おでかけ

19. 04. 21

野村へ(その1)

3月の21日、思い立って野村町に行ってきました。
去年の7月、大雨が降って野村ダムが満水になりそうになって
ダムの決壊を防ぐために、ダムの水を放流したわけです。

 

そのために下流の町に一気に大水が押し寄せてしまい、、
川筋だった野村の町の中心部は、大洪水に襲われて
しまいました。これが去年の7月8日の野村の様子です。
Nomura

 

住民が逃げ遅れた原因は、検証が行われてきた
過程で少しずつ明らかになっていきました。

 

例えば、ダムがあるから洪水なんて起こるはずない、
と信じていた人もいたそうです。
それから、川の名前の問題もありました。
役所では、「肱川」と呼んでいたのですが、
地元の人は「宇和川」という言い方が一般的
だったそうです。特にお年寄りはその宇和川、
で呼んでいた、と。 だから肱川が危ない!
と言われても、それは遠くの川だから、、
ということで逃げなかった、とか。

 

雨の音で、避難の放送が聞こえなかった、
という人もいたそうです。
それから、避難の放送があって、すぐに
どんどん水かさが増して行って、
気が付いたら、一階は水浸しだった、
ということもあったそうです。

 

そういう様々な要因が重なって
今回の大水害の被害が大きくなった、
と言われています。
元同僚の家は、この町で
造り酒屋をしていたのですが
今回のことで酒は全部だめになってしまい、
工場の設備もパアになってしまいました。
やっていたのが、80歳を越えた経営者であった
ために、再起しようという気力がすっかり
萎えてしまって、廃業のやむなきに
至った、と聞いています。

 

あの水害から8か月が経過しました。
街はどうなったのか、ずーっと
気にかかっていたのです。 
それで今回、思い切って出かけることにした、
ということでした。

今日はとりあえずここまでといたします。

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19. 04. 09

夜船で行くぜ(その24)

今回の北九州旅行、あちこちのお店に行きましたが

どうして、そういう店が分かったのか、と言えば
謙介がずーっと北九州市の広報誌を読んでいたから
なのです。
Img_6506_1

全貌が写真に収まらなかったのですが、
第3号から今年の2月に出た30号まで、
毎号出るたびに送ってもらって
今も愛読しています。


この広報誌は毎回、テーマが決まっていて
それに関するお店や人が出てくるのです。
下手なガイドブックよりずーっと
おもしろい!
この広報誌のおかげなのでした。

   ×   ×   ×

話をもとに戻します。

Img_6433_1

 

船の乗り場は、工場街の片隅、という感じの

荒涼とした場所でした。
まぁね、たいていフェリー乗り場ってそんなものですよね。

 

大阪の辺で喧嘩をした時に言う、
「お前、がたがた言うてたら、大阪南港に
コンクリに詰めて沈めたるぞ」でおなじみの大阪南港も
工場地帯ではありませんが、埋め立て地で荒涼とした
ところでした。今度の大阪万博の会場だそうですが。(笑)

 

まぁ前の千里の大阪万博 EXPO’70も元の場所は
千里丘の竹藪だったところに造った、ということですから、
似たようなものですね。

 

いよいよ出航の時刻になりました。
それまで車を積むので、下の車両甲板から
いろいろと振動が起こっていましたが、
それも無くなって今度はエンジンの振動に
変わりました。

 

船が動き出してしばらくして
お弁当を食べ終えたので、
甲板に出てみました。

Img_6437

嗚呼、九州が離れていくぅぅぅぅぅ

わずか1日半の旅行でしたが、あちこち行って
本当に楽しい旅になりました。

 

船はほどなくして、下関に近づきました。
海峡ゆめタワーが見えます。

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武蔵と小次郎の巌流島が見えました。

Img_6444

 こういう景色が眺められる、というのが
昼行便の魅力ですね。

Img_6447

釜山行のフェリーが見える、という
ことはあの近くが下関駅、ということですね。

逆方向を見たら、門司港のあたりが見えました。

反対側は下関市唐戸です。

中央の円盤のような屋根は水族館です。

Img_6453
昨日はここから関門海峡を渡ったのでした。

 

そうこうしているうちに、関門橋が
近づいてきました。

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関門橋も早いもので完成してすでに
50年近くが経ったのですね。

Img_6464

まだこの時は出ていなかったのですが、
例の「忖度道路」って、関門海峡の
なんたらかんたら、ということでしたから、
この辺にでもできるんだったんでしょうか?(笑)

 

