上方のはなし

16. 10. 17

本当に速くなったのか?

今日は「鉄ちゃん」関連のお話です。

こんな記事を見ました。

「関西の通勤電車は、どうして軒並み速いのか」というのです。

この文章を書いた人は、東京の人、なのでしょうかね。

「関西」の通勤電車が軒並み速いわけではないと
思います。

旧国鉄と競合路線にある大きな私鉄とが
速さ競争をした結果、速くなっただけじゃないですかね。

姫路まで行っている宇治川電軌もとい、山陽電車は
そうそう早くありませんし、、。

調べてみたら、たとえば南海電車のなんばから
和歌山市までの特急の表定速度は67.6キロなのですが、
京急のエアポート特快の表定速度は55.6キロです。
阪急の神戸線の特急は65.8キロです。

やはり記事のように関東と比べて、関西の通勤電車は速い、
ということになるのかなぁ、と思ったりしました。

ここに1955年8月の時刻表があります。

Jikokuhyo

これと2016年現在とを比べてみると、
大抵の交通機関はスピードアップしています。

四国の鉄道なんて、地形の関係と、
ディーゼルカーもしくは蒸気機関車牽引の
客車でえっちらおっちら走るしかなかったものが、
電化や新しい車両の導入によって、
相当に速くなりました。


昭和30年、高松から高知までは準急の南風で
4時間10分かかっていたものが
今は特急しまんとで2時間10分です。

高松から松山までは準急で4時間かかっていたものが、
今は特急いしづちで2時間半です。

高松から徳島までは、昔は各駅停車しかなかったのですが、
それで2時間半かかっていたのが、今は特急うずしおで
1時間かからない58分くらいで行けてしまいます。

いしづちの表定速度が81.57キロ
しまんとが77.1キロ
うずしおが71キロですもんね。

こういう高速化の結果、2016年の現在では、
昭和30年の所要時間の半分の時間で
目的地まで行けるようになりました。

それで話をもとに戻すのですが、
関西の通勤電車は速いか? ということなんですけど、、
謙介、そう言われたら頭の中にはてなマークが点灯しちゃうんですよね。

謙介が京都にいた、1970年代、1980年代の
阪急の京都線の特急は、
京都の四条河原町から大阪梅田まで38分で走っていました。

それが今は46分になってしまいました。

しかも今の京都線の特急、
ダイヤ上の所要時間は一応46分、ということになっていますが、、
実際は淡路の駅のところで今、高架の工事をしていて、
徐行区間があるのでもっとかかります。

1980年代38分で走っていたのに、2016年は46分から50分です。
同じ路線で最大12分も遅くなっているのです。

それに対してJRは今も昔も新快速で大阪⇔京都間は
28分で走っています。 

阪急京都線の特急の所要時間、46分というのは、
以前の阪急の急行の所要時間です。
以前の急行の停車駅が、今の特急の停車駅とほとんど同じなのです。

ちなみに昭和30年の阪急の京都線と、今の京都線は
始発・終点の駅が違うので
(このころの京都線は、大阪の天神橋から、京都の四条大宮まで)
単純に時間比較はできないのですが、
その時の特急もやはり38分で走っていたのです。


で、昔の急行並の時間がかかるようになってしまって
これではまずいと思ったのかどうかは知りませんが、
阪急は、とりあえず「急行」は廃止して(笑)
特急を通勤特急 特急と2種類作りました。 

そして廃止した急行の代わりとして、
名前だけ速そうな「快速急行」を
作りました。

結果、停車駅がややこしいことになってしまって、
一々確かめないといけなくなりました。


特急の停車駅が
十三 淡路 茨木市 高槻市 長岡天神 桂 烏丸 河原町
通勤特急が
十三 茨木市 高槻市 長岡天神 桂 西院 大宮 烏丸 河原町
快速急行が
十三 淡路 茨木市 高槻市 長岡天神 桂 西院 大宮 烏丸 河原町

淡路の友達のところに行こうとしたら、通勤特急に乗ってはいけない、
西院か大宮で降りたければ、通勤特急か快速急行
(もしくは桂で、後続の普通とか快速急行に乗り換え)
というようなことになりますね。

謙介なんか、右京区に行くことが多いので、
西院とか、四条大宮で降りることが多いのですが、
この二つの駅は電車の種別によって停車したり
しなかったり、ということがあります。

ああめんどくさ。


遅くなっている、ということでいえば、
近鉄京都線の特急だって
京都から大和西大寺まで昭和30年に29分で走っていたのが
今は31分です。(昭和30年ごろは近鉄ではなくて奈良電でしたが)


近鉄の中で、メインの特急は大阪上本町から名古屋、もしくは鳥羽行の
特急なんです。京都線の特急なんて、メインと思っていませんから
古い車両で性能の落ちた車両の特急を走らせます。


京阪特急も昭和30年に大阪天満橋から京阪三条まで48分で
走っていたのが、今は51分です。(今は淀屋橋から出町柳までですけど
天満橋から三条の区間で計算しました)

京阪神間の私鉄の特急は、やたら停車駅が増えてしまったために
軒並み到達時間が昔に比べて遅くなってしまっています。

阪急の京都線の特急なんて、
戦前は、大山崎の阪急・国鉄の並走区間で、
当時の国鉄の看板特急「つばめ」を追い抜いて走る、
というくらい、速さを自慢していたものでした。

今はJRの新快速のほうが表定速度は78.3キロ
ですから、阪急の京都線の特急より、
10キロ以上表定速度が速いわけで、
国鉄の特急を追い抜いたなんて言う話は、
文字通りの昔語りのお話になってしまいました。

たぶん利用人口の減少で、停車駅を増やさざるを得なくなって、
もう昔のように速度が速いから特急、ということでは
なくなって行くのでしょう。

ということで、古い時刻表と2016年現在とを比べてみたとき、
関西の通勤電車は、昔に比べて、遅くなってる路線も
結構あるのです。 本当に速いのかなぁ?
という気がしてしまうのですが。


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16. 07. 05

止めるけど続けるんだって

スルッとKANSAIのカード、
来年2017年の3月31日で発売を終えて、
再来年2018年の1月31日限りで利用は終了となる、と
報道がありました。

スルッとKANSAIのカードというのは、
カード1枚で、近畿圏の私鉄の鉄道、バス、公営のバスにも
使えて、本当に便利なプリペイド方式の交通カードです。

京都から大阪に行く場合ですと、
京都市バス、阪急、(または京阪)大阪市交通局と
1枚のカードで全部運賃の支払いをすることができて
便利です。

スルッとKANSAIと総称されていますが、
それぞれ発行している交通機関ごとに名称が違っていて、
阪神はらくやんカードでしたし、
阪急はラ・ガールカード、
南海電鉄は コンパスカード
大阪市交通局はレインボーカード
というふうにそれぞれで違う名称で売っています。

阪神の「らくやんカード」って、
いかにも阪神らしい実直・安直(笑)な
ネーミングだと思うし、宝塚歌劇を関連会社に持っている
阪急はやっぱりねぇのおフランス語で「ラ・ガール(=駅)」カードでした。

Rakuyan
(これは阪神のらくやんカードです。まぁ赤星選手のカードですから
どう見たって阪神のカードというのはお分かりと思いますが)

発行元の会社ごとに
それぞれの個性が出ていて面白かったのです。

で、このプリペイドカードの発行・利用が終了して、
ICカードのPITAPAカードのほうに移行して欲しい、
ということになる、と一応スルッとKANSAIのサイトには
書いてはあります。


謙介もこのスルッとのカードから、
全部PITAPAカードに移行させるのか、
と思っていましたら、、、、

スルッとkANSAIのカードは無くなるけれども、
それに代わって、
4電鉄会社だけ使える新種のプリペイドカードを
また出すことになるのだそうです。

何のために廃止するのか、、訳が分かりません。

というのが、実情としてPITAPAカードの普及があまり進んで
いないからだそうで。

確かにそうだなぁという気がします。
阪急の梅田とか、大阪の地下鉄の改札口で、
それぞれの人がどんなふうに通過しているのか観察していても、
スルッとKANSAIのカードか、現金で切符を買って、改札口を通る
という人が多くて、PITAPAを使っている、という人は
あまり見かけません。


関西の人は、関東の人に比べて
クレジット払いというのがあまり好きではない、
ということをよく聞きます。商売でも現金仕入れ
現金払いが好まれます。

クレジットで服を買ってね、という
〇井だって、大阪なんばとか神戸の三宮とか
京都の四条河原町に支店を作ったのはごく
最近のことで、以前は関西地区には〇井は
全然店がありませんでした。

そういうことで関西人は支払いということについては
堅実なところがあります。


スルッとKANSAIはプリペイドカードなので
先にお金を支払ってカードを買います。
ところがPITAPAは、クレジットカードなので
実際に交通機関を利用した後で、
2か月たって忘れたころに請求が来ます。

