おでかけ

23. 06. 03

あらまぁ やっちゃいましたねぇの旅行(3)

さて。伊丹空港に飛行機が到着しました。
九州を出る時は、バスに載せられ滑走路の端まで連れて
いかれましたが、伊丹では、空港の建物のすぐ近くに
駐機してもらえたので、歩いて空港の建物に
入れました。
それはいいのですが、何せ大きな空港ですから
出口に出るまで延々と歩かないといけません。
それでも伊丹空港の建物は、4,50年前と基本的に
変化はないので、歩いているうちに、あ、ここから出るんだった
とか、思い出すのでした。

そうして、空港を出て、モノレールに乗ります。
(と言っても一駅なんですが)
次の蛍池で降りまして、阪急の宝塚線に乗り換えです。
ホームに降りて行ったら、電車が出たところで、
少し待ちました。
5分くらい待つと、宝塚行の電車が入ってきました。
これに乗ります。
何度も言いますが、いつも阪急の車両はきれいに手入れが
できています。 車両は常にぴかぴかに輝いていますし、
たとえ各停の電車であろうと、ガラスはクリアです。
メンテナンスが素晴らしい。
こういう姿勢が、阪急の「商品価値を上げている」のだと
思います。
今日は終点の宝塚まで乗りました。

Img_5648
大学の時の国語学の先生が、もう宝塚の尋常ならざるファンで、、
(四条河原町から宝塚までの定期を買って、授業のない日は
毎日大劇場に通っていた人ですし、、)その先生のご薫陶で
宝塚を観劇するようなことがしばしばありました。
まさにそれ以来の宝塚でした。
阪急の宝塚駅から、花のみちを少し歩きます。
宝塚大劇場、

Img_5656

この日は公演のない日でしたから、
劇場の周囲は閑散としてはいました、が、
楽屋口に来ると、生徒さんの出待ちをしているのでしょうか、
ファンと思われる人がスタンバイしていました。

Img_5654

その楽屋口を通過してさらに南に行きます。
すると背の高いビルが見えてきました。

Img_5651
手塚治〇記念館です。
手塚さんは、宝塚で生まれて、青年前期までここで過ごしました。
育っていく過程では、当然のことながら宝塚歌劇にも
親しみました。おうちのお隣が、宝塚の初期の
スター、天津乙〇さんのおうちだったそうです。
そうした宝塚体験が「リボンの騎〇」という作品に反映されている
ということもあります。

Img_5652

謙介は、鉄腕アトムで魂を奪われてしまった世代ですので
ここに来るのが楽しみでした。
今、魂を奪われたと書きましたが、
本当にもう一時期、鉄腕アトムで毎日過ごしていた
と言ってもあながち誇張ではないくらい
入れあげていました。

ですが、ここにきて、手塚さんの生涯を追ってみると
手塚さんが劇画の台頭という中で、自分のスタイルと
世間からの支持をどう取りつけるのか、という
ことで、ずーっと悩んでいた、ということを知りました。
手塚さんなんて、ずーっと自分のスタイルのマンガを
書き続けていたものと思っていたのですが、
相当な逡巡があったり苦悩があったり、ということが
分かりました。
そういうことだったんですねぇ、、というのが
この記念館を出る時の感想でした。
こういう手塚さんの人生を知ることができただけでも
来て本当に良かった、という感想でした。

ということで、再び花のみちを経て宝塚駅に戻ったのでした。

| | Comments (0)

23. 05. 27

あらまぁ やっちゃいましたねぇの旅行(2)

青い模様の航空会社が、飛行機飛ばすだけの会社では
ないことくらいは謙介も知ってたんですけどね。
最近はどこの会社も副業をしています。
謙介の近所を走ってる私鉄の会社だって
お高い老人介護施設を運営していたりしますし、、
ちなみにうちの両親の入ってゐる施設なんか
親会社は〇本ハムだったりしますし。

で、今年は弘法大師のご誕生1250周年記念の年で
ございます。
ということで、青い航空会社ったら、弘法大師のご誕生の
お寺である善通〇と共同して、ご朱印帖を作ったのだそうで。

230208_ana_01640

航空会社もご朱印帖まで作るような時代になったのだなあ、
と感慨深いものがありました。

どうして「ご朱印帖」の文字を弘法大師の字にしなかったのかなぁ。。

謙介だったらそれくらい考えるけど、、まぁいいや。

で、話を謙介が出発した飛行場に戻します。
バスのようなプロペラ機は、九州の地を
10分遅れて離陸したのでありました。

ジェット機とプロペラ機で何が違うといって、
飛んでいる時の高度が違います。
プロペラ機は、ジェット機より低い高度を飛びます。
従って、どこを飛んでいるかがよくわかるのがいいですね。
ジェット機だと、天気の良い日で、雲が無ければいいのですが
雲のある日だと、到着寸前まで、どういう経路で飛んでいたのか
よくわかりません。

