いなかのせいかつ

25. 05. 02

近況のご報告(1)

 最近、まだ身辺が落ち着いていなくて、文章を書くまとまった時間が
なかなか取れません。(そのくせあちこち出かけて見に行くことは
ちゃんとしている。 だったら文章くらい書けよ あほー

どこぞの知事みたいに言おうかな。
ご批判は真摯に受け止めます、とか。

最近のことを写真でご報告します。

近所のラーメン屋さんは月がわりで
ちょっと変わったラーメンを出しています。
4月は、天理スタミナラーメンでした。
信州で何故天スタなのか? なんですが(笑)
天スタの文字に惹かれて食べに行きました。

Img_2211

麺が本場の天スタと違っていて、ちょっと残念でした。

それから4月の半ば、小諸に行きました。

Img_2218
軽井沢行のしなの鉄道の電車です。
しなの鉄道の電車もいろいろな塗色の車両が
あるのですが、その日の謙介の乗ったのは
赤い車両でした。

Img_2223
JR九州の赤い車両と違って、赤をアクセントに
使っている、という感じの車両でした。
謙介のところから20分ほどで小諸です。
軽井沢だって1時間かからないんですけどね。

最近では、軽井沢も夏は、気温が30度を越えてしまって
そこそこ暑い、というのが地元の人の話です。

 

Img_2230

これがしなの鉄道&JR小諸駅です。
ここはしなの鉄道と、JRの小海線が発着します。
これが小海線のディーゼルカー。

Img_2259

小諸も坂の街で、、駅を降りるとずーっと上り坂
という街です。

Img_2232


駅の裏側に小諸城があります。

Img_2254

藤村の「小諸なる古城のほとり」の詩で有名なところですね。

Img_2245
これが藤村記念館。中の資料は全て模写とか複製ではなくて
本物が置いてあって、すごい資料館だと思いました。

Img_2251

で、これがその詩碑。

Img_2247_20250502205701

小諸へは仕事の関係で行きました。仕事は1時間ほどで
終わったので、その後、お城に寄った、というような
ことでした。

家の近所においしいと評判のパン屋がありまして。

Img_2214

(画面中央の木が生えている後ろの白壁の家がパン屋です)

どれくらいなのかと言えば、食べロ〇のパンの部門
全国百名店に選ばれたお店らしいのです。
ライムギのパンを買って帰ったのですが、
パンが酸っぱすぎて口に合いませんでした。

ライムギのパンが酸っぱいのは知っているんですが、
サワー酵母を使うので、、。
でもあそこまで酸っぱくなくたっていいでしょうに、
というくらい酸っぱくて、、
ちょっとなぁと思いました。

まぁこんな日常でございます。

 

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25. 04. 19

ゆうべの地震

昨日は午前中出勤したあと、午後から年休を取って、
郵便局と市役所に行っていました。
前の勤務先は、勤務先の建物の中にゆうち〇や銀行のATMとかあったし、
郵便局も仕事場から出て200mほど行けばあったので、
便利だったのですが、今度は、わざわざ行かないと
行けない場所にあるので、ちょっと不便です。
郵便局で送金2件や通帳の記帳や切手を買う
ということをして、今度は市役所に行きました。
オフクロのゆうち〇の口座を片付ける手続きをするためです。
これもあれやこれや資料をそろえないといけないのですが、、
前回、オヤジの時のように、オフクロの印鑑登録を取って来る
というような難問がないだけましです。
今回必要なのは謙介の印鑑登録証とオフクロの戸籍だけ。
本当に何が便利って、よその自治体の戸籍を今住んでいる
ところの市役所で取れるようになったのは本当にありがたいです。
以前なら四国の実家の街の市役所に電話をして申請書を
送ってもらって、その申請書を記入して返送し、代金を
払い込んで送ってもらう、というようなことで、
送ってもらうのに1週間から10日かかっていました。
それが今や10分で済むのは本当に手間いらずです。

そうやって書類をそろえて郵便局の窓口に持って行きました。
局長さん自ら確認してくれて、いいでしょう、という
ことになりました。
これで一応書類は受理されたので、一安心です。
はぁ、と思って家に帰り、ご飯を食べてのんびりして
おりましたら、いきなり床から突き上げるような大きな
地動きがありました。
その動きがあってから、携帯電話から緊急地震速報
が流れました。「遅いがな」という感じでした。

もちろん謙介、今までにも何度も地震に遭遇はしています。
いままで九州で遭遇してきたのは、文字通りゆーらゆーら
と横揺れが続くという地震でしたが、
昨日のは、いきなりの激しい縦揺れでした。
いそいで石油ストーブの火を消しました。
今までにこういう縦揺れの地震の経験があまりなかったので
うわー、こういう揺れもあるんだ、ということを思いました。

その後、お風呂に入って寝たのですが、夜中にも何度か
そういう縦揺れの余震があって、、
その都度目が覚めて、、という感じで、よく寝られませんでした。
(今日の昼間、昼寝をしましたが。)
ああ、びっくりした、という昨日の地震でした。

