オルガンの演奏楽譜というのもあったりはするのですが
さっきも言ったようにオルガンの規模とか鳴らせる音程とかは
そのオルガンによってまちまちなので、演奏はやはり
オルガニストの裁量でさまざまに変化をする、という
ことになります。
オルガニストは金曜日午後、土曜日全日、
日曜日午前中とかかって、オルガンの能力を
調べ、音を鳴らしてみて、演奏曲をさまざまな鳴らし方で
弾いて、曲を仕上げていきます。
オルガニストによると、あっという間に短時間で
オルガンの状態を見て曲の音合わせをし終えてしまう
人もいたかと思えば、土曜日の試奏が延々とかかって
夜の9時過ぎまでかかった人もいました。
招聘したオルガニストは毎年出身国替わりで来られました。
謙介の担当した5年間では、フランス、スペイン、
ドイツ、ベルギー、アメリカ、というようなことでした。

いつだったかは忘れてしまったのですが、
一度、現場にいたメンテナンス担当のマイスターが
直接オルガニストに頼んでくださって、
オルガン全部の管を使って鳴らすような演奏を
してもらったことがありました。
ホールいっぱいに響き渡る重層な音、
その響きの余韻、、、、、

その日も演奏会準備で走り回ってくたくたで
謙介はホールの椅子に沈み込んで「はぁ」と
座っていたのですが、その迫力ある演奏を聞いて
身体じゅうの血がものすごい勢いで駆け回りはじめた
ような気がして、すっかり元気になったことがありました。

さっき演奏会の実務について、もろもろの
うっとうしいことがお仕事があるというお話をしましたが、
それでも謙介が嫌になってしまわず、
退職までこのボランティア業務を担当していたのは、そういう
オルガンの力を知ったから、ということも
あったから、かもしれません。

今ではオルガンが日常にあった生活からすっかり遠ざかって
しまいましたが、その「遠ざかり」がちょうど
めんどくさかったもろもろの仕事を忘れさせて、
オルガンとのちょうど良い距離を作ってくれて
いるようにも思ったりするのです。

 

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23. 03. 21

巌流島

今日は朝9時半に家を出て、バスに乗って、
県庁所在地の街まで。
前もって時刻表を調べたら、ちょうど良い時間に
特急がありました。
この特急に乗って、到着が10時25分でした。
パルコの中の神戸〇で、パンを買って劇場に向かいます。
私鉄のターミナルから、劇場の最寄り駅までが、
微妙な距離なんですよね。
1駅なんですよ。ただね、今日(21日)は雨だったので、
地下鉄で行こうか、歩こうか、と思いました。
結果、そう雨も激しくなかったので、傘をさして歩きました。
私鉄のターミナルから、劇場まで歩いたら15分くらいです。
そう雨がきつくなかったから謙介以外にも
結構な人が歩道を行き交っておりました。

このところ暖かかったせいで、
街路にあった桜の木も花が咲きはじめていました。

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ということで劇場到着です。
今日のお芝居は、「巌流島」。

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もうタイトルからしてチャンバラのお芝居、というのが
想像できます。
前回は「女の一生」だったので、落ち着いた芝居でしたが
今回はそりゃ活劇になるでしょうとも、というような
タイトルでございます。

お芝居のチケットはスマホ画面に購入者の名前入りで

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表示されて、それを入り口で見せます。そうしたら、丸いハンコの
ようなものを係の女性が謙介のスマホの画面に
タッチをします。そうしたらTHANK YOUという表示が出て
入場をした、ということになりました。
もうチケットレスの世の中でございます。(紙のチケット
記念に置いておきたかったのにぃぃぃ)まぁ世の中は
そんなことを許してくれないようなことになっています。


