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12. 10. 24

客観性と実証性

韓国がノーベル賞受賞に躍起になっている、という記事が
ありました。 この記事を書いたのが誰か
謙介さんは寡聞にして存じ上げませんが、
韓国のノーベル賞に対するこだわりがものすごいのは
今に始まったことでもありません。

というのが、ソウルの目抜き、太平路の大韓教育保険ビルの
中に、俺がソウルに住んでいたころに、ソウルで一番大きな書店に
教保文庫(キョッポムンコ)という書店がありました。
その書店の出入り口のところにノーベル賞受賞者の
イラストがずーっと掛けてありまして、、。
(もちろんその中には湯川さんとか川端さんのイラストもあった、
と記憶しています。)

わざわざノーベル賞ノーベル賞って言いたてるところとか
新聞(朝鮮日報にどうやったら頭を良くできるのか、などと
言う記事が(真剣によ。)出ていたりして、最後の
ゴールがノーベル賞、とありました。
頭をよくしたい、その理由がノーベル賞をとりたい、だって。

そのときに、ああ、韓国ってノーベル賞が欲しくて欲しくて
相当に必死なんだ、ということを知ったのでした。
当時はまだキムテジュン氏も受賞していなかったため
(というのか、まだキムテジュン氏が大統領にもなって
いなかった時分だったですし、、。)
韓国のノーベル賞受賞者はまだ誰もいなかったときです。
その頃から、本当に韓国はノーベル賞が欲しくて欲しくて
欲しくて欲しくて、もう必死だったように思います。
ですからあんな新聞記事読んでも、今に始まったこっちゃない
としか謙介は思わないし、やっぱり相変わらずだなぁ、
としか思えないないのですけれども。

韓国にいたときにも、ずいぶんと韓国人の研究者に
会う機会がありましたし、大体が俺、ソウルの姉が
日本のとある大学に日本語で提出する博士論文の校正と清書を
請け負ったりもしました。そのときに痛感したことは
正直、これではあかんわ、ということでした。

それは画期的な学問の成果を出す、というような以前の、
研究に対する姿勢、とか基本的な態度の段階に
大きな問題がある、と思ったわけです。

前々から言っているように
韓国には、韓国人の大好きな
「ケンチャナヨ」という言葉があります。

最近韓国のことを伏字で「K国」と言ったりしているの
をよく見ますが、K国のK、謙介は「ケンチャナヨ国」
って言ったらええやん、って思います。
ケンチャナヨのKでっせ、あんなもん。

ケンチャナヨ、っていうのはとっても便利な言葉で
基本的に「大丈夫、気にするなよ」というような言葉です。
何かこちらが迷惑をかけるようなことをしたときに
「ミアンヘヨ」(すまん)って言ったら、韓国人の友達は
「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)って言ってくれたりするわけです。

こういうときのケンチャナヨはとてもうれしいのです。
韓国人の友情の篤さを感じてうれしくなります。

ですが、別の時にこれを言われると、
思わず「それではあかんやろ。」と言いたくなります。
どういうことかといいますと、
学問領域でもこのケンチャナヨ、が至るところで
出てくるわけです。

日本でそこそこの学会誌に投稿する、ということは
まず、査読、と言って、投稿された論文を下読みして
この論文は、この学会誌に載せてもいい内容・水準か
それともこれはよくないか、という
チェックが入ります。 それで仮にオッケーが出ても
一部書き直しがあったり、訂正加筆を求められたりすることが
あったりします。

ですから掲載に当たっては、それなりの審査の目とか
チェックが入っているわけです。
ろくでもないものが載ったら、「あんなもので載るんか」という
批判だって起きます。

日本の審査は割に厳正です。
(まぁたまにいい加減なところもありはしますが。笑)

ところが、韓国は書いたときに、すでに問題があるわけです。
論文ですから、当然論理的で、かつ、実証性がないと
いけません。文系の論文だって、さまざまな用例を
抜き出してきて、こういう用例とか、言葉の遣いかたの傾向がある。
だから、~したことが言える、というふうに論じます。

