« マスコミはもう少し何とかならないのか | Main | 治療日誌(第1週:2月19日~25日) »

14. 02. 27

元・軍事機密♪

先々週の水曜日のお昼休み、謙介さんは
あるところに電話をしました。 

電話の先は謙介の仕事場の街の気象台でした。
この気象台、先日の医療費補助申請に行った
役所のすぐご近所にあります。


お天気相談係の方が出たので用件をお話しました。

「すみません、1944年の7月1日の天気図は
そちらにありますでしょうか? 」
「古いものですからね。ちょっと調べてみます。」
ということで1週間してからもう一度かけてください、
ということだったので電話しました。

係官の方は「あります。」と力強くおっしゃいました。

そうして見せていただきに行くことになりました。
たまたまがんセンターに行く日だったので
1時間年休をもらって、いつもより早く仕事場を
出ました。30分ほどで気象台に到着しました。

身体の調子はこの日はたまたま悪くならなくて
セーフでした。 朝、起きて、その日の調子が
分かる、という感じです。体調は良い日があった、
と思うと翌日は急激に悪かったり、朝は良くても
午後から急変してしんどくなる、ということが
あって、もう本当にどうなっているのやら、、。

気象台の建物は、建物からして文化財です。


Kishodai1


庁舎の左側には、観測装置がありましたよ。

Kishodai3


ただ、もう今はこれらの装置は使っていなくて
ちょっと南に行ったところにノーベル賞作家ご卒業で
映画の「がんばっていきまっしょい」のモデルになった高校
ありまして、そこの屋上に観測機器が移転されています。
これは単なる「飾り」(笑)

中に入ってみます。看板は木彫り。
Kishodai2
内部の写真は撮りませんでしたが、
外観に負けず劣らずクラシックな建物でした。
いえ、もちろん建物はクラシックですが、
そこにパソコンが置かれたりしていて
機器は最新鋭でしたよ。(当たり前ですが。)

で、いただいてきたのがこれでございます。
1944年ですから、ちょうど70年前の天気図ですね。

Tenkizu1


1941年の12月8日から1945年の8月15日まで、
天気予報は一切新聞にも掲載されませんでしたし、
ラジオの天気予報も一切報道されませんでした。

台風が近づいてこようが、大雨が降りそうだろうが、
地震が起ころうが津波が来ようが
一切そんなものは知らされなかったのです。
気象情報は軍事機密でしたから。

そりゃそうです。その気象情報をもとに
敵国が空襲して来るときの参考にされたら
たまったものではありませんから。
気象情報は一切伏せられてしまったのです。

ですから気象は1日も休まず観測されていて
こうして天気図だって作られていたにもかかわらず、
一切普通の人々が知り得る、ということは
ありませんでした。

それは軍に伝えられ、作戦の資料にされるだけでした。

ですからこの天気図だって、当時の一般の人は誰も
見ていなかったものだった、ということです。

1944年(昭和19年)7月1日の日付があります。

Tenkizu2

謙介が必要だったのは、
実はこの日の木浦(モッポ)のお天気でした。
木浦と言うのは、韓国の全羅南道(チョルラナムド)
にある港町です。お妾さんとやくざが多いとこ。(笑)


当時は天気図は朝の6時と、夕方の6時の2回作成
していたとのことで2枚ありました。

この日の木浦のお天気は曇り。
朝6時は 北の風 風力3 気温は19度
夕方6時は 同じく曇り 西北西の風 風力3 気温は28度
とありました。


その日。
木浦の沖を南から北に真っ黒い煙を吐きながら
1000トンほどの貨物船が航海をしておりました。
九州から中国の大連に向かって物資を運ぶ貨物船でした。


船は何とか無事に対馬海峡を渡り、済州島の西を通って
木浦の沖に来ました。この辺は多島海(タトンヘ)という名前の通り
島の非常に多い海です。 

今であれば、島のない沿岸から離れた沖のあたりを
一気に北上するでしょうが、おそらくこのころは
米軍に少しでも見つからないようにするために
島の間をジグザグに縫いながら航海していったはずです。

その船は明治時代に作られて、
その当時ですでに建造後40年も経過しているような古い船でした。

その上に、当時の日本はそうした燃料資源がひっ迫していて
碌な燃料がなかったですから、
おそらく古くて走行性能の悪い、ただでさえ遅い
船足がさらに遅かった、ということは想像できます。
自転車よりも遅い時速10キロくらいで、
必死に走っていたのでは
と想像します。


そうして古い船ですから、
煙突から煙をモクモクと吐いていたでしょう。
もう船が走っています、なんていうのはバレバレです。

木浦沖を通過し、景色の美しい紅島(ホント)沖にさしかかったのが
夜の11時ごろです。
アメリカ海軍の潜水艦タングが、その船を潜望鏡によって
発見しました。このタングは、そのころ、この海域にいて
通過する日本の船舶を見つけては片っ端から
魚雷を打って沈めていたのです。


艦長のオカーンは、いつもと同じように魚雷発射を命じました。
そしてそれから数分後、発射された魚雷は
その貨物船に命中しました。

先ほども言ったような老朽船です。
おそらく命中するやいなや、船は爆発して
いくつかに分割されて
あっという間に、沈没したと思われます。

当時の輸送船の記録を見てみますと、もっと
大きな5000トンとか1万トンクラスの船でも
魚雷が命中して、船体が裂けると
船が沈没するまで一瞬で、
救命ボートを下す時間さえ無かったと
書いてありました。
 
船の沈没で溺死するより、船が爆発した瞬間に
その衝撃ですでに乗組員は亡くなっていたかもしれません。

記録には乗組員20人が犠牲になった、と
あります。
そうしてそのうちの一人が父方の祖父でした。

この天気図が作成されたのが夕方の6時ですから、
この5時間後に祖父は亡くなった、ということです。


祖父が亡くなった時の海の状態はどうだったのか
どんな天候の状態だったのか、それが知りたくて
気象台に行って天気図をもらってきたのでした。

(今日聴いた音楽 木浦の涙(モッポエヌンムル) 歌 李美子
 木浦の歌、と言えばこれでしょう。笑 後、『雨の湖南線』
 (ピネリヌン ホナムソン) というのもありますが。
 韓国で流行った流行歌として、最初に流行った、と
 聞いたことがあります。1935年の歌です。
 でも、この曲って、韓国音楽の音階でも
 なくて、どっちかと言えば日本のヨナ抜き音階の
 歌で、リズムも韓国のうねるようなリズムじゃなくて
 日本の小唄のような歌ですね。曲調は日本、歌詞は
 韓国、というような歌です。)

|

« マスコミはもう少し何とかならないのか | Main | 治療日誌(第1週:2月19日~25日) »

おべんきゃう」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91870/59112694

Listed below are links to weblogs that reference 元・軍事機密♪:

« マスコミはもう少し何とかならないのか | Main | 治療日誌(第1週:2月19日~25日) »