おでかけ

17. 11. 04

あんさん 3日前にもお越しやしたんと違いますのんか(その5)

ということで無事に旅館に着いたのでしたが、、。
この旅館は高野(たかの)にあるのですが、
窓を開けると叡山が正面に見えます。
京都と言えば、比叡山とか東山、
北山、西の愛宕山と山の名前が出てきます。
比叡山、って右京区の常盤とか嵯峨野の辺からは
見えないんですよ。

右京区でも、
比較的南の梅津とか西京極の辺まで
おりてくると、比叡山だって見えるんですが、
北のほうの右京区では、衣笠山とか
双ヶ岡があるために遮られて見えません。

そういうことで、右京区民が親しみのある山、
というと、やはり愛宕山だとか小倉山、
ということになりますかね。


Takanoeizan

6時過ぎに宿を出て、また北山通を西に走り、
河原町通に出たら左折して、出町の交差点まで走ります。
出町で左折して鴨川を渡り、銀閣寺前でもう一度左折して
しばらく走るとてんぷらの魚兼(うおかね)があります。
京都に来ると、いつもここに寄っています。
もちろんてんぷらがおいしい、ということがあるのですが
横がコインパーキングなので、車を降りてさほど歩かなくて済む、
という移動の点でもここは良いのです。


Uokane1

てんぷらご膳をいただきました。
Uokane2

食後、再び車に戻りました。
白川通を北上して、北山通の交差点まで行きます。
左折するとすぐに叡山電車の踏切。
これを越えて高野川の橋を渡って程なく行くと
旅館に到着です。

後は、ゆっくりとお風呂に入って
寝たのでした。
今日は若干短めでしたが、ここまでといたします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

17. 11. 03

あんさん 3日前にもお越しやしたんと違いますのんか(その4)

今治のりかちゃん大学、ここのブログでも
言っていましたが、謙介の予想通り
認可されるということになった、という
ニュースが出ていました。

前回で認可見送り、という話になった段階で
ああ、こうなるだろうな、という想定でした。
だって、認可しない、ということであれば、

りかちゃん大学の学校法人に対して
認可申請を取り下げろ、といっていたはずなのです。
それをしなかった、ということがそう思った理由の1。

もう一つの理由は、愛媛県知●と今治市●の
添え書きがあったからです。
「地元でもおうえんしますけれ、大学を設置するに
ついて、格別のご配慮をお願いしますぞ」という
地元自治体の長の添え書きがあったからです。
この地元自治体の長の添え書きがあると
審査自体が大甘になる傾向があります。
これが理由その2。

とまぁこういう理由でおそらく通るだろう、
と思っていたのでしたが、、。
校舎だって、すいぶんな勢いでできていますしねぇ。

でもまぁ、大学ができたって、若者は定着なんかしない、
と思いますし、街に活気が出る、とも思えないんですけどねぇ。
その前に、港からドンドビ交差点までのあの商店街の
寂れ方を何とかしろよ、という問題だと思うんですけど、、。

謙介が支払っている県民税から、決して少なくない額の
お金がリカちゃん大学の建設にあたっては
使われるようなことになっているので、
他所の人でかけ疑惑がどうのこうの、と言ってる連中よりか
ずっとこちらのほうが切迫感があるのですが。

まぁ大学は作られて、学生が来て、ということに
なりはするのでしょう。やれやれ。

    ×      ×      ×

上御霊神社を北に上って行くと紫明通に出ます。
紫明通というと年末の駅伝のコースになっていますよね。
今年ももうじき、その季節が来るようですが。

西大路から北大路と走ってきて、
堀川北大路の交差点を南に折れて、次の交差点の
堀川鞍馬口から紫明通をしばらく走る、というのが
駅伝のコースですね。

紫明通をちょっと走って、烏丸紫明で右折して
北大路駅に出ました。
ここを西に行ったところに友達がいるので
うどんをお届けです。
家に行ったのですが、彼は外出していたとかで
息子さんにうどんを渡しました。

後から追っかけるように彼からメールが来て
「息子の言うには、謙介さんがぱっとやってきて
うどんをさっと渡して、すっと帰って行った、
って言ってたんやけど」とありました。(笑)
まぁそんな感じでした。

千本北大路の交差点を左折して
南に行きます。
千本今出川の交差点です。
Senbonimadegawa
ここを右折して上七軒の交差点を右折して
しばらく行きますと、千本釈迦堂があります。
このお寺は境内に車をとめられますし、
そういうことで駐車場から本堂のまでの距離が
短いので、よく訪れるところです。

Senbonshakado1

境内は桜の葉の色づきがはじまったところでした。
春には、八重の花をつける桜が紅葉をしはじめていました。
Shakado2

本堂におまいりして、またこうしてここにこれたことを
感謝しました。
Shakado3

千本釈迦堂を後に、再び今出川通に出て西に走りました。
北野白梅町で左折して、円町の交差点を右折して丸太町を西に
走りました。常盤で左折して三条通に出て、ずーっと西に行きますと、
突当りが嵐山です。
Arashiyama7
嵐山は、西側の山のせいで夕陽が遮られますから日没が
早いのです。午後4時すぎでしたが、すでに日没、という感じでした。
この5日前の台風で、まだ濁った丹波からの水が大量に流れていました。
嵐山を北上して丸太町通に出て、今度は東に行きます。
JRの花園駅前です。
正面やや右側の「本」の看板のあるのが花園商事、という
名前の本屋さんです。嵐電の常盤駅の南にあった
中島書○嵯峨野支店は無くなってしまいましたが
ここは健在です。でもたまに行ってみると取り扱う本の質が
ものすごく変わってしまった、という感じがしました。
以前はいろいろなジャンルの本を取り揃えていたのですが
今は、高校生用の参考書とか、それ以下の中学生、
小学生、幼児向けの本が中心になっていました。

