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12. 09. 12

奈良へ(その2)

謙介の実家の街から、奈良までは
車だと3時間ほどで着きます。

朝、 6時に出発して、
淡路島から明石海峡大橋、第二神明、
阪神高速、西名阪と走り継いで
法隆寺インターチェンジで下りて
法隆寺に到着したのが9時でした。

今回の奈良旅行をしようと思ったきっかけが
なんたって梅原先生ですからねぇ。(笑)

最初はやはり法隆寺に行かないことには
話になりません。

8日の土曜は奈良県地方、雨が降る、ということでしたが
着いてみたら、曇りで、何とかお天気持ちそうな感じでした。

Matunamiki

この松並木を見ると、ああ、法隆寺に来たなぁ、という
気がします。

Nanndaimon


まずは南大門。 この門は比較的新しく室町時代のものです。
(ほかが古いですから、相対的に室町時代でも新しい。笑)
実はかつてはこの門はもっと今より伽藍よりの
場所にあったのです。ところがお坊さんの中で争いがありまして、、。
どういうことかといえば、お坊さんの中には、
政府の公的な承認を得てお坊さんになることを認められた僧侶と、
そうでなくて、自分でいろいろと修行をしたり、あるお寺の
中でそういう公的な認可は得られないけれども、お坊さんの
修行をしてお坊さんとしての仕事をしていた人がいました。
こういうお坊さんのことを私度僧(しどそう)と呼びます。
国によるお坊さんの認可というのは1年に10人ほどでしたから
他のほとんどのお坊さんはこうした私度僧が占めていたわけです。
日本霊異記を著した景戒とか、空海も私度僧です。
法隆寺の中でもそうした国による認可を受けたお坊さんと、
私度僧が寺の運営を行っていたのですが
やはり私度僧は、一段低く見られる傾向がありました。
それがどんどんエスカレートしていって、とうとう
官許のお坊さんでなくては、この門を通るな、という
決まりができてしまいました。 つまり
私度僧の身分差別にまで発展してしまったのです。
そうして怒った私度僧が、この門に火をつけて焼いて
しまったわけです。 その後、新しく作られたのが今の
この門、ということです。
さて、伽藍の中に入ってみます。

Nanndaimonn2

梅原先生が、法隆寺は聖徳太子の怨霊を閉じ込めておくための
寺であった、と主張したその理由の一つにこの中門が
ありましたね。この中門の真ん中に柱があります。
門は人の通りがあるわけですから、通行しやすいように
真ん中に柱なんか作らない、なのにここはまるで
かんぬきのように真ん中に柱がある。この門の真ん中の柱こそは
太子の怨霊を外に出さないようにするための表象であった、
というのが先生の太子の怨霊を閉じ込めておくための寺
という証拠の一つでした。

まぁその説はともかく、このお寺はいろいろな空想を
見ているわれわれに与えてくれるのは確かなことかもしれません。

今でこそ、法隆寺の伽藍の中の建物は、古びてしまっていて、
パッと見には、みんな古そう(笑) と思ってしまうのですが
美術史的に見ると、それぞれの再建時代の建築方法とか
その時代の建て方で建ててありますから、いろんな時代の
建物がモザイクのように入っています。

Gojyunotou

金堂と五重塔はやはり飛鳥の様式ですね。
五重塔は、中がスコーンと中空になっています。
中心の柱だけ、上から下に立っていて、
その柱にぶら下がるように屋根とか裳階(もこし)が
ついている構造です。
柱の一番上の部分だけ屋根と柱はくっついていて
後は接していないのです。ですから
後は柱にぶら下がるようになっています。
ですから五重塔の中に入って真ん中から上に懐中電灯を
照らしたら、一番上まで、見通せるんですよ。


