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11. 08. 23

心太

暑さは一段落したとはいえ、まだ8月。
これからまたあと残暑が戻って、
暑いに違いないのです。

やはりこういうときは
涼しいデザートを食べに行くのが一番。
ということで、心太を食べに行ってきました。
この辺で心太、と言えば必ずというのか
絶対ここですね。
Kiyomizu1

おばちゃんに注文します。
今日は甘辛両方頼んでみました。
左側が黒蜜、きな粉のかかったくずもち風のところてん。
ところてんを突いてしまうんじゃなくて
直方体のものをさらに四角く切ってもらったのがくずもち風です。
右は酢醤油のもの。
Kiyomizu11_2


ここは清水が湧いているところで、山の冷気とか
緑の香りがして、そういうシュチュエーションだけでも
十分素晴らしいところです。
突いて出してあるので、つるり、と出ていてきれいに
お皿の上にまとまっています。

Kiyomizu11_1


こっちは黒蜜がけです。
(見たらわかりますよね。)
くずもちほど「ぐにょん」とはしていないのですが
突いていなくて、角切りなので、食べたときの
食感がちょっと新鮮な感じです。
Kiyomizu13

食べ終わりかかったころに大学生のサークルのご一行さまのような団体が
わらわらとやってきたので急いで食べて席を譲りました。
あんまり席がないんですよ。
↓こんな感じです。


Kiyomizu6_1

ここの泉、非常に古くからの有名な泉です。

Kiyomizu7_1


いきなりですみません。
 (本文A)
 新院、八月十日に御下着のよし、国より請文到来す。
 此ほどは松山に御座ありけるが、国司すでに直嶋と云所に、
 御配所をつくり出されければ、それにうつらせおはします。
 四方についがきつき、たゞ口一つあけて、
 日に三度の供御まいらする外は、事とひ奉る人も
 なし。(中略)
 かくて八年御おはしまして、長寛二年八月廿六日に、
 御とし四十六にて、志戸といふ所にてかくれさせ給けるを、
 白峯と云所にて煙になし奉る。

 (本文B)
  八月十日、既に讃岐に着かせたまひしかども、御所も未だ
 造り出ださざりければ、「二の在庁散位高遠が松山の御堂
 に入れ奉りたり」と請文を都に奉る。その後御所は国司秀行
 が沙汰として、当国志度の郡、直島といふ所に造り奉りぬ。
 (中略)
 その後、九ヶ年を経て、御歳四十六と申せ、長寛弐年八月
 廿六日、終に隠れさせたまひぬ。

これは保元物語の最後の部分です。
何で本文A、と 本文Bなのか、って言えば、これ同じ物語の
同じ部分なんですよ。 上の本文Aのほうはネットで出ている
保元物語の本文です。 で、下の本文Bのほうは小学館の
日本古典文学全集本の本文です。
同じ物語なんですけど、全然文章が違うでしょ。

昔はコピーなんてないですから一々手で話を写していました。
その写した人の性格によって、きちんと間違わずに写した人と
適当に写した人がいて、だからまぁ同じ話なのに、こんなに
違いがあるわけです。

この元のテキストをどの本にするかで作品の理解も
表現もガラッと変わってくることがあります。
元の基本にするテキストのことを底本、というのですが
その底本はいい加減なものではいけなくて
やはり信頼のおけるものでなくてはなりません。
これをちゃんと研究している人もいるんですよー
写本の系統研究、っていって。

さすがに小学館の本の底本はいいものを
使っていますが、(文章全体も品があるし、
地名の間違いも少ないので結果的に
信用がおける。)

ネット公開の保元物語の底本は
やっぱりあまりいい底本ではないです。
安かろう悪かろうという感じがします。

当然のことですが研究をするときには
どの写本を使ったか、どうしてその写本にしたか
ということは学会発表の時にものすごく追及されます。
それくらいいい底本を使わないとダメなのです。

新院、というのは当然崇徳上皇のことですね。
ここに出てくる「直島」は、今ではやくざが土地を買収して
美術館なんか建ててしまったために、またその建物を
安藤さんが設計したりしたために日本中、いや世界中から
どどどーっと人がやってきて今ではすっかりお藝術の島に
なってしまいました。さすがやくざの人って興行的な
センスはすごいですよね。

