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16. 07. 15

最近の読書傾向について

最近の読書、というのがですね、
前にもお話しましたように
ほとんど仏教関係の本ばっかりなのです。

臨済の先生方のご本から入ったのですが
その次は蓮如さんに行って、親鸞さんを
経由して、現在は真言宗に入りつつあります。
(見た目はもう宗派関係なし状態です)

ただね、本人の頭の中では、ずーっと
一貫したテーマがあって、そこに基づいて
いるので、自分なりに筋は通っているとは
思っています。

うちの家は真言宗なので、
宗祖といえば空海ということになるのですが。

果たしてあの方は本当はどういうことで
出家をして、密教の道を択んで、
どのようにしたかったのか、ということを
知りたい、と思っているのです。

そうした時に、空海の思想について
書かれている本を見てみると、
当然のことながら高野山大○の人であったり
東○の人であったり、するのですが、、。

確かに餅は餅屋で、真言宗の関係の人の記述は、
宗祖のことは詳しく書かれてはいますが、
やはり宗祖ですから、客観的に書けない。どうしても
特別視する、という部分がついてまわってしまう、
思います。

それから真言宗というのは、明治以降の近代化の過程で
本来の真言宗が持っていた呪術的な部分を
すっぱりと切り落としてしまったのです。

たとえば、明治になって、修験道は宗教とは
みなさない、あれはダメだ、禁止するという通達が
明治政府から出ます。それで山伏を辞めざるを
得なかった人たちが17万人いるというのです。
17万人、というのは、当時の人口からしても
すごい数だと思うのです。

そういう宗教の中の呪術的な部分を切り捨ててしまった、
というところも真言宗だけでなくて、今の学問としての
仏教学の過程の中にはあります。

その前の、仏教の古い形、というのか
原初段階はどうだったのか、という部分が、
なかなか見えてこないのです。

謙介は空海さんの本当の意識、
というものがどこにあったのか、を
知りたい、と思って、あちこち本をひっくり返して
いるんですけどね。


原典に行く、という当たり前の基本に戻る、ということですね。


ようつべを見ていたら、
犬養道子さんが鈴木大拙先生に質問をしている番組が
ありました。 なかなか面白かったです。


犬養さん、のっけからいきなり(お上品な物言いでは
ありますが、)直球な質問をしています。

「先生、宗教って、何でございましょう? 」
と聞きます。

対する鈴木大拙先生のお答えは、「無限への憧憬」
とお答えです。

今の世の中、科学が万能のように
思われているけれども、科学というのは
決して万能ではない、という指摘がその後に
続きます。

最初に司会の加賀美さんは犬養さんのことを
「敬虔なクリスチャン」と紹介していますが、
付け足しておきますと、
犬養さんはカトリックの信者さんです。


謙介は犬養さんとは3年間、同じ職場にいましたから、
こちらから直接それこそ直球な質問をぶつけたり、
犬養さんからも考え方を聞きましたけれども、
カチカチのキリスト教徒というのではなくて
ものすごく柔軟な考えでもってカトリックの信仰を
とらえているなぁ、と感じました。

朝と夕方にそれぞれお祈りをする、ということに
なっていても、わざわざ仕事とか用事をしているのに
それを中断してまで、お祈りをしなくったっていいのよ、
それでもって信仰がどうだこうだ、と言うのでもないでしょうに。
そんな話を謙介に話してくれたことがありました。

そういう柔軟性は、犬養さんの性分なのかもしれませんし、
加えて、カトリックの信仰が普段の生活の中にある
ヨーロッパでの暮らしが長かったから、かもしれません。


犬養さんとの話は、もちろん謙介の専門の
記紀神話・記紀歌謡から始まったのです。
当然記紀の中には、現在の科学万能という考え方からいえば
そんなこと有り得ない、という伝承が数多くあります。

ただその一方で科学がすべてではなくて
人間の中にはそういうふうにすべて科学で
解決がつく、ということばかりではないし、
その解決のつかないものこそ、宗教が担う
役割なのだ、という話をよくしていました。


阪神淡路大震災、東日本大震災、先日の熊本地震
で多くの人が亡くなりました。

そのことについて、宗教はどれだけご家族を亡くした
かたがたの気持ちに沿おうとしているのか。

まだ行方不明のままの
奥さんがある晩に夢枕に立った、という経験をされた
ご主人がいます。

その奥さんの霊ということについて
今の仏教はどこまでそのご主人の気持ちに寄り添えるのか。
寄り添おうとしているのか。

鎮魂儀礼、ということについて謙介は
卒業論文の中で考察しました。
修論では六国史の中の死に対する
表記意識について考えて、そこから当時の人が死について
どのような意識を持っていたのか、ということが
テーマでした。
なんだかずーっとそういう人の死、ということを考えてきたように
思いますが、そういう人の死とか鎮魂ということについて、
今の仏教はどれほどの答えを持っているのでしょうか。


もうすぐお盆の時期になります。
亡くなった方の霊が戻ってくる、と
言われます。

でも、ここで何度も言っているように、
仏教系の大学とか、東洋哲学としての仏教学で
学ぶ仏教と、お彼岸とかお盆、というような一般の
庶民が思っている仏教とはものすごく大きな開きが
あります。 

お盆やお彼岸については、
学問としての仏教学ではないから、という理由で
授業としては教えません。


しかし、さはさりながらです。
先日もダッカでテロがありましたし、今日だって
フランスであのような事件が起こりました。

また、戦乱とか天変地異で
家族が行方不明になったり、亡くなった家族が
いるという人、その家族の霊を慰めたいが
どうしたらいいのか、誰にそれを頼んだらいいのか
困っている方はとても多いように思うのです。

そうした魂の救済とか鎮魂儀礼というのは、
今までの宗教が学問としての宗教哲学へなっていく途中で
放棄してしまったり、ないものにしていった部分です。

でも、これからの宗教ということを考えるときは
こうした人の気持ちにどれだけ寄り添って
たましいの救済ができるのか、
生きている人と同じくらい、
亡くなった人のことも
宗教はもっともっと考える必要が
あるように思います。

途中から空海さんから今の宗教の話に
移ってしまいましたけれども、、、。

これからの仏教とか宗教を考えるときに、
今まで行ってきていた、西洋哲学に対応するための
東洋哲学とか、仏教学といったような方向性や、
科学では説明のつかない、
魂の救済・鎮魂というような部分についてこそ、
宗教が何とかしないといけない領域ではないのか、と
思うのです。

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