主演は宮本武蔵が横浜流〇で、佐々木小次郎が中村隼〇という
キャストでございました。
開演が11時半。それで、12時20分まで前半の
芝居があって、12時20分から50分までが昼食タイム。
(これが文字通りの幕の内ですね)
12時50分から14時30分までが後半の芝居
という時間ですね。芝居の始まる前にちょっと立ち上がって
周囲の席の状況を見ました。入りますと満員御礼のプレートが
掲げてありました。男女比は、女性8割、男性2割という
ところでしょうか。男性はやはり観劇料金がそこそこする
こともあってか、若い男子は皆無で、
おっさん度数の非常に高い状況でした。
(まぁ自分もそのおっさん度を構成している一因な
わけですが)

以下お話の概要です。
関ヶ原の戦いが終わって、世の中の流れは東軍の
徳川の世の中になろうとはしていましたが
まだあちこちに敗残侍がいて、そうした連中が
村々を襲い、折角百姓が作った米を強奪する
ということが頻繁にありました。
そうした米を強奪されるのを防ぐために
とある村が雇った侍の集団として
宮本武蔵と佐々木小次郎が一緒にいたわけです。
その年も秋になり、米の収穫がありました。
無事に倉庫に入れた米をやはりこの年も
徒党化した野武士が強奪に来たのでしたが
村から雇われた小次郎・武蔵たちが
その集団を征伐して、米を守りました。
ところが、米が無事に守れた、となると
その村の村長(むらおさ)は小次郎・武蔵たちは
用済み、とばかりに別の武士団に彼らの始末を
依頼します、が、その依頼された武士団を
征伐してしまいます。
村に用済みとなった集団は解散し
それぞれ散って行きます。
ここで前半が終了です。

客席で飲食可なので、
お昼の時間になりますしたので、
買ってきていた神戸〇のパンと
家から作ってきていたコーヒーで
お昼にいたしました。
前回、劇場内のパン屋でパンを買って
あんぱんをいただいたのですが、
肝心のあんこが全然おいしくなくて
しかも価格が高かったので、今回は神戸〇のパンに
したのでした。謙介、神戸〇のパンが
好きなんですよね。ここのパンは外れが
そうありません。それと、ここのパンは
食品添加物が少な目、というのも気に入っています。

食事をした後、包装していた袋を捨てに
ロビーに出たついでに、いろいろと観劇のお土産
を見てきました。食事のコーナーでは列ができていました。
やはり外でパンを買ってきてさっと済ませたのは
正解だったなぁ、とか改めて思ったりしました。

後半の芝居は、小倉藩の剣術指南役にまで出世した
佐々木小次郎と、剣の道に迷いを抱えつつ
生きている武蔵が(この間、もちろんいろいろな
葛藤やら、周囲の状況の急激な変化がありまして
最後、巌流島で決闘を行い、
小次郎が斬られて亡くなるまで、というところまでの
芝居です。最後の舞台は小倉だったり、巌流島だったり
するので、よく考えたら、地元が舞台になっている
芝居だったなぁ、と思いました。
(後半の芝居のあらすじは省略します。)
ですが、今回の芝居は本当に満足できるものでした。
最後、出演者の挨拶がありましたが、
文字通りの全員のスタンディングオベーションで
拍手がずーっと鳴りやみません。
一度、「巌流島の公演はこれにて終了です」という
アナウンスがあったにもかかわらず、もう一度、
出演者の舞台登場があって、さらに出演者からの
挨拶があったほどでした。

しかし、本当に役者さんというのは過酷な仕事だなぁ
と改めて思いました。21日は巌流島の公演は
一日2回あるのです。
この芝居、台詞を言っていなければほとんど立ち回りです。
もうこの芝居の中で、いったい何人の人が切り殺されたか
わからないくらいの大立ち回りの連続です。
一回公演するだけで大変なのに、それを一日2回も、
って、本当にこの仕事、好きでなければできない
仕事だ、と思いました。加えて映画と違って芝居は
撮り直しがききません。その芝居が良ければ、観客は
喝采をするし、良くなければ人気は落ちて行くでしょう。

それでも、ラストのスタンディングオベーションは
やはり舞台に立つ人にとってはこの上ない魅力だと
思います。最初の役作りから立ち回りの稽古、演出家に
怒鳴られ、物をぶつけられたりする稽古を経て
稽古が練られていって、最終のリハーサルから
舞台にかけて、いよいよ本公演が来ます。