Hanazono

丸太町を馬代通まで走って、馬代通を北にのぼります。
山城高校の横を通って、嵐電の線路を越えたところで右折して
東に行きます。 今出川を東に走って、堀川今出川で左折して
堀川通を北に。堀川鞍馬口で紫明通に出ました。
紫明通の街路樹が西日に照らされて美しかったので1枚。
Shimei
紫明通の街路樹なんて、全然観光地でも名所でもありませんが
この時期ならでは木々の風情は、やはりいいなぁ、と
思いました。
紫明通から烏丸通を北上して北大路駅のところで右折して北大路を
東に走りました。
洛北高校の交差点で左折して上がっていくと
つい3日前(24日)にも来た場所に行き当たりました。(笑)
あんさん3日前にもお越しやしたんとちがいますのんか、
という感じですね。

Nd7

この建物ところを右折して、
午後5時過ぎに無事に旅館に到着したのでした。
今日はここまでといたします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

17. 11. 01

あんさん 3日前にもお越しやしたんと違いますのんか(その3)

出町から下鴨神社の方には行かずに
賀茂川の川沿いに上がっていきました。
この日はお天気も良かったので、
正面に比叡山の山容が美しく見えていました。
Eizan

ちょっと目を北の方に移します。
山々の重なりが美しく見えていました。

せっかく京都に来たのですから
清水寺とか、金閣寺とか、確かに有名どころの
寺社に行くのもいいでしょう。美術館めぐりも悪いとは
言いませんが、


こういう風景をのんびりと眺めて
紫式部はあの山を見て、何をどう思ったのか。
とか、ぼーっと考えるのも
京の旅の楽しみだと思うのです。

観光はなんたって「風光を観る」ことですもんね。
Kitayama

賀茂川の堤の道と上御霊の通りの交わったところを
左折しますと、上御霊神社に行きます。
Kamigoryo1

この神社の西側の門の傍らに
「応仁の乱の勃発した場所」の石碑があります。

Ounin1
こういうものが、地味にそっと建っているところが
京都らしい、という気がします。 

田舎だったら、そういう歴史的な場所には
大々的な看板とか石碑があったり
町おこしの材料にされていたりしますもんね。

今年は応仁の乱勃発550周年(変な言い方ですけど)
の年です。つまりは550年前にここで、戦乱の端緒と
なることが起きたわけですね。


御所に、「蛤御門」がありますが
そこが「蛤御門の変」があったところですが、
烏丸通に面して、じみーに建っているだけです。
応仁の乱については、あちこちのサイトに
その端緒となったことが縷々書かれているので
そちらを見てくださいねー。

謙介の仕事場には、以前足利家のご当主さんが
同僚として勤務していました。

なので、足利さんと言ってもそう遠い存在でも
ありません。

確かに「義」の字が名前に入っていて、
なーるほどー、と思いました。

ある時、仕事場の食堂に行く時間がすっかり
晩くなってしまって、午後3時前、というときが
ありました。当然のように食堂に残っている
食べ物はなくて、、

「どないしたん?」
「食堂になんにもあらへんのですわ」(2人とも京都弁です)
「そうか、、」
と言ってその時は終わったのでしたが
それから15分ほどした時、
彼がふらっと謙介のセクションにやってきて
「これ、食べたらええわ」と言って牛丼の差し入れを
してくれたのでした。
ええ。もちろんごちになりましたですよ。

謙介はそれ以来、足利家、といわれると
あの時の「牛丼」を思い出すのです。

本当にうれしかったです。
あ、応仁の乱と何の関係もなかったですね。


Ounin2

この上御霊神社の西側、道を隔てて
「からいた」というお菓子を製造販売している
水田玉雲堂がありますんですが、、
Mizuta1
「しばらくお休みします」という張り紙がありました。
Mizuta
からいた、というのはお菓子の名前です。
このブログでも一度紹介したことがあったのですが。
Karaita
上の写真にもありますように、
見た目は小麦粉をのして長方形に
かたぬきして焼いた、というものですが、、

上白糖に水を加え、鍋で炊いて飴状にします。
これに小麦粉と少量の卵を混ぜ、餅をこねるみたいに
練ります。お餅くらいに練り上がったら、
今度は手打ちそばの要領で1.5ミリくらいの
薄さにまでのばし、短冊形に切りそろえます。
鉄板にごま油をひいて、両面 を手早く焼き、
やわらかいうちに形を整えます。
とまぁ、結構な手間をかけて作られているお菓子です。


表面 に鉄板の焼き目がつき、1枚1枚違った模様が
あらわれるのがこのお菓子の特徴です。


この水田玉雲堂は
このお菓子だけ売ってきた、というお店です。

からいたが買えなかったのを残念に思いつつ
「しばらく」が、文字通り「ちょっとの間」で
また再開してもらえる日が来ますように、と
祈りながら神社の境内に入って行きました。

Kamigoryo2

おまいりの人はだーれもいません。
静かな境内です。
Kamigoryo3

両親とこうしてまた京都に来れたことを
感謝しつつおまいりをすることができたのでした。
きょうはここまでといたします。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

