« 高野山へ(5) 奥の院・お墓めぐり | Main | 高野山へ(7) 高野山から四国へ  »

14. 09. 30

高野山へ(6) 奥の院にて

金剛峰寺を見学し終えたのが1時すぎでした。
頭の中で後半の見学の時間配分を考えていました。
奥の院発のバスが16時5分だったので、
遅くとも16時までには奥の院のバス停に行っておかないと、
と思いました。
高野山の町内を歩いて奥の院の入り口までが、2時くらい。
奥の院の見学で2時間は取って、と考えるとだいたいこんな
ものかな、と思いました。
実際お墓見学だけで、1時間はかかっていますもん。

いろいろなサイトを見ますと、
高野山の奥の院について、「死者の場所」と
書いてあるものがあります。

まぁそりゃお墓ですからね。

「死」とか「たましい」ということもそうですが、
ひとつ注意をしないといけないことは
この「死」について今の世の中の「死」の概念で
決して考えてはならない、ということです。
そういうサイトを読むと、死を今の考え方でしか
見ていないんじゃないか、ということを思います。


たとえば江戸時代の死罪だってそうです。
江戸時代に打ち首のある日は、みんなお弁当を持って
それを見に行っていたんです。露店まで出ていたそうです。
祖母が江戸時代に生まれたその母親から直接聞いた話です。

ですから江戸時代の打ち首獄門は娯楽という側面が
ありました。

でも、こんな娯楽だなんて言う考え方は
今の世の中の人には全然理解できないと
思うんです。 

死刑ですら時代によってこんなふうに全然違って
いたりしますからね。

ですから今の世の中の考えで死について
考えたって、それでは当時の人々の死に対する
考え方とは違いますからね。

人は亡くなって人としてのかたちは消えてしまっても
たましいは生きていると
考えました。
そのたましいのこもる山、というのが
霊山として有名な山でした。

もちろんこの高野山もそうでしたし、
熊野もそうですし、奈良の三輪山、
北陸の白山、鳥取の大山、
それから先日噴火した御嶽山もそうです。

御嶽山なんか嶽の前に「御」という敬称がついているではありませんか。
これこそ「祖霊である神がおいでになる山だったから」こそ
敬称がわざわざついている、ということですね。


高野山とか熊野という地域は
祖霊の籠る山としての信仰が
ありました。

ただ、空海さんがどうして高野山とか熊野、
という場所に着目したのか、といえば、
さまざまな要因がありますから、これという主因を
出すことは難しいでしょう。

そのひとつ、ということであれば、
霊山、ということもありましたし、
もう一つは不老長寿の薬である水銀、とか丹を
採るため、ということはあったと思います。

今も熊野とか高野山のこの地域には
「丹尾」ないしは「丹生」という地名があります。

読みは「にお」だったり「にう」だったりしますが、
これはその不老長寿の薬と考えられた
「丹」が出た場所でした。

そういう不老長寿の薬や「死から永遠の生」の場所として
求めたのがこの高野山だったり熊野だったわけです。


ですから高野山を「死」だの「命の滅びる場所」というのは
全然当てはまりません。 むしろ逆です。

死から不老長寿の秘法を行って永遠の生を受ける場所
それがこの地でした。

確かに人間の生としての営みは死亡、
ということで、終わりにはなりますが、
そういう祖霊の籠る山では、たましいとしての
活動が活発であると考えました。
どういうことかと言えば、目に見えないたましいとは
なったけれども、そのたましいとして、祖霊の籠る山であれば
元気に活動できる、と考えたのです。

霊として元気に生きていって欲しい、
それができるのが、高野山とか熊野、という場所で
あり、三輪山とか白山、御岳山も
そういう性質の山だった、ということです。


その祖霊は、春になると山麓に降りてきます。
そのお迎えの儀礼が春祭りだったわけです。

それが証拠に、高野山の山麓の地域の家々では
5月になると家の軒に菖蒲を挿したり
木の枝を挿したり、天頭花という飾りを
造ったりしました。
これはみんなそうした祖霊の依代、として
造られたわけです。

そうして秋になると再び山に帰っていく。
そのお見送りの儀式が秋祭りだった、
ということです。

そういうふうにたましいは時期によって
移動するのです。

ひとまずお墓というのは造ります。
しかしそれはのちの人がそこに行って、たましいを礼拝するための
何かしらの施設を造らないと、ということで
造ったものでした。
 
そういう古代の人たちの生命観とか死に対する考え方っていうのを
きちんと知った上でないと。

今の人の死のイメージだけでそういう昔の
お墓を見たって誤解するだけだと思うんですけどね。

Okunoin2


これは御供所、奥の院の御朱印、お札などはこちらで。
Okunoin3

水向け地蔵ですね。
ここで、水塔婆(経木塔婆ともいいますが)をお供えして
その塔婆に水をかけて供養します。
Mizumukejizo
この橋を渡ったところにみろく石があって、、
善人は石は軽く感じて持ち上がるし
悪人は重く感じて持ち上がらない、ということでしたが、
謙介なんてへろへろの病人ですから、持ち上がるなんて
とんでもなくて、、。(笑)

ここから先は弘法大師の御廟ですから写真撮影は禁止です。
ここに祖母と母方のおばの遺骨が納骨をしています。
ようやっとおまいりに来ることができて、少し肩の荷がおりました。
Okunoin4

後、頌徳殿で、法話を聞きまして、出たら3時半でした。
我欲を抑えるということについて。
なかなか人間、我欲を持たずニュートラルな
状態に常に置くというのは難しい選択ですね。
お坊さんは、人生は失敗の連続かもしれません。
でも、失敗したらまた立ち上がってください。
失敗したなぁ、と思ったら一度高野山に来て
人生をリセットして、また新たな道をはじめてくださいね、
という言葉で終えられました。

謙介がこの前、高野山に来たころは、
まだいろいろなものについて希望があって、
人生これから、という頃でしたもんね。
変わらない、どっしり動かないで存在するものがあるというのは
どこかで人間、ホッとする部分があるように思います。


奥の院のバス停近くにあったかさ國でお茶をしました。
かさ國の銘菓「みろく石」と焼き餅をお願いしました。
Mirokuishi1

何せ、ずーっと歩いてきたので、ホッとしました。
お菓子をいただいて、お茶を飲んだら、ちょうど4時です。
Mirokuishi1_2

バス停のほうに行きました。
名残惜しいですが、奥の院のおまいりもできたし、、
帰途につくことにしました。


今度はいつかのようにまた宿坊で1泊しなければ。


|

« 高野山へ(5) 奥の院・お墓めぐり | Main | 高野山へ(7) 高野山から四国へ  »

おでかけ」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91870/60371841

Listed below are links to weblogs that reference 高野山へ(6) 奥の院にて:

« 高野山へ(5) 奥の院・お墓めぐり | Main | 高野山へ(7) 高野山から四国へ  »