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12. 01. 13

1300周年記念

古事記の完成は712年ですから
今年がちょうど1300周年記念です。
まぁ平城京遷都の2年後に完成したわけですから
平城京でわーわー言ってた2年後にはそうなる、
というのはわかっていたことでありましたが。
で、後、8年したら今度は日本書紀1300周年です。

Kojiki


写真は真福寺本古事記です。
古事記の写本中最古のものと考えられています。
これは、謙介が持っている
その真福寺本古事記の写真複写版です。

古事記たって、太安万侶さんが書いたそのままの
ものが今、あるのか、って言われたら
原本はもうありません。
昔は一字一字手で書いて写していたわけですが
その複写本の中で一番古いのがこの本です。
真福寺、と呼ぶからわかりにくいのですが
要するに名古屋の大須観音です。

あそこに古事記の写本で一番古いのがあります。
今は「大須」の表記ですが、あのお寺は昔は
木曽川のデルタ地帯にありました。ですからおそらく
元は大洲、という表記だったのでしょう。そういう場所では
いつ大水が来るか分かりません。それで安全な名古屋に
移ってきたのです。そして場所が「洲」でもなくなったので
大須、と今の表記になったと思われます。

さて。
古事記って、読んだことありますか? (笑)

古事記そのものはなくても
この中に収められている因幡の白うさぎ・オオクニヌシノミコトの話とか
海幸彦・山幸彦の話とかヤマトタケルの話、というふうに
古事記の中の説話のいくつかを読んだ、
という方は多いんじゃないでしょうかね。

この古事記、いまだに分かっていないことが
たくさんあります。
古事記といえば、稗田阿礼さんの
暗誦を太安万侶さんが書き写した、というのですが

たとえば稗田阿礼さんが男だったか女だったか、
それすらいまだに結論が出ていません。

実は謙介は古事記学○の会員なんです。
古事記学○、もちろん全国組織なんですが
会員数は400人くらいの本当に小さい学会です。

実は古事記学○で数年前に
イメージキャラクターを作ろうとしたわけです。
やすまろちゃんのほうは簡単にできたのですが
あれちゃんを男にするのか女にするのかで
もめにもめまして、結局イメキャラ製作は
中止になってしまいました。

古事記のお話というのは、
さっきも言ったように因幡の白うさぎの話とか
スサノオノミコトの話とかヤマトタケルの話とか
こうした日本各地の豪族が伝え持っていた伝承とか昔話が少しずつ
流れ込んでいってだんだんとまとまって、
最終的にああいうものになった、と
考えられています。
もちろん入ってきた過程でお話に改訂が加わったりも
したでしょう。

実は古事記ってミュージカルと同じような
構成になっています。
宝塚とおんなじおんなじ♪


だって物語が最高潮にきたら、
登場人物は歌を詠むのです。
宝塚だってストーリーの山場に来たら
歌が入るではありませんか。(笑)
まったく同じです。

ヤマトタケルが東征から尾張の国に戻って
行くときに結婚しようと思っていた美夜受比売(みやずひめ)
のところに行きます。それでご結婚になって、そのあと、
草那藝剣(くさなぎのつるぎ)を美夜受比売のところに
置いたまま伊吹山に登り、伊吹山の神の毒気に
当てられ、氷雨にもあってようよう山を下りて
伊勢の能褒野まで何とかきたのですが
ここで体力が尽き果て、大和に帰ることができなくなり
ここでみまかりそうになります。
そのときヤマトタケルは
「大和は国のまほろば たたなづく 青垣 やまごもれる
大和し うるはし 」と歌を詠みます。
続いて
「命の全けむ人は 畳薦 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」
と歌うのです。

この歌はおそらく古事記歌謡の中でも一番知られた歌かも
しれません。
このヤマトタケルの物語とこの歌の相乗効果で
読み手、聞き手双方に物語で話の筋を追うだけ、というよりも
さらにより深い印象と余韻が心に残るようになって
いるわけです

しかしおそらく、「国のまほろば、」の歌の元のは
大和地方で歌われていた民謡だったのでしょう。
人は農耕が始まる前に、その土地を褒めました。
地味豊かなこの土地、と歌にし、土地を褒め称えることで
言霊の力で、農作物の豊かな実りを祈り、作物を実らせる
力を持った神さまにも祈ったのです。
そのときの歌だったのだ、と考えられます。
そんな歌があ、これはこの物語の中に入れたら
ドラマチックになるじゃないか、っていうんで
伝承の中で入っていった、と。こういうふうに
考えられています。


宝塚でも有名な歌をメロディだけ使い、歌詞は変える
換骨奪胎パターンで歌劇の中で使う、という手はよくやりますよね。
なんたって宝塚を代表するあの「すみれの花咲くころ」の歌からして
そうじゃないですか。元の歌は「リラの花咲くころ」だったのを
歌詞を変えて曲名を変えて、あの歌にしたわけですもんね。

あれと同じ手法の元の元は古事記かもしれません。(笑)

そうした歌が伝承とともに物語の中に入っていって
次第に稗田阿礼さんの頭の中でまとまって
この古事記のお話になったのでした。

古事記の成立は712年で、日本書紀の成立は一応720年です。

一応、と俺が言ったのは以下の理由です。

日本書紀は当初天武天皇が命じてほとんど作り終えていたのですが
天武さんが亡くなったために、奥さんの持統天皇が引き継いで
完成させました、が、持統さんは天武のライバルだった天智天皇の
娘です。天武が遺した日本書紀を読んで、これではあかん、
と思ったのでしょう。大体歴史書、というのは作った人の意志が
濃厚に反映されます。自分はこんなことをした。あれもしたこれもした。
偉かったんだよ。えっへん、というのが基本です。
しかし、その天武の偉かったんだよ、は、そのままライバルだった
天智はイマイチ、という方向に書かれていたのでしょう。
持統さんにとってみれば、婿さんとはいえ、自分のとうちゃんを
イマイチなんて書かれたら気分が悪いことでしょう。

