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19. 01. 17

「らしさ」(その2)

歌舞伎の「形」というのか、歌舞伎が歌舞伎として
どうしても外せない「決まり事」のことを「規矩」と
いいます。

このIさんは、脚本家です。
お芝居を作るにあたっては、
「演出家」という人がいます。

Iさんの作った脚本を、役者がどのように
演じるのか、どのように演じさせるのか、
ということで、どのような舞台装置を作って
その舞台とか舞台装置の中で
役者をどのようにどのように動かすか、
一切合切を考えて指示出しをする人です。

そこで、このIさんがかつてかかわった
歌舞伎専属の人以外の演出家の話に
なりました。

お聞きしたのが、蜷川さんと、三谷さんと
宮藤さんの3人のことでした。

3人とも非常に特徴的な演出をされた、
と聞きました。

まず、蜷川さんですが、2005年に
シェイクスピアの『十二夜』を歌舞伎作品として
公演したときのことを話されました。

もともとは市川團十郎丈と尾上菊五郎丈の
團菊祭の公演が予定されていたのでしたが、
團十郎丈の病気が再発して、公演ができなくなって
しまいました。

そこで、その公演の穴埋めを
急遽する必要が出たわけです。
しかし、菊五郎だけでは、
7月一か月の公演を満員にして持たせる
ということはできない、と菊五郎丈は冷静に
考えたといいます。

そこで、話題性を持たせたら、
客は食いつくに違いない、
ということで、蜷川さんの、沙翁歌舞伎を
持ってきた、ということだったそうです。

その時に、脚本を書いたのが今回講師だった
Iさんでしたが、蜷川さんは、演出の途中で
何度もIさんに向かって、「これは歌舞伎の表現としては
有りですか? 」ということを訊かれたそうな。
蜷川さんは、歌舞伎が歌舞伎として
成立するための「形」というものがある、ということを
本能的に分かっていて、絶えずそのことを
気にかけていらっしゃった、と、いうことでした。

三谷さんの演出は、ご本人の頭の中に
明確なこれ、というものがないのだ、
ということでした。いくつかの方法で
役者にやらせて、どれがいいのか、
となったら、うーん、と言って頭を抱える、
ということだったそうで、、。

これを聴いて、謙介、あ、溝口健二監督じゃないか
と思ってしまいました。溝口さん、
役者に演技をさせて、どっちがいいのか、
ということはわかるのだけど、
この場面では、こういうふうにやってくれ、
と明確に役者に指示する、ということは
なかった、ということです。

宮藤さんは、もう自分のやりたいように
マイペースでやってしまう。
そもそも歌舞伎の「形」なんて、
最初から無視している、
ということでした。

謙介の中での歌舞伎の理解というのは、
能という古典劇と、明治以降の新劇の
橋渡し、というものだ、ということなのです。

ですから、能の「こちんこちん」の形でもない
けれども、明治以降の新劇のような「形式」から
放たれた演劇形式でもない。

だからまだそれでも「形」というものは
残っていて、それが、言ったらまぁ
歌舞伎として歌舞伎を成り立たせている「もの」
というような理解です。だもんで、能ほどではないけれども
形というのはやはりあるのだ、という理解です。

その形としては、「成駒屋」の形であったり
「松島屋」の形であったり、「成田屋」の形で
あったりもしますし、もっと大きな歌舞伎としての
形であったりもする、というようなことでしょうか。

Iさんのお話をお伺いしながら、
そんなふうな歌舞伎のことを考えたり
して、研究会はお開きになったのでした。

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