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13. 09. 17

惜しいんだか惜しくないんだか方面への旅(その7)

で、実は先日の原爆ドームも、この先の別の文章の時に
微妙に続いています。(今月はこんなのばっか。笑)


Irihuneyama_2


この呉という街は、海軍の呉鎮守府があったほかに
海軍工廠がありました。

今の呉は人口が23万ほどの街ですが、
昭和の初めには人口が43万だったそうです。
当時広島市の人口が27万だったそうですから、
広島市呉のほうがずっと人口が多かった
ということですね。
実際当時の呉駅の乗降客数は広島駅より
よほど多かったそうです。


今も広島県から山口県に至る瀬戸内海沿岸は
今も化学コンビーナートがたくさんありますが、
こうした工場地域は、そもそもが戦艦を作る、兵器を作るための
軍需工場として作られて、それが戦後も使われて
今に至っている、ということなのだそうです。

呉の街は、そういう海軍の施設がいろいろとあったために
空襲にたびたび遭って、特に昭和20年7月の大空襲で
市街地、海軍工廠、ほとんどすべて焼けてしまったので
現在の街の建物はほとんどが戦後の新しいものです。

加えてここはさっきも言ったように海軍鎮守府があったので戦前の
呉の街全体の写真を撮るのは禁止もしくは許可されたものだけしか
ありませんでしたので、呉の古い街並みの写真はほとんどありません。

そうした呉の中で、戦前の建物で焼け残った数少ない建物のひとつが
今から見学する入船山記念館です。

入館の手続きをしていたら、「ご案内しましょう」と
ボランティアガイドさんが来てくださいました。
60代後半の方ですが、ボランティアでガイドを
しようか、というくらいですから、すごい元気な方で
もうその精力的な(笑)案内に驚きっぱなしでした。
でも、こないだの滝クリの招致プレゼンではありませんが
本当に「おもてなし」の精神で、すばらしい説明をして
くださいました。 観音寺の観光協会とえらい違いだ。

これが入り口のところにある「歩哨の軍人さんのいた建物」です。
Monban

手前に歩哨の立っていた石がありますが、ガイドさんが
「石の表面を触ってみてください」とおっしゃいます。
触るとすごいです。立っていた足の足型に沿って
そこだけ、石のすり減り方が違うんです。びっくりしました。

それから歴代の鎮守府長官の資料を展示した
建物に行きました。
左側の掛け軸は鈴木貫太郎の書です。海軍大将で呉の鎮守府長官も
して、のちに太平洋戦争終結時の内閣総理大臣だった人ですね。
右側は東郷平八郎。

Kanntaro

思わず「これらは全部本物ですか? 」と聞いたら
「当然です」とのお答えでした。

最近、博物館でも
よく「レプリカ」(複製)ばっかり置いていることが多いので、
思わず聞いてしまいました。 
謙介も大学で博物館学を取って、博物館の展示の方法、
運営の仕方、っていうのも一応勉強しましたから
そういう展示物をどうやって持ってきているのか、
というのは、やはり気になります。

それで言えば、3度ほど行きましたけれども、
九州の大宰府にある国立博物館なんて、レプリカばかりです。
その時展示されていた展示品の7割がたが複製でした。
あそこの博物館で実物、って、漢委奴国王の金印くらいじゃないか、って
思います。それくらいレプリカだらけ。

あの博物館に行くのであれば、大宰府跡とか都府楼跡、元寇の土塁の
跡を歩いて、史跡踏査したほうがよほどましです。

Irihuneyama2


入船山記念館が見えてきました。
この入船山一帯はもともとは呉の鎮守の神社があった場所
なのだそうですが、その神社を隣の山に移転させて、ここに
長官の公邸を建てたのそうです。
昔はまだ埋立がそう進んでいなくて、
この山のふもとは海だったとか。
それで呉の港に入ってくる船が見えたので
「入船山」という名前になったのだとか。
もとの長官公邸自体は明治32年に造られたそうでしたが
明治35年の芸予地震で崩壊してしまい、前の公邸の材料を使って
建て直したのが今の建物だそうです。ですから
今のこの建物は明治37年の建築です。 
どうして前の建物の建材を使ったのか?

