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24. 12. 03

なーみちゃんたらぎっちょんちょんでぱいのぱいのぱいのルーツへ行く(4)

水俣市役所のわきに、一軒の西洋風の古い建物がありました。

Img_1137_20241201193901

これは旧の水俣市立図書館の建物なのですが、、
建設にあたっては水俣で生まれた徳富蘇峰が故郷に対する
気持ちということで、建設資金を出資して建てたものだそう。
今は図書館は別場所に移動し、この建物は、徳富蘇峰と弟の蘆花の
記念館となっています。

実はこの徳富兄弟は、水俣生まれなんです。
だから郷土の偉人ということになります。
徳富

中に入りますと、蘇峰と蘆花の資料が、年齢の変遷とともに
展示されておりました。
係りの方がいて、いろいろと話を聞けたのですが、、
蘆花は蘇峰という偉大な兄の弟で、
その立場に非常に劣等感を持っていて、
そのため精神が不安定だったという話を聞きました。
一方的に兄と絶縁したり、また復活するということが
あったようです。

家庭の中でもこの兄弟に対する期待の差が大きかった、
ということを伺いました。それは名前からしてそうで、、
蘇峰という名前は、阿蘇山からとられているのに対し、
蘆花はススキの穂ですからね。

 

家族の長男に対する期待度は大きかったわけですが、、
弟は、何せススキですから、、、
ただ、明治のころは、こういう長男・長女には
お金をかけるし期待もかける。というのはよくあったことです。
長男には、土地やら山を売ってでも、東京の
大学にやって、次男以下は高等小学校卒で済ませる、
というような教育方法が当時は当たり前でした。

 

しかし、差別待遇を受ける本人からすれば、
やはり、何だよこの差は、ということになって、
その結果、親のことを恨むことになった
のではないでしょうか。

 

でもまぁこの兄弟、社会的には、、
徳富蘇峰さんも有名でしたが、東京のほうでは
なんたって駅名にもなっている「蘆花公園」の
「徳富蘆花」さんだって有名ですよね。
そして蘆花さんは、彼の作品「不如帰」で、作家として
不動の地位を築くことになったわけです。
そのあまりの流行に、
「なーみちゃんたら ぎっちょんちょんで 
ぱーいのぱいのぱい」などという歌までできたのですから、、

徳富蘇峰さんがジャーナリストとして高名な方だ
徳富蘆花さんは不如帰の作者だ、ということは
謙介も知っていましたが、、今回、記念館に行って知ったのは
蘇峰さんが素晴らしい字の書き手であったことです。
たくさんの書跡作品がありましたが、、
いいなぁと思えるような作品が多数ありました。

 

徳富蘇峰さんは、水俣生まれではありますが
小さい時に父親の仕事の関係で、熊本市に
移り住むことになりはしたそうです。
しかし、ことあるごとに帰ってくるのは
熊本市ではなくて水俣だったそうで、
水俣に対する郷土愛もまた大変なものであったらしいのです。

 

旧の水俣町立図書館建設にかかる費用、
1万円(今なら数億円くらいでしょうか)
その費用を蘇峰さんが出している、というところからも
水俣愛を感じるような気がします。

 

この記念館の建物はそう大きいものではありませんでしたが
さすが地元ですから資料は大変充実した内容でした。
それと蘇峰さんは水俣にしばしば帰っては
水俣の人と交流があったため、
水俣市にもこうした資料が多く残ることになったようです。

 

充実した展示を見学して、記念館を出る時に、
記念館の方から、是非蘇峰の生家に行ってみてください、
というお話がありました。地図までいただいてしまったからには
行かないわけにはいきません。
ということで、行ってみることにしました。

 

とりあえず今日はここまでとします。

 

 

 

 

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