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13. 08. 29

神戸で思ったこと(2)

久しぶりの神戸でしたが、8月だったということも
映画の舞台が地元神戸だった、ということも
あいまって『少年H』の広告がやたら目立ちました。


『少年H』は戦前戦後を挟んでの妹尾家のお話なのでしょうが、
昭和1ケタの生まれの人はみんな多かれ少なかれ
あの戦争の影響はあったはずです。


この資料館は、前にもお話したように
戦前から戦中、戦争終了直後にかけて
その戦争の犠牲になった日本の商船の資料館です。

戦争中、戦場に物資を運び、また、南方から資源を日本に
運ぶ途中で、また沖縄戦で犠牲になった対馬丸のように
疎開する人を乗せた船が攻撃されて、というようなことで
犠牲になった船は、

一般の汽船 3575隻
機帆船    2070隻
漁船      1595隻 の合計 7250隻

亡くなった人は
海員      60600名
民間人     59200名
軍人     101000名
捕虜      10800名 の合計231600名と一応
統計には出ていますがこれは正確な数字ではないそうです。

というのが、この資料館の学芸員の方にお伺いすると
陸軍が急にやってきて、「荷物を運びたいから、この船を
徴用する」といきなり命令を出して、その船の船員ごと
召上げてしまうこともあったとか。

そしてその船が、輸送途中で空襲とか
魚雷攻撃に遭って沈没してしまった場合は
何の資料にも残らない、統計にもカウントされていない。
なぜなら正規の船の徴用ではありませんから書面に記録が
残らない、残っていないのだと。
そういう船とか乗組員も
相当数いる、と。

おまけにそういう船は漁船だったり
小型の船で家族で運航していた船だから、
家族もろともに亡くなってしまうと、もう後に誰も残っておらず、、、
おそらくそういう記録は
ないだろうということでした。

ですから、そういう船とか、そこで犠牲になった、という
記録に出てこない数が相当数あって、そうした数については
今もって全くわからない、ということでした。

しかし、そういうこともありはしますが、
亡くなった祖父の名前と出身地を係りにお話しましたところ、
たちどころに名簿から、そのデータが
出てきました。こういうデータベースが作られているところは、
さすが日本だと思いました。 こういう統計資料を作るのには
ものすごい時間と労力がかかっています。


なかなかできるものではありません。
自分もデータベースを作る仕事とか入力の
作業をしていますから、この苦労がどれほどのものか
はよくわかります。

前にも言ったように、
うちの父方の祖父も輸送船に乗っていて
朝鮮半島全羅道の木浦の沖で
アメリカの潜水艦に魚雷攻撃を受けて
あっという間に沈んでしまいました。


祖父は一等航海士だったのですが、
その船なんて明治の中ごろに竣工した船で、
できて40年も経っていた船で、今ならそろそろ
解体か、というような船でしたが、
それでも「なんとか走れる」ということで、
無理に使っていた船だったのです。
この時期、すでにもう走ることのできる船なんて
碌に残っていなかったのでしょう。

たまたまこの祖父の乗っていた船を攻撃した
アメリカの潜水艦・その艦長が有名な人だったので
記録に残っています。

その潜水艦、祖父の呪いかもしれませんが
あるとき魚雷を撃った後、急に航行不能になってしまい、
自分の撃った魚雷が艦に当たって、沈んでしまいました。

今日はこの学芸員の方に、船の資料で
調べていただきたい、ということをお願いしていました。
その資料を受け取りに来た、ということでした。
行くと、資料はこれです、と、出してきてくださいました。

あとは館内を見学していきました。

つい先週も関門海峡で太平洋戦争中に米軍が
落としていった機雷の爆破があったばかりではありませんか。
今回はたまたまこういうふうに見つかりましたが、
まだまだ海底にたくさんの機雷が沈んでいる、とのことです。
そういえば今も不発弾が見つかって、というニュースが
時折ありますね。

こうした戦禍の中に沈んでいった船は
うちの祖父もそうですが、戦後引き揚げられることもなく
いまだ深い海底に沈んだままです。
この資料館にも、海底に横たわったままの
そうした船の写真が何枚もありました。