そして幕が開き、本番が始まります。
全力で走り切った末のスタンディングオベーションは、
本当に身体じゅうを大きな血のうねりが駆け巡るのが
分かります。身体を貫くような感動があります。
それは観る側も演じる側も時間を共有できた者が
その瞬間に感じる大きなショックです。
芝居をやる人、舞台が好き、という人は、
その一瞬のために、その一瞬を感じたくて、
舞台をやっている、というような
ものではないでしょうかねぇ。
芝居を観てきて、そんなことをいつも感じます。

本当に役者さんは大変な仕事だなぁ、と
改めて思いながら劇場を後にしたのでした。

 

 

おまけの考察 劇中、最後の方、横浜流〇が片肌脱いで、(肩とか胸とか 肌を見せた状態)客席に降りてきて、通路を動く というシーンがあるのですが、(もう目の前に横浜流〇の 片肌脱いだ生身がある状態)これはやっぱり観客の 女性とか、同じく観に来ていたゲイのおっさんへの 「ある種のサービス」ということだったのでせうか。 すぐ横を通過していくのに遭遇してしまった おっさんなどは、ふとそんなことを考えたりしたのでした。

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23. 02. 15

エゴイスト 観てきました

この映画、封切が2月の10日でした。
例の秘書官の「同性婚は見るのも嫌」発言の直後の
封切になってしまいました。

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うーん。あの発言については、謙介は「そうだろうなぁ」
ということは思います。世の中、やはり多くの人が
ホモだのおかまは気持ち悪い、と思っているでしょうし、、
そういう人の方が圧倒的に多いのでしょう。だから
まぁ、あれが日本のおっさんの多くの一般認識なんだろう、
ということを思いました。

謙介の場合、父親というのがずーっと家を空けていて
ずっと不在のままでした。家に帰ってきて家から仕事場に
出勤するようになったのは、謙介が中学の2年の終わりに
なってからです。父親は帰ってきましたが、そのころから
子どもって親と口をきかなくなって行きましたから、
父親と一緒に何かをした、ということがない、という
ことでした。それは、父親から男性性ということを
殆ど学ぶことなく大きくなった、ということでもありました。
そのため、やはり「女のくさったの」に始まるその手の差別的な
発言、実際の差別、いじめ、いろいろと受けました。
そんなことはつい10年くらい前まで、そういう言葉を
投げられたことがありました。

そういうことで言えば、ここ5年くらいで、
周囲の見方が少し変わった、というのか、
まぁ人様の口ですから、心の中でどんなふうにおもっているのかは
別として(笑)以前のような言葉を投げられたり、あからさまな
態度を示されるようなことは確かになくなったかなぁ、とは
思います。時々、仕事場に来ているアルバイトの大学生に
LGBTQの問題について、どんなふうにおもっているのか
質問することがあるのですが、、こないだはびっくりしました。
「LGBTQの差別問題をテーマで卒論にしようか、って
思ってるんです」というような話がありました。


彼らの話を聞くと、LGBTQの話がずいぶん身近になっていて
しかも、やはり差別はよくない、という考えになっている、
ということがわかりました。さらに話を聞いてみると、
ここ最近で、そうしたジェンダーの学習が学校レベルで進んでいて
学生の意識もずいぶん変わってきた、ということを感じました。

というような中で、今回、そのエゴイストを見に行ってきました。
謙介の行った回で一緒に見ることになったのは、謙介を除いて
10人ほどでした。まぁ平日午後4時の回でしたからねぇ。
映画のあらすじはここで申し上げるようなことはしません。


