経年状態について
きのうもお話したセトゲイですが
島の連合自治会長さんに聞くと、
当初の想定の倍の人が来た、という話でした。
昨日も26万3000人という数字をお話しましたが
最初の想定は、12、3万人くらいを想定していたんだそうです。
謙介の住んでいた島でさえ、人口200人の島に
11436人が来たとか。
行ったときだって、島のメインストリートが人であふれていましたもん。
ありえない光景だ、って思っちゃったし、、。
夏会期は新たに伊吹島が増えます。
坂口憲○くんの映画の機関車先生のロケ地だった島です。
あの恐ろしそうな 料理研究家の辰巳○子先生が
珍しく大絶賛するいりこの獲れる島です。
方言学的に言えば、いろいろな方言が交じり合っていて、
非常におもしろい島なんですよ。
また一度行ってみたいと思います。
さて。
今日のお話は「経年状態」についてです。
特に自分の身体の状態について、です。
「経年」と書くと、どうしてもその後に「劣化」という熟語が
来そうで、、劣化ってなぁ、、と書くのをためらった末に
状態、としました。
なぜこんなことを思ったか、といえばやはり
先日吉永小百合さんにお会いしたからですね。
何度も言いますが、67歳には見えませんでした。
落語のネタじゃありませんが「どう見ても50そこそこ。」
実際に北のカナリアたちでは50そこそこの小学校の先生の
役をしていますし。
で、栄養士の友達に、「どうしてあんな67歳の人がいるわけ? 」
と聞いてみましたら、「そりゃ、子どもは作ってないし、女優さんだから
顔とか外見の容貌の変化って、やっぱり商品価値に直結するから
その変化についてはものすごく気を配ってきたからでしょ。」
ということでした。やはり子どもを産んで育児をして
それなりに育て上げる、って、並大抵の苦労ではないからね、と
まぁそんなことを話したのでしたが。
ユーチューブを見ると同じ歌手の同じ歌でも
かつてリアルタイムでヒットしていたときの動画と
今、というのか比較的最近歌っていたときの動画と
両方アップされている場合があるじゃないですか。
おもわず、わー変わっちゃったなぁ、とかディスプレィに向かって
独り言を言ってしまったり、、。
(で、そんな人の容貌を変わっちゃったなぁ、っていう自分は
そういうときって必ず棚に上げていて、全然変わってないと
思ってるからねぇ、、。)
でも、そういう過去と今の動画を見ていて、つくづく思うのは
ほんとに年を取る、っていうのも難しいことだなぁ、って
思います。
特に若いときにアイドルだった人の歳の取り方は
本当に難しいなぁ、って思います。
歳をとって60代になっても20代ころのまんまでいようとするのが、
「痛々しい」って思うことがあります。
全体はやっぱり経年状態が歳相応に進行して変貌を遂げているのだけど
いつまでも若い、という意志だけは身体中から溢れるようにあります。
だもんで「異常な若作り」になっていて、
それが却って痛々しい。(まあ最近はそういうのは単に「痛い」、
っていうのも謙介、承知はしていますが、やはりちょっと違う。
痛いには、痛々しいのような若干の思いやりは全くなくて
アンバランスさが気持ち悪い、っていう感情がストレートに
表されている感じで、ちょっと違う感じがします。)
次第次第に身体の変化は出てくるのですが
そんな変化とどう距離をとるか、というのが
難しいのですね。必要以上に抗って、
年齢は60を越えているのに、気持ちは
30代、っていうのもちょっとなぁ、と思うし
さりとて、歳をとってしまって、ああもうダメ
って気持ちが萎えてしまったら、必要以上にどんどん
劣化だって激しくなるように思います。
そうした変化をどこまで受け入れて、
ここからは抗年齢化の何かしらの方法をとるのか。
この割合加減が、難しいなぁ、と思うのです。
うまい具合に歳を取るのもひとつの才能ですね。
筋トレ、たって、20代30代の筋トレと、身体の構造とか
代謝といった要件が変化してくるのに、同じような
筋トレではだめでしょうに?
それと、40代50代の人は何のために筋トレをするのか?