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25. 04. 13

よくわかんない JR九〇のポスター

お引越しの日、住んでいた街で、荷物を積み込んだトラックを
見送ってから、そのまま長野に向かわないで、博多で一泊しました。
前回のように四国→九州でトラックに積み込んだ荷物が翌日到着にならない、
ので、(さすがに1000キロ移動は、中一日かかるそうです)
そのゆとりもあったのですが、、
結果から言って、博多での一泊はとても良かったです。
もう引っ越しだけでふらふらでしたから、なるべく早く休みたかったのです。
そのまま住んでいた街のホテルで一泊でもよかったのですが、
博多だと、翌日新幹線にさっと乗れるではありませんか。
ホテルから博多駅まで歩いて10分ほどでした。
ホームまでの時間を入れても15分くらいで
新幹線に乗れたのは良かったです。

 

ただ、博多駅に着いたのが、少し早かったのです。
のぞみ、座席指定を買っていたので、、
自分の乗る新幹線の乗車時刻まで少し待ちました。
待っていたら、JR九州の掲示があって、、
よーく見ていたら、変なことに気付いてしまったのです。
その変なポスターがこれです。

Img_1185

何が変なのかというと、、
博多から東に行くと、「香椎」(かしい)という駅があります。
で、ここを通る路線で香椎線(かしいせん)という路線があるのです。
それはいいんですが、問題はハングル表記です。
駅名は「かしい」と日本語の発音をそのままハングルでかいてあります。
ところが、香椎線のほうは韓国語読みで「ヒャンスーソン」って
書いてあるの。


で、謙介さん、「はぁ路線の方は韓国語読みにするのか」
と思って他の部分を見たら「鹿児島本線」は「カゴシマポンソン」
って書いてあるの。
別に鹿児島を韓国語読みにはしていない。
だけど香椎線だけ「ひゃんすーそん」って韓国語読みにしているの。

 

なぜ?

 

普通、日本語の表記を外国語に訳すときは何らかの統一指針が
あってよさそうなんですけど、というのか、そういう表記基準が
あるだろうに、と思うんですけど、、

 

こういう掲示物の日本語をハングル表記に直す時のJR九州の法則性がわかんない。


あとで、毎日香椎から通勤していた職場の知り合いに
このことを教えておきました。

 

 

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3週間ほど経過しました

長野に住んで3週間が経過しました。

その間、仕事の最終申し送りがあって九州に戻ったり、
オフクロの四十九日の法要があって、四国に戻ったり、と
やたら移動が多かった3月も何とか過ぎました。

今回母の四十九日の法要があって四国に帰った時は飛行機を
使いました。長野からだと、北陸新幹線で東京駅まで出て
東京駅から浜松町までJRの山手線もしくは京浜東北線で行きまして、
浜松町からモノレールで羽田、というコースです。


品川から京急という方法も試してみました。
うまくエアポート特快に乗れたらいいんですが、
謙介の飛行機の時間帯は急行しか乗れなくて、、
京急の急行は結構停車駅が多くて、、モノレールのほうが速いという実験結果
でした。
そんなことより、問題は羽田空港です。羽田⇔福岡便は幹線ですから
搭乗乗り場も羽田空港の真ん中で乗りやすい位置にあるのですが
四国便なんて、それはそれは遠い搭乗口です。
どれくらい遠いかというと、保安検査の場所から850m先の搭乗口です。
850mなんて、約1キロです。
この延々歩かされる面倒くささ。
それから羽田までの移動。加えて四国に着いて
空港から自宅までのバス移動の時間。
もろもろを勘案すると、飛行機の移動と新幹線の移動は
30分程度飛行機の方がやや速いという程度です。

新幹線ですと、北陸新幹線で東京駅まで出て
乗り換え時間10分で東海道・山陽新幹線に乗って
4時間で岡山。岡山で在来線に乗り換えて小一時間。
確かに乗り換えはあるのですが、全部10分以内で
完結します。飛行機みたいに小一キロも歩かせられる
面倒くささがありません。


ただね、4年間で贅沢なことに、九州新幹線の
さくらの指定席の椅子の座り心地のよさで
慣れてしまったので(笑)
のぞみの椅子の座り心地の悪さには、、ぶつぶつ

まぁそれも慣れていくのだろうと思いますが。

四国や九州から3週間ほど遅れて信州もようやっと
さくらの時期を迎えたようです。

Img_2123
先日は、さくらを見に近辺をうろうろしてきました。

Img_2125
信州は、24度くらいまで気温が上がる日もあれば、
11度~13度程度の日もあって、、温度差が
非常に激しい感じです。

 

引っ越しの時に壊された棚の問題のその後ですが、
謙介が新しい棚を買って、その棚のお金をアート引越センターが
払ってくれるということになりました。
それから傷つけられたタンスは、家具の補修職人さんに
来てもらって、直してもらいました。

謙介、大学の時に仏壇屋さんでバイトしてたんですが、
その時に仏壇の補修の仕方を見よう見まねで覚えていました。
方法はそう難しくないんです。
はんだごてで、蝋を溶かして、その溶けた蝋を
仏壇の傷の入った部分にうまく塗るとか嵌めこむとかする、
という方法です。地色が黒い仏壇には、黒い蝋、
唐木の仏壇には茶色かこげ茶色の蠟を使って
修正をします。

来られた家具補修の職人さんに、
やっぱり蝋を塗って修正ですか? と訊いたら
どうして方法を知っているんですか?
とか驚かれましたけれども(笑)
ということで、タンスの傷も目立たないような
ことになりました。