謙介の乗った飛行機は、北から南方向へと離陸しました。
そうして、九州国立博物館のある大宰府上空で
左折して大分に出ました。
海峡を渡って、、気が付くと謙介が3年前まで住んでいた街の
上空に来ていました。前の職場に行くために毎日通った道路、
住んでいたあたりの上空を飛行機が飛びました。

20230527-213831
あそこを毎日通っていたのだなぁ、、と感慨深く眺めたこと
でした。
飛行機は、さらに東に飛びます。
高速道路が見えてきました。
この高速道路を毎週金曜日に実家に帰り、日曜に
仕事場の街に戻りを繰り返しました。

20何年間毎週この道路を東西に走ってゐたのだなぁ
と思うと、さらにさらに感慨深かったです。
見た目は四国山地の山すそを走る一本の線にしか過ぎないの
でしたが、やはりそこに20数年間の自分の人生が
入っているわけで、、、そう思うとやはり自分にとって
その道路が特別のものに見えてくるのでした。

飛行機は、徳島県に入り、吉野川沿いを東に進みました。
驚いたのは、徳島県に入ったあたりから、機内アナウンスがあって
「当機はこれから高度を下げていきます」というお知らせが
あったことでした。だって、まだ徳島よ。
そのうち鳴門が見えて、淡路島の南端をかすめるようにして、和歌山に
入ったところで左折して北上しました。
関空の東側を飛んで、大阪市内に入りました。

Img_5639

近鉄のハルカ〇が見えました。

Img_5640

森之宮の車両基地やら大阪城、グランシャ〇ーのある京橋(笑)

20230527-214206
をかすめて飛んで、7分遅れで伊丹空港に着陸したのでした。

 

プロペラ機に乗れたおかげで、自分の人生の来し方を
思えたりして、、(大げさ大げさ)でもまぁしみじみとした
感慨にふけることができたのは確かなことで、、
偶然とはいえ、よい飛行機の旅ができたと思いました。
今日はここまでといたします。

 

 

 

 

 

| | Comments (0)

23. 05. 26

あらまぁ やっちゃいましたねぇの旅行(1)

去年のこと。

青い模様の航空会社の番頭さんから郵便がきました。
中には、「うちの会社の国内線全便、半額で乗れる
切符送りますけに、使うておくれんかなもし」
とありました。その「使うておくれんかな」
と言われた切符、有効期限が23年5月末に迫っておりました。


たまたま、京都の恩師のところに行く用事がありまして、、
そうしたら、この番頭さんが送ってくれた切符、
使うたらええなぁ、ということになりまして、、早速
うちの女中のおなべさん(別名Think Pad というハイカラな
お名前をお持ち)に頼んで、かちゃかちゃやって
飛行機の便を予約したのです。

その時のメモには、行きが5月19日、帰りが21日と
ありました。

それから数日後、両親の入居している施設から
オフクロのケアマネさん、栄養士さん、薬剤師さん、
リハビリ担当の方を交えて担当者会議を開きたい
という話がありました。20日はどうですか。
はいはい、ということになりました。

また数日たって、そういえばホテルの予約も
せんとあかんなーということになって、ホテルも
予約したのです。予約を入れたのが4月の初めだったので
さすがにまだちゃんと予約できました。

で、本人の脳内では、どうもそこで大阪行きを5月12日から14日
帰省が5月19日から20日ということで変換が起こっていたらしい。
で、旅行の準備を着々といたしまして、
予約していた飛行機の便は、朝一番の7時過ぎにこちらを出発する
便でした。

5月12日、朝5時20分のバスに乗りまして、空港に6時過ぎに着きました。
青い航空会社のカウンターに行って、クレジットカードを出して
予約をしていることを言いました。
「お客様、便のご変更でしょうか」というお言葉です。
「は? 」
「ご予約は、5月19日の便でございますね、、」
ああああ、やっちまいましたねぇ、、。
「あ、すみません。行きが今日のこの始発の便で
帰りは14日のこの便に替えていただけますか」
と申し上げました。
おねいさん、パソコンのキーをたたきまくっています。
「この客、あほか。自分が乗る飛行機の便も確認
できんのか」とか思っていたことでしょう。
5分くらい経過しました。その5分の長かったこと。

「はい、それでは今日の同時刻の便に振り替えを
いたしました。お帰りは、14日の同じ便でよろしう
ございますね」
「はいはい」
「空席がございましたので、両便ともお振替できました」
「どうもありがとうございます!」
ということで、謙介さん深く深く謝意を述べたのでありました。
代金はどうなりますか、と恐る恐るお聞きしました。
そうすると、「この予約は便の変更が可能ですので
追加の料金は不要です」ということでございました。