橋の真下を通過しました。

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関門海峡もどんどん遠ざかっていきます。

Img_6477

船は18ノットで航行していました。
30キロ弱、の速度でしょうか。

航跡が走ってきた距離を物語ります。

Img_6495

午後5時半過ぎの光景です。
日暮れが近くなりました。
夕闇も迫ってきています。

 

四国の目的地まではあと2時間に
なりました。(全行程7時間ですよ。
やっぱり長いわ)

 

船は予定より10分ほど早く
四国の桟橋に到着しました。
家に帰ったのは、午後9時前でした。

 

ながながと書いて来たこの旅のご報告も
これでおしまいです。この長い報告
お読みいただいてありがとうございました。

 

 

 

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19. 04. 08

夜船で行くぜ(その23)

戸畑の駅に戻りました。
駅構内に東○軒の売店があったので
ここでひとまずお昼ご飯を買うことにしました。

 

若松の駅にも東○軒の売店はあったのですが、
お弁当を持ってうろうろすることもできず、
こちらで買うことにしました。
小倉駅にもあるんですけど、やっぱり
小倉は買う人が多いのか、いつもさっさと
売り切れになるそうで、、戸畑で見たら、
ここのも後、2.3個しか残っていませんでした。
謙介ったら、小さいのを買ってしまったんですよね。
大きいのはしんどいとか思ったのですが、
後で船に乗って、いざいただいたら
すんごくおいしかったんです。さすがは
伝統の味だと思いましたし、いまどき駅弁なんて
売れなくなっていて、あちこちの駅弁やさんが
廃業しているのですが、ここの駅弁が今もこんなふうに
売れているわけがわかりました。

 

小倉駅に着いて、駅の中の名店街で、お土産を買って

Img_6432
港のほうに歩いて行くことにしました。

 
通常は2隻のフェリーが、両方一度に夜の9時に
九州と四国を出港するのでしたが、
その時は片方の船がドッグ入りしていたために
1隻体制でした。つまり、午後1時20分に小倉を
出て、夜の8時半に四国に着き、夜の9時55分に
また出て、九州へ戻る、という運行ダイヤだったのです。

 それだけ九州での滞在時間は短いのですが、
ひとついいことがありました。それは
昼間に航海をするので、景色がはっきり見られる
ということでした。
これはドッグ入り中しか見られない風景なので
わざわざこの時期を選んでこの船に乗る、
という人もいるのだ、ということを聞きました。

 

謙介、そういう昼間便で、別に寝なくても
よかったので、帰りは2等で帰りました。
2等は一応、テリトリーは確保されては
いるのですが、もう雑魚寝、という感じです。

 

小倉駅で土産と、お茶を買って、コインロッカーに
預けていた荷物を取り出して、

Img_6432

 

北に向かって歩きました。
昨日、着いた時はまだ暗くて何が何やら、、
だったのですが、さすがに天気のいい昼間です。
ああ、ここはこんなふうになっていたのか、
とか思いながら歩きました。

途中まではこんなふうに動く歩道がありました。

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船の乗り場に着いたのは、12時30分でした。

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予約していたので、予約コードを言って
乗船手続きをしました。
乗船時刻は、12時50分ということだったので、
ちょっと時間がありました。

 

今回の旅行、北九州滞在はわずか1日半、
(と言っても、うち半日は下関だったから
実質の九州滞在はまる一日でしたね)
だったのですが、お天気もよくて
いろいろなものを見ることができて
本当にいい旅でした。

 

12時50分、それでは乗船を開始します、
のアナウンスがあって、乗船がはじまりました。
謙介、一度船室に行って、場所を見るだけしました。
それからラウンジのほうに戻って、
戸畑で買ったかしわめし、を広げていただく
ことにしました。

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さっきも書きましたが、一口食べて
ああ、と後悔したのです。
どうして大きい分を買わなかったのか!
このかしわめし、すんごくおいしかったのです。

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今日はここまでといたします。
次回でたぶんこの北九州の旅の記録も
終わりだと思います。(たぶん)

 

ほんまかいな。

 

 

 

 

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19. 04. 06

夜船で行くぜ(その22)

河伯洞を辞して、再び若松駅のほうにむかいます。

若松駅の前に茂兵衛まんじゅうのトラ○があります。

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この茂兵衛まんじゅうというのは、回転焼きというのか
大判焼なんですが、

Img_6398

どこがちょっと
違うか、と言えば、中のあんこが
白手亡豆で作られています。
白、とあるのですが、よく煮詰めれたあんこ
なので、色は茶色になっています。

Img_6399

(すみません。手で割ったらこんなことになりました)

これを買っておいて、若松の市民会館に行きます。

Img_6391 

ここに前回、お話した、火野葦平の記念室が
あります。火野の作品の掲載雑誌や身辺のものが
こちらで保存されています。

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記念室を出て、再び港の方に行きます。
途中、市民会館の別の入り口のところに
こんな立て看板がありました。