ということで、引っ越し3週間たって、ようやっと
懸案が片付いた、ということになりました。

 

 

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25. 03. 27

引っこしは一応終わったんですけどねぇ。

疾風怒濤の2月3月が終わろうとしています。
こんなに忙しかったのは自分の人生の中でもそうそうなかったんじゃ
ないかと思います。逆に言えば、このクソ忙しい時期を
なんとか乗り越えられたのは、少し自分の中で自信になりました。
九州の職場で、そのまま残るとしたら、非常勤になるのが決定的になったのが
去年の11月のことでした。
なら次に行くところを探さないといけない、ということになったとき
たまたま信州のほうで、求人が出ていて、、
信州かぁ、とは少し思ったのですが、、ただ、求人条件の詳細を
見てみますと、謙介のキャリアが適合しない部分もありまして、、
それを九州の仕事場の信頼のおける人に相談しましたら、
あああんな求人条件なんてあってないようなものですよ。
そうでしょう? どうしても取りたければ、少々条件を
変えたってとりますよ。ということで応募してみたら、
その信頼のおける人の言った通りでした。
その信州のほうからの話が来たのが、2月3日でした。
それでいいです、行きます、ということになったのが
2月5日のことで、、、、
2月10日・11日で信州に行って、アパートを決めて
来ました。片方で、九州の仕事の残務整理もしないと
いけませんでしたし、信州に転居するとなったら
引っ越し準備にかからないといけない、ということに
なりました。引っ越し業者にきてもらって見積もりを
とったり、九州のほうのアパートの退去日の設定
水道・ガス・電気・電話の契約の解除をいったり、、
というような手続きが必要になりました。

そうこうしているうちに母が最終段階になりまして、、
2月20日はとうとう食べ物を摂らなくなった、という
連絡が来て、、21日に亡くなったので、急いで実家に
帰ってお通夜、告別式となりました。
その間だって、次の信州の仕事場から連絡がどんどん
入ってきていろいろな書類を準備しろと行ってきますし、、
お通夜だの告別式の合間に、PCを持って行って
仕事をしていたようなありさまでした。

引っ越し業者との打ち合わせの結果、3月16日に引っ越しと
いうことになりました。ということは15日に箱詰めです。
前回は四国から九州だったので、翌日荷物到着で荷開きを
行なえたのですが、今回は移動距離が1000キロ! ですので
九州で3月16日に積んだ荷物の信州到着は、18日になりました。

九州の部屋の荷物の送りだしをしたのが、16日の2時で、
その日はしんどかったので博多にホテルを取って休みました。
翌日、朝一番ののぞみで東京へ行き、北陸新幹線に乗り換えて
夕方信州に到着です。
その日は荷物が来ないので、新しい職場にご挨拶に行って
おきました。
翌日、不動産屋さんからカギをもらってアパートに行きました。
そうしたらまぁ次から次へとアクシデントが起こりまして、、
まず水道の栓を開いたら、ガス湯沸かし器に行くパイプから
水がジャージャーあふれ出てきて、、
なんじゃこりゃーということになって、不動産屋さんに言ったら
ガス会社の方が来られた時に見てもらってください、
というお答えで、、、
そうこうしていたら九州からの荷物が届きました。
届いたのはいいのですが、アパートに置く方の荷物と
仕事場に置く方の荷物が混配されていることが分かって
その分類に時間がかかりました。
ようやっと荷物の仕分けを終えて、荷物の運び込みをしてもらって、、
その時に配置をどんどん指示して行かないといけません。
その指示だけを一日していたら声が枯れてしまいました。

指示が終わったら今度はアパートでの荷開きです。
こちらは、荷開きを契約に入れてお願いしていたつもりだったのですが
アート引越センターの方はそんなの聞いていなかった、っていうし、、
結局その場で追加でお願いすることになったのですが、それでまた費用が
発生してしまいました。(やれやれ)

午後から電気屋さんが来てくれて、洗濯機、テレビの設置をしてくれたの
ですが、、水道から洗濯機につなぐ栓のパッキンに異常があって
水がジャージャー漏れるのです。

これもまた、不動産屋さんに言って(こちらのほうはすぐに工事手配は
してくれました)
ガス湯沸かし器のほうの水漏れは、その日の午後にガス屋さんが
来てくれて何とか直りました。
洗濯機の水漏れは、5日後でないと来れない、
ということです。(また日程調整が必要)
それで荷開きをしていてとんでもないことが判明しました。
九州で荷づくりをした時に、アート引越センターの係が
食器棚の棚板をバーンと強く外してしまったのですが
その棚板が二度と入らないようになってしまって、、
つまり食器棚が破壊されてしまった、ということです。
で、また別の日にアート引越センターの人を呼んで
状況をみてもらって補償をしてもらわないといけない、
ということになりました。(やれやれ)

それでこちらで新しい食器棚を買って
その領収書をアートに送って、代金を払ってもらうということになったのだけど、、
今頃、ネット注文で現金払いなど対応していなくて、、
クレジット払いでしょう?
その支払い方法をどうするのか、ということもあって、、
本当に面倒くさいったらありゃしない。

