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13. 02. 08

往復1000キロ・京都へ(5)

Ooguri


これが正面から見た、妙心寺の大庫裏(おおぐり)です。
入ると、大きな玄関があります。50人くらいの人が一度に
履物をはきかえることができそうな大きな玄関です。
その右に大きな台所があります。こちらの台所では一度に
200人分くらいの食事を作ることができたといいます。
そうしてその奥に日常用の台所が
入り口右側におまつりしているのは、「韋駄天」さまです。

ご飯を食べおわったときに「ごちそうさま」といいますが
漢字で書けば「ご馳走さま」です。
「食べものを得る、もしくは食事を作る」にあたって材料を
調達してこなければなりません。その食物を調達してくるのに
処々方々を走り回って集めてきた、と。
その労苦に対する感謝の気持ちが「ごちそうさま」の意味ですよね。

韋駄天さまが釈尊さまに食べ物を差し上げるために駆け回って
そうした食材を調達しきた、という故事に基づいて、禅宗の
お寺では、こんなふうに韋駄天さまを台所の近くにおまつりする
ようになっています。

Okagesama
妙心寺ではひとりひとりの人間は、自分を取り巻くさまざまなものに
よって生かされている、ということで「おかげさま運動」というのを
やっています。その運動の中で募金が行われての寄付だと思います。


前に白隠さんのことを単に画僧としてからだけ見てはちょっと
問題があるんです、というお話をしましたが、その理由を
ちょっと書いておきます。

日本にもたらされた臨済宗のそれぞれの派の創始時期
を箇条書きにしたんですが。
その年と場所に注目してくださいね。

一番最初の臨済宗のお寺は、九州の博多に今もある
聖福寺です。1195年に将軍源頼朝から場所を賜り、
栄西を開山として創建されました。以下次のように続きます。

建仁寺派
1202年栄西創始。
本山は京都の建仁寺。
ここで、謙介の入っていた書の団体の展覧会を
したことがあります。 本山といいながら割と
敷居が低く、庶民的なお寺です。

東福寺派
1236年円爾創始。
本山は京都の東福寺。

建長寺派
1253年、蘭渓道隆創始。
本山は鎌倉の建長寺。

円覚寺派
1282年 無学祖元創始。
本山は鎌倉の円覚寺。

南禅寺派
1291年、無関普門創始。
本山は京都の南禅寺。

大徳寺派
1315年、宗峰妙超創始。
本山は京都の大徳寺。
♪すきすきすきすきすきすきっすきの
一休さんの大徳寺ですね。

妙心寺派
1337年、関山慧玄創始。
本山は京都の妙心寺。

天龍寺派
1339年、夢窓疎石創始。
本山は京都嵐山の天龍寺。
そういえばこの天龍寺でしばらくヒロミ・ゴーが
修行をしました。誰があんなの入れたんだ。

相国寺派
1392年、夢窓疎石創始。
本山は京都の相国寺。
同志○大学の地主さんですね。


これらから何が見えてくるかわかりますか?

最初の臨済宗のお寺は、京都ではなく、九州の博多に
作られました。ではなぜ、博多だったのか。

最初、京都に臨済宗のお寺を作ろうとしたのです。
しかし、すでに京都にある他の宗派から猛反発を
受けました。 そりゃそうです。密教のように
すでに日本で布教をしていた宗派から言えば
臨済宗は新興宗派でしたから。
ですから京都で作るお許しが出なかった。
そうして、臨済宗は、鎌倉幕府に救いを求めたのです。
で、うまく頼朝の知遇を得ることができました。
そうして、その援助を得て、九州の博多に
今もある。(しかも歓楽街のすぐ近所!)
聖福寺を建立したのでした。

しかし、やはり京都にお寺を建立したい。
これは臨済宗の悲願でもありました。
ようやっと7年後に、京都の祇園に建仁寺を
建立することができたのでしたが、やはり、この時も
実は大変なクレームがつきました。
そうして、どうしたかといえば、この建仁寺では
臨済宗のお寺ではありましたが、真言宗も天台宗も
教えます、という他の宗派との兼学のお寺、ということで
ようやっと京都の他の宗派からのお許しが出て、
創建にこぎつけることができた、のです。

ですから、この次に東福寺が建てられるまで
30年以上開いているでしょ。で、その次のお寺だって
見てください。以降2つのお寺は京都じゃないんです。
鎌倉のお寺なのです。 

やはりまだ非常に他宗派の反撥が大きかった、
ということです。ですから、妙心寺なんて、博多の聖福寺が
建てられてから140年以上も経って、ようやっと、
なわけです。そこを見ていただきたくて、各寺の創建年と場所を
ずらずらとならべた、というわけなんです。

臨済宗、って、こういうふうに
日本に入ってきてから、一定の認知を受けるまでに
やはりそれ相当の時間がかかっています。
しかも、認知は受けたけれども、まだその教団としての
力は弱くて、細々、とだったわけです。
なので、ほとんど消滅しかかっていた宗派でもありました。

そこに白隠さんが出てきて、臨済宗を建て直すことに
なりました。白隠さんがさまざまな禅の教えをもう一度
体系化しなおして、庶民にも分かりやすく教化するための
方策を考え出したのです。カトリックで言えばトマス・アクゥイナス
みたいな人、といえばいいでしょうかね。

