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12. 12. 12

『大阪アースダイバー』を読んで

Shinichi


正直、この本、読んでて、途中で何度、
もう読むの止めたろかしらん、と思ったことか。

感想なんて言うのもバカバカしい。
あまりにひどい内容で、、あきれてしまった。

たとえばこんなの。

 太陽と墳墓の土地である広大な河内世界
 (生駒山麓と大阪平野の大部分と南河内を含む、広大な世界)
 の「大地の歌」、それは「俊徳丸」である。
 夏至を中に含む真夏の頃、 昼と夜の長さが極端にアンバランスに
 なる季節には、死者の霊が生者の世界に大挙して訪れてくる、と
 考えられた古代から、人々は広場に集まって、音頭取りの乗る
 櫓の中心に、円陣を作って踊りを踊った。
 生者と死者が、いっしょになって環を描きながら踊るのである。
 それは仏教の盆行事などがはじまるよりも、ずっと昔からおこなわれて
 いた、この列島の真夏の祭りであった。(49ページ)

別に「死者の霊が生者の世界に大挙して訪れてくると
考えられた古代から」たって、大挙、って変じゃないですか。
たましいには、それぞれ帰っていく場所があって、そこに
帰るべくしてこの世にかえってくる、と考えられていたのですから。

 それは仏教の盆行事などがはじまるよりも、ずっと昔からおこなわれて
 いた、この列島の真夏の祭りであった。

それでお伺いしたいのですが、「ずっと昔から」っていつごろ
からですか? そこの部分を傍証をつけて、証明して
いかないと、説得力がありません。 


それに、死者の霊が大挙してだかふわりふわりだか知りませんけれども
この世に帰る季節と言うのは夏だけではありません。
春・秋のそれぞれのお彼岸だって、帰ってくるわけです。
だからお年よりは夏のお盆とともに春秋のお彼岸に
ご先祖様の、、ということを言っているでしょ。
春にだって鎮魂の祭りはあります。
京都のやすらい祭りがそうですもん。
秋にだって鎮魂の祭りはあります。
秋祭りがそうではありませんか。

夏だけクローズアップさせて「死者の霊が、
やってくる」というのはおかしいです。


ただ謙介は夏の鎮魂儀礼そのものは批判はしません。
みなさんよくご存知の京都の祇園祭だって
あれは死者の祭りです。
山鉾巡行といっていますが
あの山鉾の部分こそ、あの世から帰ってきた
死者の魂がこもった部分なのです。
「鉾」の刀の枝の部分に竹をつけているでしょう?
あれが死者の魂の「依代(よりしろ」で、あの部分に
死者の魂はとりつきますし、「山」というのは
そこに死者の魂が籠もるものですよね。
だから今も各地域に山をご神体とした神社があるでしょ。
寄代をもった鉾と山と。どちらもそこに
祖霊(あの世からのたましい)を運んでいきます。

ですからあの巡行は「葬列」なのです。
この話だってここで何度も言っていますよね。


それから、死者を迎える儀式は一つではなかったはずです。
河内と言っても、その地域は結構広いのです。
死者を迎える儀式のことを「タマ迎え」というのですが
タマ迎えの方法は地域差が大きいのです。
盆踊りだけでなかったはずです。
高い木を寄代とするところもあったでしょうし。
軒に草や木々の枝を挿して、それを寄代としたところもあります。


で、大阪アースダイバーはこう続いています。

 そのとき、いつの頃からか、河内の村々で、櫓の上から
 朗々と歌い上げられたのが、河内音頭「俊徳丸」である。

いつの頃からか、なんて学会で発表したら、
いつの頃から、っていつよ? その証拠は?  
等々たちどころに突っ込まれるでしょう。

 今に生き生きと伝えられる「俊徳丸」の物語の
 原型は、生駒山山系高安山の麓の村々で
 古くから伝承されてきた。 説教節「俊徳丸」
 謡曲、「弱法師」、浄瑠璃「摂州合邦辻」は
 それをもとにつくられた。 しかし、河内の大地も
 震えよ、とばかりに歌いあげられる、河内音頭
 「俊徳丸」こそが、大阪の大地の歌として真骨頂を
 しめしている。

もうここ読んで、あーあ、って思いました。
(こんなのばっか)
説教節の「俊徳丸」は、後からできたかもしれませんが
説教節そのものは、もっともっと古いのです。

前から言っているように、平安時代のはじめにまとまった
(ですから実質はその前の奈良時代、という色分けですが)
『日本霊異記』は、元々仏教なんて信仰しようとしなかった
一般の民衆への、説教の台本として書かれたものでした。

僧侶の街頭でのお説教が、次第に辻辻での語りになる過程で
次第に言いやすいように言葉に七五調とか五七調に整えられて
その語りに琵琶法師のように音楽を伴う人も出てきて
そうして、その語りだったものが次第に「歌」となっていったのです。