17. 10. 31

あんさん 3日前にもお越しやしたんと違いますのんか(その2)

名神京都南インターで降りて、
国道1号線をまっすぐ北上しました。
十条の交差点で右折して十条通りを東に行って
河原町十条で左折しました。
ひたすら河原町通りを北上します。

最初は低い町屋が続いていた風景も、JR線路を越える
あたりからおいおいと高いビルが出てきて、、
五条通を越えたらすっかり都心のビル群です。
オフクロが「何や京都に来た感じがせえへん」と
言うのですが、、まぁ高いビルを見て、、そういう感慨にも
なるというものでしょう。

四条河原町の高島屋の前を通ってさらに北上します。
四条から北、道が混んでんのと違うやろか、
と思っていたのですが、幸いなことに
あまり車はいなくて、スムーズに河原町御池まで
走ってしまったのでした。

河原町御池を通過して、市役所を越えて
河原町二条で左折です。
二条通りは工事をしていて片側相互通行になっていました。
寺町の一本東の通りが見えたところで右折して
一保堂の駐車場に車をとめました。

Ippodo
お土産のお茶を品々と買って、
再び車に乗ります。
ちょっと上がって夷川の通りを西へ。
富小路を左折して南に。
もう一度御池通りを越えてさらに南下します。

京都の通りの歌の通りに
御池から、姉(姉小路) 三(三条) 六角 蛸(蛸薬師) 錦 と
下りて行って、、、錦市場の組合の駐車場に車をとめました。
この駐車場、『京都人の密かな愉しみ』の中にも出てきていましたね。

この駐車場の地下には錦市場で使われる清冽な水の湧き出る
井戸があります。 京都盆地の地下には7000万㎥という
水の層があります。それが染色につかわれたり、お酒や
お酢、と言った醸造、豆腐、野菜作り、と言った文字通りの
衣食住にこの水が用いられたのでした。

右京区なんて、その水のおかげで
泥湿地だったのですけどねぇ(笑)

Nishiki

錦でオフクロの好きなニシンの甘露煮を買ったり
オヤジの好きな松前づけを送ってもらうように頼んだりしました。
歩き疲れたので、例によってホブソンズのアイスクリーム屋で一服。
Ice1

ほうじ茶のフレーバーのアイスにしました。
Ice2

駐車場から一旦南に。四条通りに出て、左折して、
もう一度四条河原町に出ました。
四条通りは、嫌がらせ、というのか
車線を一本減らしてわざと走りにくくしたのです。
どうしても四条通りは京都の繁華の中心ですし、、
車が集中します。なのでわざと走りにくくすることで
四条を避けるように、というふうにしたのでしょうねぇ。

謙介的には、以前市電が走っていた時のようなことで
先祖がえりかいな、という感想なのですが。
麩屋町通りのところで左折して、北上します。
御池通りに出て右折して寺町通りを北上します。
丸太町通りに出ました。
角は大内山です。

Ouchiyama
京都御所の横を北上して今出川まで出ました。
今出川で右折して出町の交差点を左折です。
下の写真は、1973年の出町交差点です。
1973

で、こっちが2017年の10月。
ちょっとアングルが違っていて、ごめんなさい。
でも富士銀行のビルは同じでしょ。
京都中央信用金庫のビルの色が茶色から白に変わって
しまいましたね。
Demachi2017
きょうはここまでといたします。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

17. 10. 29

あんさん 3日前にもお越しやしたんと違いますのんか(その1)

ということで、京都に行ってまいりました。
え? 前の記事で京都に行った、って
あったじゃないか?
ということなのでございますが、、。

24日に行ったのは、出張。
27日、28日と1泊2日で行ったのは
両親との旅行、です。
つまーり、週に2回京都に行った、と
いうことなので
ございます。(どんだけ行くねんな、ですね)

今回もいつものように2泊3日の旅程を
組んでいたのです。
ですが、ご存知のように台風が来ている、ということで
1泊2日の短縮日程にしました。

今回の旅行は、京都に行く前に
淡路島の親戚のところに寄る、
という目的もありました。

なので、いつものように朝の6時には
出ません。朝の6時に出ると、淡路着が
7時半とかいうようなとんでもない時間に
なりますので、、、。まぁ8時半くらいに
出ようかということになりました。

オヤジの親戚も、高齢化をしています。
特にいとこの旦那さんは、肺がんなのですが、
抗がん剤を使わず、
時に応じて放射線を当てるだけ
という選択をしています。

うちの両親だって高齢ですし、、「そのうち」というような
のんびりしていたことを言っていたらダメなのです。

今年の9月には、オヤジの上の姉が
亡くなりました。川崎に住んでいたのすが、、
6月に電話をしたのが最後になりました。
そういうこともあるので、

とりあえず会えるチャンスがあれば即行く、
ということになったのです。


8時半に四国を出て、淡路島の北端の岩屋まで
1時間半でした。10時過ぎに到着です。
親戚の家を2軒回ってお昼前に淡路島を出発しました。

道路の渋滞情報を見ましたら、
中国道の西宮名塩(にしのみやなじお)の辺で
渋滞とありましたが、2キロの渋滞、ということで
大したことにはならない、という判断で
淡路鳴門道→山陽道→中国道というコースで
行くことにしました。