そういう後から請求の来る支払方式は、
借金をしている、という感じがするので
関西の人にはあまり好まれないところが
あるということなんでしょう。

だけどそんな関西人の気質なんて、
最初から分かってたことじゃないですかねぇ。


アホらしい。そんなことだったら
スルッとKANSAI廃止せえへんとずっと続けたらええがな、
と思うんですけどねぇ。


利用者の都合を全然考えていなくて
会社の都合で押し切ろうとするところが、、
なんだかなぁ、って思う今回のカード廃止の報道でした。

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14. 03. 17

阿倍野ハルカ○って微妙だと思う。

ちょっと前に書いて放置してあったのを
とりあえずアップします。


JR大阪駅北にできた
ゑちごやが当初想定していた売り上げに達することができずに
苦戦している、っていう報道がありました。
謙介、その報道を聞いて、ああ、やっぱり、と
思ったのでした。

このことはできる前からもう分かっていたことだし、
謙介もその想定について何度も話したつもりです。

というのが、
大阪駅前のデパートって、すでにそれぞれの売り、というのか
特徴が明確にあるわけです。

たとえば食料品の品ぞろえと安さだったら
絶対阪神百貨○の地下だし、洋服なら阪急百貨○だし、
というふうにお店の絶対の得意分野があったわけです。
(でも大○は大して売りがなかったような、、)

だからそこに入って行くには、単に伊勢○だから三○だから
っていうのではダメで、うちはこの商品の品ぞろえについては
他店とは絶対に違って自信があります、っていう
得意分野がないとどうしようもない、って思うのですが、
この大阪駅の伊勢丹三○には
それが全く見えてきませんでした。

そういうことであれでは全然ダメ、と、謙介言ったわけです。


それに、そもそも最初から後発組には
店独自のカラーなんて出しようがない、とも思っていました。

なぜなら、そこそこの有名なお店であれば、すでに
既設のほかのデパートに出店しているわけで、わざわざ
近くのデパートにまた重複して店舗を出したとしても
そうそうメリットがあるわけではありません。

むしろ、何をいまさらと思って出さない、っていう
選択をする店が多くなる、と思っていました。

結果は想像の通りで、出店した店を見ても
全然新味のない店舗ばかりになってしまいました。

そういうことで、ゑちごやは結局のところ何の色も出せていない、
だからお客さんだって行っても仕方がない、って思う。 
で、人が集まらない、ということになっているのだろうと思います。

そういうことは十分に予想されていたことでした。


ただ、今では洋服で集客してる阪急百〇店ですが
あそこだって
昔は全然大したことはありませんでした。

というのか、昔は電鉄系のターミナルデパートっていうのは、
心斎橋にあるデパートに比べたら、格下に見られていました。

亡くなった祖母なんて、大阪の親戚から送られてきたのが
阪急百貨○の包みだったら、「なんや阪○かいな」と
露骨にバカにした言い方を
していたのを今も覚えています。電鉄系のデパートは
品物が安かろう、大したことなかろう、
だったからです。

それが変わったのは、昭和50年ごろからでしょう。
阪急がパリのデザイナーブランド
(ニナリッチとかディオールとか)を入れて、
サントノーレのエスプリとか言い出して
それまでの安物を売る、というイメージから
高級なオシャレ路線に方向転換をしていくようになって、
次第に阪急百○店は服で売る、という方向が
定まってきただけの話なんですけどね。


で、キタはそんな感じなんですが、、。
今度、天王寺というのか、阿倍野橋にハルカスができました。
というのか、併せて 大鉄百貨店の、あ、失礼失礼。
近○百貨店阿倍野店もリニューアルしたそうで、、。

さっき私鉄系のターミナルデパートは格下に
見られていた、という話をしましたけれども、
近○は阪○よりもっともっと格下に見られていたところがありました。

だって本当にセンスが良くないんです。
店内だって全然あかぬけしていませんでした。
もう死語かもしれませんが、ダサかったのです。(今もダサい。)

心斎橋の大○に比べて、上六(上本町6丁目)や
阿倍野橋にあった近○百貨店は、安かろう、
大したことなかろう、センスが悪かろう、の三拍子でした。


どうしてそうなのか、と言えば近鉄の
電車の走ってる沿線が良く言えば庶民的、
もっとあけすけに言ってしまえば、
ガラが悪いので、ちょっと怖い、というイメージが
あったからです。

いや実際こういうこともあったわけです。

謙介が大学のころでしたか、、天王寺公園に用事が
あって、近鉄百貨○の阿倍野店の前を通ったら、、
ヤンキーのおにいさんがいて、
同じようにその辺を通るヤンキーのおねいさんに
声をかけていたのです。
いわゆる「ナンパ」してたわけです。

「ねぇちゃん、茶、しばきにいけへんけ? 」

そうしたら、それに対するおねいさんの返事もすごかったー

「われ、どの面(ツラ)提げて、ナンパしとんねん。どあほ。
顔と相談してから言え! 」

漫才であれば、舞台の上の虚構ですが、
目の前で、ヤンキーのにいちゃんねえちゃんの
ドスのきいた会話が至ってふつーに行われていて
うわー、とびっくりしたことがありました。


関西の私鉄ですと、阪急線は上品、
近鉄線と南海線は、ガラが悪い、と
はっきり言っている人もいます。


謙介、その近鉄線の瓢箪山とか
羽曳野・藤井寺に友達がいますが
確かに口は悪い(笑)です。でも実直でウソがありません。
言い方も直球勝負です。 
上品な言葉で、言いくるめたり、うまくごまかしたりしません。
謙介はそういうところ、いいなぁ、と思いますし、
実に明快ではっきりしていて大好きです。

つまり近鉄沿線には、そういう「直球勝負の人たち」が
多いですから、自然と店構えも上品に、、じゃなくて
実質本位、になるのだろうと思います。

そういうことで阪急百貨○なんかに比べたらその分、
洗練度は確実に落ちます。

関西でよくいうところの「もっさりしてる」んです。
で、センス悪いなぁ、という批判につながってしまうのでしょう。


かつてその近鉄百貨○の阿部野橋店の一階出入り口のところに
お好み焼きのスタンドがありました。
謙介が小学生だった時のことです。

ここのイカ焼き、(お好み焼きの中にイカを入れて
焼いたもの)おいしかったので、両親とこの辺に
来たときは必ず買ってもらっていたのですが、、。

でもね、デパートの顔になるような1階正面入り口のところに
普通ならソースのにおいがぷんぷんする
お好み焼きのスタンドなんて出しますか?

大抵1階の正面は、デパートのメインゲートですから
ほかのデパート、たとえば大〇とか高島○であれば、
化粧品とか舶来品の高級なものを置いていました。

今だってデパートの1階って、ティファ○ーとかグッ○とか
化粧品があるのが普通でしょ? 

そのほか、1階はほかの階と違って
多少は天井を高くするとか、照明を凝ったようなものに
するとか、何かしらのディスプレイを置くとか
施すとかするではありませんか。

ちょっと1階はゴージャスに
見せる工夫をするでしょうに、、。

でも、近○はイカ焼きですわ。

いや、まぁ庶民的って思うし、
近鉄百〇店が、おしゃれでなくて、実用本位で行く
という戦略でそういうコーナーを置いていたのだとは
思いますが、でも、それだったら
リニューアルで、うちだっておしゃれ路線は
できるんだ、(とか言いながら相変わらずダサいですけど)
という方向に行かなくってもいいんじゃないか、と
思います。

実用本位なら実用本位に徹したらええやん、と
思ってはいけないのでしょうか、

え? あ、そうか。
でもそうやったらスーパーとデパートの境目がなくなりますかねぇ、、。

近○って
デパートもセンスよくありませんが、親会社の
鉄道だってセンスがよくありません。

近○電車って、車両の塗装をしょっちゅう変えています。

で、変えるたびに
センスが悪い、何とかせえ、とよく批判されます。
前は一色だったのに、、
Kintetu2

最近はこんな感じになって、
Kintetu1

これが最近のなんですが
これもなぁ、、なんだか色のセンスがイマイチですねぇ。
Kintetsu3

近鉄と南海って、なんだか色と言い車両といい、もっさり
しているんですよ。


南海電車だってこれです。車両のデザインももっさりしていますが、
色だって、何とかしろよ、って思います。
Nankai

結構関西の私鉄は個性が強いのですが、
その中で近○って、「特急」のイメージしかない
電鉄会社なんですけどね、、。

というのか、近○日本鉄道って、合併につぐ合併で大きくなった
会社ですから、全部自前で線路を作って走らせていた
ほかの私鉄にくらべて、どうしても明確なスタンスが感じられない、
のです。

で、新しくリニューアルした近○百貨店です。

近○阿倍野橋のフロアガイド見たんですが
あれでは集客を狙ってると言っても、
一過性のものにしか過ぎないんじゃ
ないかなぁ、って思いました。

だって、目新しい店が全然入ってないんですよね。
良く言えば、みんながよく知ってる店を入れた
悪く言えば、無難で新味が全くない、という感じです。

ほかのデパートにだって出店している店ばかりです。
近隣のキューズタウンだって、イトーなんとか堂に、
ユニク○に東急ハン○にエディオ○
なんだかどこにだってあるような店ばかりです。

