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12. 06. 27

一太郎の町で(1)

23日の土曜日、街あるきツアーにまた行ってきました。
何回参加したら気が済むのさ、という話ですが
とりあえず、今年の春から初夏のコースはこれでおしまい
(の予定)です。

いつもだったら朝、実家からその場所に行くのですが
今回は前日に仕事場の街でどうしても出席しないと
いけないパーティがありまして、
翌日早朝、直接会場に行く、ということに
なりました。

到着したのは朝の8時40分。
ツアーのはじまりは9時半ですから
まだ小一時間もあります。
ツアーの始まる前に、前からちょっと行きたかった
ところがあったので、まずはそこに行きます。

で、車を停めて見えたのが先日お見せした

Shaorinsu1


だったわけです。
もうちょっと近づくとこうなっていまして、、。

Shaorinsu2


正面から見るとこうです。

Shaorinsu3


ここが少林寺拳法の本部です。

少林寺といえば、いつだったか、テレビで中国の
少林寺が映っていて、謙介、そのあまりの変貌に
ひっくり返ったことが
ありました。

謙介、実は中国の少林寺に行きました。
行ったのが1980年。
河南省の鄭州という街から、バスで7時間ぐらい
かかりましたかねぇ、、。
なんたって、早朝、鄭州を出て、少林寺に到着したのが
午後2時くらいくでした。
(途中でご飯は食べましたけれども)
行ったのは、山田無文老師のお使い、でした。
総勢20人ほどだったと思います。

少林寺、というとすぐ少林寺拳法のほうに頭が行ってしまう人が
多くて困るんですが、少林寺の裏山に嵩山という山が
ありまして、ここであの達磨大師が修行をしました。
つまり少林寺は禅の一大道場なのです。
山田無文老師の雅号「太室」も
その達磨さんが修行をした少林寺の裏山から取っている
くらいです。

あの当時、少林寺には5名の僧侶しか
いませんでした。徳善老師という方が少林寺の
代表のような方でしたが、、
文革からあまり時間が経っていなかったからかもしれません。
お寺の建物は傾いたり、倒れ掛かったりしそうな
建物ばかりでした。建物が波打っていて前後左右から
つっかえ棒をしていた建物も見ました。

我々が行ったのが何せ第二次世界大戦以後
2組目の外国人、という話でした。
(最初はもちろん少林寺拳法の方々)
あのお寺の荒れ方を見たら、、
行った人たち全員、
こりゃ、少林寺、いつまで持つかしらん、というような
ことを真顔で話をしながら帰ってきました。

それがです。今や少林寺拳法の学校はあるし、
そのために人がわんさか集まってきているし、、。
もう信じられないような街になっていたのです。
それでテレビの画面を見て、あまりの変化に
驚く、を通り越して驚愕した、ということでした。

日本の少林寺拳法は、戦前中国各地で拳法の
修行をした宗道臣さんが、戦後多度津に引き揚げてきて
若い人のために修行の道場を造りました。
最初は、話から若者を導こうとしたのですが、
話ではついてこない、ということで、中国各地で
習った拳法を指導して若者を教化しよう、ということに
なって作ったのが少林寺拳法だった、とのことです。
その本部がこの街にあります。


Tadotsu

韓国語には日本語の「つ」の発音がありませんから、
「たどす」もしくは「たどちゅ」ですね。
ここでは「たどす」を取っているようです。

たどす え おそおしぷしよ


この本部の後ろ一帯は、桃陵公園という桜の名所
(公園名は桃、ですが、実際は桜です。)です。
もう多度津といえば一太郎です。


ここには一太郎やあいの銅像があります。


Ichitaro1


一太郎と言っても徳島の会社の作っている
ワープロソフト、ではありません。
でもあのソフトも30年前に比べたら
格段によくなりましたねぇ。
謙介、一太郎を使い始めたの1983年からですが

最初は、夏目漱石さえ打てなくて
そうせき、って入れたら
「葬石」って出てきていましたもんね。

そうそう一太郎ですが
昔の国語の教科書にこういうのがあったわけです。

 日露戦争当時のことである。
 軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
 「ごめんなさい。ごめんなさい。」  
 といいいい、見送人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。
 年は六十四五でもあろうか、 腰に小さふろしきづつみをむすびつけている。
御用船を見つけると、
 「一太郎やあい。其の船に乗っているなら、鉄砲を上げろ。」  
 とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。
 おばあさんは又さけんだ。
 「うちのことはしんばいするな。 天子様によく御ほうこうするだよ。
  わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」  
 すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。
 おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。
  聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いで来たのだそうだ。
 郡長をはじめ、見送の人々はみんな泣いたということである。

Toryo_2

という話のあったのがここだ、ということです。
これがその母を記念して建てられた像。


昔、多度津はこんぴら参りのための港町として
にぎわいました。 阪神⇔多度津航路という関西汽船の航路もあって
多度津から今度は電車で琴平へ、というコースがありました。
この「一太郎」の銅像のあった公園の下に、そのかつての
電車のトンネルが今もあります。

Toryo_1

同じ場所です。
この電車、花で飾ってあるところを見ると、もう廃止のときの
電車だと思います。

Toryo4

公園からの坂のところ。
Toryo2012

ちょっとアングルが高めですが、同じ場所です。

Toryo1960

そうしてこういう電車の駅があったのですが、、。
Toryo19602

今はこうなってしまいました。
Tadotuekiato

志賀直哉の暗夜行路の謙作が汽車に乗って多度津から
琴平まで行っていますが(あれは汽車)
昔はこの多度津~琴平、というコースが一般的に
あったのですが、、今は、本当に多角化してしまいました。
大阪からの高速バスで琴平へ、というのもありますし、
高松から、高松琴平電鉄で、というコースもありますし、
JR土讃線で、というコースもあります。

そんな結果、この多度津の拠点性はどんどん薄れてしまい
1963年に電車が廃止になって、翌年、関西汽船の
多度津⇔阪神航路も廃止になってしまいました。
この街を今回は歩いてみよう、ということだったのです。
今日はここで措きたいと思います。

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