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13. 11. 14

瀬戸内国際芸術祭・秋会期:女木島・男木島編(2)

普通なら定期船で15分かかるところを
8分で男木の港に到着です。

途中、知りたかった人たちの
消息を聞こうとしたのですが、、
「○○さん、はー、
い、ま、どこに、住んで、いるんですかー? 」
「え? なにー? きこえんでー 」
「○○さんは、今、どこにおるんですか? 」
「聞、こ、え、ん、が。」
というので、船上の会話はあきらめました。
何せエンジンの音がすごいんです。
船はすごい勢いで波を蹴立てて走っていきます。

「ちゃんとつかまっとかな、船から落ちるぜ。」
と言われたのですが、
そんなもの、ぐわんぐわん揺れている船です。
言われる前から、ちゃんとつかまっています、って。

(と、いうふうにちゃんとつかまっていたので、
この8分間のデンジャラスな航海の
写真を撮ることができませんでした。)

船はあっという間に男木港に到着です。
いつもは定期船の乗り場に着くのですが
この日はその横の漁船の船溜まりなので、
いつもとアングルが違っていて、、

船に乗せてもらった○○さんには、感謝感謝です。
言葉はぶっきらぼうですが、よくよく話してみると
おもしろくてハートの熱いおっちゃんです。
何度もお礼を言って別れました。

そういえば、この島にいたときにも何度か乗り降りした
場所だったので、ちょっと懐かしい気がしました。

Gyoko

実はこの乗った船が
「瀬戸内国際芸術祭参加作品」だったのですよ。

男木の漁船のいくつかの船に絵を塗装しています。
これがチーム男気の作品。
Ogi


港のフェリー乗り場の近くに
地区の婦人会が作って運営している
お土産売り場兼食堂があります。
「こんにちわー。」
「あら、どしたんな。いつ来たん? 」と、
婦人会長の久美子さんが
大声で声をかけてきてくれます。

そりゃそうでしょうとも。
通常の船便で来たのではないのですから。

「女木におったら、○○さんに会って、
あんた、男木に寄らんと帰るつもりな、
と言われて連れてこられました。」
「そらそうじゃわ。」
「お昼は? 」
「もう食べました。」
「育つ子やけん、カレーくらい入るやろ。」
育つ子、ってあなた、、こんなおっさんを。

「いや、ほんまに。さっき、食べたけん。ええです。」
といって、「また帰りに寄ります。」と告げて
何とかそこから退出したのでした。なんだか本当に
お客さんが次から次へとやってきて忙しそうなんだもの。


男木の方言は高松の方言とも少し違っています。
対岸の玉野のあたりの方言のアクセントも少し
入っていて、、やはり島だけに
いろいろな場所の方言が混じった、という部分と
古い時代の言葉がそのまま残った、
と考えられる部分が混在しているように
思いました。

高松では「あなた」のことを「おまはん」というのですが
この島では「んの」と言います。

最近では「あまちゃん」のアキちゃんが
自分のことを「おら」と言っていましたが、
ウン十年前、この島に赴任してきたとき、
通りがかった島の中学生の女の子が
自分のことを「おら」と言っていたのは、
びっくりしました。

だからアキちゃんがおら、というのが、
ちょっと懐かしかったです。

まぁ、せっかくこの島に来たのですから、
やはり芸術祭見学の最後は、と思い
かつて自分がいた場所に行きました。

Michi2_1


行く途中で、芸術祭を見に来ている
何人もの人に会いました。
謙介がいたときなんて、島で住んでいた家から
仕事場に行くまでの間に、一人会えばいいほうでしたが、、。
もう向こうから普通に何人もの人が来るので
そのことにびっくりしてしまいます。


かつていた場所も、
たくさんの見学者でにぎわっていました。
係の人に無理を言って、自分が仕事をしていた
場所に座らせてもらいました。
そうそう、この机です。
椅子に腰かけて、机の周囲を見渡していると
いろいろなことを思い出しました。

一時は思い出すこと自体が苦痛で、
ここでのことを一切封印しようとさえ
思ったこともありましたが、、。
なぜ、嫌だったのか、
どこが嫌で封印しようとしたのか
ということを改めて考えたり、
ここを去ってから、今までの間に、
かつてここにいた時より
もっと理不尽なことも多々あって、
相対的にここにいた時のほうが
まだまし、と思ったこともあるかもしれません。