山陽道に入って、淡河SAでお昼にしました。
この「淡河」も難読地名ですね。
淡河と書いて「おうご」と読みます。
山陽道から中国道。


淡河でお昼を食べている間に、
西宮名塩の渋滞は無くなっていました。
なので、すんなりと中国道を走ることができました。

24日にモノレールで走った場所の下を
今度は自家用車で走ります。
24日に、たぶんもう一度この辺を走るだろうと
思っていたら、その通りになってしまいました。

名神はやはりそこそこ混んではいましたが、
渋滞もなくて、1時過ぎに京都南インターに
到着したのでした。


では、以下次回。


今回は写真がなくてごめんなさい。
次回は写真があります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

17. 10. 25

昨日1日の動きをまとめてみました

京都日帰り出張の記録です。


Kuko1


Kuko2

機材はB3でした。
Kuko3

この日は満席でした。 
この飛行機の椅子はレカロ社の椅子でした。
Pihengi1

離陸して20分ほどで四国の東端、徳島に来ました。
橘湾の火力発電所が見えています。
Pihengi2

蛇行して流れるのは紀ノ川。
先月行った高野山方面を撮ってみました。
Pihengi3

定刻より5分遅れて伊丹空港に到着です。
Itami

ここからモノレールで茨木南まで。
この日、地下鉄の堺筋線で、電車故障があったとかで
関連する鉄道が遅れていたのと、このすごく混んでいました。
Itami2

ここから阪急に乗り換えです。阪急も30分くらい遅れていました。
JRは福知山線の事故以来、電車が遅れても
復航運転はしなくなったのですが、阪急はやりましたねぇ。
いつもの特急より速度を上げて走っていました。

いまや阪急の特急、手を抜き放題でたらたら走っています。
何せ戦前よりも速度が落ちているのです。
この日は久しぶりにマジで走っていました。
なんだやったらできるんじゃないか。

Minamiibaraki

烏丸で降りました。先に四条の大丸で
職場へのお土産を
買っておきました。
Shijyo

地下鉄で四条から丸太町へ。
ここから西に歩いて、
京都府庁本館が一般公開していたので見に行きました。
Fucho

府議会議場ですね。
Fucho2

ここが知事室です。
1978年に退職した蜷川虎三知事まで
この部屋を使っていたそうです。
Fucoh3

府庁前の王将でお昼を食べました。
平日のお昼なのに、なんだか
のんびりーとした雰囲気で
とてもよかったです。
Ousho_1

丸太町から地下鉄に乗って北山まで。
Kitayama

会議は13時から17時まででした。
事前準備ができていたので、会議はとてもスムーズに
進みました。
Damujyo

再び地下鉄で北山から四条まで。
Shijyo2

四条駅の中の志津○でサンドイッチを買って、阪急の
快速急行に乗りました。

Hankyu

再び茨木市で降りて、向かいのホームにいた
大阪地下鉄の天下茶屋行に乗りました。
南茨木からモノレールで伊丹空港まで。
Itami3

空港の待合室でコーヒーを買ってサンドイッチとともにいただきました。
最終の飛行機で帰ります。
Itami6

飛行機は定刻より5分早く着陸しました。
Kuko5
ということで21時35分に家に帰りついたのでした。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

17. 09. 27

2017 4回目の高野山へ(その11)

朝のお勤めから帰ってくると、
宿坊の玄関のほうが
にぎやかでした。
見ると昨日お風呂で一緒になった
オランダ人の一団が出発するところでした。
オランダ人一行は総勢で10人ほどいて、、
その多さにちょっとびっくりしました。
(後からもっとびっくりするんですけど)

部屋に戻ると
布団が片づけてありまして、
部屋の中央にお膳が据えられていたのでした。

Asagohan
きんぴらとか飛龍頭(ひりょうず)とかひじきの煮物が
ありました。

でも、このお献立は、
うちで日常的に食べているものばかりで、(笑)
実家の延長のような朝食ではありました。


位牌堂に行ったら、さすがに高野山、という感じでは
あったのですが、
部屋のたたずまいといい、この朝食のお献立といい
非常に日常的で、、(笑) 全然特別感はなくて
毎日の生活の延長、という感じさえしました。

部屋に戻った時には、ごはんとお汁だけなかった状態
だったのですが、すぐに係りの人がやってきて
おつゆとおひつとお茶を運んできてくださいました。

おつとめも無事終わり、食事もいただいたので
出発です。幸いずーっと降っていた雨も
若干小降りになっている、という感じでした。
(宿泊料金とか、おつとめのお布施は昨日
お支払いしていたのです)

もう一度本坊のほうに行って、
寺務所に行って、お坊さんにごあいさつだけ
して、お寺を辞去しました。

7時50分です。
千手院橋を8時18分のりんかんバスに乗ろうと
思っていました。

雨は強くなったり弱くなったりしながら
降っていたのですが、金剛三昧院を出ると
すぐ杉の巨木の林があるので、
その枝に遮られて、雨もあまり下には落ちてきませんでした。
Kouya6


千手院橋には8時10分に到着しました。
バス停にはスペイン人(と思う)のカップルが
座っていて、朝から非常に情熱的にいちゃいちゃと
しておいででした。

あまりよそのカップルをいちゃいちゃ、とか
言いたくはないのですが、それはもういちゃいちゃとしか
言えないような濃厚な感じで、、(苦笑)
朝っぱらからうっとうしいったら  ございました。

バスは若干遅れて、20分過ぎにやってきました。
千手院橋では、まだそう乗客はいなかったのですが。

次の停留所、その次の停留所、
どんどんお客さんが乗ってきました。
しかもそのお客さんすべて外国人ばかりだったのです。

一番多かったのがドイツ人のようでした。
謙介の周りではドイツ語が飛び交っていましたから。
バスに何人乗っていたかは知りませんが、
おそらく日本人は4人くらいで、あとの30人くらいは
すべて外国人でした。

高野山に来て、精進料理をいただいたり、
朝のおつとめに参加したりしたのでしょうか?