持統さん、80巻あった日本書紀をばっさばっさカットして
40巻にしてしまいました。おそらく日本書記には、各豪族の伝承説話
も入っていたことでしょう。ですがそういう枝葉末節の部分は全部
切って捨ててしまった。もう最近話題の断捨○どころの話ではありません。
もうめったやたらに斬ったと思います。だって分量を半分にしたんですから
並の斬り方ではダメだと思います。

ですから日本書紀の記述って、本当に記録、という感じしかしません。
全然人間味がない、単なる記録、です。
それから、日本書紀は天武天皇の巻だけ、上下2巻あるんですが
これも全面改訂したはずです。というのが何せこの2巻に
記録された死人の数がべらぼうに多い。
他の巻は7,8人とか10人程度なのに、天武紀は上で50人くらい
下でもそれくらい、つまり100人くらい死人の記録があります。
どうしてか、そりゃ、天武の時代は世が乱れて、結果
死人が多かった、って言いたいのだと思います。
記録なんて「意図と意志のかたまり」だったりするんですよねー。

古事記はやはり物語だと思います。お話の中に登場人物の人間的な
葛藤があります。 ヤマトタケルが兄にこき使われ、そのあまりの
人間性を無視したこき使われ方に、「天皇は俺に死ねというのか、、」
とおばの倭比売に向かって言っていたりします。

前に国語を見ていた高校生は
「ヤマトタケルの過労死問題ですか? 」と言いましたが。(笑)
まぁ1300年前の過労死問題はともかくとして、
一度通してこの機会に古事記を読んでいただけたら、
と思います。現代語訳でいいですし、、。
確かに昔のことだからわかんない、ということもありはしますが
あれ、こんなふうに自分だって考えたりすることあるよね、
っていうことだってたくさんあったりします。

そういう「なんだ1300年前の人だってこうだったのねー」という
部分を見るのが興味深くて、謙介は
古事記を読んでいたりするわけなのです。


        ×       ×

おかげさまで報告書、11日に事務局に提出しました。
来週、最終の授業があります。
今度は高知。
高知に行ったら、友達にも会いたいですし、食事に行きたい
店も何軒かあるのですが、
今回も朝の8時半から晩の10時まで授業と研修が
びっしりあって、どうもそういう自由行動ができそうに
ありません。

来週の金曜日、ちょうど一週間後ですが
今まで受けてきた授業の総まとめと
こないだ出したレポートの口頭試問がありまして
たぶん土曜日には修了になるのではないか、と
思います。(本当に修了できるのか?? )

終わったら、またご報告などしたいと思います。


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Comments

年賀状、届きましたよ。
有難うございました。
達筆に、達筆に驚いております。
僕も練習しておけば良かった……(>_<)。
自筆の年賀状ってステキですね。
最近は印刷のものがほとんどなので、とても新鮮でした。

古事記と日本書紀って、かなり近いのですね。
ということは、編纂していた人達は顔見知りってことでしょうか。
舎人職は男性だったと思ったのですが、女性説があるのですね。
阿礼を「アレ」と読むそうですが、よく分かってない人物なら、読み方も分かっていないのかな?
「アライ」だったりするかも(^^;)。

平安時代といえば、沖縄は後期貝塚時代です。
ある程度のレベルの農耕社会の成立は11世紀後半からです。
日本本土とは時代の進み方が全く違いますね。
時代が進むと沖縄本島は3つの国に分立し、戦争を始めます(北山-中山-南山)。
統一されたのは1422年で、中山王(ちゅうざんおう)の尚巴志によってなされました。
それまでの記録はほとんど残っていないのですよ。
昔々の三山分立時代の名残は今もあり、現在の郡の区分はその当時と近いですよ。
北山 - 国頭郡(くにがみ)
中山 - 中頭郡(なかがみ)
南山 - 島尻郡(しまじり)

日本武尊が過労死しそうだったなんて初めて知りました(笑)。
いつの時代も、忙しい人は大いに忙しいものです。
謙介さんも過労で倒れないようにお過ごし下さいね。

Posted by: タウリ | 12. 01. 15 at 오전 11:43

---タウリさん
 日本書紀のほうは舎人親王の撰、古事記は太安万侶、ということになってはいるのですが、日本書紀のほうは別に一人でやったわけでなくて、公式には出てきていないスタッフがたくさんいたはずですし、何せあの時代まだまだ漢字を書ける、という人は少なかったですし、同時期で、似たような作業ですから、両方ともスタッフの行き来は頻繁にあったと考えられます。
沖縄の場合は、なかなか文書の保存、というのは湿度の多い気候の関係もありますから非常に難しいと思います。実は日本の植民地だった台湾に戦前の日本の文書があって、それが貴重なのですが、何せ湿度の多い台北のことで、非常に痛んでいる、ということが問題になっています。わずか100年くらい前の資料でさえ、そうですから、何百年前の資料、となると、保存維持が難しいと思います。
 年賀状届きましたですか、よかったです。日ごろこうやってパソコンで打ったのではない、「人」が感じられて、俺はやはり手書き、って好きなんですけどね。お言葉ありがとうございます。もうじきしんどい授業が終わるので、終わったら、ちょっとゆっくりできるかなぁ、と思っています。
 

Posted by: 謙介 | 12. 01. 15 at 오후 2:53

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