もちろん時間流れのうちの風化と美化も。
時は少しずつ自分の気持ちを変化させて
いったのです。

そしてまたこうして戻ってきた、というわけです。


Tukue

そうしていると、汽笛が聞こえてきました。
船がこの島に到着するときに、港の入口にある
ミヤマの前を通過すると、必ず汽笛を鳴らして
船が到着したことを教えてくれるようになっています。

汽笛を聞いた自分はそろそろ帰ろう、と思いました。
男木島の芸術祭展示は、春会期のときに
すべて見ているので、今回は省略です。

○口のおっちゃんは、船を出してもらったらええんや、
と言いましたが、定期便が来ているので
やはりそれで帰ります。
帰るから船出してくれ、
なんて図々しいことは言えません。

通常ならば、
島通いの船は11月1日から冬ダイヤになって
夏よりも1便減便されるのです。

都会にいたら1便減ったくらいで、と
思うかもしれませんが
島にいて、1便減ると、なんだか精神的に、
ああ、もう冬だと思って気分が暗くなりました。 
逆に4月になって
1便増えると、ちょっと気持ちうれしくなった、
ということがありました。

ところが、謙介の行ったこの日は、
11月でしたが瀬戸芸の期間中だったので
1便減るどころか大増発(笑)で。
やっぱり船の便が多いと
いいですね。


Keshiki
仕事場だった建物の玄関の戸を閉めました。
この写真の正面奥の島が直島です。
北西方向をみたところです。
この方向から冬なると
ものすごい風が吹き付けてきました。
建物の窓のガラスの代わりの
強化プラスチック製の透明な板が
内側にたわむのが
はっきりと目で分かるくらいの強風が吹きます。


上の写真の奥の島のその手前の海を
よく潜水艦が浮上して航行していたのです。
だから呉で潜水艦を見た時に、謙介は
珍しくもなんともなかった、というわけなのです。


さっきまでずーっと曇っていた日も
雲が薄くなって、その間から少し
陽がさしています。

「どうもありがとうございました。」と言って
そこを後にしました。

仕事の行きかえりに通った道です。
これが島のメインストリートです。
Michi2_2
この石垣の前あたりの道で
よくヒキガエルが出ていました。
この石垣の上は、謙介が住んでいたころは
花が栽培されていて、
その花を大阪とか神戸に出荷していたものでした。

しかし、今はもう止めてしまったのでしょうね。
かつてのお花畑も草ぼうぼうで荒れるままに
なっていました。

この日は幸いにもヒキガエルは出ませんでした。
あのカエル、何せ、棒でつついたって
飛びゃしません。
のそのそ、って這って前進するだけ。

ここに赴任する1週間前まで京都にいて
走り回っていて、はい、謙介さんはここね、と
言われて赴任したのがこの島だった、わけです。

ちょっと前まで都会の喧騒の中にいたのが、、
これでしたからねぇ、、。
もう本当にびっくりすることだらけでした。

その上、上司からは、
あれはしてはいけない、これもダメと言われ
逆に苦手なことについては、若いんだから、って
言われて用事を押し付けられて、、。

今になってみれば、ずいぶんとあれやこれやと
面倒な用事を押し付けられていたなぁ、
ということがわかります。
でもまぁ仕事だったのでちゃんとやりましたけれども。

毎日この家の前を通って仕事場に通っていました。
Tuta


あのころはこの家にも住んでいる人が
いたのですが、今では空家になった、と
聞きました。


帰りに、お墓の横を通りました。
道際の墓標をふと見たら、
そこにY口商店のおっちゃんの名前がありました。
平成16年 享年86歳。

そうか、そりゃそうだよな、、。
あれからウン十年だもの、、
おっちゃんも亡くなったか、、。

港は人でごった返しています。
本当にびっくりです。

帰りにもう一度婦人会のお店に寄って
挨拶だけして帰りました。

「また来まいよ。今度は(芸術祭も)終わっとるけん
ゆっきりできるわ。」
「はい。そうしたら、まぁみなさん、お元気で。」

Ogiko1
港の辺ですが、瀬戸芸期間中という
特別な事情はわかってはいても
何度見てもこの人の
すごさにびっくりしてしまいます。

船は乗ってきたお客さんを下ろすと、
今度は戻るお客さんを乗せます。
ふと操舵室を見上げると、、
操船していたのは、、こーちゃんでした。


あいつが船長か。だいじょーぶかねぇ、、。 
と一抹の不安が、(笑) でもまぁ事故を起こした、
という話は聞いていないので、
だいじょーぶであろう、(たぶん)と思い直して
とりあえず大勢の人とともに船に乗りました。


