自分のこと

09. 02. 04

ドラマのはなし2つ(その2)

そして翌日、日曜。
駅前のホテルでお話の会をします、というので
行ってきました。
知らせをもらったのが去年で、それから抽選があって
参加者が決まる、ということになっていました。
申込をして最初は気にはなっていたのですが、
そのうち年末で仕事が忙しくなって、
すっかり忘れたころに、ひょっこり
入場券が送られてきたのでした。

お話の会の話者は高畑さん。
高畑さん、というより、去年の大河ドラマ篤姫の本寿院さま役
の女優さんといえば、話は早いですかね。(笑)


Chirashi1

お話の会の始まるのは10時半でしたが、9時半受付開始というので
ちょっと早めに家を出ました。
駅に着きました。
ここは九州の門司港駅と同じ、ターミナル駅の造りです。

Takamatsusta


何か日本ではターミナル駅、というと、四方八方から
鉄道だのバスが集中する駅のように思われていて、
ターミナル、っていう単語本来の意味の言葉が
ちょっと違う意味で遣われているように思います。

ターミナル、というのは、「終着」ですよね。
だから、俺が行っているがんセンターでも
医学・医療用語としてターミナルケア、という言葉が
出てきたりします。この場合の訳は、だから
「終末期介護」となっているようですが。
あ、うちのブログも、「終着」だった。(笑)

終着駅がターミナルのはずですが、
やっぱり外国語を日本語に移すとどうしても
ちょっと違った意味になってしまいますよね。
エスニック料理だってそうですよね。
日本人がエスニック料理と言えば、日本の民族
の料理だから当然和食、ということになるわけで、
だから、本来ならほうれん草のおひたしとか、
子芋の炊いたんとか、お味噌汁にならないと
いけないわけですが、どういうものだか
この国でエスニック料理というと、
東南アジア方面の料理になるのが
不思議なことです。 まぁいいや。


発着の列車を眺めていたら、どんどん時間が経って
しまったのであわてて会場に行くことにします。
(だってどんどん列車が出発したり、到着したりしているの
見るの、飽きないんだもん。笑) あわてて移動です。
途中、バスターミナルの前に来ました。


Takamatsusta2


この場所は、ムラカミハルキの小説に
出てきますんですよ。

こんなふうに。

 「ほら、着いたわよ」と彼女は言う。
  僕は座席の中で身体をのばし、手の甲で
 目をこすり、それから窓の外を眺める。たしか
 にバスは駅前の広場みたいな ところにとま
 りかけている。朝の新しい光があたりに満ち
 ている。まぶしいけれどどことなく穏やかな光だ。
 東京の光とは少し印象がちがう。僕は腕時計 
 を見る。6時32分。
  彼女は疲れきった声で言う。「ああ、長かった。
 腰がどうにかなってしまいそう。首も痛い。夜行
 バスになんかもう二度と乗らない。少し値段が
 高くても飛行機にする。乱気流があろうと、ハイ
 ジャックがあろうとぜったい飛行機に乗る。」

        海辺のカフカ 上 第5章 53ページから


そりゃ、東京から13時間バスに乗ったらしんどいと思います。
それでこないだ謙介は東京日帰り、飛行機にしたんですけどね。
何せ成田からニューヨーク行くのと同じくらいですし。(笑)

さて会場に到着です。
受付で入場整理券を渡し、好きな場所に着席します。
まだ時間が早かったせいか、前のほうが
空いていて、謙介の席は、前から4列目の、
中央からちょっと右側というあたりでした。
やっぱり早く来て正解でした。
席が自由なので、先に来た人は
みんな前に座り、後から来た人はやはり後ろ、
になってしまいます。会場は階段式のホールではなく
平面の客席ですから、後ろでは見づらい、という
ことになりますし。

さて、時間が来て、お話の会がはじまりました。
主催者の挨拶、話者紹介があった後、高畑さんが
会場に入ってこられました。いきなり演壇で、という
のではなくて、後ろからひょこひょこ歩いてこられたので
みんなびっくりです。
黒の襟のないブラウスに、朱色のタイトなスーツといういでたち。
かっこいい。