ただ、ひとつだけ。
鈴木亮〇演じる斉藤浩輔が、好きだった相手のお母さん
(阿川佐和〇)に向かって「僕は愛がなんなのか
よくわからないです」と言うシーンがありました。
その言葉に対してお母さんは「なんなのかわからなくったって
いいの。それを受け取る側が愛だと思ったらそれは愛だから」
というようなことを答えます。
この台詞は、本当に胸に沁みました。文字通りグッときました。
涙なんかも少し零れたりしました。
謙介なんか、(もうみなさん十二分にお分かりとおもいますが)
面倒くさい性格なので、思ってること、自分の気持ちが相手に
うまく伝わらなくて、本当にしんどいおもいことをすることが
しょっちゅうなわけです。
相手が愛だと思ってくれたら、それでいいのよ、という言葉に
自分の焦燥感が一度に溶かされていきました。
その問、その受ける言葉、この問答を見ることができただけでも
自分にとっては、見てよかった、と思った映画でした、、。

でも登場人物の背景が、自分とあまりに違いすぎて
感情移入はしずらかった映画であったことは確かですが。(笑)

 

 

 

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23. 01. 22

作品の評価について

昨年の10月から今日までだったのですが、うちの近所の美術館で、
青〇繁と坂本繁二〇の展覧会をしておりました。
青木〇の「海の幸」、「わたつみのいろこの〇」も展示される
ということで、展覧会の会期中、2回、見に行ってきました。
青木〇の海の幸は、もうずいぶん前に、一度、謙介の
実家の街で展覧会があった時に見たことがあったので、
今回は2回目、ということになりました。

青木〇の絵を知ったのは、高校生の時でした。
高校生の一時期、日本の近代美術の画集を眺めることばかり
していた時期があって、、その時に青木〇も
坂本繁二〇の絵も集中的に見た記憶があります。

ただ坂本繁二〇については、中学の時に、学校中の
廊下のいたるところに近代の日本の名画が
飾ってあって(岸田劉〇の麗子〇とか
この坂本繁二〇の馬の作品だったかと思う)
それを見ていて、坂本の名前は知ってはいました。
でも、謙介の目を捉えて離さなかったのは
青木〇のほうでした。

というのが、「わたつみのいろこの宮」もそうですが
日本神話に題材を得た作品があったから、ということでしょう。

青木〇は、その才能もありましたし、
自己研鑽に励んで、さまざまに意欲的な
作品を美術展に出品します。
自分は、これで勝負するんだ、と思って
精力的に取り組んだ作品が
期待外れのようなことにしかなりませんでした。
要するに画壇からは、「ちょっとねぇ」という
評価しかもらえなかった、ということなのでしょう。

世の人は、何らかの賞に入賞する、ということに
なると、評価も上げるし、人のうわさにも上ります。
しかし、そうでないと一顧だにしない、という
場合も多いです。 それまで何も言わないでいて
何とか賞をもらったとたん、掌を返したように
ワーワー言い始める、ということです。

小説家でも、芥川龍之介賞とか直木三十五賞をもらったら

急に周囲の態度が変わる、ってありますもんね。

私の書道の先生が前に言っていたことがありましたが、
先生、日展に出していて、最初数年間はかすりもしなかった、
3年連続落選だったけど、審査委員が変わったとたん、10年連続で
入賞するようになった、ということを話していたことが
ありました。その先生最後は日展の審査員までしてましたけど、、。


自分も書道の作品を書きますし、友人には
何人か書家として、活動している人もいます。
なので、いろいろな書道展の審査ということの話をよく
聞きます。

 

たまに大学の時、一緒に字を書いていた友達と
連絡を取ることがあって、「(展覧会に)出してる?」
ということを聞くことがあるのですが、
「出してへんよ」「え? なんで」「謙介、分かってるやろ」
「まぁなぁ、、出す気にならへんわなぁ」というような
会話で終わるわけです。

まぁ、展覧会の審査なんて、そんなものだろうと、
思います。実力とか公平なんて、無理無理の世界です。


展覧会に出して、賞をとろうと思ったら
簡単です。その書道展で有名な先生に弟子入りして
その先生の書いてくださるお手本通りに忠実に
書けばよろしいのです。
高性能のコピー機になって忠実に書けたりすると
もうバッチリです。

一度、書の展覧会に行って作品を見てみてください。
同じ書体、同じ傾向の作品が何点もあるのです。
つまり、先生がお手本を書いて、それ通りに書いた
作品が入賞しているということです。

