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15. 07. 01

古墳現地説明会

今回、実家の街の県西部の古墳群が国の史跡になりました。
それを記念して6月の27日・28日の両日、古墳の現地説明会
があったので行ってきました。

謙介の専門は上代文学です。
歴史学では飛鳥・奈良時代の歴史は
古代史と呼んでいますが、文学では古代ではなくて
上代と呼びます。「上つ代(かみつよ)」なので
上代です。

具体的には万葉集とか記紀(古事記・日本書紀)
の歌謡の成立事情の分析です。

そうした論文を書く場合、考古学とか古代史の研究成果を
論文の説明の時の証拠として用いることも結構あります。 
そういうことをするので、ゼミで発表をすると
お前は史学科の人間か、とかよく言われました。

上代文学って、中古文学(平安朝)と合同の
発表をさせられたんですよね。 中古はそりゃあ
枕草子だの源氏物語とありますからね。
ぶつぶつ。

謙介は大学の時のアルバイトでも
遺跡の調査をしたりしていましたから。
だって京都なんて掘ったら遺跡が出てくるんだもん。(笑)


それはともかく。

学問の調査をするときはやはり現地に行くことですね。

博物館や美術館で、展覧会の展示だけを漫然と見ていたのでは
分からないことがたくさんあります。


古墳の石室の展開図があったとしても
実際にその場所に行って、石室そのものを見た印象と
写真では全然違う、などということはしょっちゅうあります。

Kohun


おもしろいのは、この地区に数百メートルの間隔で
椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳と
3つの古墳が一直線上に並んで作られて
いることです。


ただ、こうした一直線上に古墳が並ぶ、というのは
ほかにも例があります。
大阪の羽曳野の古市古墳群と、堺の百舌鳥古墳群
は、まっすぐな道(竹内街道)上にそれぞれあります。

E02
(百舌鳥・古市古墳群のサイトから引用しました。)

今回見た3つ並んだ古墳というのは
おそらく南海道沿いに古墳が3つ並んだ、
という状態だったのだろうと考えられています。


南海道という当時の
主要幹線道路わきに3つ古墳を作ることで
その地域の支配勢力の権勢を示す
意味があった、ということでしょう。


この3つの古墳は6世紀末から7世紀初頭にかけて
築造された、と考えられています。
古墳の築造時期から行くと、
もう遅い時期なので、大きな古墳では
ありません。

ですが、石室の大きさは結構大きかったです。
ただ単に棺を安置するためだけにしては
非常に広い空間になっていました。

高さは1.5メートルとそう高くはなかったですが
(でもこれは長年の間に埋まった可能性はあります)
奥行きは12メートルくらいありましたから。

現地にいた市の教育委員会の人にいろいろと
質問してみました。

石室の中の棺はどんなものだったのですか、と聞くと、
それが石棺でなかったとのことでした。

石棺でない場合は、木棺もしくは石の台の上に
直接亡骸を安置するという方法がありますが、
金属製の金具が出ているとことから木棺であったの
だろうということでした。

副葬品は? と尋ねますと
この古墳は街の中にある古墳なので、、
ということでした。

そんなもの盗掘しようと思えばいつだって
できますからね。副葬品の出土はなかった、
とのことでした。ただまぁ、埋もれている可能性は
否定できない、ということでもありました。

この古墳の石室の作り方、
古墳の築造方法は九州の影響を受けている
ということでした。
石も九州の石が使われているとのことでした。

そのうちのひとつ平塚古墳の石室です。
Hiratuka


昔は交通機関が発達していなかったから
人の移動は限定的だったというのは大きな
間違いです。

日本国内だって、香川の一地域でしか産出されないi石が
長野の遺跡から出ていたりします。

朝鮮半島との交易だってありましたし、
中国沿海だって交易があったでしょう。

そう思っていたら
今日はこれまた驚くようなニュースが
ありました。この古墳から北東に10キロほど行った
古墳から発掘されたガラス玉が、ササン朝ペルシャで作られたものだった、
ということです。

ペルシャで作られたものが
はるばると四国の田舎の
古墳に副葬品となって埋められていたのです。

まぁいろいろな人の手に渡り渡って
ここまで来たのだろうとは思いますが
昔は交通機関が発達していなかったから
人の移動も限定的だった、ということは
決してありません。


さすがに今と同じようにとは無理でしょうが
結構頻繁に人の移動や行き来はあった、
と遺跡の発掘物が物語っています。


それからこの古墳については、九州の影響とのことですが
県の中部から東部は畿内の古墳の影響が知られています。
こんな日本で一番狭い都道府県なのに、
西と東で文化圏が違っていたようで、、。
興味深い現地説明会でした。

何せ午後4時までの古墳見学会だったのに
実家でいろいろと用事をしていて
すっかり出発が遅くなってしまって
古墳に着いたのが、3時30分でした。
なので、写真もろくに撮らず、中の様子を
見てきた、ということだったのです。


駆け足で3つの古墳をめぐって
いろいろと見学することができました。


(今日聴いた音楽 水色の雨 1978年 
 八神純子 音源はLPレコード 
 Jyunko the Bestから)

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Comments

古墳は夢を掻き立てられますね。
こちらには古墳らしい古墳がなく、いくつかの貝塚が残っているぐらいです。
艦砲射撃などで地面がえぐられた場所は遺跡のほとんどが破壊されたと思われます。

幼い頃に鹿児島でヒコホホデミノミコトの古墳を見たことがありました。
なにせ小学生ぐらいでしたので、「丘だなぁ」と思ったのを覚えています。
古墳、といえば「仁徳天皇陵」を習っていた頃ですから、想像できないぐらい大きい物だと思っていました。

古代と現代が入り交じる日常があることを羨ましく思います。

Posted by: タウリ | 15. 07. 03 at 오전 10:30

---タウリさん
小さい時から祖母に連れられて
お寺参りとか、祠に連れていってもらった
いたのですが、大学に行って民俗学や史学科の先生、友達に出会って話をするように
なって、そうしたものが古代の遺跡だったり
したことを知りました。高校の日本史で
少しはしていたのですが、もっと身近で
専門的に「~はそういう意味やで」と
教えられて、「そうか」と知ったことが
多かったです。(もちろん場所が京都
だった、ということも大きいと思いますが)
でも謙介から言うと、沖縄は
古代伝承とか習俗が数多く伝わっていて
そういう宝庫のような素晴らしい土地だと
思います。(これを維持するご苦労も
本当に大変なことだとは思いますが)
またいろいろと教えてください。
よろしくお願いいたします。

Posted by: 謙介 | 15. 07. 05 at 오전 9:38

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