司会者のおばさん(おばさんでゴメンね。いや、
多分年齢的には高畑さんより司会者の人のほうが若い
とは思うんだけどさー、でも精一杯やつしても、片方は
田舎の山出しのおばさんで、片方は洗練された人なんだもの。)
はぁ。洗練とはこういうことを言うのか、とその極端な
差に、まずちょっとびっくりしたのでした。
スタイリストが付くとやっぱり全然違います。

それから、高畑さんのお話がはじまって、
もうひとつ謙介がびっくりしたことがありましてですね。
それは高畑さんの声がすんごく若い、ということ。
もうねぇ、30代でも十分通る声でした。
やっぱり舞台からスタートした女優さんだけに
声がよく通るんですよね。発声がしっかりしていて
ノドからだけでなく身体全体から声が共鳴して
出ています。全然声の出が違う。しかも声が美しい。

と、いうことは篤姫の本寿院の時の声というのは
作っていた声だった、ということか、と思いあたったのでした。
で、最近風邪が流行っている、という話になって
なんと驚いたのは、あの方、一日に40回うがいを
するんだそうで。げほげほ言ってる人が横を通ったら
もうすぐ、うがいなんだとか。


あ、そうそう篤姫の話もありました。
篤姫の話は一回の収録は45分の一回分なのだ
そうです。(今、4月からの朝のドラマの撮影を
しているのだけど、朝ドラの一度の撮影は一週間分
90分 まとめて撮るのだそう。「気がついたら、篤姫から
こっち、私、もう1年以上、ずーっとNHKに通っています。」って。)
だけど、大河ドラマは、撮影が早朝から深夜、2時3時までになって
しかも、ずーっと頭にかつらをつけてあの本寿院の
格好でいないといけないので、もう夜中になると
気分が悪くなる、ということでした。
頭のかつらも、あれは、単にかつらをスポッとかぶって
いるのではなくて、地毛をアップさせたものと、かつらを
一緒にまとめているので、かつらだけ脱ぐこともできなくて
「横になることだってできないんだからー。」ということでした。 
それで、やはり年とったオバサン連中から順番に
気分が悪いと言い出すんだそうで。
「ふらふらする。」って言いだすのは、大抵
「私か松坂(慶子)さんでしたわ。」だそうで、
爆笑になりました。

お話の中で、一番印象的だったことが
やはり人生の中でいろいろと失敗があった、
時のことでした。
とりあえず29歳まではこの仕事(女優)を
しようと思っていた、でもいつも着ぐるみでヘビのシッポの
役ばっかりだったそうです。なかなか芽が出なかった。
あるとき芝居で共演した加藤健一さんに言われたそうで。
「キミの芝居はまずいところもない代わりに
おもしろいところもない。」と言われて、それで
考えたんだとか。「自分で芝居を楽しんで、それを人に伝えようと
しているか? 」となったら、注意されたり、指導されたことは
きちんと直すばかりで、それ以上のものがなかった、
ということに気がついた、と。
そこで、そういう何かを目指すことにした、
ということでした。
でもやっぱり失敗してへこんで寝られない夜が
続いた、とか、役を他の人に奪われて
悔しい思いをした、とかいうお話もあって、そういう
失敗をしたり、不本意な思いの中からそれでも立ち直って今に至った、
という話は強く俺の心に響きました。

後、聞きたかったのが、台詞をどうやって覚えるか、
ということでした。テープレコーダーに入れて、
もう時間があったら、繰り返し聴く、
ということからはじまって、家事をしながら相手の
台詞だけ吹き込んだテープを用意して、自分の台詞を
言うようにする。」ということでした。
家で、きゅうりを切りながら「おのれ篤姫ぇぇぇ」なんて
やってたそうです。考えたらすごいことですね。
煮物の味見なんかしながら、「それでご老中はなんと、、」
なんてやっているわけですから。