Img_6393
由美かお○さんの講演会って、、、
あの方、おいくつなんでしょうかね。

謙介が小学生のころ、すでにテレビに出ていましたもんね、、。
だから70歳ちょっと前くらいのお歳だと思うんですけど、、

 

再び洞海湾の岸に来ました。
船が奥のほうへとさかのぼっていっていました。

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若松から再び戸畑へ。

Img_6396
今回、北九州を訪れて、今まで自分の中にあった
イメージが払しょくされました。
というのが、どうしても北九州市って
工業地帯、というイメージがあって、
四六時中工場の煙突から煙が出ている、
というイメージだったのです。

 

実際に行ったら

空は晴れ渡っているし、空気がおいしいし、
山や緑はたくさんあるし、、
もう全然違っていた、ということが
体感できました。
まぁ、一つは、産業構造の変化が
あって、かつてあった石炭輸送も全くなくなりましたし、
工場も、昔のような工場が無くなった、
ということもあったのですが、、。
それにしても一度刷り込まれた
イメージを変える、というのは、なかなかに
難しいなぁ、というのもひとつありますね。

 

再び戸畑に戻ってきました。
小倉に戻る前に、ちょっと寄りたい場所が
ありました。
日本水○のパイオニア館です。

 

下関でニッス○創業の地の建物を見ましたが、
もともとニッス○は「関門」地域で成長していって
大きくなった会社だったのですね。

 

昭和4年にニッス○は下関からこの戸畑に移して
ここを本社としたそうです。
それで、このビルを昭和11年に建てた、
といいます。 洞海湾の強風にさらされ続けたのでしょう。
ちょうど行った時は外壁の修理中で、
建物全部に覆いがかけられていて、
その建物の全容を見ることはできませんでした。

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懐かしいニッス○のマーク。

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館内も、土曜日だったからなのか、
こんなところまで、足を運ぶ人間なんて
少ないと思っているのか、
案内の人は、係りの人は誰もおらず、
見るんなら、どうぞご勝手に、という感じでした。

Img_6414

でも、そのほうが自分の好き勝手に見られて
良かったりはするんですけど。(笑)

戦前から戦後にかけて、日本の食料政策とか
栄養事情に合わせるようにこの会社が
発展してきた歴史が、会社の資料とともに
展示されていて、なかなか興味深い
展示でした。

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パイオニア館の見学をすることが
できましたので、また戸畑の駅に
戻ったのでした。

 

今日はここまでといたします。

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19. 04. 04

夜船で行くぜ(その21)

若松の中心部を通って、JRの若松駅のほうに向かいました。
若松の駅は、前回に言いましたように、
石炭運搬という大きな責務がなくなってから、
すっかり規模の小さな駅になってしまいました。

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これが若松駅ですが、
北半分は「ファミ〇」ですから、純粋の駅舎は
南半分だけ、ということになります。

駅の中にはいってみました。

Img_6369
ホームは1つです。
二両編成のディーゼルカーが、
のんびりと折尾のほうに出発していきました。

 

昔のことを知らなければ、
単なるローカル線の終着駅、としか思えない
ようなのんびりとした風情です。
昔はこの駅に何百人という駅員さんが
働いていた、と言います。
それは今は無人駅になってしまいました。
駅の待合コーナーに、昔の若松駅の
写真がありました。

Img_6368

 

駅の横、かつての操車場の跡に

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操車場跡の石碑と、古いSLが置かれていました。

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前の日に門司の鉄道資料館で
すごく保存状態のいいSLを見た次の日に,

Img_6184

このSLを見ると、どうしてこちらのSLは
もうちょっとちゃんとメンテナンスとか
保存に対して何とかしないのか、と
思いました。

なんだか本当に哀れな感じがしました。
駅前から西に少し行きますと、

Img_6371

河伯洞というお家があります。
ここが作家の火野葦平の自宅です。

Img_6373

Img_6388

 

今は火野の三男の玉井史太郎さんが
ここにおいでで、来館した人に
火野の話をしてくださいます。

 

この家は、
正確には、火野が稼いだ原稿料を使って
火野の父親の玉井金五郎が普請をして
建てた家だそうです。
金五郎がこの家を建てたことについて
火野は、非常に怒っていたそうです。
この家ができたのが昭和15年。
太平洋戦争の開始が昭和16年ですから
もう資材でも結構ひっ迫していた時期です。
にもかかわらず金五郎は贅をつくした
豪壮な家を建ててしまいました。
火野は国に献金でもすればいいのに
こんな家を建てて、。言ったそうです。
例えば、天井板は屋久杉。