唯一、楽しみなのは、近くに
スタンダードブックスト○アベノができたことくらいですかね。

東急ハン○なんて、大阪のミナミだと
長堀橋に大きいのがありますからね。

それから人の回遊効果、という
ことで人を呼びこまないといけないのですが、、
天王寺公園はともかく、
阿倍野橋から四天王寺まで歩くのって、
結構距離があります。

通天閣のある新世界も
昼間はともかく、、大阪の地元の人間は
晩は行かない、と言います。
昼間の新世界と晩の新世界では
雰囲気がガラッと変わります。
観光客のみなさんは、そういう怖さを知らないので
平気で出かけているようですが、地元の人間は
まず行かない。
夜は怖いです。

それから、阿倍野橋から新世界にしろ、
阿倍野橋から四天王寺までにしろ、
その距離が結構微妙なんですよね。
歩くのには結構遠いし、
かといって地下鉄だとたったの1駅だし、、。

東京スカイツリー駅と浅草くらい離れて
いれば、東武に乗って移動、ということもありますが
歩くと遠い、かといって地下鉄は、、
という微妙な距離ですからねぇ、、

沿道に庶民的な(笑)商店街が
ありますが、若い人なら阿倍野橋から
四天王寺まで歩けますが
お年寄りに、あの距離を歩きなはれ、
と言ったら、相当にしんどいことだと思います。

冬の初もうでとかであれば、歩くのもいいでしょうが
夏場にあの距離をお年寄りが歩くと
熱中症になるかもしれません。

それに、四天王寺にご参詣の方と、
はるかすに上がろうか、という方では
これまた微妙に年齢差があるようも思いますし、、(笑)

だから謙介の言いたいのは、ただ単に
ぬぼーっと高いビルを建てて、できたできた、って
いうのではなくて、もうちょっと積極的に
人を呼んで集めるしかけを阿倍野橋のあちこちに
作っておかないと、結局一過性のものにしか
過ぎなくなっておしまい、ということになるよ、
ということなのです。

「あべのの近○に行ったら、
なんや新しい何かがあって、おもろいやん。」
っていうふうにならないと、お客は呼べないような
気がするんですけどね。


阪急百貨○みたいに、まだそう知られてないけど
新しいブランドをいち早く見つけてきて、出店させる、
なんていうふうにならないと、人を呼ぶようなことには
ならないんじゃないかなぁ、、、。
食料品だったら阪神、服だったら阪急、
新しい店を引っ張ってくるアンテナがすごいです。

阿倍野近○は
相変わらずの店舗展開だけで
確かに高層ビルを建てて、インパクト、ということで
最初のほう、人は呼べるかもしれないけれども、それだけじゃあ
結局だんだん先細りになっていって、大したこと
なくなるんじゃないですかねぇ、、。

百貨店の1階正面にお好み焼きのコーナー
があったくらいですから、
どうせ垢抜けた感じにならないのであれば
最初から庶民的なイメージで終始押していけばいいんじゃないですかね。

たとえば「大阪こなもんストリート」とか
言って、たこ焼きやお好み焼きやイカ焼きや
そーんなお店ばっかり30軒くらい集めてきて
ワンフロア、ぜーんぶそういうお店を集めたところを
作ればいいのに、とか思います。


と、近鉄の係の方が鼻の穴を膨らませて
フンフンと言っている際に申し訳ないのですが
そんなことを思ってしまう謙介さんなのでございました。

(今日聴いた音楽 近鉄特急の歌 歌 楠トシエ
 近鉄と言えば、今なら平井堅の「桔梗が丘」でもよかった
 んですけどねー 桔梗が丘は近鉄不動〇が開発した
 住宅地です。でも、今回は直球勝負で。(笑)

この歌の歌詞の3番
 
ボクの電車は キンテツで
名古屋 奈良へ 大阪へ
修学旅行に 遠足に
いつも素敵な キンテツで
キンキン キンテツ ヒュウー
そらきた二階の電車
近鉄 特急  

と言う歌詞なんですけど、京都がないのは、この歌が
できたころって、京都線はまだ奈良電という別会社だった
からかなぁ、とか思います。 あ、でもよく見たら伊勢志摩もないや。
単に歌詞のおさまりの問題でしょうかね。。)

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13. 05. 28

巡礼旅(7)

朝、隣で寝ていたオフクロがごそごそするので
目を覚ましました。時計を見たら、5時過ぎ。
まぁねぇ、、。
「お風呂でも入ってきたら? 」と勧めたのですが、
「朝風呂は疲れるの。」と言って却下されてしまいました。
今日は、もう朝、京都を出発したら、どこにも寄らずに一気に
四国まで戻ってしまいます。

日曜は天候が心配と言っていましたが
幸い京都はまだ薄日すらさしていて、、
どうやら最後まで好天にめぐまれた旅になりました。

テレビを見ながら、荷づくりやら片づけをしていたら
8時がきました。
朝食をいただいて、 会計を済ませて、8時40分出発です。

来た時のように、一度遠回りになるのですが、
丸太町通りまで北上して出て、西に向かい、
河原町丸太町から南に下がっていきました。

河原町荒神口のところにあった喫茶店
「しあんくれーる」は、10年ほど前に店を閉めて
そのあと店は壊されて、更地になって
コインパーキングだったのですが、
この日みたら、隣接地とともに整地されて
マンションが建っていました。

車は次第に三条河原町の繁華街に入っていきます。
土曜の9時前でしたが、さすがに車が多かったですね。

河原町通りと言えば、
こないだBALビルのジュンク○がBALビル閉鎖のために
なくなった、という話をしました。

前にもお話しましたが、河原町通り、まともな本屋が
なくなっていました。 いえ、普通の小規模な本屋は
今もありはします。 ですが、謙介の言う本屋というのは
各分野の専門書から、学術書、普通の雑誌まで
すべてがそろうような、かつての駸々堂京宝店とか
京都書院のような本屋さんです。
それが、○善京都店が復活する、という話です。

いまどき、本屋の経営ってすごく難しいですね。
前にも言ったように、紀伊国○は2回京都店を出して
2回とも撤退してしまいましたし、、。

再置の○善京都支店がうまくいってくれることを
祈りたいです。(前のように本だけでなくて
靴とか、雑貨品も売ってくれたらいいんですけどね、、
でもそれは無理かなぁ。)


帰りの道ですが、
なぜ河原町を下ることにしたか、と言えば、理由があります。
河原町通りですと、道路の混雑する東寺の辺を避けて
一気に十条まで下ることができるからです。

丸太町を西に行って、丸太町堀川から一気に
下るのが一番簡単ではあるのですが、
堀川通り、七条の京都駅西あたり、ものすごい混みようで
本当に少し行っては止まり、少し行っては止まりしかしません。
加えて東寺のあたりも混みますし、、。

その点河原町を一気に下がったら、全然混んでいないのです。

十条河原町を右折して、西に行き、国道1号のところで左折して
さらに南へ走ると、名神の京都南ICが見えてきました。
幸いまだ混雑は始まっていないようです。

名神に乗りましたが、車の流れも順調で、
渋滞もありません。
問題は中国道の宝塚あたりなのですが、、
来るとき、逆車線を見たら、その辺が
渋滞していましたから、ちょっと心配していたのですが
幸い大丈夫でした。

ただねぇ、、心配していたことがありまして。
2月にやはり同じように車で京都に行った時も
帰りの高速道路の料金所でETCのバーが開かなかったことが
ありましたからね。

もちろんあれから日産に行って、再セットアップも
してもらいましたし、機器の点検確認もして
もらいました。

で、サイトを見たら、「まれに誤作動で、バーが開かないことが
あります。」って書いてありまして、、。
まれに、、、、ふーん。 同じ日に、連続して3回誤作動に行き当たるのを
まれ、っていうのでつか? と思ったりしましたが、、

名神から中国道へ、これは前に引っかかったんですが
今回はオッケーでした。
中国道から、本四高速へ、 これも前回は引っかかったわけですが
今回はうまくバーが開きました。

本四高速から、高松道に、 これも前回は引っかかったのですが
今回もまた引っかかりました。

バーが開かない。 開いてくれ、と思いましたが
同じところでまた開かない。

やれやれ。車は停止。後続車も数珠つなぎでみーんな停止。

オヤジが思わず「またやな、ここ。」と言いました。
で、ちょうど雨が降り始めていたのですが
「すいまへんな。」って言いにきた職員の人もまた同じ人で。

こちらはまたか、、、くらいに思っていたのですが
オヤジが言ってくれました。
「ここ、こないだこの車で通った時も、バーが開かんかったで。
うちは、ちゃんと自動車工場持って行って、このETCの点検して
してもらってるのに、また開かんのは、そっちの機械に異常が
あるからと違うんか? こんな方式にせえせえ言うてさせておいて
誤作動ばっかり起こして。、いい加減にせえ! 」