戦争のことに関していうと
前に東京の人からこんな話を伺いました。

東京の空襲というと、みんなすぐに3月の空襲のことばかり
いうけれども、それは違うじゃないか、という主張です。
東京の空襲は何度もありましたし、その都度その都度
大変な数の命が奪われているのだから、というのです。

全くそうだと思います。 日本中の戦争で犠牲になった人の
それぞれの親族の死を思う日は、それぞれ違っていて当然でしょう。

マスコミは8月になると、原爆の投下の日とか
戦没者追悼式典があるから、黙とうだとか平和、平和と言いますが、

この時期が来たから、まぁいっちょ平和でも取り上げておくか、
っていう上っ面をなぞった程度でしかないような気がして仕方がないのです。
その結果、どんどん形骸化していってしまう、という気がします。

戦争は殺し合いですから、残忍でむごたらしいものです。
先日も島根で『はだしのゲン』が閲覧規制になっていて
それを撤回した、ということがありましたが、
あれも、戦争の記憶が次第に形骸化してきているから
起こったような気がしてならないのです。

平和について、戦争について、8月になったから考える、ではなくて
亡くなった人を偲ぶ、ということはそれこそ、人それぞれであっていい
ことですし、平和については
8月になったから、ではなくて、そんなものずっと考えていかなくては
ならないことではないでしょうか。
(といいつつ、謙介が今回ここに来たのも8月ですけどね。)

この資料館には、戦争で犠牲になった日本の商船の写真が
沈んだ年代・海域別に掲げられています。


戦況がどんどん悪化していくのに、いつまでも
最後の一撃で、文字通り一死むくいて、戦況を打開して
講和に持ち込む、ということにこだわりつづけ、
だらだらと戦争を終結させようとしない軍部に
隣組の監視や憲兵の監視があって本音こそ言えなかった
でしょうが、複雑な思いをもっていた人だって
結構いたはずです。


それが証拠に、ある商船の船長さんが
日章旗のもとで死ぬのは仕方ないが
旭日旗のもとでは絶対に死にたくない。
とおっしゃっていました。
この言葉には、本当に馬鹿な戦争を
いつまでもだらだらとやり続け、
日本の貴重な船や資源を失っていくのを
黙って見ていなければならなかった
人たちのやりきれない思いがそこに込められて
いると思うのです。

いつもこの記念館に来ると、戦争に巻き込まれて沈んでいった
船や船員さんのこと、平和のことを改めて考えるのでした。


そろそろお昼になったので、資料館を辞去して
外に出ました。
すでに当たる太陽光線は暑いではなくて、痛い、感じがしました。

再び日陰を選びつつ北に。元町の商店街に行きます。
この資料館をまっすぐ北に上がると、海文堂書店があります。
神戸らしく船の関係の図書を多く扱っていた本やさんですが
9月いっぱいで店を閉めてしまうと聞きました。


神戸もかつては船の街でしたが、、
かつての商船大学は神戸大と合併して
神戸大の中の海事科学部とという学部になって
しまいましたし、、かつて頻繁に走っていた瀬戸内海の船も
もう今や、数航路だけになってしまいました。

しかも船員さんなんて、今や多国籍です。
日本人は少数で、東南アジアの人をはじめとした
外国人の船員さんが運航している船が普通です。


今や神戸は海運の街、って言ったって、
昔に比べたら、ずいぶん規模も小さくなってしまいました。
そうしたことも影響しているのかもしれません。

謙介の仕事場の街の中心部にも紀伊国屋書○が
ありましたが、それが撤退した理由というのが
市内の中心部にがんセンターがあったわけです。
そこのお医者さんが結構本を買っていたのですが
がんセンターが移転をして、紀伊国屋の売り上げが急降下した
と聞いています。それでとうとう撤退になった、と
あとから聞いたことがあります。


ですからこの本屋さんの閉店というのも
神戸の海運の位置の低下がそのまま
反映された、という結果なのかもしれないなぁ、と
考えたりしました。


ちょこっと本屋さんをのぞいて、元町の商店街を東に行きました。
謙介が大学生のころは、元町の商店街に
淳久○、(ちなみに淳久○はここが発祥の地です)海文○、
○善の神戸支店、と結構な本屋さんがあったのですが、、
今や本屋さんももうすっかり影を潜めてしまいました、。


