« 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(2) | Main | 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(その4・了) »

13. 10. 17

瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(その3)

さて。板持集落跡からもとの浜集落に戻ります。
途中でクレーン車を発見。 

Nanbanashi

車のナンバーがありません。

まぁ、、島ではよくあるパターンですね。

謙介がかつて住んでいた島でも、
島内をぶいぶい走っていた
バイクにはナンバーなんて
ついていませんでしたし。

バイクも自動車も廃車寸前のものを何千円とかで
安く買ってきて壊れるまで乗る。というのが島のやり方です。
壊れたらそれでおしまい。

ただまぁ厳密に言えば、謙介のいた島では、
それでもよかったのです。
なぜかと言えば、
公道というものがありませんでしたから。

でもね、この高見島は一応県道がありまして、、。
一応ですけど。 (笑)

でも、まぁおまわりさんなんていないし、、。
ナンバーなしのクレーン車? 
え? 私は知らない。見なかった。 


わはは。

まぁそういうことなんでしょう。


さらにしばらく行くと、郵便局がありました。
この日は土曜でしたから、ATMは午前中使える日だったのですが
この時はまだ8時半。 ATMの稼働は9時半からだそうで、
まだでした。
Yubinkyoku

こちらが多度津町役場高見支所。
ぱっと見には普通の住宅ですね。
ガラガラと戸をあけて、「住民票をお願いします。」
とか言うんでしょうね。きっと。

Tadotuyakubatakami_2

郵便局からしばらく行くと、道路際に畑がありました。
ちょうど花が咲いていましたので、ぱちり。

問題:これは何の花でしょう?
Satumaimo1_1

ちょっと近づいてみましょうか。
Satumaimo1_2
これ、サツマイモの花なんですよ。

なんかサイトによったら、本州付近では
サツマイモの花は咲かない、なんて言ってるサイトも
ありますが、前に謙介が住んでいた島だってサツマイモの
花は咲いてましたよ。 だから知ってるんだもん。

本当は花の咲く前に芋は収穫するのが普通で、
花なんてめったに見られないんですけどね。
瀬戸芸の忙しさで芋の収穫が遅れたか、
花を見てください、っていうんで、わざと咲かせているか、、。
単にめんどくさいから放っておいた、
ということもあり得ます(笑)が、、。

港に戻ってきました。

Minato
これはsea roomという作品で、ガラス瓶の中に、海水が入っていて
この海水の変化を追っていく、という作品なのだそうです。
プリズムみたいできれいでしたよ。

これは望郷の火という作品だそうです。 
Chomusonde11
この瓦で築いたてっぺんから火を
燃やして、幻想的な光景になるんだとか。主を失ったものを「かがり火」に
するのだそうです。

なんかね、この形を見ていたら、韓国の慶州にある瞻星台(ちょむすんで)
を思い出してしまいました。
Chomusonde

この瓦は集落の家でもうつぶれてしまった家の敷地に落ちていたり
積み重ねられていた瓦を持ってきて、こうして灯台みたいに
築いたそうです。

Chomusonede1

この瓦一枚一枚はきっと、
かつてこの瓦が使われていた家の暮らしや
そこで住んでいた家族の人生を見てきた、のでしょう。

今、この瓦のあった家の子孫の家族たちは、
どこでどうしているのでしょう。
そんなことをぼんやりと想ったりしました。

Chomusonde2

海は雲の流れが速くて、さっきまで曇っていたのに、
もう今は快晴です。
これが島の中心の山。
おそらくこの山があったから、この島に人が住むことになった、
と考えます。 だってこの山、高いんだもん。
ということは眺望がきく、ということです。
この場所は瀬戸内海の真ん中からやや東よりのところです。
東西に行く、荷物を積んだ船の監視には
さぞいい場所だったに違いありません。


この辺の島は「塩飽諸島」というのですが、ここいら辺はその
塩飽水軍の人たちが住んでいたのです。。

織田信長は天正5年(1577年)に堺へと入港する塩飽船に対して、
他国の船は航路を譲る事を命じましたし、秀吉は九州征伐に際して
兵を運ぶ船をこの塩飽水軍に出させました。
天正18年(1590年)には船方650人を御用船方とし、
本島、広島、与島、櫃石島、手島、高見島、牛島の
塩飽七島1250石を与えています。