それから、少しご家族のことになりました。
高畑さん、家に戻られたら、思春期の子どもを
抱えるお母さんでもあります。思春期で
情緒不安定な子どもと、更年期でこれまた情緒
不安定な親が一つ屋根の下で
毎日やりあっているんです、という話でした。

でも役者の生活は大変で、出演が決まっていたドラマが
急に製作が中止になったので、あてにしていた
収入が入ってこなくなって、そのために子どもの塾を
やめさせてしまったりしたこともあった、とか。
ああ、みんないろいろとしんどい中でやりくりをつけながら
それでも仕事を続けているのだ、と思いました。

それから昨年の藝術祭参加ドラマの「告知せず」の話に。
あのドラマでガン発見が手遅れになって全身に転移して最期を
迎える奥さんの役をされましたけれども、実はあれは
高畑さん、おとうさまを3年前に膀胱がんで亡くされていて
その時のおとうさまの最期をそのまま演技にうつした、という話でした。

小さな街医者にずっと通って、きちんきちんと薬を飲んでいたにも
拘わらず、街医者で設備がなく、十分に検査をしてこなかったので
やっぱり急速に体調が落ちて、大病院に行ったら、もう末期の膀胱がんで
助からなかった、ということでした。そのおとうさまの姿を
重ねて、演技された、ということでした。
あ、だからかぁ、、と謙介は分かったのでしたが。
でもね、俺、やっぱりそこですごい、と思わざるを得なかったです。
親が亡くなろうとしているところを、片方で看取りながら
片方で冷静に観察をもしていた、ということですね。
それは客観性がないとできないことです。
どこかで醒めた部分があって、それがずっと活写していた。
その研究熱心さ、があるから、ここまでになられたのだなぁ
ということを俺は思いました。

そんなお話をされて、時間があっとい間に過ぎてしまいました。
それでは、ということで、お話の時間は終了したのでした。

      ×       ×       ×

月曜に恒例のガンセンターに行く。
採血の結果を見せてもらう。
やっぱりすい臓に問題がねぇ、、とのことらしい。
血清アミラーゼの値が良くない。
まぁねぇ、東京日帰りなんてムチャをしましたですし。
自業自得だ、と自分でも思ったけど。

しばらくはうろうろしてはいけない、とのこと。
はい。自重して静かに過ごします、と返事をした。
自分のしなければならないことを考えると
やはり体調をこれ以上悪化させることはできないし。
後は中央処置室で採血をして帰る。

さて、節が分かれ目が訪れて、翌日。
春が立つ日。
今日から本当の意味での新しい年になった。

目には見えないけれど地面の下で、木々の内側で
自然は、「その次の準備」を黙々として用意している。
そういう地道な作業って自分としては好きだ。

昼、少し用事で外出する。
寒いのは寒いのだけど、
ほんの少し、先月とは違った
春の気を感じた。

自分の方向性についてもよく考えて
また、その準備もはじめなくては。
そんなことをぼんやりと考えながら
家に戻ったのだった。


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09. 02. 02

ドラマのはなし2つ(その1)

土曜の晩、食事が終わって、実家にいた謙介は
ちょっとテレビなどつけて見ていたわけですよ。

そうしたら、NH○土曜時代劇「浪速の〇オガタコーアン
なんたらかんたら」、というのが映ったわけです。

オガタコーアン、と言えば、岡山の足守の出で、
大坂で適塾を開いた人ですね。
この適塾が次第にハッテン、あ、いや(笑)
発展して大きくなったのが阪〇の医学部。

なので今でも阪〇は、オガタコーアン先生を
学祖と仰いでいます。
で、時代は下り、この阪〇医学部を仮想して作られたドラマが
白い巨〇だったりするわけです。
だからオガタコーアン先生が適塾を作らなければ
財前教授も出てこなかったのかも。(笑)


さて土曜の晩のドラマです。
でも、オガタコーアン先生が捕り物の
片棒、、なんて、もうめちゃくちゃな設定やなぁ。(笑)