バスは女人堂前から専用道をくねくねくねくねと
通って、南海電車の高野山駅に到着しました。

バスを降りて時計を見たら、
ケーブルカーの出るまでに
まだ6分ほど間がありました。

駅員さんは、当然のように切符売り場とか改札口の
案内をしていますが、謙介さんはそれに逆らって
駅の2階に上がりました。

実は先年の高野山開基1200年に併せて
駅の2階も整備された、ということを聞いていたのです。
2階はすっかり整備されていました。
Kouyasansta8

晴れていればケーブルカーが上下する
窓側は、この日は悪天候で何も見えませんでしたが、、
Kouyasansat5

それでも、
最初の高野山電気鉄道からの資料、
南海電車と合併してからの
高野線の戦前の高野山の旅行パンフレット
とかが展示してあって、いろいろと興味深く拝見しました。

それから1977年に昭和天皇・香淳皇后が高野山に行幸啓された
時の運行計画の資料もありました。
見ると、その当時の高野線の特急車両だった20000系の
車両1両を、特別改造して運用した、とありました。
リクライニングシートがある車内の椅子を、すべて
取り払って、特別のシートを4つだけ配置する、
という見取り図がありました。
20000系の車両って、1編成しかなかったのです。
改造する、と言ったって、30分やそこいらでできる
ようなものではないものだったでしょうし、、

きっと1週間くらい、20000系は運行停止にして
改造工事を施した、ということになったのでしょうね。

当時の南海電車は、近鉄みたいに特急車両が何両もある、
というのではなかったですからね。


Kouyasansuta7
ケーブルカー出発の時間が近づいてきたので
乗り場に行きました。

このケーブルカーの車両も結構古いんですよね。
1961年(昭和39年)製の車両です。
なんたって東京オリンピックのあった年にできた
車両ですもんね。
Kouyasansta9

ケーブルカーの車内では、
もう外国人が大はしゃぎで、アイホ○をあっちこっちに
向けまくっては、
そこいらじゅうの写真を撮りまくっていました。

昔ね、日本人って、海外旅行に行くときは、
必ずニコ○だかミノル○だかキャノン○だかの
高級なカメラを首からさげていて、
あっちこっちで写真を撮りまくっていたそうです。

日本人と言う人種は
カメラで写真を撮りまくるしか能がないのか、
と結構辛辣に批判をされていたものでした。

そういう批判を知っていて、あのケーブルカーの中で
写真をやたら撮りまくっている外国人を見ると、
何だ、みんなおんなじじゃないか、とか
普通に思ってしまいました。

外国人だって、やたら写真を撮るのだ、
ということもよーくわかりましたね。

ケーブルカーは、極楽橋に到着しました。
ここからは橋本行の普通電車に接続していました。
前にも言ったように、この2300系の電車は
運行開始してから、まだ10年くらいですから
南海の中では新しい車両の部類になります。

23001

2300系の車内はこんな感じです。
23002

電車は深山幽谷の木々の中を
文字通り縫うように走っていきます。
この日は雨が降っていて、しかも霧だの靄だのが
かかっていましたから、来た時より、
より一層神秘的ではありました。

で、謙介の周囲には、バスでご一緒だったドイツ人の一行が
座っていたので、観察をしていたのですが、
その人たちは、せっかくの景色を全然見ないで、
ずーっとおしゃべりをしていました。

異国の深山の景色って、謙介はそれだけで
珍しい、と思うのですが、、、

なんだか延々と討論みたいなことをしていて、
景色はそっちのけでした。


彼らは、外国に来ていたとしても、
自分にとっての興味があるもの、興味を惹くものしか
見ない、経験しない、ということなんですかねぇ、、。

謙介なんか好奇心のかたまりですし、
折角ここまで来たのですから、
あちこち見たい、と思うんですけど、、

結局それだったら、ガイドブックに書いてあることの
追体験しかできないんじゃないのか?
って思いますし、 どこまで行ったって、
自分のイメージとしての日本なり高野山なのであって、
実際行ってみたら、こういうふうに違っていた、
こういう発見があった、ということに
ならないんじゃないのでしょうか。


まぁ彼らだけ見てドイツ人がみんなそう、とも
思いませんけどね。
でもまぁ、せっかくやーぱんにまで来て
高野山にまで来て、ですよ、
全然景色なんか見ようとしない、
というのか徹頭徹尾同行者と話をしていて
一顧だにしない、というのはねぇ、、

それで旅行、って、、、
まぁそれでもいいんでしょうけれども、

谷崎が『陰翳礼賛』の中で言ったようなことは
やっぱり外国人に理解してもらう、というのは
無理なんだろうかねぇ、、と思いながら
謙介はドイツ人のグループと
電車の外の景色を交互に見ていたのでした。

電車小一時間かけて各駅にとまり、
下界の橋本に到着しました。

Hashimoto

ここで、接続している難波行の急行に乗り換えです。
ここではJRの和歌山線にも接続しているのですが
その和歌山線の電車が遅れた、ということで
急行も出発が数分遅れました。
急行の車両は、6000系でした。
6000