嗚呼。 チケットが無事何とかなりました。
急いで保安検査に行かなけ、、、でまぁ行ったのですが、
保安検査場、ものすごい行列です。飛行機に間に合うかなぁ、
とひやひやしたのですが、、、結局保安検査を通るまで
20分かかりました。
伊丹便は80番ゲートです。搭乗開始しております、
の表示に謙介さん焦ります。
それが、1番ゲートとか5番ゲートとかはあるのですが
80番ゲートってどこ、と思いましたら、一番端っこにありました。
しかも、飛行機に直接乗れるのではなく、
バスに乗っていくんだそうで。
一階に降りますと、いつも乗ってるなじみの○鉄のバスが待機していました。
そのバスに乗りますと、、しばらくしてドアが閉まりました。
滑走路の端っこに連れていかれました。
はい、とおろされた先には、小さいプロペラ機が駐機しておりました。
「え? 」と思いました。
謙介さん 大阪便なんて主要幹線便と思っていたのです。
例えば、五島福江とか対馬とかいう離島便であれば、
ねぇ、、、それが、伊丹便でこれですか、、
とか思いました。
けど乗らないと大阪には行けませんので、乗りました。
プロペラ機なんて何十年ぶりだろう、とか思います。
乗ったのですが、、本当にバスだなぁ、と思いました。

Img_5624

謙介さん後部の通路側だったのですが、後ろの方、
空席がありました。そうしたらキャビンアテンダントのおねいさんが
「こちらの窓際、よろしかったらどうぞ」とすすめてくださったので
窓際に移動しました。
その席に行ったことが後で、本当にしみじみとした感慨を持つような
ことになるのは、まだその時は知りませんでした。
いきなりしょっぱなから、あらまぁ、やっちまいましたねぇ、
の旅行となりましたが、よろしければ、どうぞお付き合いください。
とはいえ、今日は長くなりましたので、この辺で措きたいと思います。

 

 

| | Comments (0)

23. 05. 11

ひむかへ(14)

高鍋から電車に乗って向かったのは、次の日向新富でした。

Img_5589
ここで降ります。この街に、温泉がありまして、
そこに行ってみようということでした。
で、これが新富温泉「サンルピナス」でございます。
なんかすごいおしゃれな名前で、、、。
まぁ名前は名前で措いておきまして、、。
JAFの会員割引で400円でございました。

Img_5581

ここの温泉のお湯は今まで入ったことのある温泉とは
全く違ったお湯でした。色はほんのりと黄色味がかった
お湯で、独特のにおいがします。ヨードチンキみたいなの。
で、温泉の成分が入っているからでしょうね。
お湯が流れ出たところを歩くと、通常の水で濡れたところよりも
もっと滑りやすい感じがしました。

室内にあるお風呂と、外に露天風呂があったので行ってみました。
こちらのお風呂は外にあったからでしょうか、、
ちょっと温度がぬるめでした。
駐車場も広かったのですが、車がもうひっきりなしに
出たり入ったりでしたし、浴室の中も朝の10時半というのに
朝ぶろに来た人でにぎわっていて、、
地元で大切にされている温泉だということがよくわかりました。

30分ほど出たり入ったりして、、
このハイカラな名前のサンルピナスを後にしたのでした。
再び新富駅に戻って、再び日豊線下り電車に乗りました。

宮崎駅では何を食べようかと思ったんですが、、
駅の中に「味噌屋がやっている味噌ラーメンのお店」という
看板がありまして、ラーメンをいただいてみようとしたのですが、、
入ってから、あ、ここ来たかったんだ、という
事に気づいたようなことでした。
というのも、前に住んでいた四国の街に、このラーメン屋さんが
できて好評だという話を聞いていたのですが、
転職だの引っ越しだのということで思うように時間が取れず
そのままになって終わっていたのです。
(実家の街にはないので)
そのお店に今回はからずも行くことができて、ちょっと
うれしかったです。
いろいろな味噌ラーメンがあったのですが、、
熊本味噌ラーメンというのにいたしました。

Img_5592
熊本の味噌で作ったラーメンとのことでした。
九州の味噌って米と麦の合わせみそなんですよね。
甘口の味噌なの。
これが、好みの分かれるところではあるんですが、、
(謙介はあんまりこの麦みそ好きじゃないんです)
でもラーメンですから、、それはそれでおいしく
いただきました。(このところ醤油豚骨のラーメンしか
食べてなかったので。笑)

