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14. 05. 11

みなさんの卒業した小学校にはプールはありましたか?

まず、はじめに、質問なのですが、
みなさんの卒業した小学校にはプールがありましたか?

謙介の行った小学校には、謙介が入学する数年前に
プールができていました。 
なので、小学校1年の時から、夏になると体育は
ほとんどプールで泳いでいたような気がします。

その次の質問です。

では、どうして各小学校にプールができたか
ご存じでしょうか?

これにははっきりとした理由がありました。


今日は5月11日。

Shiunmaru

1955年の5月11日の朝6時40分 高松港を出港して
岡山県の宇野港にむかっていた国鉄の宇高連絡船紫雲丸が、
出航後女木島沖で宇野港から高松港にむかっていた
下りの宇高連絡船の車両専門運搬船の
第三宇高丸と衝突して、5分後に紫雲丸が横転沈没した、
という事件がありました。


当時の宇高航路の貨客船はすべて中四国の山の名前から
取っていました。岡山県の玉野市の鷲羽山から鷲羽丸、
徳島の眉山から眉山丸、高松市の紫雲山から紫雲丸、という
具合です。

戦争直後のさまざまな物資や人の流れの急増で
それまで500トンくらいの小型船しかなかかった宇高航路は
一気に人の流れが増えて、定期便だけでは人を運べなく
なっていました。積み残しが出るのは常態化していて
新造船の就航が急務だったのです。

そんな折に、その輸送力の根本的な改善を目指して
当時の国鉄が無理やり借金をして宇高航路用に
作った船がこの紫雲丸をはじめとした3隻でした。

紫雲丸はこんな船でした。
Shiunmaru1_2


これが第3宇高丸です。
Daisannukoumaru

この第三宇高丸は1974年ごろまで就航していたので
カラーの写真が残っています。


写真は高松の栗林公園の入り口ですが
Riturin
この背後の山が紫雲丸の名前の由来になった紫雲山です。

市民にとっては小学校の遠足やハイキングで
行ったり、中には毎日健康のために登る、という人も
いるくらいで、非常に親しまれている山です。

紫雲丸の横腹に
第三宇高丸がぶつかったために
紫雲丸の船の一部が裂けてしまい
そこから大量の海水がどっと入って発電装置が故障、
船内放送も他の部分への浸水を防ぎための防水扉も
動かず、瞬く間に横転沈没してしまいました。

今回の韓国木浦の船の沈没は船が沈没するまで
何時間もの余裕があったのですが、
紫雲丸の場合は、衝突から横転沈没までわずか5分しか
ありませんでした。

紫雲丸が出航した時の高松港は
濃霧注意報が出てはいたそうですが
向かいの女木島のいただきが見えていたそうです。

Takamatsuko

上の写真の赤灯台の背後の島が女木島です。

その女木島より
手前の高松港入り口の防波堤のこの灯台が霧で見えなくなると
停船勧告が出て、船の運航は停止になるのです。
(とはいえ、これは勧告、であって、一部の離島航路の
小型の船舶は航海していた、ということもありました。)


この辺の事情はなんたって
3年間その離島航路を使っていましたから、
その航路の船員さんから話はよーく聞いていました。


高松港から見て、赤灯台よりさらに遠くの女木島が見えた、
ということは、運航はできる視界が確保されていた、ということで
停船にまではならなかったのでしょう。

ところが霧というのは、局地的に霧がものすごく濃くなったり
薄くなったりしますよね。

視界がそれなりにあった高松港を出港して
すぐに急に霧が濃くなったのだそうです。

その時期の宇高航路はすでに上下の船の航路は
別になっていました。ですから理論上は
上り便のコースは上り便一方通行で、
下り便のコースは下り便の一方通行ですから
ぶつかるはずはなかったのです。

それで霧笛を鳴らしながら、レーダーによる航海を
続けていたのですが、、

レーダー画像の解釈を間違ったのか
紫雲丸は衝突の数分前に、左に舵を切って
しまいます。そこは下り便の航路でした。

そうして霧の中から紫雲丸のすぐななめ前に突然
第三宇高丸が現れることになってしまいました。
両船とも急に舵を切ったのですが、
惰力がついているために、急な方向転換はできず
そのまま両船が衝突してしまうことになった、
ということです。
Shiunmaru2
この事故によって乗船していた乗客の781名のうち
修学旅行の小中学生を中心とした
168名が犠牲になって亡くなってしまったそうです。

謙介が就職して離島勤務だった時に、島の漁師さんと
たまたま紫雲丸の話をしたことがありましたが、
当時の漁師のベテランの人たちは、紫雲丸の救助に
向かったり、遺体の捜査活動を手伝った、という
話をしてくれました。


その事故の起きたとき、一度船外に出たにもかかわらず、
お土産を忘れた、と、言って、船内に戻ってしまったために
亡くなってしまった小学生もいた、と、聞きました。

あのころは、太平洋戦争終了後わずか10年でしたから
まだ日本は貧しくて、修学旅行に行くについては
親戚中から借金をして何とか旅費を工面して行った
という家庭も多かったのだそうで、そういう旅費を工面して
くれた人たちへのお土産を取りに戻らなきゃ、と
思って船内に再び入ったばかりに亡くなってしまった
という話を聞いた時には涙が出ました。