このドラマ、浪速のなんとか、というくらいですから
たぶんNH〇の大阪が作ってるんでしょうね。
見ていると近畿地方のあちこちでロケをしているのが
わかります。
31日のドラマも、奈良の薬師寺で撮影していたかと
思ったら、今度は場面が変わると、一転して
京都の大沢池が映りました。


大沢池。


前に謙介のサイト「百の扉」のほうで
1度ふれたことがあるのですが、
今日は大沢池のお話をします。

春4月ごろのことだった、かと。
桜も名残の桜で、まだ少し花が残っていた
ある月の美しい晩のことでした。
謙介の家に史学科の友達Mくんが遊びに
来たわけです。

「まいど。(なんだか、だぶるぴーすの陸くんみたいな
挨拶ですが。笑) どこか行かへん? 」
「行くいうて、どこに行くのや? 」
「ほら、だから、お月さまがきれいだから、月を眺めに、、。」
「それ、ええなぁ。」
「あ、そうしたら、Nを誘ったらええねん。あいつ、車持ってるし。」
「おお。ドライブ! 」

ということで、二人は双が岡の西、俺の実家からそう遠くなかった
Nくんの下宿に行くことに。
Nくんの下宿に行ったら、イン哲専攻の(インド哲学は
略してイン哲って言ってた。)先輩Oさんもいました。
「お月見お月見お月見。行こう行こう行こう。」
「うるさいなぁ、、分かった。」
「ドライブドライブドライブ。」
「じゃかましいわ!われ! 
ちっとは、黙っとらんかい! 」
「どらいぶぅぅぅぅ。」

ということで、謙介とMくんとNくんとOさんと
「あ、そうしたらついでにWさんも誘おう。」という
ことになって、5人のドライブは、スタートしたのでした。
口うるさい文系学科のおとこ、5人が乗ってるわけです。
もうその道中のやかましいこと。(落語でよく言う
「その道中の陽気なこと」なんていうような、かわいらしいものでは
ありませんでした。文系の弁の立つというのかうるさい連中が
5人も集まったのです。それはもう、やかましいったらありません。
「そうしたら、まず、どこ指して行ったらええねん。」
「吉野(奈良)!」
「長浜(滋賀)!」
「六甲山(神戸)!」
「どこでもええ。」
もうみんな口々に叫びます。
船頭だらけですね。まったく。
船頭が多くて、船なんてチョモランマの頂上まで
登りそうです。

「分かった。ほんなら、嵐山。」
「えええええええええ。あらしやまー。
そんなんやったら、行き先聞くなや! 」
「やかましい。」
ということで、行き先は奈良でもなく神戸でもなく
滋賀でもなく、同じ京都市の右京区内の嵐山に
なってしまいました。」

車は新丸太町通りを西に走ります。
突然、Nくんが言い出したのです。
「なぁ、戦闘機乗りに行かへん。」
「え? 」
「あそこ、外から入れるし。」

そのころ、嵐山に嵐山美術○という施設が
ありました。(まんまやないか。)
で、そこは、第二次世界大戦中の
日本の戦闘機を集めて、展示をして
いたのです。(今はもうありません)
そこの屋外展示されていたのに乗ろうという
ことらしいのです。
「それ、おもしろそうやなぁ。」
と誰かが言いました。
「行こう行こう!」
勢いで衆議一決です。(ほんまに、、、。)

今もありますが、嵐山駅近くに嵐電の立体交差の
ガードがあるのですが、その脇に車を停めて、
晩の美術館に入ったのでした。
飛行機は置いてあります。
「わぁ、かっこええなぁ! 」
「俺も乗る~~。」
世間は夜中の1時ごろです。
ひとしきり交代でみんな乗りました。
「次はどこ行こう。」
「お月見お月見お月見。」
「うるさい。分かった分かった。」
「どこ行くの? 」
「そらお月見と言えば、大覚○やろ。」
ということで、われわれはその道路を今度は北に直進して
大覚○に行ったわけでした。

大覚○の東側にあるのが大沢池なわけです。
ここは、中国の洞庭湖を模して作られた人工の湖(というか池)
です。大覚○は夜中ですから当然入れません。
ですが、池のほうはそんな柵なんてありません。
岸辺に行きました。
そこに屋形船が1艘もやってあったわけです。


