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16. 10. 15

祭りの事故から思い出したこと

ちょっと前に、こちらで、祭りの行列にトラックが突っ込んで
亡くなった方が1人、けが人が40人近く出た、という事故が
ありました。

あの報道で「だんじりにトラックが衝突した
とありましたが、あれは「だんじり」ではありません。

ちょうさ、と呼ばれる太鼓台です。
↓こんなの
Chousa

愛媛県の東部、新居浜市から香川県の西部
三豊・観音寺付近の秋祭りでは、こんなふうな
太鼓台が各町で作られて、それが町中を練り歩きます。
一か所に集結して、統一してかきくらべをしたりもします。
この太鼓台を大勢で動かしているところに
トラックがぶつかった、というのが今回の事故でした。

昼間もきんきらきんで派手なのですが、夜は
夜で電飾が入ってまた派手派手なのです。
Maxresdefault

これは観音寺の三架橋(さんかばし)を渡る
ちょうさです。うしろに見えているのは橋のアーチです。


あの道は謙介、実家と仕事場を結ぶ道なので
毎週頻繁に通ります。現場からのテレビ中継を
見ただけで、「あ、○川のたね屋の前やん」とか
場所もすぐにわかりましたし、、。

あの事故の起こったところは
観音寺市柞田町という場所です。

この地名も難読地名じゃないですかね。
「柞田町」は「くにたちょう」と読みます。


柞田町というと謙介は思い出すことがあります。

ちょっと前に、
高橋和巳の作品がまた、最近ブームになっている、
ということを聞きました。
高橋和巳という小説家が、以前いました。

彼は大学の教員をしながら、小説を発表していた人です。
1960年代から70年代にかけて、彼の作品はよく読まれていました。
今でもそのころ青年時代を過ごした人のブログで、彼の作品が折々
取り上げられているのに接します。

彼は、1971年でしたか、ちょうど折からの学生運動と、
自分の文学の方向性との間に煩悶しながら、
39歳でがんで病没してしまいました。

謙介が高橋和巳を読み始めたのは、高校生の時だったです。
本当に高校生の時は、今の自分からは信じられないくらい
分厚い本をそれも短い間に集中して読んでいました。

邪宗門なんて、650ページあるんですよ。
それをあのころは数日で読んでいました。


高橋の作品を読み始めたきっかけはなんだったか忘れました。
高校の図書室にあったのかもしれないし、、
どこかで見かけて、ちょっと読んでみて興味を惹かれたから、
かもしれません。


さて。

そのうち大学に入りました。
国文科だったので、国文法通説という授業がありました。
これは必修の講義でした。

この国文法の先生がT部先生という人で、
話を聞くと、大学の時に高橋和巳の友人だった、
という人でした。

先生から高橋和巳のことをいろいろと聞く機会がありました。

やはり友人として横にいた人の話を聞くと、
それまで写真の向こうの人でしかなかった彼が、急に
生きて生活をしていた人、(ある意味当然ですけれども)
というふうにかわって行きました。

3回生になりました。
そのころ、国文科の共同研究室に
新しい助手の方が入りました。

研究室に入り浸っていた謙介は当然仲が良くなります。
その助手さんのお宅にお邪魔することも何度かありました。

そのお宅は、北区衣笠の等持院のすぐ近くでした。
(というのか等持院のすぐ東側)
南隣の家には、岡本の表札がかかった結構大きな家がありました。

高橋和巳は、大学時代に知り合った
「岡本和子(たかこ)」と結婚します。
奥さんも小説を書いていて、「高橋たか子」として
作品を発表していくのですが、、、。

ふと隣の家の表札が気になった謙介は、
もしや、と思ってU井さんに質問してみたのです。
お隣って、高橋和巳の奥さんの実家ですか?


U井さんは頷きながら「そやねん。あの2階でしばらく二人、
住んではったみたい」とのこと。 

あらまぁ。

それからまた数年たって謙介は学校を卒業して、就職をします。
仕事場にI田さんという同僚がいました。

I田さんの実家は、その観音寺市の柞田町でした。

実は高橋和巳の本籍地も、その観音寺市の柞田町
なのです。

高橋の出生は大阪市なのですが、
お父さんが柞田町、お母さんがそこからほど近い
大野原町の出身です。
大阪には、数代前をさかのぼると四国出身の人が多くて
高橋家もそんな家だったようです。

高橋和巳は空襲で家を焼かれ、
母親の実家の大野原町に疎開します。
そこで、しばらく生活します。

ある時、その同僚のI田さんに、高橋和巳のことを
話したことがありました。
するとI田さんの言うには、「柞田はね、高橋姓の家がものすごく
多いんです」という話でした。

一度そのI田さんのご案内で、高橋の実家や、大野原町の疎開していた
家の辺をまわったことがありました。

それはいつだったか、と思いかえすと、
もう20数年も前のことだった、ということに気づきました。

えええええ、もうそんなに時間が経ってしまったのかぁぁぁぁ、と
今、これを書きながら
改めてびっくりしています。


その高橋の本籍地の場所が、今回の事故現場の
すぐ近く、だったということなのです。
それで、久しぶりに高橋のことを思い出すことになったのでした。


それから、高橋和巳も高橋たか子も、
河出書房から本を出すことが多かったのですが、
その時の担当編集者が坂本一亀さんです。
坂本一亀と言うと、文学部出の人間にとってみれば、
本当に目利きの編集者、ということがすぐに出て来るのですが、、。
この人が、坂本龍〇のお父さん、なんですよ。
ですから、高橋たか子と坂本龍○はお父さんを通じて
知り合いだったりしたのです。

