« 天下分け目の結願・卒論ツアー(その3) | Main | 天下分け目の結願・卒論ツアー(その5) »

15. 11. 06

天下分け目の結願・卒論ツアー(その4)

1日目の晩はぐっすりと寝られました。
旅館の横が高野川(たかのがわ)なので、
川音がずーっとしていたのですが、
前日の朝早かったこともあって、ぐっすりと寝ていて
そんな音なんて全然気になりませんでした。

朝はバイキングスタイルの朝食でした。
7時半過ぎにレストランに行き、食事をして
部屋に戻って8時半に出発です。
旅館から北山通りを西に走り、ダム女
(京都ノートルダム女子大学)の角で左折して
河原町通りを南に。
洛北高校前や下鴨神社の西側を走って
出町(河原町今出川)の交差点を右折して
今出川通りを西に行きます。
烏丸今出川近くの駐車場に車をとめたのが
8時55分でした。
そこから歩いて、、、ここに来たのが
ちょうど9時でした。

今の時期、京都市内では
日頃公開していない文化財の建物を
期間限定で公開しています。

いくつかの寺社でも公開があったのですが
今回はここにしました。
冷泉家です。
Reizei1

冷泉家の公開は、
ほかの非公開特別展覧の寺社よりも
非常に短くて4日間しかありません。

たまたま公開初日に間に合ったので、
めったに見られるものでもありませんし、
出会えたタイミング、本当に良かったです。

Reozei2
冷泉家は藤原為家(藤原定家の子)の子である
冷泉為相(母は『十六夜日記』の著者である阿仏尼)が創始した
家です。

藤原定家の子孫は、定家の孫の代で
御子左家(みこひだりけ、と読みます。
=二条家)から京極家・冷泉家が分かれ
三家となったのでしたが、
京極家は早くに断絶してしまい、
嫡流の二条家も室町時代に断絶してしまいます。
(歌道の家元としての二条派は三条西家他が相続)。

冷泉家は当初は定家の嫡流子孫ではなかったのですが、
結果的にほかの2つが絶え果ててしまったがために
冷泉家だけが残ることとなりました。

それと今に続く、ということと、お公家の家として
明治以後も動いていないので、結果的に
ここのお蔵には非常に貴重な資料が残ることに
なりました。

明治天皇が東京にお遷りになってからも
冷泉家は京都留守居役としてこの地にとどまったために
関東大震災にも、東京大空襲にも遭わずに今に
貴重な資料を遺すことができました。

お蔵の中には、国宝だけでも、
定家さんの筆による古今和歌集1帖 
附:後土御門天皇宸翰消息・
後柏原天皇宸翰詠草・後奈良天皇宸翰消息1巻

同じく定家さんの書いた後撰和歌集(藤原定家筆)1帖

拾遺愚草(藤原定家自筆本)3帖 附:草稿断簡1幅
定家の自撰歌集。

古来風躰抄(藤原俊成自筆本)2帖

明月記(藤原定家自筆本)58巻1幅 附:補写本1巻、旧表紙(10枚)1巻

があります。

謙介は主専攻は上代文学でしたが、
副専攻は新古今和歌集でした。

このお蔵にあったのは古今集関係の史料でしたが、
古今集から新古今に至るまでの勅撰集にはどのような変遷
があったのか、とか、どういう技巧の変化があるのか、
ということは頭に入れておかなければならないので
やはり古今集もきちんと見ておく必要があったのでした。

というのか、国文科に居たら、1つの時代だけ見る、というのはダメで
どの時代の日本文学も
まんべんなく見ておかないといけないんですけどね。

ちょっと見にくいのですが、瓦に「玄武」が乗っています。
御所の北側ですからね。
Reozei3
御所に近かった、ということは、この建物は
蛤御門の変も知っている、ということですね。