本来は決してそうであってはいけません。
自分でどの語句を書くか選び、
それにふさわしい字体を、練習の末に
作り出さないといけないのです。
その作品にふさわしい字体は、古典の作品を
下敷きに、そこから、自分なりにその字体を解釈して
行って、新しい書体を編み出す、という作業が必要です。

書道の作品制作をしようとする時に、
有力な先生に弟子入りして、その先生に
お手本を書いてもらって、それを稽古する
ということは、そんなものは邪道です。

ところがそんな姑息なことをする人が
余りに多いのです。だって、先生にお手本を
書いてもらってそれを写すだけだったら
簡単ですもん。そういう人は、基本ができて
いないから、すぐに分かります。

 

書道を習っているとかいう人に、、
お手本以外の字を「この字書いてみて」と言って
他の字を書いてもらうと、
えええええ、どうしてこんな字しか書けないの?
というくらい下手ですもん。

お手本の字しか練習して
書いていないから、応用が利かない。
他の字を書かせたらものすごく下手な人がいます。
結局我流で書いてしまっていて、、、

謙介なんかはそこで、その先生の指導法を見て
しまいますです。きちんとした書作家の
育成をしている人か、適当に自分のお手本を渡して
書かせて出させているだけの人か、ということを。

だからさー
展覧会で入賞するなんて、その程度のもんだよ、
と、今の謙介だったら、青木〇に言ってあげて
いたと思います。

あなたの絵は素晴らしいですよ。
決してしょげることなんてないのです、とも。

でも、それで入賞したら、世の中の評判も上がって
あちこちから引き合いが来て、
作品を多く描くことができて、、、ということに
なっていたかもしれませんね。
世評は侮れない、ということなのでしょうか。
結局のところ、世間の大多数なんて、やれ
何とか賞をもらった、ということでしか
評価のできない、という人が多いのでしょう。

客観的な一つのポイントではあるかもしれませんが
それが評価のすべてでもないでしょうにねぇ。
やれやれ。

そんなことを思いながら謙介さんは
国の重要文化財に指定されている
青木〇の「海の幸」と「わたつみのいろこの宮」
眺めていたのでした。

 

 

 

 

 

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21. 07. 16

二人の知事の話

島田叡という知事がいた。
沖縄県の最後の官選知事で、1945年の1月に赴任した。
折しも、赴任後米軍の沖縄侵攻に遭い、
首里の防空壕を出た後、南部へと移動して
その間いくつかの壕を転々とし、
最期は、消息不明のまま、今もどうなったのか分からない。

その島田知事と交代で離任したのが泉知事。
この人は、最初こそ、勇んで那覇に着任したけれども
沖縄の県民性や、全てが軍の支配下で、知事の意向が全く
通らないことで、すっかり失望してしまい、
最後は異動活動を行った末に、1945年の1月に香川県知事と
して高松に異動になった。
この知事、すでに沖縄が米軍の攻撃を受けるのは必至であったので
いやしくも公職にあって県民の規範となるべき人が
その前に「わが身大切」で逃げた、ということで
すこぶる嫌われている。(そうな)

逆に、あの戦いのさなか、最後まで県民と運命をともにした
島田知事は、慰霊碑はあるし、毎年のように追悼祭が行われていて
非常に評判が高い。
たまたまこちらで、その島田知事が県知事になって
最期を迎えるまでのドキュメンタリー映画が上映されていて

Origin
見に行く機会があったので、この二人の知事の評伝を
集中的に見てみた。
泉知事のほうは、彼の評伝として、

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という本が出ている。
二人の知事を題材とした作品を見て、
泉知事をあしざまに言うこともできないし、
かといって島田知事を無条件でたたえることもできない、
と思った。
あの米軍の沖縄侵攻を前に、在沖の日本軍の指揮官は
住民のことなど全く考えず、(まぁ軍隊ってそんなもの、と
言えばそうなんだけど)自分たちの作戦のことしか頭になかった。
しかも全体命令を出していたのは東京の大本営で、
実際の沖縄の状態なんて全く分からない、分かろうともしないで
机上の空論そのものの命令はしてくるし、現地軍は現地軍で
住民なんて、単なる牛馬の代理の労働力もしくは婦女子は
足手まといの不用品としか思っていないし、まぁとにかく軍が
ひどかった。そのとばっちりをまともに受けたのが知事であり
沖縄県であり、県民だった。
そんなもの、誰が知事をしてもダメ、という状態であったのだと思う。
もしも戦争がなかったら、泉知事も島田知事も、
まったく別の、運命があっただろうに、と
思う。