っていうことをもっと意識しないといけないですね。
歳をとってて
20代向きの筋トレをしても身体に無理がくるし、
そもそも何のために筋トレをやっているのか、
というメインテーマがなくて、ただ単に20代のころと同じように
筋トレ、っていうことばかり言っても、そんなの長続きだってしないし、
将来的に身体に無理が来ますよ、ということですね。
で、貸してくださったのがこれですが。
いつまで自分が自分のことをきちんとできるか、ということを
最近特に考えます。というのは、やはり自分の周囲でも
親の老化の問題、介護の問題、というのがよく話されるように
なってきました。このことは親のことでもあるし、自分のことでもあります。
40代の前半はまだ30代の続きみたいなところが
ありますし、50代の前半だって40代の続き、
って言う部分がありますが、次第に体のあちこちに
がたがくるようになってきていて思うように気持ちと体が
ついていかない、っていうことだって出来するように
なるのです。
自分が将来、そういう認知症とか
身体の自由が利かなくなる、ということは
避けたいなぁ、、、そのためには、じゃあ、今からどうすれば
いいのか、というようなことを今から考えないとなぁ、
というようなことを最近の謙介、
頭の中に春霞がかかりながらも
結構真剣に考えているのでありました。
(今日聴いた音楽 ミュージカル キャッツ から
メモリー 歌 サラ・ブライトマン
いつものヒネた選曲に比べて、今日はなんだか
直球勝負です。 )
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Comments
経年、というのは私の職場では“加齢”ということが多いのですが、良い加齢と悪い加齢が話題にされることが多くなってきました。
良い悪いを一概に言うことは難しく、他の人から悪くても、本人にとっては良いということもあり得ます。
ただ、やはり標準的といいますか、一般的な部分を基準におくことが健康管理の基本だと思いますので、それを目指すことやクリアすることが良い加齢だと考えています。
人間の“健康”について友人と話したことがあります。
大きく3つの段階に分けられるということで意見が一致しました。
「肉体的健康」
↓
「精神的健康」
↓
「社会的健康」
肉体的健康ですが、これは文字通りで身体が資本というわけです。
病気や故障から距離を置き、身体の機能を正常な状態、健全な状態におくことです。
年をとりますと全てがBestな状態にというのは無理ですし、先天性や慢性の不調を抱えている場合は、その心配が極力少ない状態をBetterとして維持することが目標となるでしょう。
100%ということはあり得ませんので、その時・その年齢の状態に応じて、Better~Bestを創る・維持することが肉体的健康の目標だと思います。
それがある程度まで達成できると精神的健康を求めることができます。
趣味や娯楽に興じたり、美食や宝飾を求めたりということもそうですが、一番は心が煩わされない状態を維持することだと考えます。
収入や家庭、教育、体のこと等に問題を抱えていたり、また漠然とした将来への不安を感じている状態では、笑顔で日々を過ごすことはできません。
精神的健康は一日のうちにどれだけの笑顔と喜びを持てるかということが目標になると思います。
自分の体や気持ちに安定と安らぎが出てくると、周りへの関心を持てますし、優しさも示せるようになります。
そうなると自然と人が寄ってきたり、また自ら人に近づいていったりということができるようになります。
社会的とは日本とか市町村とかの大きな単位ではなく、人が3人いればコミュニティーができてそれ自体が小さな“社会”という発想です。
家族や友人関係、会社、地域と広がりますが、やはり身近な人たちとの関係を重視します。
周囲の人たちとの関係・状況をより良い形に創り上げていくことは、支え合って生きていく基本になります。
支え合うには自分にも余力がなければいけませんので、先に書いた肉体的・精神的健康をある程度まで高めておく必要があります。
健康といっても捉え方は様々ですね。
3つの健康段階は飛ばして次にということが難しいので、順を追って創り上げていくことが大切です。
一朝一夕では無理なことなので、日々の意識作りが求められるのですね。
天寿を全うするまで努力というとネガティブな表現になってしまいますが、その年齢や状況に応じて常に新しいことを求めていけると考えることができてば少しはポジティブになれるのではないでしょうか。
経年といいますと、謙介さんも仰ったように“劣化”がついてきそうですが、年齢を重ねたことによる“燻し銀の輝き”というのもあると思います。
私は全然ほど遠いのですが、謙介さんのような一本筋の通った方ですと生かせることが多いはずです。
私の長期的な目標は老害と言われないように生きていきたいということですね(汗)。
長々と偉そうな建前を書いてきましたが、本音はといいますと、映画『TIME』のように25歳ぐらいで老化が止まって永遠の若さが手に入ればいいのに、という感じです(^_^;)。
Posted by: タウリ | 13. 04. 24 AM 9:54
---タウリさん
やはりかぐや姫の時代からすでに「不老長寿」という四文字熟語がしっかりあるくらいですからね。
こういう「老い」というのか、身体の機能の衰え、ということは古今東西を問わず、昔から関心があって、なんとしてでもその状態を手に入れたい、という人の野心というのか重大な関心事だった、ということですよね。きっと。
栄養士の友達から、健康寿命と、平均寿命ということを聞きました。健康で日々生活できる寿命と、平均寿命の間にはやはり数年のタイムラグがあって、その間をいかに短縮するか、が栄養士のつとめなんですけどね、という話でした。亡くなる直前まで意識ははっきりと、寝付くことなく過ごしたい、というのは理想なのですが、友達とか周囲の親の介護などの状況を聞いていますと、やはりそれもまた難しい、ということのようです。
「いぶし銀の輝き」よい言葉と思います。若いときからさまざまの経験を経て、「海千山千」のおっさんになる、というのが謙介の理想ですが、、どうも最近の日本は、そういう「成熟」を拒否する傾向もあるようです。時代の変遷のテンポ(特に科学技術とかIT関連)が速すぎて、柔軟に対応できるうちはまだいいのですが、次第にそういう変化についていけなくなった人間は、打ち捨てられる、という方向にばかり行くのが目に付きます。IT弱者の人を馬鹿にしてみたり、、PCの使い方とかリテラシーを知らないと放っておかれたり、、なんだかそういう差別が目について仕方ないんですよね。人の値打ちなんて、そんなことだけで決まるものでもないでしょうに。 今年の夏にうちの仕事場に聖路加の日野原先生が来られて講演をなさるのですが、そういう加齢についての秘訣が伺えれば、と思っています。
Posted by: 謙介 | 13. 04. 24 PM 1:55