で、その間も、3月の20日、21日は九州の仕事場の最終出勤ということで
信州から九州に行って最終的な事務の片づけをしてきました。

3月22日から26日までかかって信州の仕事場に来ていた
荷物の荷開きをして部屋に運び込みをしていました。
昨日、ようやっと荷開きと配置が終わったようなことです。

この後は、明日(3月28日)実家に帰って
母の四十九日の法要があります。
ということで、東京まで北陸新幹線で行って、
浜松町まで山手線か京浜東北線に乗って
モノレールで羽田空港、そこから飛行機で四国へ帰る
という予定です。
飛行機、まともに飛んでくれるのでしょうか?
というのが、3月21日に九州に行った時、
なぜか福岡便だけ、機材変更でチェックイン中止、とか
言われるし、使用機材が変わるので、予約していた席とは全然違う席に
なった上に、飛行機のやりくりがつかないとかいう理由で
出発が異常に遅れるし、、
羽田空港の表示に「搭乗ご案内時間未定」とかいう表示が出て、、
まぁずいぶんと遅れて飛行機に乗ったら、羽田空港の離陸が混雑していて
遅れるし、福岡空港は福岡で混んでいて着陸までに時間がかかるし、、
というようなことがありました。(何とかその日のうちに福岡に
着陸出来た日には、、ホッとしました。福岡空港は住宅地の中に
空港があるので、住民への騒音対策として、夜遅くなったら
飛行機が着陸できません。それで羽田に引き返す、ということが
結構あって、ニュースになるくらいですから)

とまぁこういうことが2月3月にありまして、、
まぁ何とか乗り切ってきた、というようなことで
ございました。
だもんでまだ引っ越しは片付いていなくて、、
だって台所の棚が破壊されているので、鍋とか調理器具を
棚に置くことができないので、床に鍋釜を置いたまま状態ですし、、

今回、人生、10回目の引っ越しでしたが、、
引っ越し業者は、値段で選んではいけないということも
ありますね。ネットを見たら、値段の安い比較をするサイトが
ありますが、、値段が安くて家具を破壊されて使い物に
ならなくなったらどうするの、ということです。

10回の引っ越し、さかいもアートも両方
頼みましたが、サカイはタンスの取っ手を破壊されてしまいましたし、、
アートは棚を破壊されてしまいました。
それと、業者とはよーく細部まで一つ一つ確認をして
(くどいくらいに)見積もり、契約を行わないと
いけないことです。

というところが今の状況です。


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25. 02. 28

お葬式

とりあえず葬儀が終わって、今度は自分のことで忙しくなっています。
事務の引継ぎは、もう放置状態です。(笑)後任の人にわかんないことが
あったら聞いてね、ということを言っています。
でも後任の人も何を聞いたらいいのか分からない状態で、、
姉にこのことを言ったら、それでええのよ、という意見でも
ありましたので、わざわざこちらからあれがどうのこれがどうの
とは言わない。(忙しくて言えない、という感じです。)

 

今回のお葬式も、葬儀会社は変えたのですが、家族葬
という形式で行いました。参列者なんて、もういとこだけで
全部で8人だったし、、。
お葬式って、こんな感じです。
まず、事前契約をしていた葬儀社に連絡をして、
施設に来ていただいて、母の亡骸を葬祭会場に運びます。
母の身体については、亡くなったあと、施設のほうで
看護師さんが、死後の処理をしてくれて(あちこちの穴に
綿を詰める)きれいに拭いてくれていたので、
顔なんかつるつるでした。
葬儀会場でドライアイスの処理をして、葬儀全般の
相談ということになります。
もうこれは、遺族がどの程度の葬儀で満足するのか
という一点の問題だと思います。
霊柩車もリムジンみたいな黒塗りの車で運ぶのか
そうでない車で運ぶのかで2倍くらい価格が
違いますし、、、
前回も言いましたけれども、父の時には
知らない間に湯灌の儀とかいうのが入っていて、、
それが後から請求書を見たら10万円にもなっていて、、
さっきも言いましたが施設できれいにしてくれて
いるので、そういうことは要らない、と思っていました。
湯灌なんか、亡骸を浴槽で洗った後、クリームをつけてくれて
ピカピカにするというものです。
そこまではしなくてもいいんじゃないの、
というのがあの時の意見でした。

 

それから、羊羹のお供えも要らないなぁ、
と思ってそれも省きました。
ただ、このセットだと、祭壇のお花が少ないから
というので、遺影の周りに花を追加することは
しました。

 

あ、そうそう、その遺影も前回腹が立った一つでした。
遺影を作ってくれるというので、父の写真データを
渡して、葬儀会社に遺影を作ってもらったら、
ボケボケの写真の上に、その遺影の製作価格が4万円
ということでした。クリアな写真データなのに
どうして霞がかかったような写真になるかなぁ、
というのも不満で、、、、

 

今回は、母が看取りに入った、という去年の12月段階で
九州の写真屋さんに頼んで作ってもらっていました。
写真屋さんで作ってもらうと額込の値段でも1万円も
しない価格で、、本当に冠婚葬祭関連の費用って
よくよく吟味して発注しないといけないなぁ、という
ことは改めて思いました。
葬儀のプランはシンプルプランというものでしたが、
(それでも葬儀の基本はずべてついていた)
葬儀屋さんと詳細にわたって、これはオプションで付けてください
これは要らない、ということを言って取り決めができました。
そこで葬儀屋さんから試算の価格が出ます。
シンプルプランでしたが、途中葬儀の期間に友引を挟んだため
俗にいう「4日そうれん」になってしまい、葬儀会場の
使用料とか、亡骸につけるドライアイスの追加というような
ことになりました。
あとは、お寺さんとの相談です。
枕経をあげていただく日時、お通夜の日時、
そうして、市の葬祭場の予約状況(焼き場の混雑状況)を
勘案して、お葬式の日時が決まりました。