帰りは、来るときと違ったコースで帰ることにしていました。
九州横断はいろいろなコースがあったのですが、、
ここからB&Sみやざき号というバスに乗ります。
この特急高速バスだと、2時間半で、熊本の新八代まで
行きます。新八代から新幹線で1時間。合計約4時間で
帰るというコースでした。
このバスは、途中都城とか小林、人吉を経由しました。
今、肥薩線が不通になっていて汽車での移動ができないので
人吉から大勢の人が乗ってきて、、
それまで空席の目立ったバスが人吉から全部座席は人で埋まる
状態になりました。(高速バスなので立っている人は
いません) バスは定刻の16時14分に新八代に到着しました。

Img_5595
31分の九州新幹線のさくらに乗って、18時前に家に帰り
つくことができました。
(はぁようやっとここまで書けた。)

 

今回の旅のご報告はこれでおしまいです。
ここまでの長い報告のお付き合いありがとうございました。

| | Comments (0)

ひむかへ(13)

翌日もいいお天気でした。この日は帰る日だったのですが、、、
その前に行きたいところが2カ所ありましてですね、、。
急ぎ足で行ったようなことでした。

例によって8時過ぎに宮崎駅に行きました。
宮崎駅前には日向夏のポストがありまして、、

Img_5559
下にさりげなく俵万〇さんのお書きになった銘文が
ありました。

Img_5563

サラダ記念日の作者、今はここ宮崎に
お住まいなので、そういう由縁で書かれたのかもしれません。
銘文には歌が三首添えられていて、、ことに最後の歌

 まっさきに気がついている君からの手紙一番最後にあける

という歌におぢさん、年甲斐もなくきゅんきゅんしてしまいました。


宮崎発8時28分の日豊本線の上り電車に乗ります。

JRというのか国鉄の線名って、本当にいろいろな命名法ですねぇ。

日豊本線とか豊肥本線のように起点終点の旧国名をくっつけたものも
あるし、久大本線みたいに起点と終点の都市名のもあるし、
かと思ったら、路線が単にその方面にへ行くから、といのもあります。
たとえば鹿児島本線とか長崎本線みたいなのもあるし。


だけどさー、鹿児島本線なんて、今や福岡・熊本から鹿児島市まで
到達していないのですよ。(爆笑) とりあえず鹿児島方面に行くから、、
とりあえず鹿児島本線と言っているのかしら。
(と、ここまで書いたら、謙介さんの部屋の前を
茶色のななつぼしが粛々と走っていきました。

Img_5617
今日のななつぼしはちょっと遅れていました。
いつもであれば、16時59分に通過するはずですが、
今日は17時4分の通過でございました。)

で、今回はその日向の国とと豊前の国を走る日豊本線に
乗ったのでございます。とはいえ、そう長時間は乗らないんですけど、、。
JR九州、さっきわが部屋の前を通過して行った大金持ちの方の乗る
列車はぴかぴか。上の写真だって雨なのに金のエンブレムがまばゆいです。
謙介を含めて一般の人の乗る各停なんて、もうそれはひどい扱いです。

「冬場の暖房機は外す、座席も減らす。つまり一般客は
冬場は凍えながら、立って乗ってろ、とでも思っているのか」
いうようなJR九州への批判を西日本新〇の読者欄でよく見ます。
(本当に同感です)それに車両は汚いし、水戸○デザインは乗りにくいし。

ただそんなJR九州ですが、とりえもひとつあって、それはのろのろと走らない
ということです。各停でも、時速100キロを超えてビュンビュン飛ばして
走ります。もうね、ちょっとヤンキーが入っている、という感じの走りっぷり。
結構なスピードで走ります。JR九州は駅間距離が結構離れているので、
バンバン速度を上げてぶっ飛ばします。
「おらおらおら、サービスは悪いけど、
走る時は走るんじゃーーー」という感じです。

JRだけじゃないんですよ。西〇も結構な速度で走ります。
九州は都市間バスの交通網が発達していますから
負けてはならじ、という意識があるのでしょうね。

で、そのすっ飛ばすjR九〇の各停に乗りまして
高鍋まで来たわけです。

Img_5565
なぜに高鍋なのかと申しますと、
うちの姉の旦那の本籍が高鍋町高鍋大字高鍋字高鍋という場所なんだ
そうなんですが、それって一体どういうところ?
という素朴な問いによるものでございました。
JR高鍋駅は駅員さんのいる(ということは、JR九〇の駅では
結構大きな駅)駅でした。きっと昔はもっともっと乗降客も
多かったし、駅に売店とかの施設もあったのでしょう。
今は改札口の横に切符売り場があるだけの駅でした、、。
しかし、奥の部屋に、なんとご自由にお弾きください、
と言ってグランドピアノ!(アップライトではない)が
置いてあったのは、すごいと思いました。

