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12. 07. 03

もっこり本

もっこり、って、
「謙介さぁ、また韓国語で首飾りだろ? 」
っていうお言葉が聞こえてきそうなのですが、

いいえ。

もっこり、ったら、断然あのもっこり、のことでございます。

これ。

Mokkori


新潮から出た、「股間若衆」

この本、
日本の美術史の近代彫刻の分野の
中での裸の男性像について書いてあります。
当然裸であれば、「お股」のところの表現方法を
如何に行うのか、ということが問題になってくるわけです。

男子のお股の部分については、ちん、、が当然あるにもかかわらず
それをそのまま写実的な表現で彫刻にすると、
警察の取締りの対象になっていたわけです。
わいせつ物陳列罪とか、、ですよね。

そうした警察の取り締まりと、表現の自由との
間の歴史的な流れについて、を考察しています。
それとともに現存する諸所方々のそうした
裸体男性像について、どこにどのような
ものがあるか、ということについて
本当に丹念にお調べで、そうした意味では
労作と思いました。

ですが惜しいのです。

こういう「対象」を文章にするときには、どういうスタンスで
書いていくのか。つまり文体をどうするのか、
ということは非常に重要になってきます。

つまり、もっこりもんだいですぅ、といって適度にやわらかく
それでいて、適度にマジメ(カタカナ程度のマジメ)
で行くのか、 もっこりについての「考察」という
ことで「考察」を深め、ということで、堅めの文章で
行くのか、それをはっきりと鮮明にする必要が
あるわけです。

まずもって、どういう方向性のもとに文章を書くかで
読者対象だって、内容の程度だって、
もっと言えばこの本の売り出し方だって
すべてが異なってくるのです。

ですから書くにあたって、方向付けというのか
コンセプトってすごく大切ですし、
その方針を明確にしない限り全く何もはじまりません。
どういう読者を相手にして、
どういうふうな内容で書いていくのか
専門的な考察なのか、軽い気分転換的な読み物なのか
対象人物はどういう人なのか、
そういう方向性をはっきりさせないで書くと
わけのわからないことになってしまいます。

実は、この本の文章が全くこれなんですよ。
つまり堅く考察で行こうとする部分もあってみたり
まったくおふざけとしか思えないような部分も
あってみたり、、。 
方向性がさっぱりわからなくてわけのわからない
文章になってしまっている、のです。

しかも謙介が読んでいてやれやれ、と思ったのは
そのおふざけの方向が読者に向かってではなくて
そのわけのわからない文章の真ん中で
筆者がひとり「はしゃいでしまっている」のです。
自分ではしゃいでいるだけで、それを
他人が見たら「はぁ、それで? 」っていうはしゃぎ方でしか
ありません。

ですから読むと文章が、非常に痛々しいのです。


堅い部分の文章はこんな感じです。

工部美術学校を所管する工部省の使命は殖産興業のための
インフラ整備であり、東京大学とは別に設置された工部大学校
の教育は化学、鉱山、鉄道、土木、造船、電信など多岐にわたった。
その大半をイギリス人教師に依存し、一時は二百人を超える教師を
雇っていた。人件費は巨額に上り、西南戦争を戦った政府の財政は
逼迫、美術教育の充実までには手が回らなくなった。 (26ページ)

だから、こういう堅めのトーンで全体を貫くのかと思ったら、

難波(孫次郎)は厚木出身、分部順治と同世代であり、同じ東京
美術学校に学んだ。(中略)難波はすでに昭和40年に《平和の像》
という巨大な男性裸体彫刻を江ノ島を望む鵠沼海岸に建てている。
まるで長崎の平和祈念像が立ち上がったかのようだが、長崎のそれと
大きく異なる点は、なんとすっぽんぽんなのである。海辺で気も
褌もゆるんだか。(72ページ)

名古屋駅前の《青年像》は日展の彫刻家野々村一男の手になる
もので、昭和33年に名古屋市によって建てられた。(中略)
世界デザイン博覧会が《青年像》に「もはやお前は青年ではない」
と宣告し、駅前から追い払ったように思われてならない。追われた
《青年像》は名城公園へと住まいを移し、静かに余生を送っている。
傍らには、北村西望の《青春》(昭和5年)が小姓のように控えて
いる。そんなふたりの姿を目にした時に、「人間50年、いや、銅像
25年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり」とうたいながら舞う
織田信長を思い浮かべてしまった。

というふうに突然カジュアルな文章が出てくるわけです。

よく見ると、この本の「腰巻」に、

”曖昧模っ糊り”の謎を縦横無尽に
追求する 本邦初、前代未聞の研究書(研究書の箇所、傍点あり)
とありました。

研究書というスタンスで行くのであれば、「すっぽんぽん」とか
「海辺で気もふんどしもゆるんだか」はないでしょうに? 

おそらくこの著者、学会誌とか研究紀要に投稿した
論文のような堅い文章の書き方は
慣れていても、カジュアルな文章の
書き方というものに慣れていないのか、
もしくはこの筆者の性格が堅実な人で、
その堅い性格の人が、一生懸命に
柔らかくしてみましたぁ、、ということかもしれません。

自衛隊の施設の一般公開に行ったら、いかつい
女性自衛官がAKBの扮装でお出迎えしてくれた
というようなものかもしれません。


演技でもそうだと思うのですが、喜劇を演じる時に
役者がゲラゲラ笑っていては芝居が台無しなわけです。
役者は笑わないで淡々と演じる。それが観る側に
却っておかしさをさそう。
悲劇だってそうでしょ。
最初から悲しい顔をして、私は悲しい、っていうのは
人間観察が足らない、でしょう。悲しみをこらえながら
それでも体中から悲しさがこみあげてくる、
悲しさがにじみ出てくる、それを観る側が感じて、より深い
悲しさをそこに感じる、ということになるのだと思います。
最初から、さぁ、おもしろいぞ。変だぞ、では
鼻白むばかりです。


内容的には、大したものだと確かに思いますが
文章がどっちつかずで、しかもひとりではしゃいでいて、、
もうちょっと何とかならなかったのか、と思います。


最初から適度に柔らかい路線で行くのであれば、
最後までそのまま行かないと、、。
ここではちょっと柔らかい方向に行って、こっちでは
真面目方面では、、ねぇ、。


まぁゲイ雑誌・写真の回顧、という部分も少々ありますから
そういう意味では、内容は本当に労作、と言っていいんですけどね。
肝心の文章力がなぁ、というところで惜しかった本でした。

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Comments

 うーみゅ・・・これは,書いたご本人の責任もさることながら,最初の読者でもある編集者に問題があると言わざるを得ないのでは・・・;;;

Posted by: Ikuno Hiroshi | 12. 07. 04 at 오전 12:42

---Ikuno Hiroshiさん
この本の初出、芸術新○なんだそうです。ですから芸術新○の編集担当者が、単行本化したときに、どうするのか、ということを考えなかったのかなぁ、と思いました。表紙の写真もいまひとつ、なんだかなぁ、という写真だと思っています。

Posted by: 謙介 | 12. 07. 04 at 오후 7:20

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