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11. 05. 06

野越え山越え(6)

バス停を降りると家持さんの石碑の道案内が
ありました。鳥取駅を出る頃に降り出した雨は
バスを降りると本格的に降りはじめていました。
傘をさして川を渡ります。しばらく集落の中を
歩いていくと、石碑がありました。

Yakamochi3


「新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家余其騰」
という家持さんの歌の歌碑です。
万葉集ってたまに誤解をしている人がいるのですが
あの歌集は公的なものでは全く無くては、あくまで
家持さんが自分でこれはいいな、って思った歌を
集めて作ったプライベートな歌集です。(私家集)
確かに中には東歌とか旋頭歌、佛足石歌、に
はじまって国民各階層の歌も入っていますが
それはあくまで家持さんが、選んでこれはいい、
と思った歌のセレクションなのです。だから家持さんの
選にもれたほかの歌も多々あった、と思われます。

万葉集の後半なんて、もうほとんど家持さんとその
ご親族の歌ばっかりになってしまっていますもん。

決して公共の文化財として、歌を集めたとか
天皇の意思で作れ、と命令した歌集
(難しく言うと勅撰集といいます)ではない、
ということです。


で、その万葉集の最後の歌が家持さんの
新しき(あらたしき)年のはじめの、、の歌なわけです。
何でこの歌の歌碑があるかと言えば
ここで詠まれた歌だから。

家持さんは 756年にこの因幡の国司として
因幡の国庁に赴任します。

と、いうことでその家持さんが居た因幡の国庁の跡に
行ってみることにします。


家持さん、地方回りが多かったんです。
その前は越中(富山)の国司でした。
でもね、越中の国司の時は、まだ29歳だったし
先の希望だってあったし、で、じゃんじゃん歌を
作っていました。その歌は万葉集の中にも
載っています。
ところが、因幡の時はというと
ずいぶん趣が違っています。家持さんは43歳でした。
今の43歳は厄年が、、という年齢ではありますが
まだ晩年という歳ではないですよね。
平均寿命の短かった当時は、43歳はもうすでに
晩年でした。
759年の元日、「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」
を作っているのですが、この歌が日付のある万葉集の歌の
最後になってしまいました。

この歌の解釈については何度もお話してきたかと
思います。歌詞だけ見れば、本当におめでたい
言葉が連なっています。 
要するに「新しい年に降るこの初雪のように良いことが
どんどんと重なってあって欲しい。」
歌詞だけ見るとこんなものです。

ところで、島根とか鳥取のこの地方で冬に雪が降って
来る時の空を見たことってありますか?
暗い鉛色の空から、音もなくものすごい
数の白いものがどんどん降ってきます。
それはもう容赦もなく、です。
風情のあるようなちらちら、などという降り方では
ありません。
雪は音もなく静かにどんどん積もっていくので
ちょっと目を離すと、気がついたらとんでもないことに
なっている。


この地方の雪の降り方を知ってる人間から
すると、この雪の降り方を見て、本当に瑞兆と
彼が思ったかどうか???

そんなことを考えながら国庁への道を歩きます。


Kokucho1


この日も4月とはいえ、寒い日でした。
遠くの大山にはまだ山頂に雪が積もっているのが
見えています。

Kokucho12

石碑のあった集落から右に行くと
いつか集落を出て田畑の広がる風景が
広がります。そのかなたに県道が見えてきます。


Kokucho11


その県道まで出ると、標識があります。

家持さんがこの因幡に来たちょっと前のことを
書きますと、
757年1月、前左大臣橘諸兄が薨去(74歳)して
7月には橘奈良麻呂らの謀反が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが
連座することになりますが、大伴の人間ではあったのに
家持さんはこのときは何も影響は受けた様子はなかったのです。
12月には右中弁になっていたようです。 そして翌年758年の
6月に右中弁から因幡守へ、ということになってここに来たのでした。

本当にこれは鳥取県の方には申し訳ない言い方ですが
文学の解釈、ということでおゆるしください。

かつての軍事の名門の家柄であった大伴一族の
家持さんにとって、やはりこの因幡の国司という職は
左遷であったに違いありません。いや、もっときつい言い方を
すれば謀反に対する一種の「懲罰人事」であったと思います。

そうしたこうした懲罰人事を受けなければならなかったわが身。
そうして、大伴一族の多くの人間は先にも言ったように、謀反を
起した、ということで処罰されていました。

橘諸兄の失脚とその死、一族の大伴古慈悲の拘禁、
聖武天皇の崩御と藤原仲麻呂による廃太子事件と
そのころ大伴家をめぐるさまざまな大きな事件が
あり、それによって大伴家の力はかつての権勢を
誇った、あの大伴家ではなく、ずるずると力が衰えていく
方向にばかり動いていってしまっていました。

そうしたかつての名門の大伴家の今後の処遇。
加えて因幡の国に左遷された家持さんの気持ちは決して
気楽なものではなかった、と想像します。

これからのわが身わが家の将来を考えたら、本当に
ため息の出るような状況であったことでしょう。
そんな中で明けた新年でした。

謙介が言っている単に歌の言葉だけ見てたんじゃ
歌の解釈はできない。歌の背景の成立事情を考えないと
いけない、というのはこういうことなのです。
歌の言葉の字面だけ見ていたら
本当におめでたい言葉が連なった歌です。
しかし、そうした家持さんの境遇とか、この地方の
雪の降るときの空や景色の状態。そういう
さまざまなことを加えてこの歌を解釈しようとしてみると
そこには全く違った趣の歌の世界が広がっています。