Img_5573

高鍋の市内も駅から2キロくらい離れています。
うまい具合にバスが来たので、バスに乗って
市内の中心部まで行きました。が、
日曜の朝の9時過ぎなんて
人が歩いていない。でも、さすが宮崎だと思ったのは
餃子屋が多かったことです。 交差点から一方向を見ただけで
餃子屋3軒あるというのは驚きました。(みんな閉まってたけど)

地図で調べると、大字高鍋の位置が分かりました。
行ってみたら、「高鍋ギョー〇」のお店があって、、
写真を撮っておきました。(後から本人に
「ここが大字高鍋でした」と報告しておきました。
どこかお店に寄ろうと思ったのでしたが、
コンビニもなければ、開いているお店は皆無、
ということで、、仕方なく帰ることにしました。
バスセンター(タクシー乗り場併設)があったので、
行ったのですが、バスセンターの方はシャッターが
降りていました。仕方なくタクシー乗り場の方に
行って、「すみません。タクシーの方にこういうこと
訊くのって申し訳ないのは承知しているんですけど、
次の高鍋駅行のバスって何時発ですか?」と
聞きました。するとあと15分でバスが出るということでした。
街を歩いてもなぁ、、と思ったので、引き返すことにしました。
で、その15分後に来たバスに乗って高鍋駅まで戻った
わけです。で、次の日豊本線の下りはと見たら、、
50分後というようなことでございました。(やれやれ)
ということで今日はここまでとします。

 

 

| | Comments (0)

23. 05. 10

ひむかへ(12)

鵜戸神宮で宮崎駅行のバスに乗った時は、快晴だったのですが、、
宮崎市に入ったころには、どよーんとした曇りになっていました。
このバスは、飫肥を出発して、鵜戸神宮、青島、
宮崎ブーゲンビリア空港(最近空港にミドルネームを入れるの
流行ですか?)を経て、最終的にJR宮崎駅に至る、
というバスでした。
行く時に大勢の人が青島で降りたと言いましたが、、
今度のバスでは、大勢の人が青島から乗ってきました。
それまでは車内の乗客なんて、10人程度だったのです。
それがいきなり青島から25人くらい乗ってきました。
加えて宮崎空港からまたお客さんが乗ってきて、、
しかもこのお客さんは大きなスーツケースなどを
持っている人で、、バスの中が超満員状態になりました。

ですが、大半のお客さんは途中の橘通という繁華街で
降りてしまいました。
謙介は、そのもうちょっと先、山形〇という鹿児島の
デパートの宮崎店の前で降りました。
ちょっと市内をうろうろとして帰りたかったからです。
JRの駅からこの百貨店の前を通る高千穂通りには
楠が道路の両側の歩道に植えられています。

Takachiho

謙介の実家の街もメインストリートの通りには楠が
植えられているのですが、宮崎は道路の両側
実家の街は道路の中央ということで同じ木なのですが
道路の印象が全然違う、という感じがしました。

Chuuoudoori

おんなじ楠なんですけどねぇ。

ぶらぶら歩くとJR宮崎駅に着いていました。
来るときからの楽しみだったチキン南蛮は
昨日食べてしまっていたので、今日は、知り合いから
言われた炭火焼の鶏肉を食べに行きました。
(面倒だったので宮崎駅の横のJR九〇が作っている
AM〇と呼ばれる建物の中にあったお店に行きました。
土曜の夜、しかも観光地の宮崎です。
お店の前に名前を書く紙がありまして、、
それに名前と人数を書いたのですが、、
ひとり、というのが幸いして、カウンター席で、
早くに案内をしてもらえました。

まぁたまには「おひとりさま」もいいこともあります。
ですが、、ここのお店のカウンター席、テーブル部分が
あまり広くなかったんですよ。
そのうえ、新型コロナの感染防止もずいぶんと緩和されてきたので
もう席の隣をあけて座るなんていうこともなかったです。
(ものすごい数のお客さんが来ていたので、
優雅に席をあけて、、そんなのなんてやってられない、という
事情もあったようですが)
 このお店は夜は居酒屋スタイルになるようなことで
謙介のような食事客には辛いメニュー構成だったのですが、、
(ランチだったらよかった)
おススメは? と聞いたら、冷や汁定食とか、
チキン南蛮(またまた)定食とか、、カツオのたたき定食を
おススメしてくれたのですが、、
冷や汁はちょっと寒かったし、、チキン南蛮は前日食べたし、、
高知なら食べたかもしれないのですが、、カツオのたたきも
ちょっとということで、炭火焼の鶏と野菜サラダと
御飯をそれぞれ単品でもらうというようなことになりました。
でも炭火ってすごいですね。単にガスで焼いたのとは全く違う
味わいがあって、、素材の鶏もおいしい上に、
炭火ときていますから、余計においしかったのです。
まぁ結果オーライでおいしくいただきました。
ですが、写真を写すような状態でなかったので、
今回は写真がありません。