話を保元物語に戻しますが
ただやはり都の人が実際の土地も見ずに書いた文章です。
地元の人間から見たら、位置関係がむちゃくちゃで
なんだこれは? というようなことになっています。

どれくらいむちゃくちゃかというと
東京で言えば御徒町の隣が青梅ですよね、
って書いてあるくらいのむちゃくちゃです。
大阪で言えば池田と岸和田が隣り合わせとか。(笑)
まあでもそれは仕方ないですね。
四国の辺地の地名なんて適当ですし、、。

この場所は国庁に近い場所です。
この辺に院の配所はありました。

崇徳院が亡くなったことを都に知らせる使節が
発ちます。都にそのことを知らせ、亡骸を火葬にし
陵を作り、埋葬する許可をもらわなくてはなりません。

その間、上皇の遺骸をこの泉に漬けて保存したそうです。 
使者が都から埋葬の許可をもらって
戻ってくるまで大体3週間かかった、と言います。
そのあいだ、この冷泉は新院の亡骸をよく保存した、
とあります。(ほんまか)
(謙介ね、実はこのことをちょっと調べたことがありました。
その話はまたいつか。)

そうして都から使者が戻り、院の亡骸は
この泉の向かい側にある五色台の一つ、白峰に葬られた、
ということです。
後は山家集にも上田秋成の雨月物語の一番最初の
白峰にもありますね。

泉の水は今も枯れずにこんこんと湧き出ていました。
西行さんじゃないですが、
「しばしとてこそたちどまりつれ」でした。
西行さんもおそらくここへ来たことでしょう。

だって崇徳院の亡骸をしばらく置いた場所、と言えば
そんな由来の場所に彼が来ないはずがないじゃないですか。

機会があったら、今年、暑いうちにもう一度行きたい
なぁ、と思っています。
ところてん、どちらもおいしかったです。

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Comments

 崇徳院の遺骸が保ったのは,泉のおかげではなくて,ご本人の怨みの念のせいでは・・・?(怖)

 心太,酢などで食べるというのが,大人になるまで理解できませんでした。生まれ育ったあたりでは,きな粉がデフォルトで甘味の扱いだったもんですから(苦笑)

Posted by: Ikuno Hiroshi | 11. 08. 23 at 오후 11:52

---Ikuno Hiroshiさん
そうかもしれませんねぇ。長恨歌ではありませんけれども「この恨み、、たゆるときなからん。」ですもんね。明治になって崇徳院の霊をこの白峰から京都の今出川堀川の白峰神宮に遷すときも、相当な天候の急変があった、と記録にありますから、そんなおかくれになってすぐなんて、、身体こそ死んだ状態だったのでしょうが意識は、生きていた時と全く同じだった、ということかもしれません。心太、実はもうひとつ名古屋風の味付けというのもありました。砂糖醤油なんだそうです。(酢は入っていない。) 近畿圏は黒蜜が多い、関東圏は酢醤油、というふうになってる(まぁ細かい嗜好はまた違うかもしれませんけれども)とお店の人の話でした。

Posted by: 謙介 | 11. 08. 24 at 오전 7:33

謙介さん、こんにちは。

心太は、関東では酢醤油と決まったものでした。黒蜜とは。鍵善の葛きりみたいですね。知らなかった。今度やってみます。豆腐に黒蜜というのもあるらしいので、その応用編でしょうか。

崇徳院は、凄まじいキャラクターのお方ですよね。昔松山の御所というので、てっきり愛媛県の温泉地に幽閉されたのかと思い、結構良い待遇じゃないの、などと勘違いをした覚えがあります。

Posted by: まさぞう | 11. 08. 26 at 오전 4:39

---まさぞうさん
この心太屋さんのおっちゃんに聞きましたら、関西はやはり「葛餅」の感覚がたぶんんあって、それで黒蜜をかけてきな粉で、ということのようでした。単におっしゃるように祇園の鍵善の葛きりのように黒蜜だけでも、というところもあるようです。名古屋では酢は入らなくて砂糖しゅうゆだそうです。本当に心太ひとつの味付けでも地域差があって面白いです。
そうなんです。崇徳院の「松山」は今の香川県坂出市の松山で、愛媛の松山とは違うんですよ。本当に激しく恨みを抱えておかくれになったので、今もいろいろな伝説が残っています。

Posted by: 謙介 | 11. 08. 26 at 오후 4:37

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