 

葬儀は、午後2時開式の3時出棺となりました。
その日の最終の炉が一つうまく空いていて
そこに入れてもらうことができました。
びっくりしたのは、その焼き場の炉の予約です。
スマホでできるようになっていて、
葬儀屋さんが目の前でスマホを出して、最後の一枠が
空いていましたから、これで予約をいれますね、
ということでした。

 

今時の都会のお葬式はもっと大変で、お葬式が終わっても
焼き場の順番待ちで、ひどい時にては、4,5日
待たないといけないのだとか。
その間の亡骸の保存、維持管理も葬儀屋さんの仕事と
聞きました。なかなかお浄土へは行けないのですね。

 

前回と同様に、焼き場から会館に戻って初七日の法要を
行いました。ただ父の時は、焼き場に行ったのが12時半だったので
焼き場のラウンジでカレーとかサンドイッチを取って
食事をしてもらったのですが、、今回は会館に戻って
初七日の法要後が、午後6時になったので、そのタイミングで
仕出しのお弁当を取って、お弁当を食べていただいて
お開きということにしました。
そのお弁当をどれにするのかとかいうのも
いろいろある弁当やお膳の中から決めるということを
しないといけなくて、、
というようなことで、本当に葬儀の間は、
(今もかもしれませんが)気の休まる時がなくて、、
本当に気疲れをしてしまいました。
まぁそれでも、もう施設のケアマネさんから
「おかあさまの状況ですが、、」というドキッとする
電話はもうかかってこないのだと思うと
その点に関しては少し気が楽になりました。
(本当は年金の処理とか面倒くさいことが
山ほどあるのですが、、)

 

前回、父の時は九州で父の年金の処理をしましたが
今度は長野でするようなことになりそうです。
果たしてどうなりますことやら。やれやれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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25. 02. 27

母が亡くなりました

2月20日のことです。
ここ1か月、母の施設に行ってくれていた姉からメールが来まして、、
それまで姉は毎日プリンを作って母のもとに持って行って
食べさせていました。
母は姉の作るプリンは大好きで、(この時期、ほとんどものが
食べられなくなっていたのですが、)姉のプリンだけは
何とか食べられていました。

姉からとうとうプリンも食べられなくなった。足には
チアノーゼが出ている、というメールがきました。
21日の朝、施設に電話をしたら、20日の晩は会話をしたり
していました。バイタルは変化はありません、ということだったのですが、、
21日のお昼になって、呼吸が停止しました、という連絡がきました。

朝の電話で、もう少し時間があるかなぁ、と思って
帰省する用意も十分にはしていなかったのですが
(半分くらいの荷物は詰めていましたが)
急いで帰る支度をし、約束していた打ち合わせ、
出席するはずだった会議はすべて欠席します、との連絡をして、
13時過ぎにJRの駅に行きました。
みどりの窓口に行くと、長蛇の列で、あと15分後の新幹線
乗れるかなあ、と思ったのですが、ぎりぎり何とか乗ることができました。
その列車は博多どまりだったので、博多から臨時ののぞみに乗り換えて、、
四国には午後5時過ぎに帰ることができました。
途中駅から葬儀屋さんに連絡したり、親戚に連絡したり、とバタバタしました。
施設には夕方6時過ぎに葬儀屋さんが来てくれて
葬祭会館のほうに運び、安置しました。
そこで、23日お通夜、24日葬儀ということになりました。
本当であれば、22日お通夜、23日葬儀だったのですが、
あいにくと、23日が友引であったので、23日お通夜、24日葬儀になりました。
24日に葬儀が終わって、25日に市役所に行ってさまざまな手続きをして
26日に九州に戻った、というようなことでした。

母については、去年の12月に施設の主治医から
看取りの段階に入ります、というお知らせがありました。
看取りの段階には入ったのでしたが、それから
食欲が回復して、しばらくは食事が食べられるように
なっていました。
その食欲は、1月まで続き、その後は姉のプリンだけが
生命線、という状態でした。
母の場合も、6年位前に最期をどうするのか、という
ことを聞いていました。
「私は十分生きたから、もうあれこれ延命措置をしてもらうのは嫌」
という話でした。なので今回も父の時とおなじように
特に何もせず、看取りということにいたしました。

そういうことで自然に衰えていって、
食べ物も受け付けなくなって、それで最期を迎える
ということになりました。

実は今回は父の時とは葬儀会社を変えました。
父の葬儀の葬儀会社は、知らない間にいろいろな
オプションが付いていて、、唖然とすることが
多かったのです。(湯灌が10万円とか
ようかんのお供えが6000円とか、そんな
注文したことなかったのにいつの間にか、葬儀の中に
そういうことが入っていました。)

こういうことがあったので今回は別の会社にすることにしました。

今回の母の葬儀社は、実家の町では一番古い葬儀社で、
母方の祖母が亡くなったときにはそこで行ったのでした。
父の時から、数か月しか経っていないので、
(幸か不幸か覚えていることも)多かったので、打ち合わせも
(あああの時はこうだったなぁ)と思い出すことも多く
割とスムーズにいきました。