Img_6387_1

 

廊下の床板も、杉の一枚板です。

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柱も太く、がっしりとしたつくりの家だと
思いました。

ここが座敷です。

Img_6375_1


日当たりのいい縁側で、史太郎さんと
火野の文学についての話をしました。
謙介が、金五郎の故郷から来た、と
話をすると、やはりことのほか喜んで
くれました。

兵隊から帰ってきて、最初は文句を言っていたこの家に
住んで、作品を発表していきました。
火野、と言えば、どうしても前回お話しした
花と龍と言った、ヤクザの出入りの話のようなものとか
麦と兵隊、と言ったような従軍もの、という
の作品の印象がどうしても強いんですけどね、、。

 

確かに従軍、ということがテーマ、
ということはあるとは思うのですが、
謙介はその後ろにある、やはり
「人間の生」というものを描きたかったのでは
ないか、と思う、ということを
史太郎さんとともに語りあったのでした。

 

火野の文学の再確認が必要ですよね、
というような話もしました。

火野は1960年に睡眠薬自殺をするのですが、
その死の直前2か月くらいの日記
「ヘルスノート」によって彼の行動を
知ることができます。 それを読むと
彼は高血圧気味ではあって、しょっちゅう
主治医の診察を受けています。高血圧はいえ
160から180くらいです。でもその血圧を
ものすごく気にしていて、、ヘルスノートを
読む限りは、血圧を苦に亡くなったような
印象をさえ受けるのです。

 

この当時、火野は東京と若松を飛行機で
行ったりきたりしながら、作家活動をしていました。

 

彼の月収は、そのころで150万あった、
と聞いています。今の物価でなくて
60年前ですからね。ところが
彼の家族も多かったですし、
いろいろと扶養家族が多くて
彼の稼いだお金は右から左へ消えて
いった、と言います。本人も
結構派手な金の使い方をしていたようですし、、。

火野の自殺の原因については
はっきりとはわかっていません。
ヘルスノートを読むと、血圧、ということに
なるのですが、でも、無茶苦茶高い、
という感じでもありません。 一説によると
それまで北九州の文学界では自分が
一番だったところに、新人として、松本清張が
出てきてその地位を脅かされる恐怖があったのでは
という人もいます。
謙介は、先の見えない不安がどんどん大きくなって
将来に希望が何ら持てなくなった末の自殺では
ないか、と思っています。
作家活動はじり貧になるわ、将来的に自分の
生活はわからない。健康状態に希望は持てない。
すべての面において、彼に救いが与えられる
ことがなかったから、というのが謙介の見立て
です。 希望がなかった、のだと思います。
どうして、そうだと思うのか、と言えば
今の謙介も似たようなものですから。

 

そうした先行きの不安に駆られたのではないか、
という気がひしひしとするのです。

 

最後にこの火野の家の東の端の2階に
上がりました。ここが火野の書庫だった
部屋。

Img_6379

そしてその端に、火野の仕事部屋が
ありました。

Img_6380
1960年の1月に、彼は
主治医に取材と称して、どの睡眠薬を
何錠くらい飲んだら死ねるのか。
ということを訊いています。

 

そうして主治医から聞いた睡眠薬を
小倉とか戸畑とか若松と言ったこの
付近近辺の薬局に行って、買いあさって
とうとう最後にその睡眠薬百錠を飲んで
自殺をはかったのでした。

 

当時、親族の手によって、この自殺は
伏せられ、遺書であったヘルスノートも
伏せられました。マスコミへの発表は
心筋梗塞で急死した、ということに
なりました。すべての真実が公開されたのは、
火野の奥さんが亡くなった、1972年以後
のことでした。

 

今日はここまでといたします。

 

 

 

 

 

 

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夜船で行くぜ(その20)

令和はもういいからさっさと北九州の話の続きを

しろ、ですよね。 すみません。

とうとう「その20」まで来てしまいましたよ。(笑)
ですが、まだお話は続きます。

 

渡船は若松の港に着きました。

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(ちょっと屋根がやばいことになっています。

はよ修理せんとあきません。

 


若松は昔、筑豊の炭田でとれた石炭の積み出し港で
発展した街でした。
今では行きかう船もめっきり減ってしまいましたが
その昔は、輸送船のマストが文字通り林立していた、
という状態だったそうです。 当時の国鉄の若松駅も
貨物の(石炭ですけど)取扱高日本一で、駅もそうした
大きな操車場があって、駅の面積も非常に広大だった、
と聞きました。

 