島田知事の奥さんは、戦後は大阪から東京に出て
電話も引かずに、誰とも連絡を取ることもせず、遺児となった
二人の娘を独り立ちさせて亡くなったらしい。
今なお顕彰されているほうの島田知事にしても、
「たくさんの県民の命を奪いやがって」
という怒りというのか怨嗟の声を遺族は聞くことになったらしい。


映画のタイトルは、島田知事が南部に行くようになって
周囲の人に言って回った「生きろ」という言葉から
来ているらしい。 しかし、実際に、県知事の
いろいろなところの挨拶として島田知事は
県民への戦争参加を呼び掛けたし、その結果
何万という人が戦闘の犠牲で亡くなっているわけで、
いくら身近な人に
生きろと言って回ったとしても、住民が犠牲になった
ことには間違いがない。
そういう意味で、「生きろ」もないもんだろうに、と
思った。もっと別のタイトルの方がよかったのでは、
ということも思ったりした。

しかし、それにしてもあの戦争というものが
なければ二人ともどんな人生を歩んだだろうか、と、

そう思いながら劇場を出たのだった。

 

 

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19. 04. 02

書いてみました

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もうすぐ平成の時代も終わりますね。
個人的にはいいことなんて、大してなかったなぁ。
つらいことのほうが断然多かった時代でした。

 

でも、この先もあんまり変わらないような
気もするし、、。

 

まぁちょっとでも景気づけ、と思って
赤くて金箔入りの紙で書いたみました。
字がめでたそう。(墨が薄かったですねぇ。
もうちょっとすったらよかった)
Img_6655

「令和」って、楷書で書くより、断然隷書体のほうが、
映えますね。 楷書はありきたりすぎて面白くないです。

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18. 11. 30

感想を求められたので。

何人かの方から、某女優さんが
最近ご入籍された時に告知したとかいう
自筆の文書の文字について、
感想を求められました。

実は全然見ていなかったのです。
そうしたら、達筆とか、すごいとか
いうコメントがあったので、慌てて
見てみた次第です。


感想ですか?

「いいなぁ、ああいう人って、
お顔も美しいけれど、文字も美しい、とか
言ってもらえて。」
というのが感想でした。

謙介なんか、「顔は全然いけてないけど
文字は美しい」とか、「字だけはきれい」
「字はいけめん」なんて、言ってもらったことなんて
ないし。

ぶつぶつ。

え? こんな感想じゃダメ?

その某女優さんの文字を拝見しました。
見て思ったのは、

うわー 性格きつい人やなぁ、
ということでした。

もうね、文字がピンピン跳ね回っているし、
やたら文字の右上がりが激しいし。
字からしてツンケンしている、という
感じです。

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すごく自己主張が強い、きつい性格だろうなぁ
というのが文字から読み取れました。

その某女優さんの文書の最初の部分を、
謙介が書いてみたんですけど、

Img_5501_2

筆記具は近所の某銀行でもらった
ボールペンで書きました。
あ、謙介、洋物の文房具の場合は
全然こだわりはありません。


ボールペンだと、
線に抑揚とか表情がつけられないから、
字形で表情を見せる工夫しないと
いけませんね。

筆記具も違うし、紙も違うけれども
字の雰囲気はだいぶん違うでしょ?