6000系の電車も古いです。
1962年製造の電車ですもんね。
近畿地方には5つの大手私鉄が
ありますけれども、
京阪は、もう技術の京阪というくらいなもんで、
新しい車両の開発を
どんどんやっています。

阪急も阪神も新しい車両をどんどん
入れています。
ですが近鉄と南海は電車が古いのですよ。

特に南海は、、、
ぐぐーるの検索で南海電車、と打ってみると、後に
「ぼろ」という言葉が付随して出てくるほど、
なんですよね。

南海もいままでずーっと膠着状態で、
全然動きのなかった高野線の汐見橋駅から
北に新線を作って、阪急の十三駅経由で
新大阪まで乗り入れる、という計画が
ようやっと動き出したみたいですから、
ちょっと変わっていくかもしれません。


でもまぁ乗客数が減っていますからねぇ、、。


電車はターミナルの難波に到着しました。
朝の10時半過ぎでした。
朝の出立が早かったですから、ここまで来るのだって
早かった、というわけです。
Namba3

バスに乗って早めに四国に戻ろうと思いました。

11時ごろのバスに乗るとなると、
家に着くのは2時ごろになるので、
お昼に食べる何かを買ってバスに乗ろうと
思いました。

難波の高島○に入りました。

エレベータに乗ったら、今度は韓国人のアジュマ(おばさん)
のグループと一緒になりました。

婦人服は何階だかなんとかは何階かと
言っています。さっきのドイツ人のご一行さまの
言葉は分かりませんでしたが、今度はばっちり(笑)です。

困っている感じだったので、
「よそんぼくぬん さんちょんぶっとおちょんかち」
(婦人服は、3階から5階までです)
と教えてあげました。
一瞬あじゅまたちはびっくりしたような顔をしました。

それから、こまっぷすむにだ、(どうもありがとう)
と言ってから質問攻めです。

あなたは何人か? 在日の人間か?

いえいえ単なる日本人のおっさんです。

どうして韓国語ができるのか?

ならったからです、、。

今から時間はあるか?
できたらこの後、私たちの通訳をしてもらえないか?

ということでしたが、私は今から高速バスに乗って
実家に帰らないといけないので、みあんへよ(ごめんなさい)
と言いました。

最後に「まーにまーにしょっぴんへじゅせよ」
(たーくさんたーくさん買い物をしてくださいねー)と言ったら
「あははは」と笑っていました。

ということであじょし(おっさん)は、アジュマたちから別れて
地階に行きました。

ほうらいで、ぶたまんを買いました。
5511


それから、途中のコンビニで
ウーロン茶を買って、OCATに行きました。
案内で訊くと、2分後の10時50分にバスが来ます、
ということでした。最初の予約は2時半のバスだったのですが
この10時50分発のにかえてもらいました。

実はたぶんこうなるだろう、と思って、早割の席には
していなかったのです。早割だと、こういう時の変更が
できないので、使い勝手が悪いんですよね。

バスは、定刻にOCATに来ました。
帰りは神戸も全然渋滞していなくて、、
快適に高速道路を走っていきました。
そのうちお昼になったので、さっき買った豚まんを
出しました。


5512

ふふふふ。
5513

バスは途中、淡路島で休憩をして、定刻よりも15分ほど早く
実家の近くのバス停に着いたのでした。

これで今回の高野山法要のご報告は終わりです。

大学の時に行ったみたいに
1度、冬に行きたいなぁ、と思いました。


ブラタモ○の高野山の回はとっくに終わってしまいましたが、
今回も延々とお読みくださいまして
感謝感謝でございます。

と、同時に、この高野山連載中に
投稿数が2000を越えていました。

今回のが2006回目でした。

たぶん最初からずーっとお読みの方、って
そうそう多くないと思うんですけどね。

最近は、仕事が忙しくなって、
以前みたいに

それでもアクセス数があって、誰かが読んでくださっている、
というのを励みに、書きたいなぁ、と思ったことを
書いていこうと思います。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

17. 09. 26

2017 4回目の高野山へ(その10)

翌朝は5時半に目が覚めました。
雨の降る音が室内にまで聞こえてきます。
障子をあけてみると、あーあーあ。
どしゃ降り状態でございました。

太平洋側の和歌山と瀬戸内側では
雨の降り方が全然違います。

瀬戸内側は四国山地とか、そのほかの山々で
雨雲がブロックされますから、
まぁ言ったら、雨雲のカスみたいなものしか
流れてこないわけです。

北側も中国山地がブロックしていますから、
要するに瀬戸内海沿岸は雨が少ない、
ということになるのですが。

しかーし、ここは和歌山ですし、
それも山の上、と来ていますから
遮るものがまったくなくて、雨雲の降雨がストレートに
そのまんま降るわけですよね。

朝のお勤めは、6時半から、位牌堂での実修でしたから、
それまでに身なりを整えて、出かける用意をしなければ
なりません。

顔を洗って、歯を磨いたりして、着替えをして、
6時15分にお数珠を持って部屋を出ました。

昨日は外からの道で、
本堂から宿坊に移動しましたが、
実はこのお寺には地下通路、というものがありまして、
雨がじゃーじゃー降っていようと濡れないで行けるのでした。