さて、洞海湾沿いの浜には、かつての若松の
繁栄を見てきたビルが今もいくつか残っています。
まずは栃木ビル。これは若戸大橋真下にありました。

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それから旧三菱の建物だった上野ビル。

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たまたま通りがかったら、ビルの庭を手入れしている
おばちゃんがいたので、入って見学してもいいですか?
と聞いたら、「どうぞどうぞ」と勧めてくださいました。
このビルの建ったのは大正の末年だそうです。
玄関はこんな感じです。

Img_6319

2階に上がると、中央部分は吹き抜けだった、
ということがわかります。

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その周囲に回廊があって、そこに面して
部屋がある、という構造でした。

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(↑ これは炊事場です)


今はそれぞれの部屋を貸す、ということになっていますが、
昔は、××課、とか、○○課 というふうに分かれて
いたのかもしれません。
天井にはステンドグラスが入っていて、
それがある程度の採光にもなっていました。

 

もう一度お礼を言って、次に行きます。

これが旧古河鉱○の若松支店のビルだそうです。

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さっきの上野海運のビルとは違って

細かいところまで、メンテナンスがしっかりと

なされている、という感じでした。

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それから、同じく洞海湾沿いに、
古い木造の小屋が建っています。
これは「ごんぞう小屋」と
呼ばれた建物だそうで。
ごんぞうというのは、運ばれてきた
石炭を船に運び入れる人夫さんの
ことだそうです。
そして、その人夫を取りまとめる「組」が
ありました。そんな組の一つに
玉井組、という組がありました。
組の親方は、玉井金五郎。
通称「玉金」 実はこの人の出自に
とても興味があって、そのためにこの
若松を訪れた、ということだったのです。

 

この玉井親分、謙介の仕事場の街、
それも謙介が毎日通勤するときに
通っている場所で生まれました。
そうして「金五郎」ということで「五番目の
子どもだった」でしょうから、おそらく
家を継がない、ということで他地方に
行けと、というのか、出された、のだと思われます。
そうして、この石炭の積出で沸く、北九州の
若松にやってきて自分も石炭の積出人夫に
なります。彼には人を惹きつけるカリスマ的な
魅力があったのでしょう。どんどん頭角を
あらわして、とうとう彼は「玉井組」という
組を作るに至ったのでした。
金五郎はマン、という名前の嫁を取ります。
玉金の嫁がマン(人夫さんたちが
そういった、と聞きました。あははは)

彼の息子はその組を引き継いだのですが
他方で、小説を書く作家でもありました。
『糞尿譚』という作品で芥川賞をとった
火野葦平がその人です。

玉井組は太平洋戦争中、物資・資源・
流通の国の統制に遭って、強制的に
解散させられてしまいました。
その事務所跡のプレートが、今は別の会社の
建物になってしまったところにありました。

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それから、若松の大通りを通って、

以前の街の中心のほうに行きました。
今はホテルになっているここは、

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デパートがあったそうです。
商店街にデパート、ということですから
この辺が若松で目抜きの繁華な場所だった、
ということですかね。

 

デパートのところをもうちょっと北に行くと
料亭がありました。豪壮かつ非常に手間の
かかった、贅をつくした建物です。
もう今どき、ここまでこりに凝った建物、
というのは、ちょっとできないでしょうね。

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前にも言いましたが、この若松は
石炭の積出港で、西日本屈指の貿易港
でしたから、人も金も集まって、
すごい賑わいだったのでしょう。

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この建物からは、そんな若松がにぎわった
ことが、よくわかる、と思いました。

 

今日はここまでといたします。

 

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19. 03. 30

夜船で行くぜ(その19)

再び小倉駅に戻ってきたのが、7時50分でした。
小倉駅から7時57分発の快速博多行に乗りました。
時間があったら、博多まで行きたかったんですけどねー。
何せ前回も言いましたように、午後1時のフェリーで
九州を後にしなければなりません。

 

電車で着いたのが、戸畑の駅でした。

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しかしまぁ、どこにでも岡田屋ってあるんですねぇ。
スペースワールドの跡にも岡田屋が入る、だとか。

 

こちらは駅の表(南口)だったのですが
通路を通って、北のほうに移動しました。
南の表口のほうも人は
あまり歩いていなかったのですが、
北口になると一層人出は少なくて、、、。

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だーれも歩いていない。
駅前に若山牧水の歌碑がありました。

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牧水の知り合いがこの戸畑に居て、
彼はその縁で、何度かここに来た、
ということでした。