わたくし、おかげで言いたいことは全くなくなってしまいました。

どうも、ここの料金所の機械そのものに、オヤジの言うように
異常があるようですね。過去にもこうでしたし、
誤作動をしょっちゅう起こしているみたい。
現に「すいまへんな。」って言いに来た職員の人も「またこうなった」
って言っていましたから、おそらく頻発しているものと思われます。

でもこれくらいのことで本四高速は機械の点検をするような
まともな会社ではありません。

だって、謙介2月の時にこの件についてちゃんと説明しろ
と言いましたもん。
そうしたら、「おそらく、車載機の電波を、料金所の機械が受信しなかったから
バーが作動しなかった。詳細は不明。」という木で鼻をくくったような
説明が来ただけでしたから。

ただし、今回またこういう事態になりましたので、もう一度
本四高速と俺のETCの車載機の
メーカーにも、この機械はしょっちゅう誤作動を誘発して、
どうなっているのだ? ということを問い合わせています。

でも、おそらく本四高速は本四高速で2月の時と
同じように、「機械の誤作動は原因不明ですわ、すんまへんな」
で、パナソニックのほうも「さぁわかりまへんわ」という
回答しか来ないように思います。

ためしに「ETC設備のシステム障害」で検索してみてください。
出てくる出てくる。これだけ障害が起こっていたって、
大規模に機器を取り換えた、とかいう話は全く聞きません。

結局のところ大きな事故とか、それがもとで死者が出る、といった
犠牲が出ない限りは、それは機械ゆえのまれに生じる誤作動、
ということで、絶対に直さないでしょうね。

結局、その職員の人に通行券を渡されて
出口では有人のレーンに行って
ETCカードを添えて出してくれ、
ということでした。 

何のためにETCって導入したの? って聞きたくなりますね。
ばかばかしいったら。

まぁそれはともかく。
淡路島を抜けて四国に渡るあたりで雨が降り始めました。
自宅に到着したのが、11時50分でした。
大体3時間で京都から、四国の実家まで走っています。

帰りの車の中でオフクロがまた行こうな、と何度も
言っていました。おそらく今回の旅がとても楽しくて
よい旅だったから、だと思います。

ここ数年、この「行けるうちに行きたいところには、
後悔がないようにすぐに行く」という思いが
ずっと頭の中にあります。

いつかそのうちに、なんて悠長なことはもう考えません。
行きたいのであれば、明日にでも、という気持ちです。

まぁ、「さはさりながら」気候のこともあって、梅雨とか
灼熱の時期に外を歩く、なんていうのは無理ですから
次に行くのは秋口になるとは思います。

とはいえ、年寄りの体力の衰えは、本当に数か月単位で
大きく変化します。去年できたことが今年はもうできなくなる、
ということだって普通にありますしね。
自分だって病気でいつこけるやらわかりませんし。

そういうことで、なるべく時期を見て、一緒に旅行をする
ということは、これからもできるかぎりやっていきたい、と思います。

と、いうことで今回の旅行のご報告はおしまいです。
ながながとお読みくださってどうもありがとうございました。

(今日聴いた音楽 夜明けのブルース 歌五木ひろし 2012年
 謙介の聴く曲の中では画期的に新しい曲ですね。笑
 さっき、この歌に出てくる二番町、車で通って帰ってきましたが。
 夕方の5時半に飲み屋街通ってもなぁ、、まだネオンも明かりも
 ついていなくて、、。)
 
  ちなみに最初に映っている観覧車は「くるりん」と言います。
  春夏秋冬でネオンサインの色やら模様が地味に(笑)変化します。
  謙介、まだ乗ったことはありません。
  


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13. 05. 27

巡礼旅(6)

西国33ヶ所観音霊場めぐりですが
霊場の中には大抵の人ならみんな知っている
有名なお寺もあります。 
たとえば京都の清水寺とか奈良の長谷寺は、
非常に有名ですよね。

33か寺のうち、両親は以前に9か寺ほど回っていたので
今回の9か寺を合わせて18か寺ったことになります。
とはいえ、まだ15か寺あります。

それから札所を参拝していると、うちと同じような
人に何人も会いました。
つまり親が高齢で、おそらくはその息子・娘なのでしょうかね。
そんな親を介助しながら札所めぐりをしている
40代50代の人、という人たちです。

お寺って、本当に階段は多いわ、駐車場から
本堂までが結構距離があるわ、で、
なかなか高齢の方には
つらいところもあるのですが、 外出すると
気分も変わるし、家の中でじーっとしていたのでは
得られない刺激があります。
それから「外に出てみよう」という
意欲とか好奇心もまた大切だと思います。

親子、と言っても、今でこそまぁこんなふうに
一緒に旅行もできるようになりはしましたが、

やはり以前は数年に一度くらい大きな衝突がありまして、、。
1年半くらい口もきかなかったこともありましたし、
仕事場のほうのアパートにずっといて
実家に帰らなかったこともありました。
でもまぁ、時間がそれなりに経過して
ちゃんと話もできるようになりました。

うちの親もずいぶん体力がなくなりましたし、
こういう機会が後何回できるのか、
そういうことも思いました。
ですが、どんどん外に出て、いろいろなものを見るということが
やはりいろいろな刺激にもなるので
なるべくこういう機会を作りたいとは思いました。


三浦さんのようにエベレストは無理ですが
以前行ったことのある場所をもう一度訪れる
というのは、またやってみようと思いました。

でもまぁこの次は秋ですかね。
まさか真夏の38度とか40度になるような
灼熱の時期に外歩きは無理ですし、、。

そんなことを思いながら、山科まで戻ってきました。
以前はまだかろうじて住宅の間にちらほらと田んぼとか畑の
あった山科ですが、もう見渡す限り家がびっしり、で
本当に山科の辺も家が増えたなぁ、という印象でした。

車は山科の西の東山を越えて、蹴上に下りて
きました。ここで道を右にとってしばらく行くと
もう平安神宮の大きな朱の鳥居が見えてきました。
平安神宮の参道のひとつ東の通りで右折して
ちょっと行けば旅館です。

琵琶湖の石山を出たのが午後4時50分。
京都の岡崎に到着が6時ちょっと過ぎでした。
やはり山科がちょっと混んでいましたからね。

旅館に帰ってきました。
昨日は庭を散策できなかったので、ちょっと庭を
歩いてみました。 実はこの庭、京都市の史跡に
指定されている庭です。

Onowa1
この角度ですと、借景の東山が入ってきません。

Oniwa3
黄菖蒲が咲いていました。

この建物の1階が食堂になっていて、ここでご飯をいただく
ことになっています。

Oniwa2


ちょっと休んで、夕食は7時からにしてもらいました。

Sakituke2
先付けは五月豆腐・雲丹
前菜は 蓮芋胡麻和え、厚焼き 姫オクラ、 白魚白煮、サーモンチーズ

Nimono2
煮物は小柱真蒸、 蔓菜、 椎茸、 柚子

Mukoutuke2
向付は 鱧、鮪、 帆立、 あしらい一式
この鱧がさすがでした。スーパーなんかで骨切りをしてくれているはずの
鱧を買ったら、口の中で小骨がじゃりじゃり言って、ちゃんと骨切りしているのか?
って思うようなものにぶつかることがよくあるのですが、今回の鱧は
まったく小骨が気にならず、、さすがにちゃんとした板前さんが
技術を駆使したら、こういうものなのだ、と思いました。

Oshinogi2
御凌ぎは鯖の小袖寿司

この日も焼き物の写真を撮るのを忘れてしまいました。
焼き物は 鱸(すずき)油焼、 独活 でした。

Takiawase2
炊き合わせは、賀茂茄子、巻湯葉、きぬさや、針柚子

Aburamono2
油ものは、もち豚ロース紅茶煮、コールスロー、檸檬

Sunomono2
酢の物は鰹のたたき 新玉ねぎスライス 針茗荷

Gohanshiru2
ご飯は筍ごはん、留め椀は赤みそ仕立て 香の物

Mizugashi2
水菓子はマンゴー、キウイ、イチゴのゼリー寄せ

という以上でした。
この日もやはり周囲はふぉーりんぴーぷるだらけでしたが、、。

オフクロの話では、前より外国人が減ったような気がする
ということでした。うーん、たぶん今回は西国札所のお寺
ばっかりで、外国人が行きそうな、金閣寺とか三十三間堂
というようなお寺には行っていないからではないですかね。

それに外国人たって、人種はさまざまですし、、
アジア系の外国人なんて、ちょっと見にはわからない場合だって
ありますし、、。

この日も、階段を登ったり、錦市場で結構な距離を
歩いたりしましたから、お風呂に入って、出てから
しばらく涼んで落ち着いたら、もう寝ていました。


今日はここまでにします。


(今日聴いた音楽 Hungry Spider 槙原敬之
 たまたま牛乳を買わなくちゃ、っていうので
 スーパーに入ったら、この曲が流れてきました。
 ちなみにこの後は久保田くんの曲でした。割と
 いい加減なごちゃまぜの選曲なんですね。)