しかもものすごいパワーの
あった人だったと思います。その絵、その書を見ると
少々の破調なんてくそくらえ、で、ぐいぐいと剛速球のような線です。
おそらく胆力・実際の力ともにあふれていたエネルギッシュな
人だったに違いない。老師の作品を見ると、その力のすごさが改めて
分かるようにおもうのです。  

ということで、謙介は白隠さんという人を
見るときには、単なる画僧ではなく、臨済の宗門史の中で
白隠さんを見て欲しいのです。

そういう背景を知らずに白隠さんを見ていると
単に大胆な線で描かれた絵ですな。
おもしろい絵や書を書いた人ですな、というような表面的な部分でしか
白隠さんを見得ない、ということになってしまいます。
実際そういうふうな部分でしか見ていない人も多くて、、
それだけでは決してないのに、と謙介は思ってしまいます。


Shoin

大学に入ってすぐの頃、新しくできた友達と妙心寺の書院にきて
見学をしました。早いものでもうあれからウン十年が経ってしまいました。
この建物を見ると、月日の流れの速さを改めて思いました。


Hattou

法堂です。儀式などで使う建物。ここに狩野探幽の描いた龍の天井絵が
あります。


Hattou3
ここに腰かけて友達とながいこと話をしていたこともあります。

Hattou2
ずっと曇っていたのですが、時折薄日が射して、柔らかく法堂の扉を
照らしていました。

Garan
前が法堂で後ろが仏殿です。

謙介にとっては本当にいろいろな思い出の詰まった懐かしい場所です。

両親も久しぶりに妙心寺をゆったり歩いて、記憶が蘇ったせいか
昔話をあれこれとしてくれました。今回の上洛でも京都市内を車で
走ってみると、以前あった店はなくなってしまったり、
建物さえ変わっているところも多かったのですが
さすがにここは昔と変わらず、そのせいもあって両親の話も
たくさん聞くことができました。
「どうしようか? 街に出てみる? 」と聞いてみたら
「ほなら行くわ。」ということなので、市内に出ることにしました。
ですが、市内は駐車料金が高いし、またそこに戻らないといけないので
タクシーで行くことにしました。
今日はここまでにします。


(今日聴いた音楽 誘惑 中島みゆき 1982
 若いみゆきファンにとっては、遡って聴く、という
 ことになるかもしれませんが、こちとら、「時代」から
 ずっとリアルタイムで聴いてますもんね。なんて言っても
 何の自慢にもなりませんが。 

  そうそう。今日はホテルニュージャパンの火災があった
 日なんですよね。で、明日が日航機の「機長何するんですか。」
 の羽田逆噴射墜落事故のあった日で、、。当時は優雅に
 謙介、朝の7時くらいに目をさまして、8時くらいにのーんびり
 朝ごはんを食べる、ということをしていましたが、、テレビで
 この立て続けに起こった事件を見てうわー、って思いながらテレビを
 見ていたのを思い出しました。)


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Comments

日本には妙心寺に限らず、大きなお寺、神社、遺跡が多く残っていて、常日頃から歴史に触れ時代に触れることができ、とても素晴らしいことだと思います。
これは心底羨ましく思います。
こちらはそういった財産がほとんど焼失または散逸してしまい、文字通りというか記憶だけの歴史遺産のみになってしまいました。
古い書院の通路に腰を下ろし、語り合うなんてできませんでしたから。
まぁ、沖縄の場合はできたとしても暑くてかないません(苦笑)。
思い出にひたる時間はとてもステキだと思います。
大変良い旅になりましたね。
ご両親もさぞかし喜ばれたことでしょう。

白隠さんの謎、少し解けました(笑)。
ただ、仏教そのものに知識がほとんどないため、臨済宗と他の宗派(特に真言宗や天台宗?)との位置づけ、違いが難しいです。
ウィキってググって少し勉強してみます。

Posted by: タウリ | 13. 02. 09 at 오후 6:02

---タウリさん
本当にあの太平洋戦争の米軍による沖縄攻撃はものすごいものだったのですね。わずか1平方メートルの区域にものすごい数の砲弾が打ち込まれおびただしい人や、琉球王国以来の伝統的な建物やものが喪われてしまった、と何冊もの写真や記録集で読みました。首里の戦前の情景と、攻撃後のすっかり変わり果ててしまった光景には本当に胸が押しつぶされるような気がしました。記録の死者数は出てはいますが、実際にはもっともっと多くの人が犠牲になったのでは、と思っています。一度そうした沖縄のいろいろなところを巡ってみたいと思っているのですが、何せ謙介が行こうとすると台風が来たり、気候が急変して那覇行きの飛行機が欠航になってしまい、、。何か祟られているのでしょうか。何となく沖縄と相性が良くないんですが。(笑)
 実は京都も原爆投下予定地の一ヶ所だったのです。ちょうど広島と同じように盆地ですから、その効果が出やすいから、という理由でした。しかし、やはり後々の日本人に対する心理的な影響とかを思って止めた、と記録で読みました。
 そのおかげで学校帰りに妙心寺の境内でやぶ蚊に悩まされつつ、友達とアホな話をすることもできたのでしたが、、。
 両親も今回の旅行は楽しかったようです。こういう無理のない範囲でなるべく機会を設けて外に連れ出して、記憶や思い出を刺激するようにしたい、と思っています。

Posted by: 謙介 | 13. 02. 09 at 오후 9:00

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