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13. 05. 21

巡礼旅(2)

あのややこしい大山崎ジャンクション、2度目は直進するだけ
でしたので、今度はあちこち標識を確認しないでも行けました。

ただ直進している間に道路の名称が「京都縦貫道」から
「京滋バイパス」に変わりましたが。

その京滋バイパスは淀の競馬場の横を通って、東に進みます。
まぁこちらはこちらで久御山ジャンクションというややこしい
分岐はありますが、謙介は直進なのでここも文字通りスルーです。

オヤジがこの辺田んぼばっかりやな
といったのが巨椋池(おぐらいけ)の干拓地のあたりでした。
以前はここに大きな池があって、それが奈良方面、
宇治川をさかのぼって琵琶湖方面への水運の中継地に
なっていました。
大仏殿とか平城京の資材もこの池経由で木津川をさかのぼって
運ばれて、木津で陸揚げされて修羅に乗せられてひかれて
奈良まで運ばれたのです。
木材が上がるから「木の津(みなと)」だったわけです。
ということを前に関東の人に説明したのですが、、、。

その人は今の木津川の流れしか想像できず
木津川を木材の運搬に使ったなんて考えられない
というばかりでした。今の状況でもって昔を考えても
全く違いますからね。

文学とか歴史って、過去のデータをきっちり取ったら
想像することも必要です。 たまに想像だけが独り歩きして
実際とかけ離れてしまっている人もいるにはいるんですが、、。
それでも過去のいろいろな史料をもとに
その時代の状況を想像できないと、文学とか史学は
ちょっと理解できないかもしれません。

木津川、今は上流にダムが何基もできているので
水量も流れの状況も昔と今とは全然違うわけですから。
最終的にその池は太平洋戦争直前に食糧増産のために
干拓されて、水田になりました。

オヤジが田んぼばっかりやな、といったのは
その結果なわけです。
巨椋池をこえたあたりで宇治西インターがあります。
ここで高速道路を下りて、一般道を走ります。
さらに東を目指して、奈良街道を突っ切って
今度は南東に曲がります。
で、ついたのが三室戸寺です。

Mimuriti1


ここはいろいろな木や草がそこここに植えてあって
四季それぞれにきれいな花を咲かせてくれています。
今はつつじのシーズンでした。もちろん新緑も。

Mimuroto2

ここは駐車場から、結構な距離を歩いて階段の下まで
来ました。階段がまた結構ありまして、、
それでようやっとここに。

Mimuroto3


でも、「ようやっと」来た甲斐はあって、
振り返って眺望すると、高台ですから
眺めもよかったですし、吹き渡る風も
すがすがしかったです。
さっきの穴太寺は亀岡市ですが、
この三室戸寺は宇治市です。

亀岡から宇治までというと
以前だったら結構な時間がかかったはずです。
亀岡から9号線で老の坂
(謙介のことではありません。そういう坂があるんです。)
を越えて、大原野に出て、西国街道を
大山崎まで行くかして後は府道をたらたらと走るしかなかったと
思います。今のように30分くらいでの移動は無理でした。
でも、今は、口丹の亀岡から、南山城の宇治まで
30分くらいで行ってしまいます。

宇治、っていうとあの宇治茶の宇治です。
あのお茶で有名な宇治です。
ちょうど宇治でお昼、ということになったのですが、、
宇治って、正直言って食べ物屋さんで
これ、っていう店がないんですよね。

もうどこも茶そばか茶うどんばっかりで、、
その茶そばだって、本当に宇治の抹茶を練りこんであるかどうか
わかりませんし、。

とはいえ三室戸寺の辺は住宅地で
飲食店はないので、とりあえず宇治市内に行くことにしました。
オフクロが平等院に行きたい、と言ったのですが
確か平等院は修理中だった、と思う、と言いました。
まぁ念のために行きましたが。

Uji
するとやはり目下修理中で、来年の春まで見ることが
できないのだそうで。
オヤジが代わりに「十円でも見とかんとしゃあないな。」
まぁそうですけど。

平等院近くのお店で例によって茶そばを食べて、
出発です。

次が問題だったんですよね。
醍醐寺が近いんですが、醍醐寺、駐車場から
ずいぶんとまた歩かないといけません。
なので、醍醐寺は、謙介がまた行くということにしました。

宇治から北に上がって、六地蔵から醍醐に入って、
さらに北に。山科のほうに行きます。
ちょうどこの近くに椥辻(なぎのつじ)というところが
あるのですが、ここにある予備校に学部の時に
アルバイトで講師として教えに来ていたことが
ありました。 京都の西の端から、東の端まで
行くのは結構遠かったです。 


山陰線で京都駅まで出て、東海道線に乗り換えて
山科まで行って、そこからバスでした。
もう小旅行気分でした。

今なら太秦まで自転車で行って、後は地下鉄に乗ったら
そのまま行ってしまえるんですけどね。

山科で国道1号線のところに出たら、左折して
1号線に乗ります。それで京都市内に。
京都市内では1号線は五条通です。
東大路五条で左折して今度は南に。
泉涌寺道の標識が見えたら左折します。
泉涌寺の手前に
今熊野観音寺があります。

Imakumano

泉涌寺道に入るあたりは商店街があって
結構な人出なのですが、
観音寺のところまで来ると、しん、としていて
落ち着いた感じです。
この観音寺の下が、鳥部野(鳥辺野とも)ですね。
平安時代からずっと死んだ人たちの火葬地・
埋葬地のあった場所です。

というのか、大体が京都なんて鴨川から東は
墓地だったのですが。だから今でこそにぎやかな
祇園だってかつては埋葬地でしたもん。

謙介の大学院時代の研究って、歴史書の中の
「死亡記事」を集めてその表記の違いを検討する、
というのが研究テーマでしたから、毎日毎日
誰がどうなって死んだのか、という記事ばかり
見ていたのです。


よく霊が霊が、って気にする人がいますけど
そんなの、京都の街なんてどうするんですかね?


京都なんて、言ってしまえば、何千万人という遺骸の上に
街ができている、と言ってもいいわけです。

うらみをのんで死んでいった人なんて、
天文学的な数字にのぼります。

それに中世の京都なんて、街の中に遺体がころがっていた
という時期もあります。
遺骸のない場所を探すほうが難しいと思います。

墓地、と言っても時代によったら、
埋葬なんてしなかった時期もありました。

人がなくなったら、そういう遺骸を置く場所において
さっさと帰ってきていた、という時期だってあります。

そういう歴史的経緯のある街で、霊が、たたりが、って言ったって
「そら、何が影響してるやらわかりまへんで。
ここかてかつて死体が転がっていたかもしれまへん。」ということになります。

それから穢れについても、穢れを
全然無頓着だった時代もありますし、
ものすごく穢れについてうるさかった時期も
あります。

それに、一口に穢れとか霊とか言ったって、
時代によってずいぶんと考え方は違っているんですよ。
なかなか難しいお話です。

今熊野から、今度はすこしずつ北へ上がって
いくことにしました。


(今日聴いた音楽 嵯峨野さやさや タンポポ
 1979年盤 あのころ、アンアンやらノンノで
 鎌倉か京都の特集をしょっちゅう組んでいました。
 アンノン族、っていう言葉があって。そのアンアン
 やらノンノの京都特集を持って嵯峨野のあちこちを
 まわる人がすごく多かった時期です。今の
 アンアンって、もうほとんどセックス雑誌になっちゃい
 ましたね。(笑) あーあ、これも時代の変遷でせうか。)

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