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13. 05. 24

巡礼旅(5)

1日目の夜は昼間階段の上り下りやら、結構な距離を歩く、という
ことがあったせいでしょうか。割に早くに寝ました。

でも。
おとうさん、朝の4時半から起きるのはやめてね。

Shirakawain7


何とかオヤジをなだめすかして 6時まで寝てもらい
朝ぶろに入ったりしてもらって、ようやっと8時。
(写真は朝の7時過ぎです。なんとなく景色に
紗がかかったような感じです。 このはっきりしない感が
山紫水明どころの京都らしいといえばらしい、のですが、、。)

午前8時が
ここの朝食の時間です。 (ちょっと遅め)

Asa1

でもね、ここのお味噌汁、本当においしかったです。
化学調味料ではなくて、鰹節と昆布でしっかりとってあって
そのだしがちゃんと味わいがありましたし、、
湯豆腐もおいしくいただけました。

昨日と同じところで、同じテーブルだったので
やはり周囲から聞こえてくるのは、ふぉーりんぴーぷるの話す
英語ばかりで、、。でも食べているご飯は上のように純和食。
なんだかちょっと変な感じでした。


この日の午前中は紫野の親戚の家に行きました。
親戚の家を出て駐車場に行こうとしたら、
オフクロが「京都駅はどんなふうになったの? 」
って言ったので、お昼御飯も兼ねて京都駅に行きました。

かつての京都駅の面影なんて、どこにも
ありません。(改札口の位置は変わらないのですが
景色が全然違いますからそんなこと言われたって
やっぱり違う、っていう気になってしまいます。)

京都駅前で言うと、京都中央郵便局
関西電力、新阪急ホテル、京都タワーが
まぁ同じくらいのものですかね。

駅の中も、少し案内しましたが、
あまりの変わりようにびっくりしたわ、ということでした。

伊勢○の中の和食店でお昼を食べて、出発です。
まずは烏丸通をひたすら北に。
四条烏丸をこえて、烏丸六角で右折します。

たぶん西国の札所の中で一番街中にある六角堂へ。
Rokkaku2

六角堂の駐車場は満車、ということだったので、
近くのコインパーキングを探そうとしても、、これまた
満車で、、。だって土曜の午後の四条烏丸界隈です。
空いているはずもありません。

それでもなんとか幸運に一か所だけ空いていたコインパーキング
があったので、そこにとめました。

まずは六角堂にお参りをします。
Rokkaku1
それからオフクロが、錦市場に行きたい、というので
東に行きました。
錦市場、たいそうな人出でなかなかスムーズに歩けません。

オフクロは鰊の炊いたものを買いたかったそうですが
うまく鰊の煮つけも買うことができました。

錦近くの喫茶店でちょっと休憩して、、
西国巡礼の再開です。
今度は滋賀の大津方面を、
大津の近辺に三井寺、石山寺、岩間寺と3つの札所が
あるのですが、道路の混雑状況とか、参詣の所要時間
とか勘案したら、
たぶんその中の2つのお寺に行けたらいいなぁ、
という気がしました。

六角通りの駐車場から北に上がって御池通りに出て東に。
河原町御池で右折して、河原町三条から東に。
後は道のまま。ずーっと行ったら、東山をこえて
山科をこえて、、、勝手に浜大津につきます。
浜大津で左折して、ちょっと行ってさらに左折すると三井寺
なのですが、あれま。
なんだかいつもと状況が違います。
琵琶湖畔から三井寺まで車が混雑しているのです。
一体どうしたことでしょう。

到着してわかりました。
この日、三井寺は「千団子祭」というお祭りだったのです。
Miidera1
境内にある鬼子母神のお祭りだそうで、安産、子育て
のお祭りだそうです。生まれた赤ちゃんが独り立ちするまでには
多くの困難が伴います。 元気に育つためには
神仏に祈らずにはいられないことだと思います。
ましてや、ここは、ちょっと前にいじめの事件で大きく報道された
大津ですし、、。 しかもその事件の起こった中学はこのお寺から
近い場所ですし、、。
ちょっといろいろなことを考えてしまいました。

でも、不思議だったのは、
安産・子育て・といいながら、出ていたお店で圧倒的に
多かったのは植木を売る店でした。全体のお店の8割
くらいが桜とか楓、松、といった植木や、花の苗を売る店で
縁日につきもののたこ焼きだとか、リンゴ飴、ベビーカステラ
いか焼きなんかのお店もあるにはありましたが、至って少数でした。

うーん。謙介、思ったのに、鬼子母神さまのお祭りと
時期的なことからみて、春から夏に植える野菜の苗を
売るための市だった、ということだったかなぁ、と
思いました。
Miidera2

早速三井寺の境内に入ります。
境内の鬼子母神堂とかその周辺は人であふれかえって
いたのですが、そのほかの本堂とかは静かで落ち着いた風情でした。

三井寺というと近江八景の三井の晩鐘ですね。
Miidera3
たまたまどなたかが鐘をついたところに行き会ったのですが
さすが、特別ないわれだけのことはあって、
とても落ち着いた、それでいて響きのよい
すばらしい音色の鐘でした。
Miidera4_1

前にも言ったように西国巡礼の札所の本尊はすべて観音さまです。
なので、三井寺も本堂とはべつのところにこの西国の観音堂が
ありましてですね。ちょっと離れています。
Miidera5


そこに行くのが、また階段なのであります。
謙介はまだかろうじてさっさと登れますが、やはり両親を連れて
となると、ちょいと時間がかかります。

観音堂は小高いところにありました。
Miidera7
今はビルが建ってしまって眺望がいまひとつに
なってしまいましたが、(それでも湖畔のヨットは見えました。)
かつての昔は、すごく眺めのいい場所だったんだろうな、
と思います。

早速おまいりをして、御朱印をいただきます。
Miidera6


今やスピード時代ですし、
バスで御参詣というふうな一度にたくさんの方が
わーっと御朱印受付にやってきたりします。

そのせいか、各札所に強制乾燥用のドライヤーを
おいていたりするところが多いのですが、、
あれ、正直言っておすすめできません。

というのが、御朱印って、そこのお寺の
御本尊名が書いてあって、御朱印が
押してあるわけですよね。
実はその御朱印の「朱印」は油分を
相当に含んでいるのです。

ドライヤーを当てると、その熱で、朱印の中の油分が
溶け出てきてしまって、油のシミがせっかくの御朱印帳に
できてしまいます。
場合によったらその油のせいで汚く見えてしまう場合だってあります。

だから、御朱印はドライヤーなんか当てずに、しばらく
放っておいて自然乾燥させるのが一番なんですが、、。

三井寺での御参詣を終えたのが3時50分でした。
ここから湖畔沿いに車を走らせます。 
土曜の午後だからでしょうかね。
浜大津から膳所(ぜぜ)の辺、ものすごく混んでいて、、
ちょっと走り出したか、と思ったら、今度は瀬田の唐橋の
ところがまた混んでいて、、
石山寺に到着したのが4時20分でした。

Ishiyama1

前に来たとき(小学校の3年くらい)は、この門の前に
車をとめた記憶があったのですが、、
今回は駐車場のほうにとめて、ちょっと歩きました。

謙介の心づもりとしては、三井寺から石山寺までなんて、
さほど時間はかからないだろうと思ってたのですが、、
ちょっと急がなくてはなりません。
石山寺の拝観受付が4時半までなのです。
御朱印の受付だって、4時40分で終了です。

おじさん走りました。受付で拝観料金を払って、後から来る
両親に券を渡して、御朱印帳を抱えて石段を駆け上がって、、。
Ishiyama3_2

御朱印受付に出したのが、4時30分でした。
ぎりぎり何とか間に合いました。
御朱印をいただいて、帳面をふーふーしていたら
両親が到着。 お参りをしていたら、オフクロが
そういえばここで紫式部の人形を見た、と言い出して、、。
それを聞いたお寺の人が、ここです、と教えてくださいました。

紫式部の人形を見て「そうそうこれこれ」と
いっているともうおしまいの時間です。
Ishiyama3_1

庭を写真に撮って、再び石段を下りてきたら、
我々の出を待って、門が静かに閉まりました。

今から岩間寺まで、というのはちょっと無理なようなので
今回の旅は、これにて巡礼終了です。
でも、どこも新緑の美しい時期でしたし、それぞれの
お寺とも非常に特徴があってどこも印象に残るお寺ばかりでした。

京都市内で今回行けなかった清水寺と醍醐寺は
また今度、ということにしました。


石山から京都の岡崎まで、来るときだって
結構時間がかかったので、帰りもおそらく
時間がかかるだろう、と思いましたが、、
やはり5時前に浜大津を出たのですが
途中の山科あたりが結構混んでいて、
岡崎に戻ったのは6時を過ぎていました。
今日はここまでにします。