島の漁師さんから直接話を聞いた
あの当時でさえ、もうすでに事件から何十年と経っていましたが
なまなましい当時の事故の救助作業、遺体の引き揚げの話を聞くと、
事件は決して過去のものではない、
ということを強く感じました。

遺体は一見海の穏やかそうに見えるあの辺の瀬戸内海でさえ、
船が沈没したところから、4キロも東で見つかったのだそうです。

今回の韓国の沈没事故の遺体も、すでに事故が発生してから
数週間も経過しています。 あの船の周辺だけでなくて
もっともっと広範囲に探す必要があるように思います。

この紫雲丸の沈没の時に船長はそのまま船と
運命をともにしました。(翌日遺体がひきあげられました)

紫雲丸は1か月後、再びひきあげられて
徹底的に改造を行い、瀬戸丸と名前を変えて
就航しました。


その後は大きな事故も起こさず、
昭和41年まで就航しました。


そして、この紫雲丸事故で、多数の修学旅行の生徒が
犠牲になって亡くなったことで改めて「水泳教育」の重要性が
叫ばれ、全国の小学校で水泳の授業が必修、とされることになったのだそうです。


こうして日本全国の小学校にプールが作られる契機に
なった、ということでした。

もし、みなさんの卒業した小学校にプールがあった、とすれば
この事故があって、そうした必要性が生まれ、建設されたものだった、
ということです。


加えてそれまでは
どちらかというと、実効性よりもまだまだ夢物語の部分も多かった
本州と四国の連絡橋の必要が具体的に議論される契機にも
なったのです。


今日がその60回忌です。


今年は、先月、韓国の全羅南道で、あの事故が
あり、今なお行方不明で見つかっていない修学旅行生も
何十人といます。

そんなことがあって、今年はもう一度特に
あの事故のことを思い出したのでした。

(今日聴いた音楽 風が吹いている 2012年
 いきものがかり )

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Comments

この5分で全国の小学校にプールが…知りませんでした。
韓国の事故もなんだか、助かっていただろう人災で、やりきれなくなりますね…。

Posted by: ヨシヤ | 14. 05. 12 at 오전 12:15

---ヨシヤさん
今日の新聞に紫雲丸の慰霊祭が行われた、
とありました。この時期、朝、霧がよく
立ちこめるのですが、そのたびに、
この事故のことを思います。
まして今年は先月の韓国のあの事故の
直後でしたから、なおさらに思いだす
ことが多かったように思います。
事故、というものはこのような悲しい
人の犠牲をもとに、その反省・改善を
生かしていかなければなりませんね。
今年はいつにもましてそのことを
思いました。

Posted by: 謙介 | 14. 05. 12 at 오후 8:22

船舶事故はそう頻繁に起きるものではありませんが、漁船でしたら時々横波転覆がニュースになりますし、海難事故はやはり怖いものです。

沖縄では日本本土復帰後からプールの設置が始まりました。
ですから昭和47年以降ということになります。
それまではプールを設置していた学校は少なかったようです。
意外かもしれませんが、こちらでは「海にいってはいけない」と幼い頃教えられました。
何かの教訓かもしれませんが、元となった話は分かりません。
学校にもプールがなかったので、ある程度の年齢層からは泳げない沖縄県民が多いです。

私の通った小学校は斜面に建っていたため、一番上の校舎から下の校舎まで、5階程度の高低差がありました。
プールを設置できる面積がなかったため、体育館工事の際に1階プール、2階体育館という形で建てられました。
常に日蔭のため、夏でも寒かったです。
中学と高校にはプールはありませんでした。

痛ましい事故や喫緊の検討課題が起きたとき、それを放置せずに対処していくことは大切だと思います。
最近はちょっと行き過ぎだと思うこともありますが、過去の教訓が生かされずに次の被害を生むことのほうが損失・損害は大きいです。
どこを見回しても安全・安心ということはありませんので、できる改善はしっかりとしていくことが国から個人までの全てで大切なことだと思います。

Posted by: タウリ | 14. 05. 13 at 오전 11:54

---タウリさん
沖縄、ということで思い出すのはやはり
対馬丸のことでしょうか。あれは事故では
なくて、うちの祖父と同じく戦禍のため
ということですが、それにしても、あの
船の沈没の時も幼い学童疎開の子どもを
はじめ、大変な数の命が失われてしまい
ました。沖縄のビーチとかの写真を
見ていたら、本土の海水浴場のように
あんまりにぎわっているところがない、
というイメージがあるのですが、
そういうタウリさんのお話を伺うと
きれいな海だ! っていってうれしがって
泳いでいるのは、本土から来た観光客
なのかもしれないですね。
こういう事故・事件があった時に
その犠牲を教訓に生かして、ということは
やはりまず行わなければならないことですが、それも闇雲に対策を立てるのでは
なくて、人間無理をしたら続きませんよね。
どこを重点的に取り組んで、どこを
力を抜くか、ということもタウリさんの
お話から大切だなぁ、と思いました。
やはりそういう時にも、人間理解、
というのか、パニックになったら人は
どう動くか、どう慌てるのか、という
ことを知っていて、そうしたところから
対策を立てていく、ということが
必要なことだろうな、と思いました。

Posted by: 謙介 | 14. 05. 13 at 오후 10:35

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