Img_6269  

駅前の緑地帯に、ぽんと立っているので
一瞬なにかと思ったら、牧水の石碑だった
ということで、ちょっとびっくりしました。

牧水の石碑のところから目を上げると
正面の視界には、若戸大橋が入ってきます。

Img_6267
小さい時に家族で長崎に行ったことが
あったのですが、今もその時の記憶として
この赤い若戸大橋はよく覚えています。
やはり青い空に赤い橋、というコントラストは
それだけ強烈だった、ということなんでしょうね。

 

今日は戸畑から若松へ行くのが目的でした。
若戸大橋のほうへ行く途中に、戸畑村役場跡、
という小さい石碑がありました。
昔は「村」だったのですね。

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以前は若戸大橋には歩道があって
人も歩いて渡れていたのですが、
歩道はなくなってしまいました。
そうすると、渡船で渡るか、JRで折尾まで
行って、若松行の汽車に乗るか、かなぁ、と
思ったのですが、汽車だとちょっと時間が
惜しかったので、渡船で渡ることにしました。

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ここが渡船場です。
と言っても、船が来る時刻まで、ちょっと
時間があったので、若戸大橋の写真を
何枚か撮りました。

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斜めから見たところ。

下から撮ってみました。

Img_6290

橋の下には、日本道路公団の建てた
若戸大橋の記念碑がありました。

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そんなことをしているうちに、

船が若松からやってきました。

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今、渡船で就航しているのは2隻のようです。
黄色と黄緑のくき丸、というのがピストン運行して
使われています。 もう一隻のこの船は
桟橋に係留されていました。

 

昔と違って、利用する人も減った、ということが
あるのでしょうね。
昨日の関門海峡は5分。今回の洞海湾は3分だそうです。

 

渡し船の利用料金は、片道100円です。

Img_6296
自動券売機で切符を買って、乗船するときに
係りの人に渡します。

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船内はこんな感じです。
通勤電車でなくて、通勤汽船ですね。

Img_6300

戸畑を出港して、船は洞海湾を渡ります。
この辺、昔は工場とかたくさんあって、
煙がもくもくと出ていたのでしょうね。
今は、のんびりとした風情です。

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船旅を満喫して(笑) 

船は若松の桟橋に到着したのでした。

Img_6307

今日はここまでといたします。

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19. 03. 28

夜船で行くぜ(その18)

次の日になりました。
2日目は、半日しかないのです。
というのも、普通だったら、
四国行のフェリーは夜の9時55分の
出航なのですが、その時は船がドッグ入り
していて、一隻の船で運行していたのです。
そのため、小倉港の出航時間が午後1時20分。
四国着が、夜の8時20分、という
運行スケジュールなのでした。
なので、あちこち回って昼過ぎには
小倉駅まで戻ってこないといけないのでした。

朝の6時に目ざめて、身支度をして、7時前にホテルを
出ました。

昨日の朝も「うどんや」だったのですが、
きょうも朝はうどんやに行きます。
小倉の駅のコインロッカーに荷物を預けて、
商店街を南に。

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さすがに早朝の駅も商店街もあまり人通りが
ありません。
商店街の中に「資さんうど〇」がありました。

Img_6254
北九州でうどん、と言えば、この店だと、
教えてもらったのです。
ここはチェーン店で、北九州のあちこちに
あるんだそうで。中で、何軒か24時間営業の
支店がある、そうで。
そのうちの一つがここ、ということで
行ったのでした。

 

お店は早朝からのお客さんがどんどん
入れ替わりで入っていって、
にぎわっていました。

 

ここは、セルフではなくて、フルサービスの
お店です。(うどんを調理場で作って、店員さんが
持ってきてくれる、というスタイル)
で、もって、うどん以外にカレーとか親子どんぶりと
言ったどんぶりものとか、朝食用の焼き魚定食
というようなメニューまでありました。
それから、いなりずしとかおにぎりとか
おはぎもありました。

 

その中で、ここの一番のおすすめと聞いた
肉ごぼううどん、にしました。
調理場では、朝食用の定食メニューもどんどん
注文が出ていました。 謙介の座っていた
ちょうど横が、調理場で、定食のできたものが
置かれる窓口だったので、あとからあとから
定食ができていくのがわかりました。

 

肉ごぼううどん、出てくるまでに結構な時間が
かかりました。12分くらい待ったでしょうか。
これが、その肉ごぼううどんです。

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麺はちょっと柔らかめでした。
前に博多に行ったときに、ごぼ天うどんを
食べましたが、北部九州、というのは
ごぼ天がお好きなんですかね。
お出汁はおいしかったです。

 

おいしくいただきました。
ただ、フルサービスなので、
やっぱり値段は高かったですね。
肉ごぼううどん、お値段が700円でした。
700円で、毎日のランチとか朝食で食べるのか
と言われたら、ちょっと高いなぁ、という
気がしました。
で、うどんとともに、おでんとか
いなりずしを一緒に頼んだら、
すぐ1000円になります。