Kobedaimaru

元町商店街の東の端が神戸大丸です。

昔はこんな感じでした。

Mukashidaimaru


お昼は、せっかく神戸に来ましたから、
中華にしようと思いました。

中華料理だったら、中華街の店、ということに
なるのかもしれませんが、、。

でもね、正直言って、中華街の中華って、
やたら高いだけで大しておいしくないんですよね。


それだったら、こっちのほうが断然、ということで
来たのが、この牡丹園の別館です。


Botanen1_1


ここもまたややこしいのですが、牡丹園はいくつか店が
あります。でも、同じ牡丹園と言いながら、経営者は別のようで
ほんとうにおいしいのは、この別館の、です。

お昼なのでここに来たらいつも頼むこれにしました。
牛肉と野菜炒めごはん。
Botanen2


うんまい。

お昼前なのでお客さんがどんどん途切れずに
入ってきます。そのお客さんを見ていたら、観光客っぽい
人は一人もいません。地元の人がお昼になったから
来た、という感じです。

(それにここの店、裏通りの全然目立たない場所にあるんですが、、、)
地元の人にひいきにされているお店、というのが
おいしい証拠ですよね。


ゆっくりとお昼をいただいて、外に出ました。
やはり暑い。 慌てて大丸に避難です。
大丸で、ちょっとあちこち見て、地下道を通って三宮のほうに行きます。
地下道と言っても、もう熱がこもっている感じで、むっとします。
途中でセンター街に出て、センター街から東に行って
そごうの前に出ました。
ここからさんちかに降りて、またしばらく南に歩きます。
地下道を通って市役所の前まで行ったところのビルが
今日の会場です。1時につきました。
開会は1時半からでしたが、もう半分くらい席が
埋まっていました。 でもね、座席指定なんですよ。
久しぶりに会った知り合いと話をしたりしているうちに
開会の時間が来ました。

3時間ほど、いろいろな方の発表を聞いていろいろと
勉強になりました。
5時前に終わって、会場を後に。
帰りのバスは6時半です。
1時間半ほど時間があります。
夏でなければ、もうちょっと神戸のあちこちを
見てもよかったのですが、この暑さで日向をうろうろ
したくありませんでしたから、
三宮駅前のそごうの中を、あちこち見ていくことにしました。
かつては神戸の百貨店で売り上げのトップは
そごうだったのですが、、最近は元町の大丸が
トップだそうです。

地下の食品売り場とか、別館のロフト、紀伊国屋は人が結構入って
いましたが、本館の婦人服売り場なんて、え? と
思うくらい人が入っていなくて、、
ちょっとびっくりしました。

まぁ考えてみたら謙介だってデパートなんかめったに
行きません。仕事場の街にも高島屋と三越がありますが
年に数回ですし、、。

で、6時を過ぎたので、地下に行っておみやげを
少し買うことにしました。神戸だったら
やはりここのお菓子でしょう、ということで
フロインドリー○のクッキーを買いました。


Sannnomiya

ちなみにこれは、70年前。
B012

それともうひとつ、帰りのバスの中で食べるお弁当も。

実は、このそごうの地下に神戸駅の駅弁屋さんの
ショップがありまして。そこにお弁当の
取り置きをお願いしていました。

Awajiya1


その袋を下げて、お向かいのバスターミナルに
行きます。
6時20分に着いたのですが、、。
なんと交通渋滞とかで、まだ5時40分のバスが
来ていない、との放送です。
それがバス会社によっていろいろなんですよ。
同じ三宮始発なのに、
2、3分遅れで来るバスもあれば、そのバスみたいに
40分も遅れてくるバスもあって、、
果たして謙介の乗るバスは、、と思っていましたら、
結局20分ほど遅れて入ってきました。
神戸市内がやたら混雑しているということで、
普段だったら三宮からすぐに高速に上がるのに
この日はとなりの福原から上がることになりました。

窓外に走り去る神戸の夜景を見ながら
お弁当をあけました。

神戸といえばそりゃあもう、牛肉でしょう。
神戸ビーフですよね。
この肉めし、久しぶりでした。
甘辛く(きつい味付けではない)煮た牛肉の
下には、牛肉で炊いたご飯があります。

Awajiya2

前は比較的小さい牛肉がご飯の部分の半分に載っていて
あと半分は錦糸卵がパラパラと載っている部分でした。
今は大きな牛肉が2枚、ご飯の上全面に載っている、というふうに
変わっていました。でも、相変わらずおいしかったです。