字の中で右上がりにした字もあるんですが、
あまり右上がりを目立たせないように
した字もあります。

一字、一字を見るのではなくて、
こういう文章の場合、文字群で
見ます。そこから受ける印象は
どうか? という


まぁ、それを「個性」というのだと思いますけれど。

まぁお相手が外国の方とのことですから、
自己主張は強めでいいのかも
しれませんねぇ。

それに女優、という仕事であれば、
表現をする際に核となるところに
強い部分があって、
自分を支えないといけないので
ああいうきつめの女性じゃないと
いけないのかなぁ、
とも思いました。


え? それでも感想になっていない?
あの字は上手なのか、下手なのか?
が聞きたいって?

ふふふふ。

それで、どうなのさ?

いや、まぁ、はぁ、
自己流のくせのきつい字だなぁ、と
思いましたです。

達筆と、というのではちょっとないなぁ、と
まぁ全然いけてないただのおっさんが言っても
説得力がありませんけれども、
まぁそんなとこです。

と、いうことで、
謙介に訊かれたことについての責めは
果たせましたかねーぇ?


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18. 01. 24

あかがねミュージアムへ(その2)

先日、旅行会社からダイレクトメールが来て、、
あけてみたら、農家ロッジで癒しの旅、という
お話でした。

ひなびた農村にあるロッジに泊まって
農村の暮らしを体験しつつ、
心を癒す、ということだそうです。

前にも言ったように、
うちの仕事場の前に止まるバスなんて
1日4本しかないのですよ。

大体が、
虚子の句に「遠山に 日のあたりたる 枯野かな」
っていう句がありますが、それを詠んだのが
うちの仕事場の辺の情景ですからね。

いまだって遠山に一面の枯野ですよ。

そーんな農村に住んでいる人が、
なんだって環境の同じようなところに
わざわざ行って、似たようなことを
しないといけないのか。

こちらにとってみればたまに都会の
真ん中に行って刺激をいただいて來る、
というようなことのほうがいいので、、
田舎にいる人間がそのまま平行移動して、
同じような場所に行ったって、、
何がどうなる、というのでしょう。


田舎に行けば、癒される、
と一方的に思っていること自体、都会人の
傲慢というのか、過度な思い込み、
というような気もします。


ぶつぶつ。

さて、話をあかがねミュージアムに戻しましょう。

この美術館、最初は外壁の銅板も
ピカピカに光っていたわけですが、

それが2年経って、経年とともに、落ち着いた色合いに
変化をしていったのです。
Akagane3

館内のアプローチです。
なんだか雰囲気がニューヨークのグッゲンハイム美術館、
みたいな感じでしたよ。(笑)
Akagane4


美術展ですが、小磯の作品群に圧倒されました。
彼が藝大の学生だった時に卒業制作として
描いた自画像からはじまって、
旧太陽神戸銀行の本店に架けてあった
「働く人」 ドガの影響を受けていながら
しっかりと小磯の絵となっていた
バレリーナを描いた連作。

どの作品もどの作品も、
時間をかけてゆっくりと見て行きました。
どうしてもっと早く来なかったのか。
そうしたら、何度か繰り返して来れたのに、
と後悔をしながら、それでも時間いっぱい
見ることができました。

終わって1階の市民ギャラリーに行ってみました。

Akagane5

ここでは新居浜市内にある、市民に永年愛されてきて
今やソウルフード化した食べ物を売っているお店について
いろいろな人が写真とともに紹介している、という
写真展でした。
お店の表示の下には、市民の方々が
シールを張る空間がありました。
「私も同意」というときはそこにシールを
貼る、ということになっていました。
下の写真の電車の絵のある上に所に赤いシールが
無数に貼っているのがお分かりいただけるかと思います。
Akagane6

市民最初はこのお方。
Akagane7

美術館の一隅には「太鼓台」を置いてあるコーナーが
ありました。
新居浜と言えばこの太鼓台が、市内各地区に必ず1台は
あって、それが町中を練り歩きます。

Taikodai
でね、この太鼓台同士を時にぶつけ合う、というような
ことをするわけです。
もちろんそれは危険行為で禁止されています。
でも、祭りの時は、血が騒ぐ、というのか、
新居浜の兄ちゃんたちは
忘我の境地で、いてまえー、ということでやっちゃうのですよ。