そういう構造なので地震が来ても各階や各階の屋根は
ぶらんぶらんと揺れるだけで塔が倒れないのです。
地震に対しては本当に強い構造です。

地震には強いのですが、塔は雷には全く
弱いです。 まぁ雷の正体が何かということが
分かっていなかったのですから、仕方がないのですが。

高くて、先端に下の写真のような水輪と呼ばれる
金属の部分ががついていますから、
そりゃもう雷が発生すると、にここに落ちてね、と
言っているようなものですもん。
ですから歴史的に塔は落雷のために焼失したとか
雷に打たれて崩壊したというのが当たり前にあった
わけです。

Kama


五重塔のこの鎌も、梅原先生の本にありましたね。

で、金堂です。
Kondou


この金堂、いささか変な形なのです。
金堂の一階は九間幅で、二階は四間幅。
つまり、一階と二階でこの金堂は全然別の寸法で建てられていて
構造が違うのです。さっき五重塔は通し柱がある、と言いましたが
金堂は一階と二階を通す「通し柱」がないのです。
上と下は別々の構造です。

梅原先生もどうしてこんなふうになったのか、
ということにも疑問を呈しておいでです。

さっき南大門のことを言いましたが、あの門は室町ですし
伽藍北側の講堂(お坊さんがさらに徳の高いお坊さんから
講義を受けたり、修行や儀式を行う建物)は平安時代の
建築ですから、これもやはり建て方が違います。
実は法隆寺には最初、このお坊さんが勉強をするための
講堂がありませんでした。ですから平安になって作ったのですが、、。
このことも、このお寺が普通のお寺のようにお坊さんを育成する、という
仕事のなかった、つまりは怨霊を閉じ込めておくために
できた寺でなかったのか、という説の根拠になっています。


Koudou1

この講堂前の灯籠は徳川時代に桂昌院が
この法隆寺の補修を行った時に一緒に寄進した灯籠です。

よく亡くなった方の戒名で「院号」がついているのを
見ます。そもそも院号というのは、この桂昌院のように法隆寺の
改修を行うような、お寺に莫大な億単位のお金を寄贈したとか
改修工事をしたとかいうふうな特別の貢献をした人だけが
そのお寺の感謝のしるしとして、
亡くなった時に授与されるものだったのです。


よく戒名の値段が高い、という話を聞くのですが、
戒名の中に院号をつけてもらおうとすれば
お金がかかるのは当然なのです。
本来であれば億単位のお金の寄進をした人に
どうもありがとうございます、という感謝の気持ちを
こめてのお礼としてつけた戒名が院号だったのですから。

戒名が高いとか文句を言っている人がいるのですが
そういう人に限ってこうした戒名についての基本的な
ことがらを知らないで文句を
言っているんじゃないですかねぇ。


だから別に院号なんて要らん、っていうので
いいと謙介は思うのですが、、。

あ、話が脱線してしまいました。
講堂に入ります。

Koudou2


建物をやはり細かく柱とか梁とか見ていくと
その時期時期で細かく建物の補修を行った
跡がありますね。 法隆寺が今に伝わって
いるのは、こうした先人の人たちが細かいメンテナンスを
時期時期で行ってきたおかげでもあるなぁ、と
思います。

このペースで行っていたら奈良の旅行の報告だけで
一か月くらいかかりそうなので、途中適当に端折ります。

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Comments

 改修中の正倉院,大正時代の修理で使った瓦が中途半端な焼締めだった上に,屋根の部材に近過ぎて,蒸し上げた状態になっていて,その部分は昔からの瓦を使ったところよりも劣化が激しかったそうです。
 ・・・せっかちな性格で有名などこかの国の人が作業に加わってたのかしら?と微毒を吐いてみたり(笑)

 梅原先生は,ほんとスゴイお人だと思います。

Posted by: Ikuno Hiroshi | 12. 09. 13 at 오전 12:05

---Ikuno Hiroshiさん
正倉院で焦燥して瓦を載せたのか、と、、
すいません。謙介もその記事読みました。 今回の修理で、そういうことが分かってよかったですね。中途半端な焼き締めの大正時代の瓦に替わって平成の瓦を使うのでしょうね。(でないと補修の意味もないでしょうし、、。)梅原先生は非常勤講師で来られていました。京都の大学間って、結構名の知られた先生でもあちこちほかの大学に出講に行ったりしていて、その先生の本来の勤務校に在籍していなくても、その講義を受けられたりする良さがありました。今は大学コンソーシアム京都、という組織になっています。