 

同じ1000円あったら、謙介は
うどんを食べるだろうか、
と考えたら、うーん。
ちょっとうどんという
選択はしないんじゃないか、と思います。

高松だと肉うどんは400円くらいです。
それにごぼうの天ぷらが100円です。
それにおでんをつけても600円で済みます。
せっかく北九州に来たし、
記念に食べる、ということで
700円のうどんを食べましたが
北九州に住んでいて、仕事場から
お昼のごはんとして、、
ということになったら、ちょっと微妙かなぁ
と思ったのでした。

朝食をいただいて、再び小倉駅に戻りました。
今日はここまでといたします。

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夜船で行くぜ(その17)

謙介の実家から仕事場へ移動する途中に、

さくらの名所があったんですよ。
地元の人しか知らない場所だったんですけどねぇ。

「あったんですけれどもねぇ」、と
過去をあらわず助動詞を使わないといけないのが
残念なんですけど。
その名所、マスコミに出ちゃったんです。
それも地元の地方新聞なら、あ、そこ知ってる、
で、済んだのですが、、 
出たのが「ニューヨークタイムズ」だったもので、、
一気に世界中の注目を浴びることになってしまいました。

Shiudeyama

ニューヨークタイムズが選んだ 

2019年行くべき52か所の旅行先、で、

日本の中では唯一瀬戸内海が選ばれて、その瀬戸内を代表する
スポットとして、そのお花見の場所が選ばれて
しまったのでした。だってみなさん、三豊市、って

言って、あ、あそこ、ってすぐわかりますか?
そんな市なんて知らない、っていう人が
ほとんどじゃないですかね。

えーっと、ほら、今、NHKの朝ドラで『まんぷ〇』
をやってますが、あれに出ている、要〇が
この三豊の出身なんですよ。

Kyaname

三豊に行くとこんなでかい看板が、高速道路の
インターチェンジの出入り口のところに
でかでかと掲げられています。

あ、三豊の話ではありませんでしたね。

話を北九州に戻します。

小倉駅に再び戻ってきました。

駅前に、先月まで「コレット」という

井筒屋が経営していた百貨店があったのですが

閉店してしまいました。

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店は継続したテナントだけで、一応やっていましたが

なんとなくこんな感じでがらーんとしていました。

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駅の北口には松本零士さんの

漫画の登場人物の像がたくさんありました。

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いったんホテルに戻って、預けてあった荷物を

もらって正式にチェックインしました。

ちょっと休憩をして、鳥町食堂街の中にあった

洋食屋さんに行こうと思いました。

3時くらいに通りがかった時、店が開いているのを

確認していたのです。

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戦後すぐの闇市がそのまま発展して、この食堂街に

なったのだそうです。

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アーケードはありますが、道幅が狭いので、

ちょっとごちゃごちゃした感じです。

でも、そこがいいのかもしれません。 謙介が

小学生の時に行った、大阪のジャンジャン横町の

ような感じがちょっとしました。

で、行ったら、何ということでしょう。

閉まっています。

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もう一軒のほうも閉まっています。

食べロ〇によると、閉店時間は夜の8時と

ありました。行ったのは夕方の6時半でした。

お昼間開いていたのに、、、。最近よくあるのが、

お店の人がだんだん高齢化していて、

もう夜まで開けているのが体力的にしんどくなったか、

めんどくさくなったのかもしれませんね。

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仕方がないので、同じ食堂街の中華の「耕〇」に

行きました。 ここは、作家の松本清張がごひいき

だったお店と聞いています。

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チャーハンを頼みました。

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左側のスープの中には、うずら卵のゆでたのが

入っていました。チャーハン自体も、よそのお店の

チャーハンよりいろいろな具が入っていて

ちょっと贅沢な感じのチャーハンでした。

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ホテルに戻って、旦過市場で買っておいた

水ようかんをいただきました。

包み紙を見たら「成金饅頭」とあって、気が付かなかったなぁ、

あったら買ったらよかったなぁ、と思いましたが、、

明日は明日で回るところがいろいろあるので、

旦過方面は行けそうにありません。

また、の宿題にして、、

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右端が水ようかんで、真ん中の白いのが

かるかん、で、左端のワインレッドのものが

かるかんの上に、ラズベリーのゼリーを

のせたものでした。 水ようかんは

それなりの存在感がありましたが、

かるかんは文字通り軽くて、淡雪のような

くちどけで、さっとなくなってしまいました。

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本日はここまでといたします。

 