Osawapond


(写真では2艘ですが、あの時はひとつだけでした。)
「乗ろか。」と誰かが言いました。
「お月見お月見♪」
そうして、屋形船のもやい綱を外して、さおで
池の中ほどまで漕ぎ出したのでした。
イン哲のNくんは謡をするので、屋形船が
池の中ほどまでくると、謡をうたいはじめました。
空には月。屋形船に乗って、それはそれは優雅な春のよ、、、
いになるはずだったのですが、アコギで優雅な時間は
そう長くは続くわけがありません。


程なくして夜警の人に見つかってしまいました。
(そりゃ見つかるわ。池の真ん中で夜中に謡を
うとうてたら。)
夜警の人が、懐中電灯で船を照らしました。
みんな、さっと、伏せます。
その早いこと。

「どうしよう。」
「退却や。」
「どうやって、、、」
と言う間にMくんが作戦を考えました。
「あのな、この池の北東のほうに一回
漕いで岸に近づけるねん。」
「ふん。」
「そうしておいて、今度は一気に南西方向に
船を漕いで、岸につける。それしかあらへん。」
「うまいこと行くやろか。」
「それしか方法はない。」
「櫓は2つ。あ、竹の棒があったわ。」
「この3つで全速力や。」

そうと決まったら、Mくんの言うようにします。
まず、屋形船を北東の方向に漕いで、
夜警の人をそっちに引き寄せます。
懐中電灯で顔を照らされましたが、みんな必死です。
そうしておいて、もうちょっとで岸に、というところで、
今度は南西方向に船を漕ぎます。
もうみんな必死のかりこで漕ぎました。
船が最初は思ったほど進まず、みんな焦りまくりでしたが
やがて勢いやら加速度がついて、早く進むようになりました。

岸がだんだん見えてきました。もうちょっとです。
もうちょっと。夜警の人の懐中電灯はまだ遠くのほうで
チカチカ光っています。
もうちょっと。この数十メートルがどれくらい
長く感じられたことか。
やっと岸に着きました。
船から飛び降り、みんな走って車のほうに。
エンジンをかけて車は
走り出しました。
大覚○はみるみる遠くなっていきました。
「あーあ、焦ったなぁ。」
「せやけど、おもしろかったわ。」
「またやりたい。」
「お前だけ行け。」

口々にわぁわぁ言いながら、今度はまた
途中の広沢池でお月見です。

すっかり春の宵のお月見を堪能
して、再び家に戻ってきたのは、
さて、春の夜もそろそろ明けかけた頃だった
でしょうか。

そんなことが大沢池であったわけです。

で、そのドラマを見ながら、そんなことを
思い出していました。

ドラマは、引き裂かれた異国人の兄妹の
話です。哀しいお話でした。

ドラマの物語を見終えて、
しみじみと終わるはずだったのに、謙介は
最後のエンドロールに来て、
あははははは、と笑ってしまいました。
もう大笑いです。
哀しいお話はどこへやら。


何が爆笑かと言って、このとき屋形船で
逃げ方を立案したMくんが、
そのドラマの時代考証を担当していたのでした。


あいつ、どんな顔して、このドラマの打ち合わせ
してたんやろ。


おそらくはクソ真面目な顔をして
スタッフからの話を聞いていたに違いない。(笑)
やかたぶね? え? なんのこと? とか。


遠く春の宵の霞のかなた
今ではもう昔のお話です。

(今日聴いた音楽 果てなく続くストーリー 歌MISIA
 2002年盤)


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06. 10. 22

改めましての自己紹介

場所も変わったので少し自己紹介を(サイトからの転記ですが)

●ハンドルネーム 
 謙介 

●誕生日     
あの日、もう誕生日、という歳でもないし、大したこともなくて淡々とした一日が
終わろうとしていました。 寝る前にテレビをつけたら、ニューヨークのワールド
トレード・センターに飛行機が突っ込んでいる絵が映って中継放送中に崩壊した、
あの日です。  
 
