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21. 07. 16

二人の知事の話

島田叡という知事がいた。
沖縄県の最後の官選知事で、1945年の1月に赴任した。
折しも、赴任後米軍の沖縄侵攻に遭い、
首里の防空壕を出た後、南部へと移動して
その間いくつかの壕を転々とし、
最期は、消息不明のまま、今もどうなったのか分からない。

その島田知事と交代で離任したのが泉知事。
この人は、最初こそ、勇んで那覇に着任したけれども
沖縄の県民性や、全てが軍の支配下で、知事の意向が全く
通らないことで、すっかり失望してしまい、
最後は異動活動を行った末に、1945年の1月に香川県知事と
して高松に異動になった。
この知事、すでに沖縄が米軍の攻撃を受けるのは必至であったので
いやしくも公職にあって県民の規範となるべき人が
その前に「わが身大切」で逃げた、ということで
すこぶる嫌われている。(そうな)

逆に、あの戦いのさなか、最後まで県民と運命をともにした
島田知事は、慰霊碑はあるし、毎年のように追悼祭が行われていて
非常に評判が高い。
たまたまこちらで、その島田知事が県知事になって
最期を迎えるまでのドキュメンタリー映画が上映されていて

Origin
見に行く機会があったので、この二人の知事の評伝を
集中的に見てみた。
泉知事のほうは、彼の評伝として、

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という本が出ている。
二人の知事を題材とした作品を見て、
泉知事をあしざまに言うこともできないし、
かといって島田知事を無条件でたたえることもできない、
と思った。
あの米軍の沖縄侵攻を前に、在沖の日本軍の指揮官は
住民のことなど全く考えず、(まぁ軍隊ってそんなもの、と
言えばそうなんだけど)自分たちの作戦のことしか頭になかった。
しかも全体命令を出していたのは東京の大本営で、
実際の沖縄の状態なんて全く分からない、分かろうともしないで
机上の空論そのものの命令はしてくるし、現地軍は現地軍で
住民なんて、単なる牛馬の代理の労働力もしくは婦女子は
足手まといの不用品としか思っていないし、まぁとにかく軍が
ひどかった。そのとばっちりをまともに受けたのが知事であり
沖縄県であり、県民だった。
そんなもの、誰が知事をしてもダメ、という状態であったのだと思う。
もしも戦争がなかったら、泉知事も島田知事も、
まったく別の、運命があっただろうに、と
思う。


島田知事の奥さんは、戦後は大阪から東京に出て
電話も引かずに、誰とも連絡を取ることもせず、遺児となった
二人の娘を独り立ちさせて亡くなったらしい。
今なお顕彰されているほうの島田知事にしても、
「たくさんの県民の命を奪いやがって」
という怒りというのか怨嗟の声を遺族は聞くことになったらしい。


映画のタイトルは、島田知事が南部に行くようになって
周囲の人に言って回った「生きろ」という言葉から
来ているらしい。 しかし、実際に、県知事の
いろいろなところの挨拶として島田知事は
県民への戦争参加を呼び掛けたし、その結果
何万という人が戦闘の犠牲で亡くなっているわけで、
いくら身近な人に
生きろと言って回ったとしても、住民が犠牲になった
ことには間違いがない。
そういう意味で、「生きろ」もないもんだろうに、と
思った。もっと別のタイトルの方がよかったのでは、
ということも思ったりした。

しかし、それにしてもあの戦争というものが
なければ二人ともどんな人生を歩んだだろうか、と、

そう思いながら劇場を出たのだった。

 

 

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