Posted by: 謙介 | 12. 09. 13 at 오전 6:56

法隆寺はそういう意味合いで建てられた可能性があるお寺なのですね。
初めて知りました(勉強になりました)。
高校生の頃に、法隆寺の伽藍配置は特殊だと習いましたが、そういうものなのだと疑問はありませんでした。
歴史をきちんと知るには、年号+事象名だけではなく、こういった辺縁(もしかしたらメイン?)の知識がとても大切だと思います。

聖徳太子も崇徳天皇も、生きているときの影響力もさることながら、亡くなってからも強大なパワーを持っていらしゃるのですね。
凡人には分からない世界であります(^_^;)。

Posted by: タウリ | 12. 09. 13 at 오후 4:21

---タウリさん
それが聖徳太子が亡くなった後、聖徳太子の一族は皆殺されてしまいました。太子が編纂していたであろう歴史書もすべて焼かれてしまいました。今聖徳太子の記録といえば「上宮聖徳法王帝説」という書物がありまして、これは確かネット上で読めると思います。まぁ聖徳太子も、蘇我馬子と一緒に排佛派の物部守屋を殺していますから、歴史は繰り返された、ということなのでしょうが。 聖徳太子は非常に有名な人であるにもかかわらず、その実体がよくわかっていません。まぁそういうところが想像の翼を拡げられていい、ということではあるんですが、、。梅ちゃんせんせい(どこかで聞いたような、、。)の説も、国文学者とか歴史学者から見たら、ちょっとなぁ、、という意見も結構あります。ですから、一度お読みになってみて、タウリさんがご判断されたらいいと思います。
書名は『隠された十字架』梅原猛著です。
たぶん文庫本で出ていると思います。

Posted by: 謙介 | 12. 09. 13 at 오후 7:24

法隆寺までの道がとても懐かしいです。山岸凉子の「日出処の天子」もセットで読むと面白いですよね。

Posted by: ともぞう | 12. 09. 16 at 오전 7:52

---ともぞうさん
そうでしたね。馬に乗った聖徳太子、かっこよかったですよね。いつもこの松林を見ると、これから法隆寺に行くんだ、という期待が高まっていくように思います。

Posted by: 謙介 | 12. 09. 16 at 오전 10:05

謙介さん こんにちは。梅ちゃん先生、先日TVで猿之助襲名のお祝いに来ているのを拝見しましたが、お元気そうでした。

この先生、能の世界では、世阿弥南朝子孫説を唱えていて、有名な学者からは学問的に否定されているのですが、結構人気がある説になっています。ということで、きわものの感は否めないのですが。法隆寺の梅原説も、どうなんでしょうね。

Posted by: まさぞう | 12. 09. 23 at 오후 2:50

---まさぞうさん
梅ちゃん先生、正直言ってやはり異端だと思います。確かに梅ちゃんの主張の部分だけで言えば、そういうふうに解釈できる部分もあるでしょう。しかし、同時代のほかの事例を見るとか、その前後の比較をしてみるとかしないと、やはりいけません、よね。人麻呂さんのこともやっていますが、万葉学会では、「まぁあの説はあの説で、、。」という感じで、やはり異端扱いでした。 梅ちゃんせんせいの勤務していたのが、実は京都市立の芸大だったわけです。哲学の先生が、文学部のある学校ではなくて、芸大の、っていうところに、やっぱり梅ちゃん、主流にはなれなかったんだなぁ、という「位置関係」をどうしても読み取ってしまうのです。まぁやたら専門で揉まれなかった分、フリーハンドでなんでも言えて、それで好きなこともできた、ということでもありはしますが。ですから、やっぱり、専門の人間から言えば「色物」的な感じだったのだと思います。

Posted by: 謙介 | 12. 09. 23 at 오후 10:45

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