葬儀の翌日、市役所に行って諸届をしたのですが、、
また、母の場合も年金の手続きで面倒くさいことになりそうです。
(やれやれ)
おまけにこちらはその間に引っ越しはあるし、
母の四十九日の法要もしないといけないしで
てんやわんや(死語?)なのでございます。
飛行機なんて数年に1度くらいしか乗る機会がなかったのに
3月は飛行機にものべ6回くらい乗らないといけないようなことで、、
2月にもまして東奔西走という感じです。

まぁ、そういうことで更新が十分にできませんが
ご了解ください。


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25. 01. 02

年末年始の風景

みなさま 年末・年始のこの時期いかがお過ごしでしょうか。
謙介は、この時期、ずーっと仕事でございまして
今日も(1月2日)実は仕事場に来ています。
31日は夕方、仕事場から帰ってきて、
乾麺の蕎麦を茹でてかけ蕎麦にしていただきました。


去年の7月末に信州に行って
松本市と長野市のスーパーとか百貨店とかお土産物売り場に行って
ひとつひとつそこで売っている乾麺・生麺の蕎麦を
確認していってわかったのは、長野では
蕎麦粉100パーセントの蕎麦は売っていなかった、
ということでした。十割蕎麦を探したんだけど、、
ただの一つも売っていなかったです。



9割蕎麦とか、8割蕎麦とか、単に蕎麦だけしかなかったので
裏面の表示を見たら、蕎麦粉6割、その他4割とか。
そうかぁ、蕎麦粉100パーセントの蕎麦はないのか、
というのが、去年の夏、信州のスーパーで見た発見でした。



が、なぜか、九州の田舎町のスーパーには、10割蕎麦というのを
売っていまして。(笑) 蕎麦湯も飲めます、という
ありがたい表示もありましたので、
これを買ってきて年越しそばとしたようなことでした。


で、蕎麦を食べてから、遅くになって、午後10時過ぎから
紅白を見ておりました。ごめんなさい、前半は全く見る気が
しなかったもので。
後半は徳島のにいちゃんが赤い服着て歌い踊ってるのとか、
なごり雪とかミーシ〇の最後の歌を聴いて満足して寝ました。


翌日はまた出勤して少し仕事をして、


Img_1718
それから、仕事場の近くのバス停に行って
お正月3ヶ日だけ運行される臨時便のバスに乗って
初詣の神社に行きました。
神社は結構な山の上にあるんですけど、自家用車の人は
山上の駐車場まで行くわけです。でも山上の駐車場なんてそう大きくは
ないので、すぐに満車になってしまって渋滞が起こるんですね。
それが嫌な人は、ふもとにもある駐車場に車をとめて、そこから歩く
というわけです。謙介さん、九州へは自動車を持ってきていないので
臨時便の参詣バスで行きました。
臨時便ですが、ちゃんと定期運行のバスのように次の停留所の表示とか
どこに停まるという画面表示とかもあるし、録音の車内アナウンスも
あります。特別運行のバスですが、仕事場の最寄りのバス停から
終点の神社のバス停までくねくねとした山上にまで登ってくださって
運賃は片道220円です。


今時、臨時便のバスで、急カーブの続く山道を登っていって
運賃は220円なんて良心的な運賃だと思うんですよ。
別に〇鉄の回しもんじゃないですけど。

おまけにバスは、山上近くになって自家用車が
駐車場に入れなくて渋滞しまくっているときに
片側のレーンを使ってごぼう抜きみたいにして、山上まで
運んでくれますし。参詣臨時バスのほうがよほど便利だと思うんですが、、
みなさん、自家用車にこだわってバスは使いませんねぇ。


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山上からの眺めはこんな感じでございました。


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この辺で全国的に有名な神社、というとやっぱり二日市の
天神さんということになるんでしょうけれども。
(三が日の参詣客は200万人だそうです)
二日市の神社は旧の社格で言うと、官幣中社ですが
この山上の神社はもちろん延喜式の式内社で国幣大社ですもんね。


無事に参詣を済ませて、また参詣バスで降りてきて、
仕事場に戻ってきたのでした。


喪中ですので新年のご挨拶は割愛させていただきます。
まぁそういうことで、謹賀新年とかも言わずに
ずーっとサムライレジデンスの記事を
上げていっているだけ、ということなんですが。



どうぞ今年もよろしくお願いいたします。


 


 


 

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24. 11. 14

オケがこないんです

昨日の文章は、謙介の11月10日全体のことだったのですが、
今日は、演奏会の運営ということで書いてみます。
県民ホールは、運営の規則で9時にならないと開館できないのです。
謙介がホールに入ったのは、9時10分だったかと思います。
その段階で知らされたのが、瀬戸大橋線が止まっているという
ことでした。
JRの瀬戸大橋線が止まるという理由は大きく2つです。
一つは強風。しかし11月10日、強風注意報も
波浪注意報も出ていなかったのです。強風が
吹いているということはあり得ませんでした。