(今日聴いた音楽 聖母マリアの被昇天の祝日のための聖歌
 アレッツオ フランチェスコ コラディーニ スコラ カントールム
 指揮 フォスコ・コルディ  5月は聖母マリアの月ですしねー。)

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13. 05. 23

巡礼旅(4)

親戚の家にうどんを持って行って帰ってきてから、夕食になりました。
今回はごはんのおいしいところ、というので
この旅館にしました。
夕食は午後6時から8時の間、ということでしたので
一番遅い8時にしてもらいました。
7時半に旅館に戻ってきて、、
もう食事の部屋には誰もいないかな、と思ったら
わんさか人がいて、ちょっとびっくりしました。
しかもさすが京都、というべきなのか。
部屋に20人くらい人がいたのですが、半数以上が
外国の人で、、。

俺はともかく、普段外国人が普通にいる環境にない両親は
周囲がふぉーりんぴーぷるだらけだったので
外人が多いなぁ、とちょっとびっくりしていました。
聞こえてきた言語は全部英語でした。

お料理はこんな感じです。

先付 蓬豆腐 才巻 山葵

Gomadouhu

前菜 人参葉胡麻和え 松風 鯛の子
    ミニアスパラ 海老旨煮
Zensai

煮物椀 油目真蒸 木の芽 大黒湿地 蕨

Nimono


向付  鯛 鮪 烏賊 あしらい一式
(写真を撮るのを忘れました。)

おしのぎ 稲庭うどん 海苔 錦糸 椎茸 洗い葱

Oshinogi


焼き物 鰆柚庵焼 樋湯葉 酢取茗荷 

炊き合わせ 若筍 蕗 木の芽

Takiawase

油物 和牛もも叩き レタス ベビーリーフ トマト

Aburamono


酢の物 もずく 蛸
Sunomono

ごはん 浅利ごはん 留め椀 赤みそ仕立て

Gohanshiru

香の物 季節の漬物三種

水菓子 くずもち さくらんぼ

Mizugashi

食事をしながら、もちろんいろいろなことを話しました。
こちらはなるべく、ふん、ふん、って聞いていたんですが、
一時、オフクロがあの人たちは嫌い、って言っていた
父方の親戚の話も、オヤジがしはじめたら
前のようにいきり立つこともなくて、オフクロも普通にして
いました。 まぁもうあれから何十年も経ったからねぇ、、。


Shirakawain3

食事が終わって、立ち上がったら外のお庭はこんなふうに
なっていました。
部屋に戻って、風呂に入ったら、何せこの日は階段の上り下りやら
参道を歩く、とあれこれ体を動かしたので
両親も早くに寝てしまい、謙介も翌日のコースをもう一度
チェックして早々に寝てしまったのでした。

(今日聴いた音楽 追いかけてヨコハマ 1978年
 歌おうとしたら、ブレスに困る歌ですわ。まったく。 
みゆきさんの歌ですけど、今日は桜田淳子バージョンで。 )

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13. 05. 22

巡礼旅(3)

今熊野を後にして、再び東大路通りまで出て、
今度は東大路を北上します。
智積院というのか京女の入り口(きょうおんな、ではなくて
この場合はきょうじょです。京都女子大○の略です。)
を西に左折します。
京女は龍谷大○と同じ西本願寺が設立母体の学校ですね。
その京女の入り口のあるのが東大路七条なのです。
京女はここから東にゆるやかな坂を上っていきます。
この坂のことを女坂って言った、と記憶しています。

七条通りをずっと西に走って
河原町との交差点まで来たら、右折して、今度は河原町を
北上します。

と、道路のことをあれこれ書いていますが、
事前に道路地図を見て、そのあとで、実際にメモしながら
コースを紙に書いて、覚えておきます。2.3回見たら道は
覚えるし、カーナビに頼っていたら、道を覚えないのです。
ワープロで文字を打つのと同じだと思うんです。
それに京都の市内であれば、大体道路は分かりますし、、。
(こっちのほうが大きいかもしれない)

河原町松原まで来たら、再び右折。ここからが
道がとんでもなく細くなります。(一方通行だから対向車は
来ませんが。)しばらく行くと、右側に六波羅蜜寺の塀が
見えてきます。

ここは街中のお寺なので、広い駐車場がありません。
なので近所のコインパーキングに駐車してお参り、です。

ちょうど行った17日はその観音さまのご縁日の日で
災難除け・病魔除けのご祈祷を特別に受けることができました。
このお寺の開創は空也上人ですが、のちに清盛の屋敷が
このお寺の塔頭をもとにして作られました。
まぁ去年の大河ドラマ、こけた、とはいえ、清盛さんでしたから
おそらくここにも人がどっと来たことだったか、と思います。

近くに子育て幽霊の飴屋さんがあるのですが、
今回は買わずに帰りました。
何で子育て幽霊の飴か、といえば、、。

夜な夜なこのお店に飴を買いに来る女性が現れました。
この女性は、毎回1文ずつ持って飴を買いに来ていたのです。
ある朝、銭函の中を見てみると、しきみの葉
(お墓にお供えする常緑の木の葉)が入っていました。
不思議に思った店主は、その夜、買いに来た女性の後を
つけていきました。すると、墓地の前ですーっと姿を消し、
お墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたので
お寺の住職と一緒にお墓を掘ってみると、
中から飴をくわえた赤ん坊が出てきました。
その幽霊は赤ん坊をみごもっている時に亡くなり、
土葬された女性だったのです。
しかし、亡くなったあともお腹の中では子どもが成長し、
お墓の中で赤ん坊が誕生しました。
母親は自分が母乳を与えることができないため、
幽霊となって飴を買いに来たといわれています。
このことから、いつしか『幽霊子育飴』と呼ばれるようになった、
という飴です。

(すいません 六波羅蜜寺はバタバタしてて
お寺の写真がありません。)

六波羅光寺を出て車を東に。もう一度東大路通りに出ます。
5月のこの時期、修学旅行の生徒がものすごく多いです。
加えて、班にわかれてそれぞれでの行動のようで、数人の
グループが京都市内あちこちを歩き回っているのを
たくさん見ました。
四条の八坂神社の前を通過して、東大路三条で右折します。
前はここを京阪電車の京津線が走っていたのですが
今は地下化されて、この辺を走っている電車は
もう見ることができなくなりました。
三条京阪の前をさらに西へ。
河原町三条を右折して河原町通りを上がって、二条まで行って
ここを左折して一保堂まで。
一保堂の裏のコインパーキングに車をとめます。

さきにお参りをしよう、ということになって、
寺町通りを上がって、革堂に行きます。
ここは尼寺です。

Koudou09

昨日の民間仏教とお坊さんの教学としての仏教って
どう違うのか、っていう話なんだけど、、、。

そうですね。 大学の学部のゼミで、ずーっと「日本霊異記」を
読んでいったわけです。

で、この日本霊異記っていう本は、おもいっきり簡単に
言ってしまえば、お坊さんが街角に立って
布教活動をするときのお説教のネタ本なわけです。

だから普通の人に「仏教を信仰したらこんなにええことが
ありまっせ。」ということを言ったお話なんですけれども、、。

この本の中には短い(やや長いのもあるけど)お話が
いくつもいくつも入ってます。

そのお話を学生各人が分担してそれぞれ
責任を持って調べてきて
現代語訳をして、どういうことがテーマの話か
解釈しなさい、それからコメントもつけて、
っていうような発表だったわけですよ。

で、発表の順番を学籍番号順に機械的に割り振って行ったら、
俺が当ったのが、「愛欲を生じて吉祥天女の像に恋ひ、
感応して奇しきしるしを示しし縁 第13」という話だったわけです。 

かいつまんで言うと、あるところに半僧半俗の男の人がいた、と。
その男は、お寺にあった吉祥天女さまの像に愛欲の心を起こして、
「どうかどうか吉祥天女さまのようなきれいな女の人と
一発やりてえだ。おねげえでごぜいますだ。」って
拝んだ、と。

すると、あらあら不思議、夢の中にきれいな女の人が現れて、
その人、願い通りに、気持ちいいことができた、と。
あれは一体誰だろう、って思って、いつものように
吉祥天女さまを拝みに行ったら、なんとまぁ吉祥天女さまの
着物の裾にその男のしるしがついてて、、、。
あらま。夢の中に出てきたお方は、吉祥天女さまご本人だった、
ということがわかった、と。
だから、仏教を信仰したら、こういう珍しいことだって起こるんだ。
なぁ、仏教を信仰することはええことやろ。」っていうお話なわけです。

お文学部の授業なんかでは、こういうことって、別に珍しいことでもなくて。(笑)
新古今和歌集も別の授業で歌の解釈をしていったのですが
ゼミの先生は、学生各自の解釈とかその歌の批評を聞いたときに
かならず、それはあなたの実体験か? なんて聞いて
ましたからねぇ。 なので割とそういうおせっくす方面の話は
授業中に結構出ていたわけです。

