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13. 11. 21

京の秋の旅(1)・おほへやまいくののみちは編(1)

今年の5月に引き続いて、
15日の金曜日から17日の日曜まで
両親を連れて京都に行ってきました。

京都へ行ったのは、紅葉を見に、というのと、
オフクロの古い友達に会いたい、
というのと、西国巡礼の旅です。
(ついでに謙介の友達にも会いましたが。笑)

今回は両親との3人旅でしたから、
バスではなくて自家用車のほうが便利だろう、
ということで、謙介が全行程を運転していきました。

高速道路料金は、5月以降のETCカードの
マイレージの積み立てが1万6000円分ありましたから、
それを充当しました。

今回の旅は、ほとんど京都の端から端まで行く旅でした。

1日目は四国を出発して、淡路島を通り、神戸から
舞鶴・若狭道を通って、天橋立まで行って、そこから舞鶴に
行って、丹波を通って京都市内へ。

2日目の午前中は庭の美しいお寺を二か所行って、
大徳寺の親戚の家に行き、午後は宇治の南の城陽市にある
オフクロの友達の家に行き、
帰りに錦市場で買い物をして旅館に戻りました。

3日目は旅館を出立した後、
兵庫県にある西国の札所を2か寺まわって
岡山・瀬戸大橋経由で戻ってくる、というルートです。
全行程のキロ数を計算しましたら、3日間で884.7キロ
走っていました。

出発は11月15日、金曜の朝6時過ぎでした。
あいにくの雨でしたが、予報では
次第に天気が回復する、ということだったので
大した雨具の準備もせずに(折り畳みの雨傘だけ)
予定通り出発しました。

途中淡路島で朝食と休憩のためSAに寄りました。

淡路島から、明石海峡大橋を渡って本州に入って
そのまま山陽道の三木ジャンクションまで走って
ここから神戸まで行き、中国道に乗り換えます。
中国道を西に吉川ジャンクションまで。

ここから北へ舞鶴・若狭道で綾部まで。
綾部からは京都縦貫道で
終点の与謝・天橋立まで行きました。 
到着は9時半過ぎでした。
四国から3時間半で天橋立です。

百人一首にあるように、
歌で令名の高かった和泉式部の娘の
小式部内侍は、歌はあなたが作ったのではなくて
おっかさんの代作でしょ、って言われて当意即妙に
「おほえやま いくののみちは とほければ
まだふみもみず あまのはしだて」

(大江山を越え、生野を通る(母のいる)
 丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を
 踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。)

と歌ったわけですが、
あの歌が出来てから1000年経ってしまいますと、
距離こそ平安時代も今も同じですが、所要時間でいえば
今や京都市内から天橋立までは1時間半ちょっとで行くことが
できてしまう世の中になってしまいました。

それでも丹後への道が良くなったのなんて
ごく最近のことなんですよ。

以前、謙介が学部生のころ、調査で
園部から宮津とか丹後半島の間人
(この地名、読めます?「たいざ」と読みます。)
まで行ったことがあったのですが、
あの時は園部から宮津まで3時間くらいかかった
記憶があります。


しかし今や
かつての園部から宮津までの所要時間で
四国から天橋立まで行けてしまうように
なりました。

道は混んでいるかなぁ、と思ったのですが、
混んでいたのは、中国道の神戸から吉川ジャンクションまでと
舞鶴・若狭道の福知山までの区間でした。
中国道は混むだろうな、と予想していて、
予想通りに混んでいましたが、

舞鶴・若狭道なんてすいすい走れるだろう、と思っていたのに
途中まで結構混んでいたのは意外でした。

今や四国からでも3時間半で宮津まで到達します。
なぜ天橋立だったのか、と言えば、
この近くに西国巡礼の札所が二か寺あったからです。
前回の時に、同じ京都の札所でも遠いから、と言って
行けなかったところだったのです。


京都縦貫道の終点の「与謝・天橋立」ICで降りて
海沿いに走ります。
四国を出たときから、場所場所で雨が強くなったり
弱くなったりしながらも、それでもずっと降っていたのですが
最後のトンネルを抜けると雨は止んでいました。


与謝湾沿いの道を途中から山に入っていってうねうねと走ると
到着したのが成相寺。

Nariai1

やはり丹後は秋が早い感じです。というのかもう初冬の感じでした。
(もちろんその後の冬の訪れももうすぐですが。)
紅葉がとてもきれいでした。

おまけに行った時は人がほとんど居らず、
ゆっくりと眺めることができました。
Nariai2


階段があったのですが、それとは別に緩やかな
スロープの道があったので、そちらを歩いて本堂まで
行きました。

Nariai3


本堂でお参りをして、御朱印をいただいて、また駐車場に戻り、
お寺の上の展望台まで行きました。
宮津の湾が一望です。

天橋立の眺望はもうちょっと下の傘松公園からの眺めのほうが
いいのですが、ここも結構良かったです。
曇り空で、視界はあまりよくなかったのですが
それが却って水墨画のような感じで、、。
なかなかよい眺めでした。

下の写真はわざと上下さかさまにして
「またのぞき風」(笑)にしてみました。
Amanohashidate

この辺の地理はオヤジが詳しいので、土地の位置関係については
全部教えてもらいました。
天橋立の奥が宮津。宮津は北前船の港町でした。

昔は大変なにぎわいのあった街で、船乗り⇒女⇒遊郭、
ということでここには、大きな遊郭があって、
「二度と行くまい丹後の宮津 縞の財布が空になる」
とまぁ歌われるくらいににぎわった街だったとか。
さすがにオヤジに「行ったの? 」とは聞けませんでしたが。(笑)

行くときに見ていたのですが、
帰りに寄ろうと思っていた、丹後の国の国分寺跡です。
Tanngokokubunnji


大体国庁とか国分寺というのは
その地方の平野の中心の少し小高いところにあって
その地方の土地を一望できるという場所に置かれました。

見る、というのは、古代においては単に景色を眺める
という意味ではなかったからです。

その土地を統治するための呪術的な儀式が「見る」
ということでした。また逆に土地の力をもらい、
その土地を治める力をより強くする、という意味もありました。
「国見」という峠の名前が今もあちこちに残っていますが、
昔はそういう「呪術的」な意味合いで、その土地を見た
だからこそ、今にそういう地名が残っているわけです。

単に普通に見ただけだったら、
「見たねぇ。」でおしまいじゃないですか。
その場所から見る、ということが「特別な意味」を持っているから
わざわざ地名となって今に残っている、ということでしょう。

仏教で国家の安寧を願い、国を治めようとしました。
ですから、国分寺はそうした朝廷が治めようとする国土が
一望できる場所とか、平野の中心になるような場所に
建てられました。

たとえば、総国分寺の奈良の東大寺だってそうですね。
東大寺の二月堂から、大和国原(やまとくにはら)を
見渡したアングルでの写真ってたくさんあると思います。
↓こんなの

Imagescacdiqtt

この丹後の国の国分寺も、小高い丘陵地にありました。
ここはウン十年前、間人からの帰りに寄った覚えがあります。
あの時のままの風景で、あ、ここに寄ったなぁ、と
思い出しました。

次の札所は東舞鶴の近くです。

ここから再び高速に乗って
綾部経由で東舞鶴ICまで行くことにしました。


(今日聴いた音楽 おおえやま
 歌唱者等 ライナーノーツなし)


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