そうしてその延長で死者の霊を弔う盆踊りだってできてきた、
こういうお坊さんの説教から、語りが生まれて、やがて
歌になったりしていきました。

浪曲とか韓国のパンソリなんてその最たるものです。
あるところでは「語り」が入り
あるところでは「歌」がありますでしょ。

語りから歌へと発展していったわけです。
そうして動きの要素が入ってそれが踊りにつながった。

いきなり盆踊りがあったわけではありません。
説教から語りになって、それがやがて歌舞音曲を伴うように
なっていったのです。


わずかに数ページ見ても、本当に突っ込みどころ満載というのか
やれやれ、というのか、、


ちなみに日本放送協会が出した日本民謡大観 近畿篇
の河内音頭の説明は以下のように書かれています。

 それらの唄の源流は、西日本でうたわれる、
 七七七七の四句を一連として、あとは同じ
 節を繰り返していく長篇の「木遣口説」の
 盆踊り化した「盆踊口説」で、これが広まった
 際、河内地方へも移入された。当初は、中国地方の
 「盆踊口説」とさしたる差はなかったが、幕末
 滋賀県下で「デロレン祭文」入りの「江州音頭」
 が流行し始めると、その影響を受けて、次第に
 今日の「祭文」がかった、いわゆる浪花節調の
 ものになっていった。

       日本民謡大観 近畿篇 解説53ページ


ね、もとは「口説」(くどき)なんですよ。語り物だった
わけです。その語りが、音曲を伴って次第に音頭に
なったのです。盆踊りが先にあって、後から語りが
できたのではありません。
そういう伝承があって、それを語る人がいて、それが
やがて音楽と結びつき、舞踊と結びついて、ああいう
形式になった、ということです。


 

最後のところに参考文献が出ていますが
古代史であれば必読のはずの文献が
しかも大阪の古代史を研究するのであれば
必読でならないといけない文献が、ものの見事に欠落しています。

どうして直木(孝次郎)先生の本が文献のリストにないのか。
なぜ、土橋寛先生の『古代歌謡と儀礼の研究』すらないのか。

大阪の古代のまつり、であるなら、「八十嶋祭」の文献を読まないと
いけないでしょうに、それもありません。これらは当然読まないといけない
文献のはずです。学部の卒論レベルの参考文献たって
それくらいは必要です。

舞踊との関連を言うのであれば、住吉大社のお田植え祭で
早乙女が踊る事例は、どうして文献に入っていないのか。

近畿圏の踊りの文化は多種多様です。
田楽が入っていないのはどうしてなのか。
能だって入っていません。

能を一部特権階級のもの、と考えるのは誤りです。
奈良とか滋賀には民衆が使っていた能舞台が
結構そこここにあるのです。
そうした田楽とか能だって全くといっていいほど
考慮に入っていません。

それから羽曳野の古市古墳群と堺の大仙古墳群
が同一線上にある、なんていうのは、筆者の
発見でもなくて、考古学とか古代史をやっている
連中だったら、みんな当たり前に知っていることです。
それをわざわざギリシャ神話の呼称なんかしないで
もらいたい。

古市古墳群を考える時は、物部氏を考えると同時に
土師氏のことだって考えないといけないのは言うまでも
ないことですよね。あの羽曳野の辺には土師氏もいたわけですから。
しかし、物部の話ばかりで、土師のはの字もありません。
どうして土師氏の交渉への言及がないのか。

うーん。 感想といえば、
最初から中沢さんの頭に結論があって、
それを導くように自分の都合のいい事象だけを
つなぎ合わせただけ、じゃないか、と思いました。

通常なら自分が言いたいことを言うのであれば
その時代に合わせた事例を持ってきて
主張すべきですが、上代(飛鳥時代)のことを主張
するのに近世(江戸時代)の例を持ってきても、
ダメでしょうに? 

俊徳丸の伝承と聖徳太子の話を一緒にされても
困ります。


自分の言いたいことだけ言っておいて、
じゃあ、具体的な証明は? って言えば
昔からそうだった、って、、、。
これを書いた人って、学者なんですか?
学者だったら、自分の論を説明する前に
しなければならないことがあるでしょうに。

先行研究の整理とか、従来の説の検討を
まず概観するなり整理して書いて、
こういう先行研究はあるけれども
これでは、こういうところがおかしい、とか、
わたしは疑問がある、と書きます。

そういうふうに先行研究に対する
疑義を投げておいて、じゃあ、自分はこう考える、と。
そこで自説を持ってきます。

そして、そこから実証に入ります。
その証拠としては、こういうことがあって、
調査の結果、データが出ている。 もしくは
こういうことについては一般的に知られていて
もはやそれが定説になっている。

こうした調査結果・実験結果のデータから
先行例では、こういうふうなことが言われていたけれども、
それとは違って、自分はこういうふうに考える、という結論が出た、と。

こうしなければ、何の説得力もありません。
↑が人を納得させるために必要な文章の要素だと
思うんですけどね。

まったく言いっぱなしくらい楽なことはありません。
バカボンのパパですよね。
ぜーんぶ「それでいいのだー」で済んじゃうんですもん。


だけど、こういう民俗とか古代伝承とかの
イメージだけで書いた本って、結構売れるんですよね。
まぁだから「大日本雄弁会」だって本の出版を許可した、、
ということなんでしょうけれども。

「古代史にはロマンがある」とか歴史オタクとか
言うような人には、こういうちょっと学問風味をつけた
妄想の本、おもしろから買ってみよ、と思う人が
多いのかもしれません。


やれやれ。
こんないい加減で雑駁な内容で、いっちょあがり~って
本が出せる、って、うらやましい限りだなぁ、と謙介は思いました。

あ、これが感想ですかね。(笑)

(今日聴いた音楽 ということで 河内音頭
 唄 川端宗二郎 1962年の録音 )
 

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