 

謙介的には、宮崎に来て同じ鶏料理をいただくのであれば
チキン南蛮より地鶏の炭火焼を是非お勧めしたいと
思いました。

 

ということで、ホテルに帰って、ゆっくりとしたのでした。
(この日の歩行は2万歩を越えておりました)

 

きょうはここまでといたします。

 

 

| | Comments (0)

23. 05. 09

ひむかへ(11)

飫肥からバスに乗りました。

バスは酒谷川に沿って、河口へとくだって行き、
河口の日南の街で方向を変え、
今度は海に沿った道を走っていきます。

海岸べりの崖の上をバスは走っていきます。
なので、カーブが多いので、運転手さんは
ハンドルを右に左に回しながら、
バスを動かしていきます。
謙介の今住んでいるところは内陸部なので、、
海なんてとんと見ない生活です。
その前の四国では、勤務先の場所が海岸に近いところでしたし、
行き帰りに海岸べりの道路を走っていたので、
殆ど毎日海を見ていて、むしろ海を見ない日は少なかったのですが、、
今や、海を見ない日のほうが多いような生活になっていたので、、
久しぶりの海でしたが、、
やはり瀬戸内海と、太平洋に面した海では、
海の水の色が全く違っていました。
今、バスから眺めている海の色ですが、本当に濃い青
というのか藍色で、その藍色と、波が岩に当たって
くだける時に生まれる白に近い薄い青色の
コントラストがすれそれは美しく、、
ずーっと海の方ばかり眺めておりました。

謙介の乗ったバスは宮崎駅行だったのですが、、
実は謙介はこのバスで途中下車をする予定でした。
小一時間ぐらいバスに乗りまして、、
ようやっと車内放送が謙介の下車予定のバス停の
名前を呼んでくれました。


ボタンを押します。
降りたのは、鵜戸神宮です。
ここも一度是非行きたかったところです。
バスは、鵜戸神宮の自動車駐車場の端っこに停車しました。
飫肥を出発したのが午後2時44分で、
鵜戸神宮に着いたのが午後3時半でした。
そして宮崎駅行きの最終バスが午後4時42分です。
従って鵜戸神宮の見学時間は1時間ちょっと、ということでした。
バス停の時刻表を見ると、上り便、下り便の
ここのバス停の最終便到着の時間は〇時〇〇分です。
もしもそのバスに乗り遅れた場合は、、、という
乗り遅れた人の対処方法を掲示物も
ありました。
ということは、乗り遅れちゃった、という人が
少なからずいる、ということなんでしょうね。

駐車場からご本宮までは歩いて15分とありました。
まず階段を上がって、、それから海沿いの方に出る
トンネルを歩きます。

Img_5525

トンネルを出ると今度は下りの
石段が数百段ありまして、、ようやっとお宮の
門に到達しました。

Img_5530
門の左側は、山で、右側はもちろん崖、
というようなところです。

このお社は、そういう岩場の裂け目の洞窟に
鎮座するお社なのです。
左の海を見たのがこんな風景です。

Img_5540

なんだか東映の映画のオープニングの
海やら岩みたいなのが見えていました。
参道は、崖沿いなので、大変スリルがあります。

Img_5537

ようやっと本殿に到着しました。
階段を上がり、トンネルをくぐり、石段を下り、さらに
断崖の階段を下ってここまでようやっと到達です。
こんぴらさんと同じで、結構お参りするのに
達成感がありました。
しかし、本当に参詣の方たちが多く、参道は長い列ができて
おりました。ここは洞窟の中が鍾乳洞みたいになっていて
そこに「お乳石」というのがあるために、、
安産祈願の人が多く参詣するとのことでした。
謙介の前にお参りしていたのは、20歳になりたてくらい
本当に若いカップルでしたけれども、一生懸命祈っている姿は
新しい命がどうか無事に生まれてきて欲しいという
真摯な気持ちがとても感じられました。
男の子のほうはスパイラルパーマを強めにかけている、
女の子の方はストレートの長い茶髪が風にあおられて大変
という、近頃よく見るようなタイプの若い子たちでしたが、、
あ、若い彼らの中にこうして信仰が続いているのだなぁ、と
いうことを改めて感じたようなことでした。

 

さて、念願だった鵜戸神宮にこうしてくることもできましたし、
参詣もできたので、帰ることにしました。
時計を見ると、最終のバスが来るまで、30分ほどありました。
帰りは当然ですけど、来るときにひたすら降りていった階段を
今度はひたすら上っていかないといけないんだよな、、、
と、ちらと思いました。おぢさん、階段で息切れするとか
途中休憩をはさまないといけないかも、、と思いました。