これがその通路でございます。

Tuuro2


本堂の玄関から、位牌堂に行く途中には、書院が
あって立派なふすまがありました。
Fusuma

位牌堂の入り口では、お坊さんが待っていてくださって、
今日の朝のお勤めはうちのばあちゃんの回向をします、
とお知らせしてくださいました。

Ihaido

この写真のように、一般の方のお参りするところには
書見台式のお経机が3つありました。
その中央の書見台には、
大きな過去帳が据えられていて、
見るとうちのばあちゃんのページが開かれて
ありました。
そして、お坊さんから、ここにお座りください、
ということで、一人だけ、その書見台のお経机の前に
座ることを指示されました。


やがて、お勤めの時間が近づき、お坊さんが所定の位置に
座りました。


この日、宿坊に泊まっていた人も、入堂してこられました。
全員が参加した、というわけでもないのでしょうが、
それでも30人くらいの方が入ってこられました。

いつもは朝のお勤めは3人のお坊さんが行うようですが
今日は一人増員してくださって、4人のお坊さんで
実修してくださいました。


お経をあげてくださるお坊さんの数は、案外大切なんですよ。
一人と三人でも声の響きとか、全然違います。

一度、親戚のお葬式で十人のお坊さんを呼んで
お葬式の時に読経をした、というのに行き当たったことが
ありましたが、それはもう圧巻でした。


真言宗のお勤めは、「妙鉢」(みょうばち)という
シンバルみたいな儀礼の楽器を
使って、それをバシバシと打ち鳴らしながら
お経をあげていきます。

このシンバルで邪気を払う、気を鎮める、
という意味があるのだとか。
気を鎮める、たって、バシンバシンと
派手に打ち鳴らさせるので、却って
なんだなんだ、という気になったりしはしまいか、
とか思うのですが、、。

お経の途中で、焼香を、という指示がありましたので、
焼香をいたしました。
そのあと、朝のお勤めにご参加のみなさんも
適宜焼香をしていきました。

その後、本堂のほうに移動して、
ご本尊の愛染明王を間近に拝見させていただきました。

お坊さんにお礼を申し上げ、部屋に引き上げたのでした。

今日はここまでといたします。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

17. 09. 25

2017 4回目の高野山へ(その9)

部屋に戻ったのが、5時すぎでした。
何せ夕食は5時半ですから、
それまでにお風呂に入っておかなくては、
と思いました。

食後は、7時からお写経の時間なのです。

写経は自分の場合、墨をすって、
ゆっくりと書きますから、
最低2時間はかかります。

(普通の人は1時間で書くそうなのです。
いつだったか写経に2時間かかる、と
いったら、どうして2時間もかかるのか?
と聞かれましたが、こちらにしてみれば、
どうして1時間で書けるのよ? と聞きたいのです。)

まぁいいや。お写経が9時までかかります。

お風呂の開いているのは、午後4時から9時まで
ですから、お写経をしてから、お風呂、と言うのでは
お風呂に入れません。

なので、急いでお風呂に行きました。

部屋にバスタオルとハンドタオルは置いてくれていました。
それを持ってお風呂に行きます。

お風呂は去年改築竣工したばかりのきれいなお風呂でした。
そう大きくはないですが、(8人ぐらいでいっぱいになる)
新しいのが何よりでした。

謙介が行った時、
お風呂にはお二人の外国人がおいででした。

外国人の人は、湯船にずーっとつかっていて
その後、出ていかれました。
こちらは石鹸で体をこすったり、シャンプーで髪を
洗ったりして、お湯につかった後、風呂を出ました。

まだ外国人の人がいたので、
英語で話しかけてみたのでした。
するとオランダから来た、ということでした。
成田に着いて、東京を見てから、奈良に行って
それから紀伊田辺! に行って、紀伊田辺から
高野山まで歩いてきたのだ、という話でした。

熊野古道を歩いた、ということでした。
前にも言いましたが、このお寺がその熊野古道の
起点でもあり、終点でもありますから、、
熊野と言えば、南方熊楠を知っているか?
と聞きましたら、名前は知っている、
ということでした。

そのオランダ人が、あんたはどうしてここに来たのか?
と聞いてきました。 グランマが亡くなって今年で
27年目になるのだ。仏教では、27年目とか
33年目に特別に亡くなった人の冥福を祈る儀式が
あるのだ。今日は、そのためにここに来たのだ、
ということを説明しました。

その儀式には、大勢の人が参加するのか?
と聞かれたので、いや、自分だけなのだ。
両親は非常に歳を取っていて、高野山まで
来ることができないから、と答えました。

それは残念だが、あんたが丁寧に
祈ったら、グランマも喜ぶだろう、
と言ってくれました。

最後にいい旅を、と言って握手して別れました。
何だか宿坊のお風呂でハードボイルド小説っぽい会話を
してしまったのでした。

部屋に戻ったのが5時25分でした。
5時半過ぎになると、きっと食事を運んできたのでしょう。
廊下をワゴンの音が響いてきました。

5時半過ぎに、部屋の外から「お食事をお持ちしました」
との声がしました。「どうぞ、お願いします。」というと
若いお坊さんが、お膳を持ってきてくださいました。
一の膳から三の膳まである超でらつくすな精進料理
でございました。

Oryori_2
写真の手前のお膳の左側の赤いお椀の中には胡麻豆腐が
入っていました。奥のお椀の中はおすましのおつゆでした。

当然精進料理ですが、どのお料理もおいしく、
甘いもの、酸味のきいたもの、と味の変化も色々で
素材の味が生きていたように思いました。
どの料理もおいしくいただきました。

6時半に膳を下げにきてくださって、
同時にお布団が敷かれました。

Ofuton


まだこの時期、というのか今も
謙介夏蒲団か毛布1枚で寝ています。

高野山は夜冷える、ということで、
しっかりとした厚手の布団が敷かれたので
ちょっとびっくりしました。

そしてこの布団でちょうどよかったくらい
夜は寒かった、ということなのでしょう。

この厚い布団を暑くて蹴り飛ばすこともなくて
翌朝は目が覚めたのですから。


謙介は7時から写経がありますから、
この時に布団に入ったりはしませんでしたが。
(しかし、他の人は何時に寝るんでしょう??)

