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15. 11. 18

ニッカリ青江(その2)

前回に、擬人化されているニッカリ青江をお見せしましたが、
ニッカリ青江の実際の写真はこれです。
(何せ書とか絵と違って刀剣なので、写真なんて撮り放題)
おまけに他の展示物はなかったのに
ニッカリ青江だけスポットライトが当たっていました。

Aoe1
学芸員の方に聞くと、今は展示されているので
そういう問い合わせはないそうですが、この資料館で
展覧会があるたびに「ニッカリ青江は展示されますか?」
というような問い合わせがいつも多く寄せられるそうです。

Aoe2

備中青江派の刀工・青江貞次の作とされるもので、
元は2尺5寸(約75cm)の太刀だったそうですが、
時代を経る間にいろいろと変遷があって今では
1尺9寸9分の脇差、ということで、伝わっています。

名称の由来は、にっかり笑う女の幽霊を切り捨てて、
翌朝確認をしたら石灯籠が真っ二つになっていたと
いう伝説から、だそうです。

斬ったとされる武士は、いろいろと説があって、
明確に特定することはできていない、(そりゃまぁねぇ)
そうです。それから柴田勝家に所有が移って、
子の柴田勝敏に委譲されました。
さらに勝敏を討った丹羽長秀の所有となって、
長秀から豊臣秀吉に献上され、徳川家と豊臣家の
一時和睦を京極家がうまくまとめた経緯があって、
その手柄として、子の豊臣秀頼から
京極家が拝領することとなった、という説明でした。

その後近代になって、京極家がこの名刀を手放して、
国内の刀愛好家の所有で転々とした時期も
あった、と聞いています。その後、最近(1997年)
丸亀市がこの京極家ゆかりの刀を買い取って
現在に至っている、とのことでした。

見ただけでも素晴らしい刀で、
名刀だといわれるのが、分かりました。
この日も何人かの刀剣子女(っていうんですかね)
の人が来ていて、この刀について、
館内のガイドさんに熱心に質問をしていました。

さて、見学も終わったので、今度はお城にのぼってみることに
しました。
資料館の建っている場所は、藩政時代は、御殿のあった
場所だったのですが、御殿は明治2年に火災で焼失して
しまったので、今は芝生の植わった公園になっています。
ただその公園のいりぐちには、かつての御殿の門が
今もこうして残っています。
Gotenmon


一旦、お城の前景を撮りたかったので
大手門から外に出てみました。
現存の天守閣の中で、一番小さな天守閣が
山の上に建っています。
Oshiro1
最初、この丸亀にお城を築いたのは
生駒氏だったのですが、生駒騒動の結果
転封になって、その後、山崎氏が入城しました。

従来の説は山崎氏時代は、城の南側に大手門があった、
と言われてきたのですが、近年の調査で、
最初からこのお城の北側に大手門があった、
ということが分かってきました。
山崎氏は、後継ぎがいなかったために
お家断絶になってしまい、その後京極氏が
入って明治維新まで続きました。
さっきお話したニッカリ青江は、その京極氏の
所持していた名刀だった、ということです。

このお城は、石垣の髙さ、雄大さが素晴らしいと
ということで有名です。ということは、石垣が
髙いところにある、ということで、それには
のぼらないといけないのですが、、
(前に一度ここに来た時のことをアップしましたよね)
今回、また上ったので、新しい視点で書いてみたいと
思います。)
お城登山のお話は次回にて。
きょうはここまでといたします。

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