●いくつかのキーワード 

・音楽
大体なんでも聞きます。ジャンルは問いません。浄瑠璃からローリングトーンズまで。

・韓国・中国 
両方とも前にしばらく住んでいました。 好きな部分もあるし、ものすごく腹が立つとこ
ろもあるけど、多分根底では好きなんだ、と思います。(そのくせ、ほとんど褒めませ
んけど。)
まぁ、なので、このブログの日付表示もハングルになっていたりします。

・文字を書くこと

Top2thumb

俺には、二つの意味があります。文章としての文字を書くことと「文字としての書作品」
を書くことです。文章としての文字については、サイトにリストがあります。このリスト
には、ゲイをテーマとする小説だけ載せてあります。最近は純文学の小説を書いてい
るのですが、それは載せていません。大体一年に一つは小説を書いて発表しようと
一応の目標をたてているのですが。なかなか、目標どおりにはいきません。大学は
国文学科などというところに行ったので、やっぱりいろいろな人の文章とか文体、っ
ていうところに目が行ってしまいます。
ちなみに好きな作家は、金井美恵子と高橋たか子。知らない人が多いかもしれませ
んね。(笑) 高橋さんのご主人だった高橋和巳も好きです。外国だったら、トーマス・
マンかな。基本的に文体重視だと思います。多分。

・歌舞伎 
大学院の時、二年間「近世演劇史研究」の授業で、鍛えられました。でもそれ以前か
ら京都に住んでいたときは、四条の南座まで折々歌舞伎を見に行ってはいました。
恐らく、元々好きだったから食いついていったのでしょうね。 ご贔屓は松嶋屋さん。
(片岡仁左衛門丈)歌舞伎だけ、というより、映画を作る手伝いとか、バイトでミュー
ジカル劇団の裏方もしました。 友達に仕舞をしている奴もいるので、能も見ます。
宝塚へは学部のときに指導教官が、「宝塚を見てレポートを書かんと、単位をやら
へんぞ。」と言われて、宝塚大劇場へはよく行ったなぁ。

・水泳 
好きです。泳ぐ、というより、水の中で、ぽやーんとしている状態が好きなのだ、と
思います。ゆっくり、のんびり泳ぎます。

・仏教 
京都にいた時に、一気に坊さん友達が増えました。彼らによく議論をふっかけてい
ました。徹夜で朝までいろんなことを話してたこともしょっちゅうでした。未熟者の筋
違いな質問にも、彼らは辛抱強く答えてくれました。だけど、そういう経験があった
から、俺が自分の内面について考えたり、人間についても深く考えることができる
ようになったのだと思っています。

・人 
人の話を聞くのが好きです。いろいろな人の話を聞いて、その人の考え方を思って
  自分に足りないところを考えたりします。
ゲイの人には、お決まりの質問ですが、(笑)好みのタイプは? というのがあり
ますよね。自分の「タイプ」って、どういう人だろう? いくら外見が良くても、人と
付き合うためには、自分のことをちゃんと分かってて、それから相手のことを理解
しようという気持ちがなかったら、付き合いって、結局長続きしないように思いま
す。自分っていうものを把握すると同時に他者に対する想像力だって要るでしょ。
人と付き合うのに、どこまでも「自分」しか把握できていなかったら、そんなもの
花火みたいにすぐ終わっちゃうでしょうに。だからそうしたことが分かっている人
がいいなぁ、と。まぁでも大体自分を理解することさえ、ままならないのに、相手
を理解しよう、なんて、無理な話かもしれません。けど、だからと言って、その
理解する努力は忘れてはならない、と思うのです。確かにそれは、不毛な努力
かもしれない。だけど、お互いそういう努力は、最後まで必要だと思っています。
ということで、目下、ひっそりとパートナー募集中です。(このことは、ちゃんと
書いておかなくっちゃね。笑) 

(今日聴いた音楽 ヌヌル カムゴ 歌 チャ・テヒョン 原曲は平井堅 2006年)

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