で、そのゼミに○部さん、っていう女の子がいましてですね。 
この人、ちょっと変わってる人でね、、。

謙介は「吉祥天女の衣のすそに、、そのしるしがついて汚れて
いたのです。」

って訳したわけですよ。大学の授業ですし、そんなこと誰だって
読みゃわかる、っていうようなものだし、、。

それがこのW部さんが手を挙げて質問してきたんです。
「しるし、って具体的になんですか? 」って。

この子ねぇ、あっけらかーんと聞いてきたんです。

KYっていうのか、、うーん。まぁこういう質問をする子でさぁ、。。
本当に知らないのかもしれない、とか思いました。
かまととでもないみたいで、、、、。

「なんですか? 」って聞かれたからさぁ、
だから俺、「ザーメンです。」って言ったの。


そうしたら教室にいた男子が一斉に吹き出して
しまいまして。


後から言われたけど。
「オマエ、よう言うたなぁ。」って。
ゼミの時間にザーメンって大声で言ったの
お前くらいのもんや、とか。

だって、 俺、何も間違ったこと言ってへんし。

まぁこんな御利益がありますよ、っていうようなきわどい話までして

当時のお坊さんは仏教を
広めようとしたわけです。
はい。

話をもとにもどしませう。

革堂のお参りを済ませて、再び来た道を
戻って一保堂の本店へ行きました。
お茶を買った後で、ちょっと休憩しよか、ということで
併設の文字通りの喫茶コーナーの嘉木(かぼく)によりました。

Ippodo1


ちょうど新茶のシーズンなので
新茶をお願いしました、といっても
ここは、お店の方にお茶の入れ方を教えてもらって
自分で入れていただくのです。


Ippodo2

しばらくするとお店の人が
急須と煎茶茶碗を3つとお菓子を持ってきてくれました。

Ippodo6
これが一人分です。
Ippodo3

一保堂を出て車を北に。
丸太町通りに出たら右折してまっすぐ東へ。
東大路通りを突っ切ってしばらく行くと右側に平安神宮の
裏側が見えます。そうしたら次の交差点を右折します。
平安神宮の東側を南に下がって、二つ目の信号を
右折すると、、旅館に到着です。

旅館に入ったのが5時過ぎでした。
一度部屋に入って、またちょっとしたら親戚のところに
行くことになっていたので、なかなか忙しいことです。
今回はお庭と料理ということで選んだのですが、、、。
この庭は京都市から史跡に指定されている庭だそうで、、。
Shirakawain1


左の建物の一階が食堂になっていて
ここで夕食・朝食をいただくことになっています。
今日はここまでにします。

(今日聴いた音楽 遠くで汽笛を聞きながら
 アリス 1981年盤 京都に行った時、あのころ
 友達の住んでいた船岡山の近くを通りました。
 あいつの部屋でこの曲を聴きながら、いろいろな
 ことを話した記憶が不意によみがえってきたのでした。)

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13. 05. 21

巡礼旅(2)

あのややこしい大山崎ジャンクション、2度目は直進するだけ
でしたので、今度はあちこち標識を確認しないでも行けました。

ただ直進している間に道路の名称が「京都縦貫道」から
「京滋バイパス」に変わりましたが。

その京滋バイパスは淀の競馬場の横を通って、東に進みます。
まぁこちらはこちらで久御山ジャンクションというややこしい
分岐はありますが、謙介は直進なのでここも文字通りスルーです。

オヤジがこの辺田んぼばっかりやな
といったのが巨椋池(おぐらいけ)の干拓地のあたりでした。
以前はここに大きな池があって、それが奈良方面、
宇治川をさかのぼって琵琶湖方面への水運の中継地に
なっていました。
大仏殿とか平城京の資材もこの池経由で木津川をさかのぼって
運ばれて、木津で陸揚げされて修羅に乗せられてひかれて
奈良まで運ばれたのです。
木材が上がるから「木の津(みなと)」だったわけです。
ということを前に関東の人に説明したのですが、、、。

その人は今の木津川の流れしか想像できず
木津川を木材の運搬に使ったなんて考えられない
というばかりでした。今の状況でもって昔を考えても
全く違いますからね。

文学とか歴史って、過去のデータをきっちり取ったら
想像することも必要です。 たまに想像だけが独り歩きして
実際とかけ離れてしまっている人もいるにはいるんですが、、。
それでも過去のいろいろな史料をもとに
その時代の状況を想像できないと、文学とか史学は
ちょっと理解できないかもしれません。

木津川、今は上流にダムが何基もできているので
水量も流れの状況も昔と今とは全然違うわけですから。
最終的にその池は太平洋戦争直前に食糧増産のために
干拓されて、水田になりました。

オヤジが田んぼばっかりやな、といったのは
その結果なわけです。
巨椋池をこえたあたりで宇治西インターがあります。
ここで高速道路を下りて、一般道を走ります。
さらに東を目指して、奈良街道を突っ切って
今度は南東に曲がります。
で、ついたのが三室戸寺です。

Mimuriti1


ここはいろいろな木や草がそこここに植えてあって
四季それぞれにきれいな花を咲かせてくれています。
今はつつじのシーズンでした。もちろん新緑も。

Mimuroto2

ここは駐車場から、結構な距離を歩いて階段の下まで
来ました。階段がまた結構ありまして、、
それでようやっとここに。

Mimuroto3


でも、「ようやっと」来た甲斐はあって、
振り返って眺望すると、高台ですから
眺めもよかったですし、吹き渡る風も
すがすがしかったです。
さっきの穴太寺は亀岡市ですが、
この三室戸寺は宇治市です。

亀岡から宇治までというと
以前だったら結構な時間がかかったはずです。
亀岡から9号線で老の坂
(謙介のことではありません。そういう坂があるんです。)
を越えて、大原野に出て、西国街道を
大山崎まで行くかして後は府道をたらたらと走るしかなかったと
思います。今のように30分くらいでの移動は無理でした。
でも、今は、口丹の亀岡から、南山城の宇治まで
30分くらいで行ってしまいます。

宇治、っていうとあの宇治茶の宇治です。
あのお茶で有名な宇治です。
ちょうど宇治でお昼、ということになったのですが、、
宇治って、正直言って食べ物屋さんで
これ、っていう店がないんですよね。

もうどこも茶そばか茶うどんばっかりで、、
その茶そばだって、本当に宇治の抹茶を練りこんであるかどうか
わかりませんし、。

とはいえ三室戸寺の辺は住宅地で
飲食店はないので、とりあえず宇治市内に行くことにしました。
オフクロが平等院に行きたい、と言ったのですが
確か平等院は修理中だった、と思う、と言いました。
まぁ念のために行きましたが。

Uji
するとやはり目下修理中で、来年の春まで見ることが
できないのだそうで。
オヤジが代わりに「十円でも見とかんとしゃあないな。」
まぁそうですけど。

平等院近くのお店で例によって茶そばを食べて、
出発です。

次が問題だったんですよね。
醍醐寺が近いんですが、醍醐寺、駐車場から
ずいぶんとまた歩かないといけません。
なので、醍醐寺は、謙介がまた行くということにしました。

宇治から北に上がって、六地蔵から醍醐に入って、
さらに北に。山科のほうに行きます。
ちょうどこの近くに椥辻(なぎのつじ)というところが
あるのですが、ここにある予備校に学部の時に
アルバイトで講師として教えに来ていたことが
ありました。 京都の西の端から、東の端まで
行くのは結構遠かったです。 


山陰線で京都駅まで出て、東海道線に乗り換えて
山科まで行って、そこからバスでした。
もう小旅行気分でした。

今なら太秦まで自転車で行って、後は地下鉄に乗ったら
そのまま行ってしまえるんですけどね。

山科で国道1号線のところに出たら、左折して
1号線に乗ります。それで京都市内に。
京都市内では1号線は五条通です。
東大路五条で左折して今度は南に。
泉涌寺道の標識が見えたら左折します。
泉涌寺の手前に
今熊野観音寺があります。

Imakumano

泉涌寺道に入るあたりは商店街があって
結構な人出なのですが、
観音寺のところまで来ると、しん、としていて
落ち着いた感じです。
この観音寺の下が、鳥部野(鳥辺野とも)ですね。
平安時代からずっと死んだ人たちの火葬地・
埋葬地のあった場所です。

というのか、大体が京都なんて鴨川から東は
墓地だったのですが。だから今でこそにぎやかな
祇園だってかつては埋葬地でしたもん。

謙介の大学院時代の研究って、歴史書の中の
「死亡記事」を集めてその表記の違いを検討する、
というのが研究テーマでしたから、毎日毎日
誰がどうなって死んだのか、という記事ばかり
見ていたのです。


よく霊が霊が、って気にする人がいますけど
そんなの、京都の街なんてどうするんですかね?