ということで、30分ほど遅れたまま、バスは実家の街に到着。
こうして暑かった1日が終わったのでした。

(今日聴いた音楽 そりゃもう神戸ときたら、この歌しか
 ありません。そして神戸 内山田洋とクールファイブ)

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Comments

戦争の記憶、というのは難しいですね。
終戦から68年が経ちました。
記憶、という点からは4~6歳ぐらいからはっきりしてくるのだと思いますので、少なくとも72~74歳以上の方々で、その記憶が残っているのだと思います。
沖縄ももちろんそうですが、全国でもどれだけの記憶が記録になったのでしょうか。
戦争を報じたり論じたり、学ばせるには、どれだけ“客観的な”資料かということが重要になります。
ともすれば感情を伴わない数字の羅列や写真の整理になると危惧される方もいらっしゃいますが、そこから何を受け取るかは次の問題だと思っています。
まずは事実を洩れなくまとめること、これが重要だと思います。
人は一年一年歳をとっていきますので、こういった資料作りは待ったなしの状態になってきています。
最近の、命の大切さが分からなくなってきたのでは?、と思うような事件・事象を見ていると、きちんとした学びの場が失われたことが原因だと思います。
『はだしのゲン』閉架措置は、まさに謙介さんの仰るとおりだと思います。
挙げられた理由を読んでいますと、一見人に“優しそう”なことが書かれていましたが、あの場合は“優しい”ではなくて“易しい”だと感じました。
物事の本質を捉えられない人(教育委員?)の“安易”な発想だと思いました。
日本は、いつからそんな形骸的な思考回路で動く国になったのでしょうか・・・・・。

さて、お弁当o(^-^)o
座席の幅から弁当箱の大きさを想像しますと・・・・・、私なら2箱欲しいです(^_^;)。
大きなビーフがのっていて、すごく美味しそうです。
大味でないソースというのは重要ですね。
細切りした生姜なんぞが付いていますと、さらに良いかなぁ(^^)。
出張、お疲れ様でした!

Posted by: タウリ | 13. 08. 30 at 오전 8:43

---タウリさん
 どんな事件や事故や戦争でも、長い年月たてば、ただでさえ記憶は風化していきますし、その上、そんな記憶も自分たちの都合のいいようにしか残っていなかったり、忘れたい、という気持ちが働いて、無理やり記憶を押し込めてしまったり、という個人の感情が働いたりしますよね。
 だからこそ、タウリさんのおっしゃるように記録を残す、ということはとても必要と思うのです。のちの人がどんな感慨を抱くか、は別で、本当に記録をきちんと残しておく、という作業は大切なことだと思います。
 大学の時に丹波のある町の町史編纂室で古文書の整理・翻字のアルバイトをしましたが、その時にそういう記録の大切さを学びました。
 はだしのゲンの閉架図書扱いについては、
やはりすべきではありませんでした。
 戦争はむごたらしいもの、人間の命を紙切れより軽い存在としてしか扱わないようなあんなものを事実は事実として、ちゃんと小学生に見せるのが本道だったと思います。
 なんでも先回りして、これはふさわしくない、これはいい、と制限することばかりが多いように思います。作品を見せることで、子どもは何かを感じたでしょうし、考えるところだってあったはずです。
 今回も聞いた言葉ですが、教育的配慮、とか発達段階に応じた、、とかいう言葉です。あんなふうに先回りして安全なものばかり与えて、リアルな現実を教える、ということが無くなってきているのではないでしょうか。
 なんだかその結果、命の重さということを実際にわからない子どもが増えていないか、と思うのです。自分の命も軽視するし、人の命だって、そう大切に思わない、思えない。なんだか最近のニュースを見ていると、子どもがそんなふうに思っていて起こす事件というのが、よく起きている、というふうに思えてなりません。
 大人の本気って、子どもはしっかり受け止めてくれると思うんですけどね。
 神戸駅の駅弁も最近はいろいろな種類が新しく開発されて、正直買うときに迷いに迷ったのですが、初志貫徹(おおげさおおげさ)ということで、肉めしにしました。
 おかずのクルミの甘露煮がなかなかおいしかったです。
 
 

Posted by: 謙介 | 13. 08. 30 at 오후 3:47

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