最期の串カツ
先日、実家に戻った日の晩、テレビを見ていたら
旅番組の再放送(だと思う)で、大阪の新世界の
ジャンジャン横丁が出ていた。
謙介がはじめてあそこに行ったのは
小学校の2年くらいの時だったと思う。
友達から通天閣に行った話を聞いて
両親に「通天閣行きたい」と話したことが
きっかけだった、と覚えている。
何せあのころはまだのんびりとした時代で。(笑)
地下鉄の御堂筋線の電車が4両編成でゆっくりと
走っていた時代だった。
あれは夏休みに入ってからだと思う。
梅田まで阪急で行って、梅田から地下鉄に乗り換えて
動物園前まで乗って、地上に上がってジャンジャン横丁を通って
通天閣に行ったのだった。
ジャンジャン横丁は
京都の寺町とか新京極に比べて道幅の狭い
アーケードの通りには、パチンコ屋とか食堂、
串カツ屋、将棋の店、碁会所とか
自分の見慣れた商店街にある店とは
全然違った種類の店が次から次へとあらわれて
それが子ども心に、不思議と言うのか
おもしろい、わくわくしたような感情を
どんどんわきおこさせるのだった。
今のジャンジャン横丁、以前に比べて人通りが
減ってしまったなぁ、とやはり思う。
昭和40年代ってもっともっとにぎやかで活気が
あった気がする。
この辺に来たら、やっぱりお約束で
串カツを食べる、ということになるのかなぁ。
テレビの旅番組も、女性のレポーターが
繁盛しているお店に入っていって
カウンターで、串カツを食べて、というシーンが
あった。
オフクロが「私は小さかった時には、父親から
串カツはあかん、て言われて絶対に
食べさせてもらえなかった」と言った。
「どうして? 」
「不衛生やからあかん」と言われて。
昔の飲食店って、そういう衛生面って結構
いい加減だったこともあるし、自分の娘を
大事にするあまりの発言だったのかなぁ、
と思ったりした。
でも新世界の串カツって、戦前からあったんだ、
そのころから、二度づけ禁止、って札は出てた
らしい。
それでオフクロが言った。
「せやけどな、おとうちゃん、最後にまた
新世界に連れてきてくれてな。」
母方の祖父は、オフクロがまだ小学校の2年生の
時に結核で亡くなった。
病気がずいぶんと進行して、多分もう自分は長くは
生きられないだろう、と思ったのだろう。
ある時、オフクロと一緒に新世界に行ったのだそうだ。
そしてあれほどダメ、と言っていた
串カツ屋に入って
娘に串カツを食べさせた。
もちろんずっと禁止されていた串カツを
食べさせてもらえるとあってオフクロは
喜んでその串カツを食べた。
そしてオフクロがすっかり食べ終わった最後になって
オヤジさんは
「もうこれでええか?」と言った、という。
「うん」
それから5か月後、オフクロのオヤジさん、つまり
謙介の母方の祖父は亡くなった。
「私はあのときの
おとうちゃんの声と表情を今もはっきりと覚えてんのよ」と
オフクロは話してくれたのだった。
(今日聴いた音楽 合唱組曲 チコタン
大阪ことばの歌としては「ボクたち大阪の子どもやでェ」
もあるんですが、こちらの歌もいろいろと考えさせられる
歌です。)
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