7時に今度は別の若いお坊さんが
お写経の料紙、硯、墨、下敷き、文鎮を持ってきて
くださいました。

「書き方は分かりますか?」
と聞かれたので、「たぶん」と答えました。(笑)

硯の横にあった墨をすっていきます。
墨に練りこまれている香りが部屋に
ひろがって行きます。

20分くらいかけて墨をすりました。
作る墨の量が少ないので、まぁこれくらいでしょうか。
普通だったら30分くらいかかります。
場合によったら1時間くらいかかることもあります。

筆は、人のを使うのが嫌だったので、
家から書き慣れた自分の筆を持ってきていました。

どうせ、いろんな人の使いまわしの筆でしょうから、
よく書ける筆でもないと思っていましたし、、。


お写経はもう何枚も書いてきていましたが、

正直なところ、満足のいけるものが
仕上がったことがありません。

書いているときは、結構うまく書いている、
と思うのですが、書きあがったものを
見てみたら、嫌な癖ばかり出ていて
あーあ、と情けなくなります。

人が書いたのは、本当にうまいなぁ、と
思います。

お写経の本とか見ると、たった262文字で
気が落ち着く、とか書いてありますが、
謙介にとってみれば、262文字も気を集中して書く、
なんて、なかなかできることではない、と思うのです。

たぶん、「たった262文字」と言っている人は、
漢字練習帳か何かに鉛筆で262文字を書く、
という発想で言っている、と思うのです。

謙介は料紙に毛筆で、という意識ですから
やはりそこの部分、大きな開きがあります。
まぁお写経の本を書いた人は、最初から
ハードルを上げて、お写経は集中が大変です、
なんて言ったら、書こうと思った人がしり込み
するでしょうから、かんたんですぅ、ということを
言いたいがために、たった262文字、と
言っているのであるとは、分かりますけれども、、。

それにしても
262文字、一字一字に精神を集中させて書く、
というのは、自分にとってとてもしんどいことです。

しかも満足したふうには決して書けません。

基本点画をはっきりと、と思って書いて
いっていると、
ついつい変な癖が出てしまうんですよね。
で、書きあがってから本当に自己嫌悪になります。

Oshakyo

今回も書いていていろいろと
思うところはあったのですが、、。

とにもかくにも書き上げた、ということで
ばあちゃんには許してもらおうと思いました。

写経は床の間に置いておいてください、
ということなので、書き上げた後、自分の筆だけ
ティッシュペーパーに水をつけて、
それに筆の穂先をそっと当てて
墨を取っておきました。

片づけをしたりした後、テレビをつけると
ちょうど午後9時のニュースの時間でした。
明日の天気を確認しました。
明日の和歌山県地方は朝から雨が降ります、
ということでした。

早朝から歩き回ったりしたので、
疲れが出たのでしょう。
10時にならない間に眠くなって
お布団に入って寝たのでした。

今日はここまでといたします。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

17. 09. 24

2017 4回目の高野山へ(その8)

この金剛三昧院は鎌倉幕府と深い関係があります。

そもそもは1211年に北条政子の発願で、
頼朝さんの菩提のために禅定院として創建されました。

1219年には源実朝菩提のために禅定院を改築して
金剛三昧院と改称し、
以後将軍家の菩提寺として信仰されたとのことです。

1223年には北条政子が禅定如実として入道し、
建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、
源頼朝と源実朝の菩提を弔うための
多宝塔(国宝)を建立することに
なったとのことです。

鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院という性格があったとのこと。

そもそもが鎌倉幕府の関係のお寺であったので、このお寺は
最初は禅宗のお寺だったそうですが、のちに
江戸初期に金剛峯寺の塔頭の一つとなった、ということです。


次の12日は、どうもお天気が悪そうなので、
11日のうちに、お寺のあちこちを見ておくことに
しました。

これは世界遺産の記念碑だそうです。

Kinenhi

国宝の多宝塔です。
石山寺の多宝塔に次いで現存の多宝塔としては
日本で2番目に古いものです、と案内にありました。
Tahoto

かつてこの多宝塔は記念切手にもなったとかで、
宿坊の中に、この切手のシートが飾ってありました。
Tahoto2

こちらは重要文化財の経蔵の解説です。

Kyozo1

校倉造が渋いです。
Kyozo2

境内には杉の巨木(天狗杉、というそうです)がそびえ、
深山の趣がより一層深く感じられます。
Sugi

こちらが本堂。 金剛三昧院の本尊である愛染明王を
安置しています。北条政子が、運慶に依頼して
造ってもらったものだとか。

Img036_l


宿坊に泊まった人には、翌日、おつとめのあと、堂内で
ゆっくりと鑑賞できる時間が設けられていました。
Aizendo


境内も一通りぐるっと見て、得心がいったので
また部屋に戻ることにしました。

今日はここまでといたします。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