とすると、残りは事故です。とはいえ、瀬戸大橋線は
大半が高架で橋の上を走っていますから、
あまり踏切事故とか列車衝突いうのも考えられない、
とすると車両の故障かなぁ、と思いました。
謙介、この日は、17時40分のマリンライナーの
予約をしていました。JR四国のサイトを見ましたら
事故発生が7時35分とのことでした。
JR四国の運行情報を見ると以下のマリンライナーは
運転中止をしますとあって、朝から午後1時過ぎまでの
マリンライナー、本州行の特急列車の運休が書かれていました。

演奏会事務局に行くと、事務局長と、サブの人たちが
片っ端から電話をかけていました。
顔なじみのAさんに聞くと、オケのメンバーが
岡山で足止めになっているから、今バスをチャーター
しようとしているのだけど、、この行楽時期でしょ、
バスが確保できないの、という話でした。

とは言いながら、合唱団の集合時刻は9時30分ステージということ
だったので、とりあえず楽屋に荷物を置いて、ステージに行きました。

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オーケストラがこないんですぅ。


事務局から、JR瀬戸大橋線が止まっていてオケのメンバーが
来れない状態とのこと。
バスの手配を目下やっているとのこと、の連絡がありました。
そのあと、発声練習をして、前日の合唱練習のところで
指揮者から意見のあった部分についての手直し練習をしました。

その後、ゲネプロ(最終リハーサル)の時間になりました。
ソリストの4名も加わって指揮者も来られました。

その時に(午前10時)事務局から「バスがつかまりました! 岡山に行って
もらいます。時間は4時間程度かかります」というアナウンスが
ありました。
4時間ということは14時ごろにオケが到着するということでしょう。
開始予定が14時でしたから、演奏会は何とか
できそうな雰囲気になりました。ただし、開会を遅らせないと
いけないかなぁ、というのがその時の印象でした。

ゲネプロ本来であれば、ここでオーケストラも参加しての最終リハーサルと
なっていたのですが、オーケストラはいないので、
ピアノ伴奏でソリストも含めての最終リハーサルをしました。
テノールのソリストが、こうなったら、私の落語会でも
しますかねぇ、というお話をされました。

ゲネプロも終わりました。お昼のお弁当タイムになって
みんな楽屋で食事を済ませておりました。
13時30分になったので、謙介も着替えをして、
ホール楽屋口のところまで来ておりました。
13時40分でした、バスが到着しました、
という報告があって、楽器を抱えたオーケストラの方が
楽屋に続々と入ってこられました。
ああ、これで演奏会も何とかなる、と思った瞬間でした。

オケの人たちは、すぐに黒服に着替え、
ステージに行きました。
ホールは12時半開場で、すでにお客さんは入っている
状況です。
最初誰もいなかったステージに次々とオーケストラの
団員がスタンバイしていって、全員そろったのが14時でした。
演奏会は10分遅れだけで済み、14時10分開始となりました。
14時30分から演奏がはじまりました。
オーケストラの方々にとっては、リハーサルなしの
文字通りのぶっつけ本番ということです。
どうなるんだろう、と思っているうちに第1、第2楽章は
終わり、合唱団とソリストが出そろって、再び演奏再開と
なりました。
あとは、練習の時の注意点を思い出しつつ歌いました。
気がついたら、すべてが終わっていました。

いつもの演奏会であれば、演奏の途中でいろいろなことを
考えたり、思ったりすることもあったのですが
この日はひたすら次は次は、と注意しながら歌っていって
気がついたら、すべて終わっていた、ということでした。

あとから、演奏会に来てくれていた人に聞くと
今までで一番良かった、ということでした。
事前合同練習が一度もなくて、いいのか?
とも思ったのでしたが、、、もうこれは
異常な緊張感が、いいほうにうまく働いた
ということだったのでしょう。

 

演奏会の後にはいつも合唱団の解団式をするのです。
一応地元選出の国会議員の方々に招待状を送っています。

立憲〇主〇の幹事長からは祝電が来ておりました。
国民〇主〇の党首は前に何度か演奏会に来てくれたこともありました。
(その頃は暇だったのでしょうねぇ)
今年は時の人で国政に多忙だろうから、来ないだろうね、という話を
していたのでしたが、あらぁ、「房事多忙」で来んかったのね。(笑)

ということで、無事に演奏会も落語会に変更されることなく
終わったのでありました。

オーケストラの方々は、チャーターしたバスで再び
岡山へと帰っていきました。
スマホを開けました。もう10時間もたっていたのだから
なんかの進展・解消になっているだろうと思いながら、
JR四国の運行情報を見ましたら
架線事故のため瀬戸大橋線が現在不通ですとあって
絶望的な気持ちになったのでした。

とりあえず服を着替えて、駅に行った、というような
ことでした。

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新聞のデータベースを見たら、JR四国は瀬戸大橋橋上での
事故を想定して訓練をしている、という記事が
結構ありましたが、、実践に役に立たない訓練を
したって、仕方ないんじゃないかとも思います。

あとからJR西の記者会見のコメントを見ましたら
JR西とJR四国が話をしながら、事故処理について
進めていった、ということは分かったのですが、、
JR西が、「ここまで事故処理が遅れることについて
もう少しJR四国に強く言ったらよかった」ということを
言っていて、、、JR四国が「あーでもない、こーでもない」
と不毛な議論をして時間を空費していたのかなぁ、とも
思わざるを得ないコメントもありました。