あのころのこーちゃんは小学校の2年生で
坊ちゃん刈りでした。

今は坊主頭になって容貌魁偉で
ぱっと見は怖そうなんですが、
話をするとやはり昔のこーちゃんのままです。

男木から300人は乗りましたから
どうせ船室に行っても座れないだろうと思い、
外のデッキにいました。
船はやがて時間が来て、船はゆっくりと島を離れていきました。

Miyamamae


あのころは、ああ、これで一週間が終わったなぁ、という
気持ちで開放感いっぱいの気持ちで乗っていました。
船はミヤマの裾をかすめて男木と女木の間を抜けていきます。


高見島の帰りにも思ったことですが、
Kouseki
この航跡を見ていると、あれからウン十年経ったのが
信じられませんでした。でも確かに振り返ってみたら
月日はそれなりに経っているのです。

現にこの船だってあの時小学生だったこーちゃんが
船長として操船しているわけですし、、。

船の航跡を見ながら、時の流れを思いました。
この島に通っていたのが、ほんの少しだけ前の
出来事のように思います。
でも思い返すと、時間は確実に経過しているのです。

この島を離れてから、思いもよらない展開がいろいろと
あって、そうしてまたあのころと同じように
船に乗って航跡を見ている不思議さを思いました。

やはりこの間の時の流れを感じました。
今までのこと、これからのこと、
いろいろと思いや感慨が
自分の中を過ぎていきます。


船はやがて女木に着き、また大勢の人を乗せると、
ごろごろというエンジンの音を響かせながら
動き始めました。

芸術祭の最後の最後に
「自分の社会人としてのはじまりの場所」に行くことができて
本当に良かった、と思いました。

船は再び出発した桟橋へと戻ってきました。
いろいろなところでいろいろな人と話をし
いろいろなものを見ることができた
今回の島めぐりでした。

Takamatuko1


機会があったら、また島に渡って今度は風景を楽しみたいと
思いました。


これにて瀬戸内国際芸術祭のご報告は終わりです。


長々とした話にお付き合いいただき
ありがとうございました。


(今日聴いた音楽  You Light Up My Life
 歌 Debby Boone 深夜放送で聴いて
 なんていい曲だろう、と思ってレコードを
 買いに走った、という曲です。)


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Comments

偶然ではない、何かの巡り合わせと言いますか、神様のご配慮だったのかもしれませんね。
春に引き続き、2度も減感作療法をしていただいたのですから。
謙介さんの仰る、「風化と美化」は人の心と記憶の整理整頓に必要な過程だと思いました。
上手くいけば思い出になりますし、そうでなければおぞましい記憶のままになります。
ヒキガエルに会えなかったのは残念でしたね。
季節的なものでしょうか?
小学生が操舵していると思うと確かに心配になります(苦笑)。
30歳と言いますと、年の頃もちょうど良い青年です。
皆、歳をとっているのですね。
今、職場がゴタゴタしておりまして、そのことと重ねると、「ステキに歳をとっていきたい」と思っているところでした(^^)。

Posted by: タウリ | 13. 11. 14 at 오후 10:08

---タウリさん
たまたま女木の港で、知り合いに会わなければ、そのまま船で帰っていたと思います。それが、そういうめぐりあわせで、もう一度男木に行く、ということになりました。謙介があっちこっちで島は良くなかった、と言い募るものですから、神様が「まぁまぁそういわないで。歳月も経ったことだし、、。」とお恵みをくださったのかなぁ、とも思います。
ヒキガエルは本当に外見もちょっと、、なので、遭遇しないほうがよかったのだろうと思います。タウリさんは今、本当に大変な時期でいらっしゃいますが、どうぞ、お体に気をつけて無理はなさらないようになさってください。いつも案じています。

Posted by: 謙介 | 13. 11. 14 at 오후 10:49

偶然なのか、必然なのか。
福助さんが休演みたいですが大丈夫でしょうか?松竹は相変わらず根本的対策をする気はないようですが、歌舞伎家と血と藝2回読んでも複雑すぎて…ただ最近養子が少ないですよね。今度悲劇の名門團十郎十二代を読もうかなと。
肌断食スキンケア辞めましたも読もうかと。無添加石けんとワセリンだけのスキンケアをしてるんですが調子が良いです。楽だしって今まで何やってたんだか。