で、そんなことをすれば、ひどい時には死人が出ます。

それくらい荒っぽい祭りなのです。

北九州の祭りもそうですが、
工業地帯の街の祭りというのは
やっぱり荒っぽい、というところがありますねぇ。

すっかり堪能をして美術館を後にしました。
美術館の向かいは新居浜駅です。

駅に「桃太郎」電気機関車がとまっていました。
Momotaro


そして、新居浜を後にしたのでした。


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18. 01. 23

あかがねミュージアムへ(その1)

日曜日、前々から行こう行こうと思っていた展覧会が
いよいよその日で終わる! ということになって、
こりゃいかん、と思って美術館に行ってきました。

新居浜の美術館です。
正確には、美術館も入っている建物、
というところですかね。 
美術館と、市民スペースと、小ホールが
入った複合型の文化施設、ということなのだそうです。

愛称は市民の募集から決まった
「あかがねミュージアム」

Akagane

「あかがね」とはやまとことばで、「銅」のこと。

いうまでもなく、この新居浜にはかつて別子銅山があって、
銅の産出、加工で、住友財閥の基礎を作った街でした。
土地のお年寄りは、住友、と呼ばずに
住友の屋号であった「泉屋(いずみや)」で、呼ぶことも
あります。

今ではもう銅の産出はできなくなってしまいました。

いえ。まだ銅の資源はあるのです。
ですが、地中の熱が50度とか60度あって、もう人力での
銅の採掘は不可能になってしまったのです。
それで閉山せざるを得なくなった、ということだそうです。

しかしやはり新居浜、と言えば別子の銅、
ということでこの愛称になった、ということだそうです。

この美術館で、かつて小磯良平と、地元の新居浜の画家たちの
間に結びつきがあったとかで、その関連を中心とした美術展が
開催された、ということなのでした。

Koiso
具体的には、
新居浜に画家の研さん組織があって、その講師として
小磯が招聘されて、何度か来て、講師をした、という
ことがあったそうです。

そのために今回の展覧会は小磯の有名な作品、
小磯に指導を受けた地元の作家たちの作品
というのが併せて展示された、というものでした。

もともと新居浜には、旧市庁舎を流用した
市立美術館があったのですが、
もともと市庁舎でしたし、建物も老朽化していたので
美術館をつくる、というのが構想としてありました。

JR新居浜駅前に、最初はホテルと
同居するような建物、ということで設計されていたかと
思います。しかし、ホテルと同居するような美術館なんて、
ということで美術館は美術館で、という単独で
造られることになった、ようです。


それでいざ建設になったら、今度は建設費用で
すったもんだがあったようです。
というのが、ほら、今、東日本大震災とか
日本の建設工事の職人さん自体の減少で
建設関係の人手がすごく足りない、という状況です。
で、市が競争入札にかけたのですが、

それが全然不調に終わってしまって、、
確か3度か4度競争入札を行ってようやっと
建設業者が決まった、というような新聞記事を
読んだことがありました。

今、どこも大変ですね。
それでようやっと、待望の美術館が出来上がった
ということになりました。

前の美術館は市役所の横で、市の中心部だったのですが
今度の美術館は、街中からちょっと離れたJR新居浜駅前に
あります。

大体、鉄道の駅なんて、昔は迷惑施設だったので
(列車の音がうるさい、蒸気機関車の火の粉が飛んでくる
同じく蒸気機関車の煤煙が飛んでくる、臭い。)
街の中心部から離れていて、土地の値段も安い
場所につくられる、というのが普通でした。
なので新居浜の駅も街の中心からはちょっと離れた
場所にあります。
その駅前に美術館ができました。

↓これが美術館の外観です。外回りは文字通り銅板葺で
造られています。
Akagane1

銅板部分を接写してみました。こんなふうな銅板です。
Akagane21


こちらが竣工時。 銅板の色がまだピカピカでした。
Akaganenew

やがてこの銅版が、さらに色を変化させていくのでしょう。
そうしたら、また美術館の雰囲気が変わってくるように
思います。
変化する美術館、ですね。


長くなりそう(笑)なので、今日はいったんここで
措いておきたいと思います。

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