徳川家康も関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)9月28日に、
大坂城西の丸で秀吉と同様に船方に塩飽七島を安堵し、
塩飽諸島は自治領として江戸時代を過ごす事になっています。

こうした経緯がありますから、おそらくこの瀬戸内海を行き交う
船を監視していた、ということもあった、かと思います。


咸臨丸の水夫50名のうち、35名が、この辺の水夫であった、
と記録にはあります。


Takamiyama

まだ各美術作品の公開時間までに間がありましたので
西の端のお墓のほうにいってみました。
お墓の傍らにはたこつぼがぎっしりと。
このたこつぼを海に沈めておくわけです。
ちょっと時間をおいてからたこつぼをあげると
この中にタコが入っている、という仕掛けです。
以前のたこつぼは陶器製だったのですが、
最近は、合成樹脂で作られるようになって
すごく軽くなったようです。
(ただおもむきもなくなってしまいましたが、、。)
Takotsubo

さて、その裏側のお墓です。
この島の周辺の島には
民俗学的に非常に珍しいお墓の形態が残っています。
後ろのほうに墓標が見えていますが、
そこが「詣り墓」。 手前の小さい石標のところが「埋め墓」です。

Ryobosei

詣り墓のほうへお詣りにいって、埋め墓のほうになきがらを
埋めるわけです。

こういう形式を「両墓制」(りょうぼせい)というのですが、
しかも詣り墓と埋め墓が隣り合っていますから、
隣接両墓制と言います。

おそらく最初は、埋め墓と詣り墓が離れたところにあったんじゃ
ないですかね。 それがだんだん近くなって、、形式だけ残った
もののようにも思えます。しかし、ひょっとしたら
ケガレの概念とか宗教的な意味において、
何かしらの意味があったのかもしれません。


今度機会があったら、宗教民俗学が専門の恩師に聞いてみなければ。

さてようやっと9時20分になりました。
各公開展示の開始が9時半からですから、
そろそろ公開展示の集まっている集落のほうへ
行けばいいんじゃないか、と思いました。

島はのんびり瀬戸内の時間が流れていました。


(今日聴いた音楽 瞳を閉じて 歌 荒井由実
 同じタイトルの違う曲が平井さんにもありますが、、。

 荒井さんのこの曲は、長崎の五島にある高校に
 あてて作った曲でした。)

|

« 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(2) | Main | 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(その4・了) »

おでかけ」カテゴリの記事

Comments

お墓を二つに分けるという風習をはじめて知りました。
どんな意味合いがあるのでしょう。
死(遺体)という穢れと、お参りという仏事を分けることが目的だったのでしょうか。
土地が必要な風習ですね。

こちらでは古い時代には亀甲墓という大規模な墓が作られました。
那覇市内でも至る所に残っています。
最近は土地が限られてきてるため、破風墓や家型墓が多くなっています。
日本本土で見られるような、石柱のような墓はほとんど見られません。
埋葬というのは、その土地の民俗風習を反映するので、とても興味深い研究材料ですね。

Posted by: タウリ | 13. 10. 18 at 오전 10:12

---タウリさん
葬制というのは、やはり人の死に関することですし、宗教的なこともありますから、その地域とか、地方の考え方がはっきりと出ますね。しかも人間の気持ちとして、あまり変えたくない、という気持ちも働きますから、そうした変化はゆっくりです。ということで、いろいろな地方を比較してみると、大きな差があったりします。
前に大阪で、神道のお墓を見ましたが、形が変わっていましたし、お墓の文字も「○○家奥津城(おくつき)」と書かれていて、ああ、やはり違うんだなぁということを知りました。
 前に沖縄の民俗調査の本を読んでいて、門中墓のことを知りました。本当に沖縄のお墓は大きいですね。 それから、お墓に入れてある遺骨を洗う(洗骨)ということもする、とあったのですが、、今も洗骨とかはするのでしょうか。