京都なんて、言ってしまえば、何千万人という遺骸の上に
街ができている、と言ってもいいわけです。

うらみをのんで死んでいった人なんて、
天文学的な数字にのぼります。

それに中世の京都なんて、街の中に遺体がころがっていた
という時期もあります。
遺骸のない場所を探すほうが難しいと思います。

墓地、と言っても時代によったら、
埋葬なんてしなかった時期もありました。

人がなくなったら、そういう遺骸を置く場所において
さっさと帰ってきていた、という時期だってあります。

そういう歴史的経緯のある街で、霊が、たたりが、って言ったって
「そら、何が影響してるやらわかりまへんで。
ここかてかつて死体が転がっていたかもしれまへん。」ということになります。

それから穢れについても、穢れを
全然無頓着だった時代もありますし、
ものすごく穢れについてうるさかった時期も
あります。

それに、一口に穢れとか霊とか言ったって、
時代によってずいぶんと考え方は違っているんですよ。
なかなか難しいお話です。

今熊野から、今度はすこしずつ北へ上がって
いくことにしました。


(今日聴いた音楽 嵯峨野さやさや タンポポ
 1979年盤 あのころ、アンアンやらノンノで
 鎌倉か京都の特集をしょっちゅう組んでいました。
 アンノン族、っていう言葉があって。そのアンアン
 やらノンノの京都特集を持って嵯峨野のあちこちを
 まわる人がすごく多かった時期です。今の
 アンアンって、もうほとんどセックス雑誌になっちゃい
 ましたね。(笑) あーあ、これも時代の変遷でせうか。)

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13. 05. 20

巡礼旅(1)

今回はタウリさんのブログではありませんが
3文字熟語です。


実は謙介、先週の金・土・日と三日間
両親と一緒に、京都・滋賀に行っていました。

というのが、両親は以前、西国三十三か所観音霊場参りを
していたのですが、ちょっとお休みしていたのです。
(四国八十八か所の巡礼は、うちの両親、4回回っています。)

西国三十三か所霊場めぐりは、別名 観音霊場めぐりという言い方も
ありますが、本尊はすべて観音さまです。
四国八十八か所の霊場のように
お寺によって違う、ということはありません。

観音信仰は非常に古くからある信仰です。
枕草子の中に「すべて六観音」ということばが
出てくるくらいですからね。

法隆寺にも飛鳥・奈良時代の観音さま
大陸から請来の伝承のある観音さまがおいでます。

それで。
前々から言っているように日本の仏教というのは
二重構造なのです。
お寺で学ばれている仏教と、民間の仏教は
まったく別のものです。 というのも
朝鮮半島経由で伝わった仏教はやはり
この国にとっては異国の考え方でした。

それを日本の中に根付かせるにあたって
僧侶は普通の人に受け入れやすいように
なんでも取り入れました。
日本の土着の宗教の考え方もすべて入れて行きました。

加えて仏教を信仰したらこういうふうな功徳が得られて
いいことがあるよ、ということを宣伝しました。
その辺から本来の仏教と民間の仏教の乖離がはじまってしまって、、

前々から言っているように、本来の仏教には
お盆もお彼岸もありません。
人は死んだら極楽に行ってそれっきりです。

謙介を含めて人間なんて弱い存在です。
ちょっとした快楽とか我欲につられてしまいます。
悪いことだってします。
地獄におちるしかないような我欲に満ちた衆生です。

そういうときに、「それでも罪障を消して、衆生を救ってくださる」という存在の
あることは我々にとって大いなる救いだった、はずです。
そこにあらわれた存在が観音さまでした。


法隆寺に「救世観音」さまがおいでですが
観音経の中に「観音妙智力 能救世間苦」
(観音さまの偉大な力は よく世間の苦を救いたもう)
とありますね。その大いなる力をお持ちの観音さまのお寺を
巡礼することで、観音さまのお力をいただいて、、
更生することができる、ということだと思います。


巷ではちょっと前に「今でしょ。」という例のコマーシャルが
あれこれ言われていましたけれども、あの「今」「今」
とテレビの画面からやたら言われるのを聞いて、
うちの両親もまだちゃんと歩ける「今」、ということを
考えたのでしょう。

やはり両親にとっては
あのCM、ものすごく切迫感を持って見ていた、
ということなんだと思います。

ということでいろいろと日程調整をしたのと
気候的に今の時期であれば、と思って
5月の17日から19日という日程で旅行の計画を立てました。

今回はまた前回と違った宿泊施設がいいかな、
と思って、旅館にしました。
お庭の美しく食事のおいしいというところにしました。


今回も四国から全行程、謙介が車を運転していきました。

そのときのことを何回かに分けて書いていこうと思います。


出発は5月17日金曜の朝の6時でした。
幸いにいいお天気でした。
ただ四国から京都方面は東に走ります。
ちょうど朝日をまともに受ける格好になるので
まぶしくて運転しづらい場面もありました。

(何せ自分が運転していたので、行くときの写真は
ないのです。)

コースとしては前回1月末のときと同じです。
四国の鳴門から淡路島に入って
明石海峡大橋を渡ります。

本四高速の布施畑西から阪神高速に入って
さらに西宮山口から中国道に入って、吹田ジャンクションから
名神、というルートで大山崎まで行きます。
ここから京都縦貫道に入ってすぐ次の長岡京インターチェンジで
降りるのですが、、。


それが大山崎からの京都縦貫道、実は前月開通したばかりで、
グーグルマップに載っていないのです。

あれこれと道路のサイトを見てみたら
なんとかありましたので、(ユーチューブに画像まであった)
何とかなりました。

長岡京インターは構造が単純でいいのですが、、。
問題はその分岐の大山崎ジャンクションです。
もう複雑怪奇を絵にしたようなジャンクションで、、、。
こんなの。
Jct01

ちなみにこの写真はちょっと前の写真です。
今はこの写真で言えば右斜め上にもう一本新しい道ができているのです。


何せ、「大山崎ジャンクション・複雑」で
検索したら出てくる出てくる。(笑)

名神からちゃんと京都縦貫道に迷わず路線変更して行けるかなぁ、
と心配していたのですが、
何とか無事に行けました。

無事に京都縦貫道に入って、ふう、とため息をつこうとしたら
すぐに長岡京インターで、(500メートルちょっと)
ため息をつく暇もありませんでした。(笑)

長岡京で降りてたけのこ山を西に見ながら車を北上させます。
長岡京市というより、この辺は乙訓(おとくに)郡でしたから、、、。
京都で乙訓と言えば、もう反射的に「たけのこ」です。

シーズン的にはもう過ぎはじめていますが、、。
それでもかろうじて、今なら、というところでしょうかね。

この辺、別の言い方では西山といいます。
まぁ平安京の西の山ですから、、
枕草子の中の

「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いと近うなりたるに」

の山の端はこの西山のほうだ、という説もあります。
紫式部や清少納言が見たはずの山です。

途中までは長岡京市のメインストリートの太い道を
走るのですが、お寺へ行く道に入ると突然道が細くなってしまいます。
事前にグーグルで道を見ていたので間違いはないはずなのですが
それでも狭いです。普通車の離合は、、ちょっと難しいような
道幅の道が続きます。

そんな竹藪の中の道を走ったり、急に開けた住宅街の中の道を走ったり
また今度は山道を走って、、ようやっと 二十番札所の善峰寺に到着です。


さてさて。
お寺と階段はセットですね。(笑) でも本当にお年寄りにこの
階段は難渋します。一歩一歩踏みしめるように上がって本堂に
到着し、お参りの後、ご朱印をいただきます。

Yoshimine


善峰寺はちょうど参道の工事中でお堂の写真をきれいにおさめられなかったので
こんな感じです。


お寺は大きく、いろいろと諸堂あるのですが、
時間がないのと、やはりもうこれ以上階段を、、
というのがしんどいので、次の札所に向かいます。

次は山城の国から、丹波に入ります。
丹波といっても、もうまだ丹波の入り口なので
口丹(くちたん=口丹波)とふつう言います。
一度西京区の大原野に行って、そこの沓掛インターから
また京都縦貫道に乗ります。そうして亀岡に。
大学時代、この口丹の町の町史編纂室でバイトをしていた
おかげで、丹波は謙介にとってはとても懐かしい場所です。
久しぶりの丹波は、明るく春の風情に満ちていました。
亀岡インターで降りて、次は穴太寺(あのうじ)です。


Anou


このお寺は写真のようにさっきの善峰寺と違って平野の中にあるので
階段も数段です。 しかも山門より本堂のほうが低いので
山門から階段を数段降りて、本堂です。

ゆっくりとお参りをして、今度はまた高速道路で戻ります。
今度はさっきと逆コースです。
沓掛から大山崎までのピカピカの高速道路を走って
さっきの大山崎ジャンクションをまた通ります。が
今回は単に直進するだけなので、さっきのように
あれこれと悩まずに済みました。


京都盆地の南を今度は東に突っ切ったのです。
今日はここまでにします。

(今日聴いた音楽 京都慕情 渚ゆう子歌
 1999年盤 CD ベンチャーズの曲ですが
 京都の恋と違ってまったりとした風情のお歌で
 好きです。 )


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