JR九州のクィーンビートルもそうですが
もうからんもうからん、金金金、と言い出して
基本の旅客の安心安全をいい加減に考えるような
風土が蔓延しているように思います。

それにしても長い一日でございました。

 

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24. 11. 13

事の顛末

11月9日から11日にかけて実家に帰っておりました。
所属している合唱団の演奏会があったためです。
11日、集合時間(9時30分)にホールへいくと、驚くような
ことを聞かされたのです。
「オーケストラが来ないの。」
「え? どうしてですか?」
「マリンが(マリンライナー)止まっているから」
「どうして? 」
「架線事故らしいの」
「それで? 」
「さっきバスのチャーターの目途が立って、バスが岡山目指して
今、行っている。こっちに来るのは、うーん2時ごろね」

ちなみに演奏会の開始は2時です。
そうなったら客入れを遅らせますかねぇ、、
というような話になっていました。

その間も、オケはこないけれども、合唱団はそれなりに準備を
しておかないといけません。指揮者に来てもらって、
オーケストラでは合わせられませんから、ピアノ伴奏で
最終リハーサルを終えました。
それが12時半です。

13時40分、「オケが着いた」との連絡がありました。
合唱団のメンバーは、みんな楽屋口に並んで拍手をして
迎えました。

結局演奏会は10分遅れだけで済みました。
オーケストラは着くやいなや、演奏用の服に着替え、
ステージに行き、客席に客のいる前で、音合わせをして
即演奏に入った、ということでした。
もうリハーサルなしのぶっつけ本番です。

なんと後からの聴衆の評価は
近来まれにみる良い演奏だった、という評価でした。
やはり緊張感みなぎる演奏が良い方に行ったのだと思います。

すごいぞ関フィル(笑)

演奏会が終わって着替えたタイミングでスマホを取り出して
JR四国の運行情報を見ましたら、17時30分更新情報で
まだ不通のまま、です。
謙介、九州に帰る切符を持っていたので、時間をかえてもらうかして
とりあえず駅に行って何らかの手続きをしないといけませんでした。

そういうことで、駅のみどりの窓口に行ったのでしたが、、
窓口の人から、なんと、19時10分から運行再開します、との
情報を聞きました。謙介その再開マリンに合わせた岡山からの
新幹線予約もしました。何とかその日中には九州に帰れそうです。
ホッとしました。
それから駅中のパン屋さんに行って、夜の食事用のサンドイッチを
買ったりしました。駅で2時間待ったのち、、

18時50分にマリンの入線があって、その列車に乗りました。
当然のことながらすごい混みようでした。
電車は19時10分、定刻に出発しました。
サンドイッチを食べ終えたころ、坂出駅に着きました。
列車はすぐに発車すると思っていたのですが、5分、10分待っても
全然動きません。


そのうち車掌さんの放送があって、現在瀬戸大橋上にいる事故車両を
児島駅まで運ぶ準備をしている。とのことでした。
それから20分くらいして、ようやっと車両が児島駅まで
到着したとのことでした。もう出るだろうと思ったのですが
やはり動きません。


結局動き始めたのは坂出に着いてから42分後でした。
そこからも途中で徐行したりしましたので、
さらに遅延し、岡山駅には44分遅れで着きました。
その結果、東京駅行の最終ののぞみには間に合わないことに
なってしまいました。(東京へ行く人、どうなったのでしょうかねぇ)

2012年1月18日付朝日新聞以下引用

16日午後9時半ごろ、坂出市のJR瀬戸大橋線
児島―坂出・宇多津間で、高松発岡山行き
快速マリンライナー(5両編成、乗客約140人)が、
海上に出る手前の高架部分の瀬戸大橋上で停止し、
立ち往生した。
4時間15分後の17日午前1時45分、
救援のディーゼル機関車に引かれて動き出し、
午前2時19分に宇多津駅に収容された。
引用終了

前にもこういうことあったんですけどねぇ。

JR四国には目下ディーゼル機関車が1両もないのです。
去年の春に最後の一両が老朽化で引退して、後継はいまだなし。
こういうことって、1度ならずあるんですから、やっぱり
一両は入れておかないといけないんじゃないですかねぇ。


それはともかく。

謙介は買っていた指定席券の列車に乗れなくなってしまいました。
それでも西に行くことに関しては、最終の熊本行のさくらになんとか乗れそう
でした。結局、岡山駅に小一時間遅れで到着したマリンライナーを
降りると、脱兎のごとく走って、みどりの窓口に行って
指定席の変更をしてもらいました。幸いに指定席の空きがありまして
座席を確保してもらうことができました。
さくらの発車は15分後でした。ホームに上がって、
東方向からさくらが見えた時、ホッとしました。

それに乗って、九州の最寄り駅に着きました。

さくらが福岡に到着したとき、ふう、と大きなため息が出ました。
もうバスは終わっていたので、タクシーでアパートまでです。
家に到着したのが23時50分というような時間でした。

それでもまぁ11月10日のうちに帰れたので良かったです。

次の日は朝一番で病院の定期検診が
あったのですが、病院に緊急で日程変更をいうようなことに
ならなくてよかったです。検査とか主治医のスケジュールとか
いろいろと調整しないといけないので、簡単に日程の変更が
できないのです。これにもホッとしました。

やれやれの長い一日でございました。

 

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