人間の感情は決して一色ではありません。
悲しいけれどもそこから何かしらの希望を持ちたいと
思ったり、楽しいけれども、この楽しさがいつまでも
続かない、という苦さを知っていたり。

好きだけど嫌いな部分、っていうのもあるし
嫌いなやつだけど、気になって仕方がない、っていう
部分もあると思うのです。

すっきりと割りきれないものがある。
どこかで相反する気持ちを持っていたりする
それが人間の感情なのだ、と思います。

俺が最近のドラマとか映画を見る気にならないのは
そこなんです。「怒ったぞー。」「うれしいぞー。」
「かなしいぞー」最近のドラマとか役者の
演技を見てたら、それだけしか感じられないのです。
あまりに単純すぎです。 人間ってそうじゃないでしょう?
悲しいけれども、どこか、、嫌いだけど、、
でも、、、。そんな奥行きのある人間像を演じられる
役者さんが、あまりに少ない気がするのです。


話を759年のこの場所に戻します。
この歌の解釈のポイントとして
俺は「せめて」という一語を入れて解釈したいと
思います。

新しい年、雪が間断なく静かに降り積もっている
せめて この降り積もっていく
雪のように、いいことが重なって欲しい

と訳してみます。
希望というものを抱きにくい今のわが身ではあるけれども
「せめて」です。

家持さん、この歌を最後に万葉集を文字通り一巻の終わり、
してしまうだけでなく、彼はそれ以後、
記録として歌を詠んだことは一切残っていません。


この歌は万葉集最後の歌でもあるし、これ以後の彼の
作歌活動の終結を告げる歌になったのかもしれません。
いろいろな気持ちが重なって、歌集をこれ以上続ける
気力も失われたのか、それはあくまで推測の範囲を
出ないことではあるのですが。

しかし希望のない現在の状況でも、それでも、
「せめて」と祈って気持ちを立て直そうとしたのが、
家持の気持ちだったのではないでしょうか。

この遠くの山々の風景を見ながら暮らした、
家持のことを思いながら
謙介は因幡の国庁のあった場所に来たのでした。
Kokucho2

Kokucho3

さすがに国庁の跡です。
周囲の平野を見渡せる眺望のよい場所に
建てられています。

上代のこの「見る」の呪術的な意味合いについても
何度も言いましたから、
またここで繰り返しはしません。
手前が正庁で、ここで因幡の国の公の儀式が
行われました。そして後ろが後殿と呼ばれる
通常の業務の行われていた建物の跡です。
Seicho


ここが後殿で
この場所で家持は仕事を
していたのです。

Koden

石の柱がここにこういう間隔で
木の柱があり建物があったことを示しています。


家持さんはこの後も政治の中枢にいて
(そのために何度もいろいろな影響を受けて
身の浮沈を繰り返すことになります。)
そして783年には中納言の位にまで
登ります。(結構最後は出世した。)
そして、785年(延暦4年)に
兼任の陸奥按察使持節征東将軍の仕事の
ために赴任していた宮城県の多賀城で
亡くなった、とされています。
ただ、、当時は「遙任」(ようにん)という制度があって
その職ではあるのですが、実際に赴任しないで
その職に当たる、という仕組みもあったのと
家持さんの年齢がすでに68歳で
当時としてはものすごい長命でしたから
もうそんな陸奥まで行く体力はなかったんじゃ
ないか、という考えもあって、実際のところ
家持さんは陸奥には行っていないんじゃ
ないか、という説もあります。


それから近くにある鳥取市立の万葉歴史館
に行きました。

Manyokan


特別展は万葉の色。
万葉集に出てくるいろいろな色の名前の
色を色見本で示してくれていました。
それから見本として万葉の衣食住などの
展示がありました。

見学を一通り見たので、バスに乗って
再び鳥取市内に戻るのでした。
これで「野越え山越え」の「野越え」編を
終わります。ふう。

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Comments

鳥取、見事になりもありませんね(;;;´Д`)ゝ
先日、鳥取県の人口より世田谷区の人口のほうが多いと知りビックリしました。
それはさて置き、私家集である万葉集が現代まで広く知られ重視されるのは、大伴家持の慧眼はもちろんのこと、社会的地位を問わず色々な人の詠んだ歌が集められているからでしょうか?
歴史上の人物の歌も良いですが、庶民の歌にこそ味わいがあると思います。

Posted by: mishima | 11. 05. 07 at 오후 5:10

---mishimaさん
 ちょっと前に鳥取県一県の人口と岡山市の人口が同じくらい、ということを見たことがありました。(あれから岡山は合併もしたので、もっと増えたかと、、。)確かに人口という点では少ないのですが、焼き物とか織物、和紙、と言った手仕事の面では本当にすばらしい作品を出している工房とか会社があるんですよ。多分冬の雪による生活の不便さとか、今の産業に対する働き場所が少ない、ということで、人口が減っていってる、とは思うのですが、鳥取市なんかでは若い人も結構仕事をしているのを見ましたし、(もっと若い人が少ないか、とも思ったのですが)思っていたよりかは多かった、という気がしました。
 万葉集、そうなんですよね。防人として赴任していく子を見送る親が最後に頭を撫でて別れる、という歌がありますが、もうこの親が生きている間には子は戻ってこられないかもしれない。それでも親は子の無事を祈って頭を撫でるんです。(頭を撫でる、という意味は魂の働きを強くして子どもの無事を祈る、という意味がありました。)そんな歌を見ると、その親御さんの気持ちを思って涙が出てきます。

Posted by: 謙介 | 11. 05. 07 at 오후 5:39

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