Posted by: ゆき | 13. 11. 15 at 오전 11:56

---ゆきさん
お返事遅くなって申し訳ありません。
両親を連れて、金・土・日と西国巡礼・京都に行っておりました。
福助丈は、高血圧と伺っています。おそらくは、今年の初夏以降、ほとんどお休みのないままずーっと公演続きで、やはり疲れが出たのでは、と思います。あの方は1960年生まれですから、今年53歳でしょう。とすると、松竹が「中心となって働かないと」と陰に陽に言ったのではないでしょうか。それと来年の襲名です。全く「襲名ビジネス」でこれはいける、と松竹が踏んだのでしょう。将来的にはどうあれ、今の状況ですと、まだしばらく福助のままでいいではないですか。大体襲名などというのは、興行会社が決めるのではなくて、周囲のファンとかごひいき筋とかから、あの人であれば、というような意見が出たのを見計らって、興行会社が、それでは、とするのが普通でしょう。 昔は松竹なんて、分かっていても襲名させなかった時代もあるわけですが、 今やビジネスになると思っているのでしょうね。宝塚の各組のトップ交代ではないのです。宝塚は学校組織ですから、後から後から生徒が出てきて、ということがありますが、歌舞伎役者というのは余人に代えがたい、その役者ならではの味があるのですから。さきほども坂東三津之助丈の訃報でしょう。あの方だって51歳ですよ。本当に役者のみなさん、無理に無理を重ねてこられたのが、こういうふうなことで出てきているのではないでしょうか。心配でたまりません。
 歌舞伎の新書、は、ゆきさん、また1,2年くらいしてから、とか、折に触れて、見てみたらいいと思います。その間にゆきさんがいろいろと経験したり見聞していって歌舞伎の知識が増えたら、あ、ここはこういうことだったのか、と、発見ができます。最初は、「なんじゃこれは」というようなものですが、そのうち、あ、そうか、と気づかれる時が来ますよ。

Posted by: 謙介 | 13. 11. 18 at 오후 4:38

謙介さんこんばんは。
お元気そうでなによりです。
おすすめの本読み始めました。
本屋さんに行くのに一週間、本屋さんに届くのに一週間、読み始めるのに、、、。
今日露戦争開戦のあたりです。
中学生のころスペインがインカを征服した歴史を読んだ時に似た怒りを感じました。
私が怒っても仕方がないのですが、一つの文明を滅ぼす暴挙に対して許せない気持ちです。
日本側は歴史で習った人物が出てくるので何となくわかるのですが、韓国側は知らない人が多くて四苦八苦です。
計画が実現出来なかったときに「流産した」という言葉を読むと心がチクチク痛むのはやはり私が女性だからでしょうか。

Posted by: ラジオガール | 13. 11. 18 at 오후 9:52

---ラジオガールさん(ですよね)
そうですね。書店の面積も限られているので、最近は売れ筋とか新刊本・雑誌のほうを多く置きます。新書でも古い奴はみんな取り寄せですから、、。
ご紹介したのが、歴史をどちらの立場にも立たずに客観的に書いている点で評価できると思います。 日韓近代史はまだまだ非常に難しい側面があります。よく歴史的に言われる
創氏改名のことでも、歴史的に正しく検証されていません。たとえば昭和11年の当時の京城の写真を見ると、「金なんとか」とか「朴なんとか」さんの看板とか名前が出てきます。創氏改名が行われた後なのですよ。 普通に言われていることは朝鮮総督府が無理やり改姓させた、ということなんですが、実際はそうじゃないんです。家族制度をいじろうとしたのです。そこのところの研究の誤解が今もずーっとあって、、日韓の家族制度の研究者でもそういうことは理解できているのですが、どうしても民族意識と結びついてしまった人に、そういうことは違う、と言っても理解してもらえず、、という部分がありまして、、。本当に困ります。でもそういうふうに客観的に歴史を見ていくのは非常に大切なことと思います。 文中の表現、そうですよね。1960年代の学者さんですから、まだまだそうした意識について低い部分はありますね。

Posted by: 謙介 | 13. 11. 18 at 오후 11:02

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