再建された年が明治37年と聞いて謙介すぐに分かりました。
明治37年といえば日露戦争の真っ最中です。
ただでさえ軍事費が不足しがちでかき集めていた時期に、そんな
長官の宿舎をまたすべて新しい建材で再建する資金のゆとりなんて
決してなかった、ということです。それで、資材の節約ということで
旧邸の資材を流用したのだろうというのは、想像できました。
戦費の問題ですよね、とお伺いしたら、そうなんですよ、
それで省資源ということで再利用になった、ということでした。


屋根は東京駅と同じく岩手の硯石を
薄く削って屋根瓦として使っています。
前面の賓客をもてなす部分は西洋館なのですが
裏側の日常住まいのスペースは完全な日本家屋です。
こちらが日常住まいのほうです。

Irihuneyama3

それが廊下一つ、もっと言ったら戸1枚で区分されて
いるのです。
日本家屋側はこんなふすまです。
Husuma

その同じ戸の裏側はこんなの。ドアっぽいデザインになっています。
実際は左右にあけるふすまですが。
Ura

公室の西洋館のほうを見て行きます。
これが玄関のガラス。なんたって海軍ですから桜に錨ですね。
Genkan

長官の公的な執務室。
ここは、少ないお客さんの場合の応接室でもあったとか。
Ousetu


それからこれが、正式の応接室。

Saloon

ピアノは明治の時のままのピアノだそうです。
定期的にここで、このピアノやほかの楽器を使っての
サロンコンサートが開かれているそうです。
次のコンサートは、9月の21日にあるのだとか。
それで早く来た人は、この部屋にあるソファーに座って
音楽が聴けるそうです。

この壁の紙は「金唐紙」と呼ばれる紙だそうで、
今、この紙の製法技術を継承している人が日本で2人しか
いないのだそうです。 和紙に独特な模様の凹凸をつけて
それに金箔を施したり、彩色をしていったり、と非常に
巧みな技術で作られる紙だそうです。
残念ながらトイレが公開されていないのですが、
ここのトイレは明治37年にこの建物ができたときから
水洗なのだそうです。


それからこれが食堂。
Shokudou

食堂のテーブル上には、明治時代にここで出されていた
正式のコース料理の模型が置いてありました。

Dineer


1時間ほどこの公邸の隅から隅までガイドさんに案内してもらって
ホントにいろいろ教えていただきました。
再び元の入り口でお別れしてから、謙介は入船山を降りて
海のほうにむかいます。
途中にこんな不思議な彫刻がありましたよ。

Gachimuchi

ガチムチのおにいさんがサックスを吹いているのですが
帽子をかぶっているのに、なぜか裸でサックスを吹いているのです。
よくみると、ち、、が見えています。
そんでもって、そのち、、がものすごくちいさいの。小指くらい。

どうしてこんなふうに鳥打帽子をかぶってそのくせ
あそこは丸出し状態で、サックスを吹いている彫刻を
作ったのか、、うーん、なかなか謎な彫刻でございました。
それにあんなふうに足を投げ出してサックス、吹けるんですかね。
謙介、中学はブラスバンド部で、パートはチューバでしたけれども、
吹き方は見てましたが、、あんなふうに足を投げ出して、っていうのは
ちょっと無理な態勢なんじゃないかしらん、って思います。


で、山を降りて、標識がありました。
Kanban

これで、こないだの松本零士展と微妙につながっていた、と
おわかりいただけたのではないか、と思います。
この標識の数キロ先に本物のほうの戦艦大和を作ったドックの跡が
あります。 大和はここで作られたのでした。
なので、「大和のふるさと」ということで大和ミュージアムが
できた、というわけなのでした。
今日はここまでにします。


(今日聴いた音楽 今日は広島でなくて、というのか
 もう広島シリーズも飽きたので。 行進曲 軍艦!
 うちにレコードがありました。)
 

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