Posted by: 謙介 | 13. 10. 18 at 오후 2:05

洗骨は、戦前ぐらいまでは風習が残っていたようですが、現在は火葬が義務になっていますので、行われていません。

墓の内部ですが、亀甲墓も最近の破風墓、家型墓もほぼ同じ構造をしています。
http://www.res.otemon.ac.jp/~okuda/theses/kan02zu02.jpg
墓内部は階段状になっていて、一番下段の、上の図で言いますと(1)の部分に遺体を置いて、数年間で白骨化させます。
洗骨後には骨壺に収められます(下写真)。
http://churaho.com/photo/2420504758.jpg
骨壺に収められたあとは、再び墓に戻されるのですが、このときは上図の(2)の部分に置かれることが多いです。
既に入っている骨壺(以前に亡くなった方のもの)は左右どちらか、または上段の(3)の部分に移動します。
これは神人(ユタなど)のアドバイスに従って決めます。
納骨が済むと正式に墓の入口を閉じます。
扉は石板で、その周囲の隙間に漆喰をはり、「二度と開けない」というお祈りをします。
漆喰を貼らずに扉に隙間があると、墓の入口が開きやすい状態なので、再び死人が出るという言い伝えがあります。
それを防ぐために漆喰で閉じるわけですが、実際的には風雨が入り込まないようにという意味合いが強いと思います。

洗骨をしなくなった現在ですが、伝統的に作られた最近の破風墓、家型墓にも遺体を置く場所(1)はあります。
たいていの場合は砂利や珊瑚が敷かれているので、墓の中で唯一土足で踏んで良い場所になります。
墓に入る際には普通に入れますが、出る際には骨壺に背を向けないように、後ずさるように出ます。
ご先祖に失礼がないようにということと、死者の世界に背中を引っ張られないようにということだそうです。

葬式の一連の行事は写真に収めて記録として残すことが多いですが、洗骨と納骨の儀式だけは写真には収めません。
墓を指さすことは禁忌の行為とされており、写真に収めることや軽々しく絵にすることも良くないこととされています。
なので、特に洗骨や納骨の場面を写真として記録を見ることはない(できない)と思います(学術的な依頼を了承した場合を除いて)。
私の実家の墓も、購入後間もない、まだ納骨していない状態での写真はありますが、納骨後は(工事記録として業者が撮影したもの以外に)写真はありません。
万一撮影する場合は、墓室自体が写らないように、墓を背に撮影します。

誰がどう決めたのかは定かではありませんが、様々な決まり事が多いですね(苦笑)。
長くなってしまいました m(_ _)m

Posted by: タウリ | 13. 10. 18 at 오후 4:15

---タウリさん
詳細なご説明ありがとうございます!
やはり、もう洗骨はないのですね。
ですが、やはり葬送儀礼とか、そういう人の死にまつわるものは、長年の習慣とか考え方が濃く反映されますから、その習俗自体が無くなったとしても、形式的にだけでも長く残ることがありますね。この両墓制にしても、隣り合った場所に墓を2つ作る、というのは、やはり何の意味が、、と考えてしまいます。合理的とか効率的で言えば、どうして? なんですが、やはり人の魂とか葬送に関係することは、そんな効率性などでは推し量れない別の大きな意味があるのだと思います。
 沖縄は特にそうした「たましい」を大切にする気持ち、家族のつながりが深く濃いところですから、亡くなった後もやはりこうした死者に対する敬意の気持ちが色濃く反映されているように思います。儀式とか習慣を維持していくのは本当にいろいろな負担が大きくかかってきて、いまどきは大変なことなのではないでしょうか。そうしたこともあって、やはり年とともに変化していく部分もあるでしょうが、それでもやはりこうした習慣を大切に伝えていこうとしているところは、素晴らしいと思います。
 丁寧なお返事、本当にありがとうございました。やはりその土地の方でなければ、わからない事情でした。お時間とらせてごめんなさい。

Posted by: 謙介 | 13. 10. 18 at 오후 4:30

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91870/58378768

Listed below are links to weblogs that reference 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(その3):

« 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(2) | Main | 瀬戸内国際芸術祭・秋会期:高見島(その4・了) »