Img_5545

帰りの階段でございます。
まぁ幸い、仕事場で結構エレベータを使わずに階段を
使って上り下りしていて、それがトレーニングになっていたのでしょう。
あまりゼーハー息切れを起こすこともなくて、トンネルまで来ることが
できました。
トンネルを抜けたら、階段は下りなので、何とかなりそうです。
ということで、バスの到着予定時刻15分前にバス停に戻ってくることが
できたのでした。

 

バスはほぼ定刻に鵜戸神宮バス停へと入ってきて、
無事に最終便のバスに乗ることができたのでした。
今日はここまでとします。

 

 

 

| | Comments (0)

23. 05. 08

ひむかへ(10)

飫肥から宮崎へは、14時44分のバスで行くことにして
いました。宮崎に行くバスって、2時間に1本しか
ないんですよ。12時過ぎの次が14時台。その次が
16時台でこれが最終便です。

12時台はいくら何でも、まだ飫肥で見ていないところがあるし、、
と思って、14時台にしました。
今回の旅行でラッキーだったことがひとつありました。
お城の中の資料館とか、小村寿太郎の記念館とか、
廃藩置県後の城主の隠居所とか、
いつもだったら入場料が必要なのですが、
この飫肥の近くまで高速道路ができたとかで、
その開通祝いということで、4月中の入場料が
無料だった、ということでした。

飫肥の街中はこんな感じです。武家屋敷や江戸時代の
家々が立ち並んでいて、、落ち着いた城下町という
感じのところでした。

Img_5487

(人がいない写真を撮ろうとしたのではなく、誰もいない。笑)

お城からちょっと東に行くと、移築された小村寿太郎の
生家がありました。以前はもうちょっと街中にあったの
ですが、どういうわけか今はこちらのほうに移っています。
中は公開されておらず、外観から見るだけ、ということでした。

Img_5486

それから街中に降りていくと、やはり小村寿太郎の
生家の後の記念碑がありました。この写真ではよくわからない
と思いますが、記念碑の題字は東郷平八郎の揮毫によるものでした。
それから町内を自転車であっちへこっちへと走りました。
どういうものか、朝は結構な観光客がいたのですが
午後になると観光客なんてだーれもおらず、、

Img_5498

街並みは落ち着いた感じで、、
静かですし、、いい街だなぁ、と思いました。

最後に飫肥藩の藩校へ行って見ました。
振徳堂という建物で、、、
お城の東、小村寿太郎の生家を通り越して、ずーっといったら
裁判所があるのですが、その角を左折して少し行ったところに
藩校はありました。

Img_5516

写真を見てもらったらわかりますが、、
誰も観光客はいないの。

Img_5511
ここは飫肥のお城から距離が少しあるのと、
この建物、駐車場というものがないので、
ここまでくる観光客というのが少ないのかなぁ、とか
思いました。

Img_5512

この藩校、中に石碑があったのですが、何でも太平洋戦争末期の
1945年の1月から5月にかけてここに
九州一円から精鋭の下士官・兵士が集められ、
霧島隊という名称だったそうですが、、
陸軍の中野学校で行われていたような内容の訓練が
行なわれ、終了後、各地に戻っていった、と書かれて
いました。
各地に散ってはいきましたが、、米軍の九州強襲もなく、、
その後3か月あまりで終戦になったわけで、、
彼らはその後どうなったのでしょうか。
そのことについての記述はありませんでした。

 

さてさて。バスの出発時間も近づいてきました。
再び駅に戻って、レンタサイクルを返却し
バス停に行くことにしました。
今日はここまでといたします。

 

 

 

 

| | Comments (0)

23. 05. 07

ひむかへ(9)

飫肥の街自体は、海辺から6キロほど川をさかのぼった場所に
あります。ですが、まぁ6キロなんてすぐです。
大学時代に授業で柳田国男の民俗の本を読んでいて
驚いたのは、魚の刺身を食べる、ということは、江戸時代は
少なかった、ということでした。
言われたらそうですよね。今は冷蔵・冷凍技術がありますから
魚の鮮度を保ったままの輸送もできますが、、そんなもの
江戸時代にはチルド技術なんてありゃしませんもんね、、。
ということで、江戸時代に保存食として何とか魚を、ということで
いえば、「干物」「天ぷら」ということだったのでしょう。