ドンパチやった時の砲声もこの建物は知っている、
ということですね。御所の北側でしたから
門の前を新撰組の人間も行き交ったことでしょう。

冷泉家の邸内は写真撮影禁止ということでしたので
写真がありません。
(冷泉家はお公家の中の位からいえば
そう上の家柄でもありません。それに江戸末期になると
天皇家でさえ生活は相当に困窮していましたから
お公家さんの暮らしはもっと困窮していました。
お金に困った下のほうの位の低いお公家さんは
位階をお金持ちの商人に売ったりしていました。
そのため八百屋のおっさんがある日、従7位とかの
お公家さんの位を持つとかいうふうになることもありました。

冷泉家は、まんなかくらいの格でしたから
売位売官までは行かなかったのでしょう。

やっぱり髙い位のお公家さんということでいえば
鷹司家とか二条家になりますよね。冷泉家のこの屋敷も
お公家の屋敷としては、そう大きなものでもないように
思いましたが、それでも現存する公家屋敷としては
大きな意味があるとは思います。)

明月記とか古今集定家自筆本のおさめられていた
お蔵も外から拝見しました。(お蔵の中はご当主しか
入れないそうです。)

おもしろかったのは、右近の橘に対して左近の梅が
植わっていたことです。もともとは梅が正式だったの
ですが、日本風にアレンジされていつしか左近は「桜」に
なっちゃったわけです。冷泉家は詩歌を尊ぶ家柄ゆえに
もともと中国から伝わった通りの「左近の橘・右近の梅」
としている、とのことでした。

見学を終えたので、今度は洛北の曼殊院にもう一度行こうと
いうことになりました。 

Manshuin

なぜかと言えば「古今集」つながりなのです。
曼殊院にも曼殊院本古今集が蔵されています。

曼殊院本古今集はかな書の名品です。

今、京都で琳派の展覧会をやっていて、
そこに書の作品も展覧されるのは知っていましたが、
正直言って↓な書に謙介は何の魅力も感じないのです。
Rinpa

墨を下品にべたべたとつけて書いただけ。
墨の潤渇もなければ線の変化もない。

江戸時代にこの書体が中心になっていって
御家流の書を創りだしていくことになるのですが、、
線と言えばただただ野太いだけ。野太い字で書いたから
変化を持たせられなくなって、字形をデフォルメ
するような方向に持っていっている。
(変化を持たせるにはそれしか方法がないですからね。)

謙介の習った上嶋先生の口癖ではありませんが
ホンマにうんこみたいな字や、としか思えないのです。

それで言えば、曼殊院古今集は、作品そのものは
本当にさりげないものです。
変にデフォルメしたような派手さは全くありません。
Bc30fd82bd


ですが良く見て行くと連綿の
美しさ、墨の潤渇、線の性質、どれを
とっても書いた人のテクニックのすごさに
感嘆してしまいます。

曼殊院古今集は高校で書道を取った
生徒のかな書の練習の時の入門書で
よく使われることの多い法帖です。
基本的でありながら、その字を研究していくと
いくつも新たな発見があって、滋味深い
作品だなぁ、と練習するたびに思うのです。

曼殊院でガラスケースに入った作品を
見ることができて、本当に素晴らしい
時間を過ごすことができました。

それに尾形光琳とかの作品、前に変なところで
1度まとめてみたことがあります。
変な、っていうのはニューヨークの
メトロポリタン美術館なんですけど。(笑)
たまたま行ったときに日本美術のまとまった
展覧会をしていて、そこで見ることになって
しまいました。 その時はなんでニューヨークくんだりまできて
日本美術の名品を見ないといけないんだ、とか
思いましたけれども、今にして思えば
所蔵もいろいろな美術館のそれぞれの名品を
一度に見ることができて、それなりに良かった
と思いました。

なので、光琳の系統といっても、
あまり大して食指が動きません。

さて、ゆっくりと見ていたらお昼前になりました。
食事は、、いろいろと考えたのですが
船岡東通りのてら食堂にいくことに
したのでした。

|

« 天下分け目の結願・卒論ツアー(その3) | Main | 天下分け目の結願・卒論ツアー(その5) »

おでかけ」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91870/62608337

Listed below are links to weblogs that reference 天下分け目の結願・卒論ツアー(その4):

« 天下分け目の結願・卒論ツアー(その3) | Main | 天下分け目の結願・卒論ツアー(その5) »