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16. 12. 13

ノーベル賞とか赤橋とか(その6)

謙介の仕事場の人に、長浜、というと
何を真っ先に思い浮かべますか?
と聞くと、大抵の人は「赤橋」と答えます。
それくらいこの辺では有名な橋です。

一昨年、この橋は重要文化財になりました。


赤橋の正式な名称は、「長浜大橋」と言います。
架橋は昭和10年です。
ですから架橋されて80年以上が経過した鉄製の道路橋です。
Img_1422

当時のお金で総工費29万円で架けられた、
と聞いています。
Img_1423

これが橋の全景です。

人が「赤橋」というのもこれでお分かり
いただけると思います。

この橋が特徴的なのは、中央部の橋げたが
上に跳ね上がって開閉するのです。
Img_1431

そのため、中央部におもりが置かれています。
この橋の上の構造物がおもりなのです。
Img_1430

このおもりを下げる反動で、橋げたを上に跳ね上げる、
という仕組みです。
Img_1440

これが開いたところです。
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毎週日曜日の午後に、
こういうふうに開けています。

今のところ、国道の橋で、こういう開閉を行っているのは
日本中でこの橋だけ、なのだそうで、そういう意味でも
珍しい構造の橋だと思います。


どうしてこういう構造の橋になったのか、と言えば、
この上流に大洲という街があります。
以前はそこまで、荷物運送を担当する船が
さかのぼっていました。

大洲は昔は木蝋の一大産地で、パリ万博で
その品質は1等を受賞する高品質のものでした。
ですからここの木蝋は世界中に輸出されていたわけです。


そのほか大洲からは、木材をこの下流の長浜に筏流しで
流してきて、ここから日本国中や、当時植民地だった
朝鮮半島にも木材が輸出されていました。

当時の船は帆船でしたから、帆柱が立っていました。
この橋の上流すぐのところに、以前は長浜港があって
船の出入りも頻繁だったそうです。


(今は長浜港は、移転をしました。
そして、古い帆船の港だった旧長浜港は
その大半が埋め立てられて長浜中学校の運動場になりました。)


その船のために、こうした橋の一部が開閉する、という
構造になった、とのことです。


昭和の初めのころはこの長浜で売買される木材が
西日本の木材の価格を決めていたとかで、
木材の取り扱い量も、非常に多く、
必然的にそうした木材の商売をする商人が多く住んで、
にぎわった、と言われています。
またここから日本各地、東アジア各地に材木を輸出して
いましたから、有力な海運の拠点でもあったわけです。

古い写真を見たら、商家が軒を並べ
その間を大勢の人が行き来しています。
街が活気にあふれていたのがよくわかります。
遊郭まであったとか。

そうした繁栄する町でしたが、
この肱川を渡る方法は、橋ができるまでは
渡し船か、もしくは船を何艘か川の中に配置して
そこに仮の橋げたをかけて、人だけが
行き来できるような仮設の橋のようなもので
移動するかしか、手段がなかった、と聞いています。
それで恒久的な橋の建設に取り組むことになったのですが、、

当時の政党の勢力争いが関係して、
この橋を作る場所でも一悶着どころか
三悶着も四悶着もあったとのことで
そういういろいろとあった末にこの橋は
出来上がったそうです。

当時の西村町長は政友会系の町長で
反対政党の民政党からは、非常な突き上げが
あったようです。 結局、民政党は民政党で
この橋の上流に、大和橋という別の橋を作ったんですけどね。

橋ができたころから、木蝋の輸出が振るわなくなり、、
戦後は、外国から木材が入ってくるようになったり、
木材の輸送が海運からトラックに変わってしまい、
わざわざ河口近くの港に木材を集めなくても、
木材工場の横にトラックをつけて、そこから運べばいい、
というふうになって、この河口の街の木材卸の店は
無くなってしまった、のだそうです。

そうした産業構造の変化が、
ストレートにこの町の
盛衰に変化を与えることになった、
ということなのでしょうね。

さっきも言ったように、この橋の架橋は昭和10年
でしたから、太平洋戦争中はすでに橋があったわけです。

この橋の架かっている河口のこの辺は
土佐湾から侵入した米軍機が中国地方を空襲するときの
通路だった関係で、攻撃の対象によくなりました。

この橋を爆撃して破壊してしまう、というのではなくて、
どうも中国地方の空襲を終えて、余った弾薬を
この辺でぶっ放して、機体を軽くして帰りたかった、
というのが本当のようですが、、。

だからまぁ橋は破壊されずに残ったのでしょうけど。


機銃掃射で、撃たれたあとが、こうして今も
残っています。
Img_1436


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今は、この橋の下流に新長浜大橋が架けられていて、
メインの交通はそちらに移っています。
車が走っていなさそうに見えるのはそのためです。


ちょうど橋を渡り終えたところで、正午になりました。
お昼だからでしょう。役場から、正午を告げる
音楽が流れてきて、、
その曲にひっくりかえりそうになりました。

150年前のNHKの朝ドラ、「おはなはん」の音楽だったからです。

というのが、この主人公の「おはなはん」が、この大洲の
人だったからです。 大洲には「おはなはん通り」という通りも
あるくらいで、、もうあれから半世紀が経つのですが。

それから街を歩いていたら、こんな名前の
スナックがあったのですが、、
ここはご店主が「三郎さん」というお名前だからのようです。

別に夜になったら、「ふんどしの人」ばかりが集まる、というのでは
ないとのことだそうで。


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というところで、今日はこの辺で。


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