飫肥は「飫肥天」と呼ばれる天ぷら(さつまあげ)が
有名です。

飫肥の天ぷらは魚のすり身だけでなくて、豆腐も入れて
いるそうで、軽い風味が特徴だとか。この飫肥天と
もう一つの名物は卵焼きです。
これがものすごく濃厚な味の卵焼きなのです。
しかも調理に時間がかかる。
「焼き」という名前ではありますが、炭火の遠火で
20分くらいかけてじわじわと熱を伝えて蒸し焼きに
するようなもので、、ほとんど焦げ目がありません。
味も蒸し焼きにするので、水分が完全に蒸発して非常に濃厚で、、
バニラエッセンスの入っていないプリンのような
味という人もいます。
固さもチーズくらいの固さです。

ですから、結構固い。お箸で切るのに結構難渋する固さです。

味は本当に濃厚です。ほかにこんな卵焼きは
ないんじゃないかなぁ、、というようなものでした。
飫肥天、卵焼き、川蟹をすりつぶして濾して
お味噌汁仕立てにしたもの、などがセットになった
定食をいただきました。

Img_5481
食べたことのないものばかりで、、やっぱり
旅行ってこういう旅先の名物をいただくのが
旅の楽しみですよね。

下の写真、この黄色いのが特製卵焼きです。

アルミカップの中は金柑の甘露煮でした。

Img_5483

 

飫肥の郷土料理をすっかり堪能することができました。

今まで食べたことのないようなものを、いろいろといただくことができて
本当にここまで来た甲斐があったなぁ、と思いながら
店を後にしたのでした。

きょうはここまでといたします。

| | Comments (0)

23. 05. 06

ひむかへ(8)

飫肥駅は、お城のやぐらをイメージした建物なんでしょうね。
飫肥は「飫肥城」を中心とした、小さな城下町でした。
街の大きさはそう大きくはないのですが、滞在時間は
帰りのバスの時間もあったので、効率的に回りたかったので
レンタサイクルを借りることにしました。
自転車は駅前の観光案内所で扱っています
電動アシスト付きの自転車が半日借りて500円です。

どこの街でもそうですが、鉄道の駅と街の中心部は
離れているので、まずは自転車に乗って、お城を目指すことに。
お城は駅から言いますと、酒谷川を渡って北西方面になります。
自転車と一緒に市内のイラスト付き地図もくださったので
早速、その地図をところどころ見ながら走りました。
まっすぐ西に行き、右折飫肥城という標識を曲がって
北に行きますと、、正面にお城の城門が見えてきました。
やはりこの街を訪れた人はまずお城を目指すのでしょう。
お城が近づくにつれて、歩いている人の数が多くなって
きました。
お城の手前に駐車場があったので、(自分は自転車でしたけれど)
駐車場の端っこに自転車をとめました。違和感ありあり。

これが大手門です。(40年ほど前に復元)

Img_5451
お城の中は、廃藩置県の時に建物は壊されていて
何も残っていません。門と同じころに、
領主の御殿を復元した建物はあります。

これが本丸です。昔は建物が建っていた区域でしょうが
今は、建物を壊した後に植えた木がこんな状態に
なっています。

Img_5457

まぁ宮崎は雨も多いし、日もよく照るしで
こんなに育ったのですねぇ。ここが本丸って、、、

単なる杉林、としか思えない。

城内には歴史資料館がありました。

Img_5452
ここで飫肥藩の歴史について学ぶことが出来ました。
飫肥藩は隣が当然薩摩の島津です。
島津の侵攻を絶えず受けながら、
しかも5万石という小藩を運営していくのは
本当にしんどいことばかりあったようです。
藩の財政も決して豊かではありませんでしたが
飫肥杉をブランド化し、また、上流から海への
運河を作り、生産体制を確立することで
木材を売って、富を蓄え、この小藩ががんばってきた
ことが、資料館の資料から伺えました。
藩校を作り人材を育成すること、
島津に吸収されもせず、小藩ながら頑張れたのは
藩内に有為の人材が多くいたからでしょう。
資料館の展示物からそういうことを学ぶことができました。

 

さてお城も見たので、その下にある、元お殿様が
廃藩置県後、隠居所に使っていた建物を見学しました。
豫章館という建物だそうです。

Img_5471
その向かいには、この街出身の
小村寿太郎の記念館がありました。
小村さんは自叙伝を書くとか外交記録も一切残さない人だったので
今に残る資料がほとんどありません。

Img_5480
記念館も年表形式で彼の人生はよくわかったのですが、、
彼の波乱万丈だった外交官として生きた生涯を
物語るような資料はありませんでした。
(まぁそんなもんやろ)と思いつつ建物を後にし、、
お昼ご飯をいただきに行くことにしました。
ちょうど小村記念館の前に郷土料理を出してくれる
お店があったので、そこに行きました。
(きょうはここまでといたします)

 

 

| | Comments (0)

より以前の記事一覧