追記

ココログのブログなのですが、

先日、リニューアルしてから、

やたら欠陥が出てきています。

今回も行間が詰まったり、間延びしたところが

あったり、でお見苦しかった、かと

思います。しばらくこんな状態のようです。

お読みのみなさまには、ご不便をおかけしますが

どうかご了承ください。

 

 

 

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19. 03. 27

夜船で行くぜ(その16)

リバーウオークから、長崎街道の橋を渡ります。
早咲きの桜が、満開でした。
一足先に九州でお花見ができて、うれしかったです。
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常盤橋をわたります。木の橋で、なんだか
江戸時代にタイムスリッしたような感じでした。
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今回、お城好きの謙介さんのブログのくせに
「小倉城」というのが全然出てきていないじゃないか、
と思われた方もおいででしょう。
実は小倉城の天守閣は、今年度(2018年度)は、
改修工事で閉鎖されていて、見ることができませんでした。
なので、遠望の写真だけ。
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それで、北九州のこの辺で一番大きな本屋さん
ということで、クエス○に行きました。
ここなら、多分あるだろう、と思った本を
探すためでした。
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どの売り場にあるのか、ちょっとわからなかったので
レジで訊きました。
「北九州市の広報誌「雲のうえ」の創刊号から5号までを
合冊にした本がありますか?」というものでした。
北九州市の広報誌だから、北九州市の本屋さんには
あるんじゃないか、と思ったのです。
果たしてその本はありました。
どの売り場かと言えば、「旅行記・旅行ガイドのコーナー」
だったそうです。
無事に欲しかった本も買えました。
それから、銀行にお金をちょっとおろしに行って、、。
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北九州の旅行では、やっぱりここは外せないでしょう、
ということで、来たのが、「旦過市場」でした。
Img_6210
謙介には、「旦過」という言葉は、非常に親しみのある
言葉です。謙介の場合、地名ではなくて
臨済宗用語、としてなんですけど。
雲水の修行をしたい、と思った人が
禅の道場のあるお寺に行きます。
で、来たその修行がしたい、という人を
修行道場のほうでは、簡単に受け入れません。
玄関のところで、どうぞお願いします、と
言っても、古参の雲水が出てきて、
「うちは今、定員いっぱいだから帰れ」だの
「忙しいから邪魔邪魔!」だの
「いい加減にしろ」だのと罵詈雑言を放って
何日もの間、入門を許可してくれません。
(ただし、晩になったら、ごはんくらいは
出してくれます)が、朝になったら
「とっとと帰れ!」とまた罵詈雑言です。
その入門にあたっての通過儀礼をおこなうのが
「旦過寮」というところで、
「どうぞ、入門させていただきとうございます」
と伏してお願いをすることを「旦過詰め」と言います。
そっちのほうで、「旦過」という言葉は
なじみがあります。
この市場も、ところどころシャッターを
おろした店がありましたが、
どこもお客さんでにぎわっていました。
ただ、行ったのが、もう夕方の4時を回った
時間だったので、よく売れる店では
あまり商品は残っていない、感じでした。
その辺、京都の錦市場とよく似ています。

 

で、歩いていて思ったのが、
「鯨肉」を売る店が多い、ということ。
大阪・京都も以前は結構鯨肉を扱う店が
多かったんですよ。
京都のうちの近所(常盤)にあった
スーパーでも、鯨カツとか普通に
売っていました。5切れ入っていて
250円くらいだったかな。

 

鯨の肉は正方形に薄く切られたものに
(厚さは5ミリくらい)パン粉をつけて
揚げられていました。

 

うちの両親は、おでんを作ったら
必ず鯨の尾の部分とか、舌をおでんに
入れていました。

 

ということで日常のおかずとして鯨って
結構食べていたんですけどね。
最近はスーパーではとんと見なくなって
しまっていたのですが、、
この市場では、鯨肉の看板なり、旗を立てた
店なりが、そこここにあって、まだまだ鯨肉
食用文化が、ちゃんと残っているのだ、という
ことを実感したのでした。

 

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それから北九州と言えば「糠だき」ですねー。
魚をぬかで炊いた郷土料理ですね。
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ぬか炊きのお店も結構ありました。
今は家ではあまりしないのでしょうかね。
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前を歩いていた人、もうパッと見て、、、
チリチリパーマの頭髪。
単色の派手な服。
(模様はなくて、単色の派手な赤)
典型的なけんちゃなよ国のアジュマだなぁ
と思いました。
もうちょっと近寄って、おばちゃんの会話を
聞きましたら、やっぱり。
みあんへよ。
盗撮してしまったようなことで。
今日はここまでといたします。

 

 

 

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