あらまぁ やっちゃいましたねぇの旅行(3)
さて。伊丹空港に飛行機が到着しました。
九州を出る時は、バスに載せられ滑走路の端まで連れて
いかれましたが、伊丹では、空港の建物のすぐ近くに
駐機してもらえたので、歩いて空港の建物に
入れました。
それはいいのですが、何せ大きな空港ですから
出口に出るまで延々と歩かないといけません。
それでも伊丹空港の建物は、4,50年前と基本的に
変化はないので、歩いているうちに、あ、ここから出るんだった
とか、思い出すのでした。
そうして、空港を出て、モノレールに乗ります。
(と言っても一駅なんですが)
次の蛍池で降りまして、阪急の宝塚線に乗り換えです。
ホームに降りて行ったら、電車が出たところで、
少し待ちました。
5分くらい待つと、宝塚行の電車が入ってきました。
これに乗ります。
何度も言いますが、いつも阪急の車両はきれいに手入れが
できています。 車両は常にぴかぴかに輝いていますし、
たとえ各停の電車であろうと、ガラスはクリアです。
メンテナンスが素晴らしい。
こういう姿勢が、阪急の「商品価値を上げている」のだと
思います。
今日は終点の宝塚まで乗りました。
大学の時の国語学の先生が、もう宝塚の尋常ならざるファンで、、
(四条河原町から宝塚までの定期を買って、授業のない日は
毎日大劇場に通っていた人ですし、、)その先生のご薫陶で
宝塚を観劇するようなことがしばしばありました。
まさにそれ以来の宝塚でした。
阪急の宝塚駅から、花のみちを少し歩きます。
宝塚大劇場、
この日は公演のない日でしたから、
劇場の周囲は閑散としてはいました、が、
楽屋口に来ると、生徒さんの出待ちをしているのでしょうか、
ファンと思われる人がスタンバイしていました。
その楽屋口を通過してさらに南に行きます。
すると背の高いビルが見えてきました。
手塚治〇記念館です。
手塚さんは、宝塚で生まれて、青年前期までここで過ごしました。
育っていく過程では、当然のことながら宝塚歌劇にも
親しみました。おうちのお隣が、宝塚の初期の
スター、天津乙〇さんのおうちだったそうです。
そうした宝塚体験が「リボンの騎〇」という作品に反映されている
ということもあります。
謙介は、鉄腕アトムで魂を奪われてしまった世代ですので
ここに来るのが楽しみでした。
今、魂を奪われたと書きましたが、
本当にもう一時期、鉄腕アトムで毎日過ごしていた
と言ってもあながち誇張ではないくらい
入れあげていました。
ですが、ここにきて、手塚さんの生涯を追ってみると
手塚さんが劇画の台頭という中で、自分のスタイルと
世間からの支持をどう取りつけるのか、という
ことで、ずーっと悩んでいた、ということを知りました。
手塚さんなんて、ずーっと自分のスタイルのマンガを
書き続けていたものと思っていたのですが、
相当な逡巡があったり苦悩があったり、ということが
分かりました。
そういうことだったんですねぇ、、というのが
この記念館を出る時の感想でした。
こういう手塚さんの人生を知ることができただけでも
来て本当に良かった、という感想でした。
ということで、再び花のみちを経て宝塚駅に戻ったのでした。
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