奥さんの高橋たか子さんも、2013年に亡くなってしまいました。
この秋、久しぶりに高橋和巳の作品を読んでみようと思います。

       ×       ×       ×

今年のノーベル文学賞、村上さんじゃなくて、ボブディランだった、
のですね。 ノーベル文学賞、の最近の傾向っていうのは、
かつて川端さんが受賞した時とは様変わりしているように思います。

作家の作り上げた文体のすばらしさ、というようなことが
最近では受賞理由にはならなくなってきている、ということを痛感します。

60年代、70年代、文学賞の候補に入っていたのが
川端さん以外に、谷崎潤一○とか
三島さんが候補だったと聞きました。
いずれも文体の非常に美しい作家ですよね。

まぁ、川端さんの場合は、Edward George Seidensticker
という日本文学に通暁した稀代の翻訳家がいて、
その人の翻訳の功績が大、という気がいたします。

このころの文学賞はそういう「文体の美しさ」という方向での
選考だったように思いますが、近年は、
その作品が社会的な運動を指導したり、
社会に一定の影響を与えた、
というような作家に贈られる
傾向が強いと思います。

そう考えていくと、愛媛県出身の小説家がノーベル賞をもらったのも
理解できますし、今年の受賞者がボブディラン、というのも
全然違和感はありません。

そういう方向性から言うと、村上さんは全く逆の人ですよね。

何せ、村上さんの周囲が政治運動とか社会運動に
走っていっていたのを、彼はひたすら冷めた目で見ていて、
ああいう仲間にだけは入りたくない、
と嫌がっていた人でしたし、、。

それからこれは何度も言いましたが、
小説の中身として、人間というものが書けていない、
ということ。そこが日本とかアメリカのある層では受けるのですが、、、。

しかし小説で人間が書けていない、というのは、致命的です。

だから、批評家・文学の研究者からは嫌われちゃうんですよね。
日本の批評家なんて黙殺状態じゃないかなぁ、、


ファンの人には悪いけれども、
そういうことを考えていったならば、
村上さんのノーベル文学賞というのは
非常に難しいんじゃないか、とやはり思ってしまうんですけどね。
 


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Comments

ノーベル賞で思い出したのですが、ボブ・ディランの受賞では○きすと曰く「ディランならいいや」あのーノーベル賞の良し悪し判断するのは...まぁ好きな方は読んだらいいんじゃないですか
ノル○ェイの森が学生時代にベストセラーになったのですが、同じクラスの人の「何で最後アノおば○○さんとなの?」って意見をnewsになる度思いだしますねぇ

Posted by: ゆき | 16. 10. 15 at 오후 7:25

---ゆきさん
 は〇きすと、はアメリカとかイギリスの文化が好き、という傾向の人も多いので、ボブ・ディラ○の受賞は、受け入れやすいのだろうと想像します。大学の時に近現代文学を習った教授が卒業してから会った時に、「ノルウエ○の森って、単なるエロ小説じゃねえか」って言っていました。ムラカ○さんの文体と出て来る女の子のタイプの描き方でそれなりに胡麻化されていますけれども。

Posted by: 謙介 | 16. 10. 16 at 오후 9:50

謙介さんこんばんは。
ラジオガールも時代の流れに乗り新しい携帯にしました。
そしたらまあ便利な事。

観音寺と云えばラジオガールはあの香りのおまんじゅうですね。

最近歩くプラス歴史にはまり、横須賀古墳の旅、日蓮上人の訪ねてなど色々行きます。

古墳からは弾琴埴輪とかあり、どんな方だったのかしらと思うだけでタイムトリップ出来ます。
横須賀博物館に展示されています。

日蓮上人の髭文字と呼ばれる書体で書かれた碑と葵の御紋の屋根の大明寺など新たに知る事が多かったです。
日蓮上人は千葉から神奈川にいらしたのですがその時に猿島に嵐を逃れます。
猿島はペルリアイランドとしてアメリカの地図に載っています。

寒くなって来ましたので、お身体大切になさってください。

Posted by: ラジオガール | 16. 10. 17 at 오후 9:24

---ラジオガールさん
 このブログでも歩きながら地元の歴史や民俗を勉強するツアーの話を何度か書かせていただきましたが、、そうですか。ラジオガールさんも、そういう街歩きをなさっておいでなのですね。横須賀、というと、ちょっと前のブラタモ〇でも紹介されていましたね。 造船所・軍港、というイメージの街ですが、それは地形や水深、江戸との位置関係によって横須賀に街ができるに至った、と番組で拝見して、今まで知らなかったことばかりで、本当に面白かったです。 弾琴埴輪、有名ですよね。歴史の教科書で見ました。今まで断片的にしか知らなかったことが、そういう街歩きをして、専門家の説明を受けると、一気にいろいろなものがつながって、ああそういうことだったのか、と思うことがありますよね。四国ではようやっと金木犀の花の香りがしてきました。季節の変わり目ですし、本当に体に気をつけたいと思います。ありがとうございました。

Posted by: 謙介 | 16. 10. 17 at 오후 10:17

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