でも、韓国の論文は、そういうのがまるでなかったりします。
論だけです。 論だけ、って、いいですよね。(嘲笑)
だって自分の好きなことが言えますから。

それこそ独断と偏見で言ったって、何の問題もありません。
それで、その理由は? 証明は? と、なったら、
「私がそう言っているのだから間違いない。」で済ませます。
ここでやはり頻出するわけです。ケンチャナヨ、っていうのが。


大学の先生はいまだに「キョスニム」と呼ばれます。
漢字で書くと「教授様」です。ですからとっても偉いわけです。
その偉い私がそう言うのだから間違いはない、とか
堂々といいます。


ですから論理性も、科学性も、実証性も、そんなものはありません。

他には、誰かがこう言っている、というような場合。

確かに謙介だって論文を書くときに他人の説を引用することは
あります。例えば、学会の中でも、みんなが認めて評価の高い
知られた説を傍証に使うこともあります。でも、韓国の場合は
どこの誰が、ったってきちんと明示しないこともあります。
そんなもの、そこいらの小学生と同じです。
「みんなそう言ってる。」からまちがいないお。

どこの誰がやねん、 と突っこみを入れたくなりますね。
そういうのがよくあるわけです。
学術研究の中心部分で
ケンチャナヨ、をやってしまうのです。
後は科学的な論文ですと、データの捏造。


確かに日本でもこういうの、ないとは言いませんが、
韓国ではそういう意識が普通にあるのです。

こうした意識を改めて、厳しく学問と向き合うこと。
科学的・実証的・論理的にどこまでも対象を追い求めること。
こうした態度が当たり前にならないと。

いつまでも実証性についてケンチャナヨで済ませている限りでは
全然あかんやろ、もっと客観性と実証性に対する意識を持てよ
というのが謙介の意見なのです。

(実はここまで、こないだのiPS細胞で嘘八百並べた人の
一件の前に書いてあったのです。日本もああいうヤツが
いて、困りますねぇ、、。)

実証性がいい加減だ、というのは
それは領土問題に対する韓国の主張を見てもそうじゃないですか?
実証性にしろ、資料提示の仕方にしろ、全然具体性がありません。
史実に基づいて客観的に資料を見ようとしていない。
ただただ、自分の主張を大声で言うだけ。

領土問題に対する主張と、韓国の学問に対する態度を合わせたとき
全然論理性や実証性がない。
その姿勢とか態度が全く同じに、すっかり重なって見えるのです。


ノーベル賞、はその人がやってきた結果が、
そう評価されるのであって、ノーベル賞をもらうために
研究をしているわけではないはずです。
ノーベル賞をとるために、何かをする、では本末転倒では
ありませんか。
いつの間にか手段と目的がひっくり返ってしまっている、、。

(あ、でも、日本にもがんばって
ノーベル賞受賞招致活動やってる小説家が
いますけどね。笑)

まぁ、それはともかく。
そういう学問研究と向き合う姿勢から、まずは変えないと
いけないんじゃないかなぁ。
謙介は、長らく韓国の研究者の姿勢と領土に対する主張を見てきて
そう思うのでした。

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Comments

 『論だけ、って、いいですよね。』

 ・・・この一節に笑っちゃいました(笑)
 思うに,李朝時代の党争自体が,その『論だけ』そのものだったんじゃないかと。

 ここまで見事に主観的な文化も,珍しいんじゃないかと(苦笑)

Posted by: Ikuno Hiroshi | 12. 10. 25 at 오전 12:51

---Ikuno Hiroshiさん
だって、、どこまでも論しかないじゃないですかぁ。(笑) 何にも実証性がない、というのか、かけらすらない。でも、わしはえらいんじゃ、って、自分の言いたいことだけ言って、えばってられた、っていうの、おっしゃるように、李朝ってそういう文化を営々として創りあげたんですから、それはそれですごいと思います。うちの恩師のよく言う「大したもんやなぁ、、」というようなものですが、、。

Posted by: 謙介 | 12. 10. 25 at 오전 6:19

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