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11. 01. 31

12月14日の後(のち)

謙介の仕事場は日本代表の長○選手の出身県
でもありますから、やはり今日出勤してみると
大抵の人の挨拶のはじめは、この話でした。
李も偉いけど、長○、すばらしい!よかった!


さてさて月曜は今冬でも指折りの寒さになる、
言われてやれやれ、と思っていたのですが
起きてみたら、この辺はそれほどでもなくて、
安心するというかなんだ、思ったほどでも
なかったなぁ、とちょっと思いました。

この辺では今日なんかより
お正月ごろの寒さのほうが
ずっと寒かったです。
外に置いたバケツに凍っていた氷の厚さが
1センチを超えていましたもん。
まぁそれでも寒いのは確かに寒かったのですが。

そうそう1月30日は、旧暦でいえば
12月14日でした。

12月14日、といえば赤穂浪士の討ち入りの日ですね。
昨年は年末に討ち入りのその後、を描いた
役所さんと佐藤さんのいい映画がありました。
芝居の世界では、不入りのときには
忠臣蔵をやったら必ず人が入る、ということで
最後の秘密兵器みたいな演目、ということに
なっていますよね。

昔の人なら、主君の仇討、ということで
共感を持ってかの物語を観た人も多かったでしょうが、
しかし今の世の中、そういう昔の日本人が
共感し得ていたことが、
どれほど同じように共感するのか、は
ちょっとわからないんじゃないか、とも思ったりします。


どうなんでしょうね。
今の若い人には「忠臣蔵」の「討ち入り」の話さえ、
ちゃんと知っている人がどれくらいいるのか。
あだ討ちの意見を聞く前に、ひょっとしたらもうそこから
入っていかないといけなくなっているかもしれません。

そういうことで、金曜の帰りに、その四十七士の
中のお二人の墓に詣でてきました。

Chushingura2

謙介の仕事場の街の中心に高島○がありますが
その高島○から南に200メートルくらい行った道の右手に
興聖寺、という臨済宗妙心寺派のお寺があって
ここに四十七士のうちの大高源吾と木村岡右衛門の
お墓があります。

討ち入りをして吉良上野介義央を討ち取った後、
浪士のうち、大石主税、堀部安兵衛、大高源吾、木村岡右衛門
など10人が江戸の松山藩預かりとなりました。

そしてその翌年の2月4日はその松山藩の江戸の藩邸で
彼らは切腹の沙汰を受け切腹をすることになったのです。

その時、松山藩士だった宮原久太夫と
大高源吾らに親交ができました。久太夫は大高源吾らの
介錯人もつとめることになりました。 そして久太夫は
二人が切腹したのちに二人の遺髪をこちらに持ち帰り
久太夫の菩提寺であったこの寺に墓所を作り
彼らの菩提を弔ったのです。

彼ら二人のお墓の横に、介錯人をつとめた久太夫の
お墓もあります。久太夫は「二人とともに」を願ったのです。

Chushingura3

大高源吾はまた俳人でもあったので、
彼は辞世の句をよんでいます。
その句碑が墓の横にあります。

Chushingura1


梅てのむ 茶屋も有へし 死出の山  子葉

旧かなは原則として濁点は打ちません。
(浄瑠璃の床本くらい時代が下ってきますと、濁点を打っているのも
ありますが、それ以前で、文字の横に点を二つ打ってあるのは
それは濁点ではなくて、みせけち、と言って、この字は
書き間違えました、というしるしでした。
ですからこの句は 濁点の表記はありませんが
梅で飲む、と読みます。)


(子葉は大高源吾の俳号です。)

末期の酒を、(先ほども言いましたように
切腹したのは2月4日でしたから、)
梅で飲む、と表現しているのです。

毎年新暦の12月14日には、このお寺で義士祭が
あって「討ち入り蕎麦」が出ます。
え? なんで新暦でするのか?
このお寺のある界隈は
もうずいぶんさびれてはきたのですが
商店街なのです。
なので、たぶんこの義士祭の始まりは、暮れの人集め、
集客イベントだったろうと思います。それで
ここでは新暦でやっている、という事情も
あるのだと思います。

お寺の境内は街中にしては落ち着いて静かなたたずまい
でした。 案内板も新しく作られ、お墓も美しく保たれ、
世話の手が定期的に入ってきちんと
なされているようでした。

そういうわけでここでは赤穂浪士の話は芝居や講談での
お話、という印象が強いのですが、ここではそうした
もっともっと身近な、彼らの息づかいの聞こえるような
話だったりするのです。


(今日聴いた音楽 ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲 
 ロングハースト編 わが傍らにいまし給え BWV508
 オルガン演奏 ジョン・ロック・ハースト) 

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Comments

泉○寺にある四十七士の墓に参拝したことがありますが、墓の入り口で線香を売っていて、練炭にくべた線香がモウモウと煙を上げてるのは興ざめでした(ノ_-。)
売っている線香の束は、ちょうど墓石の数と同じ本数だそうで、観光客が順々に1本ずつ墓前に挿して回っているのも、気ぜわしかったです。
それに比べて、こちらはゆっくり参拝できるようだし、地元の皆さんにも大事にされている感じがして良いですね。
12月に預かって2月4日の切腹まで、この年の松山藩邸は正月どころじゃなく、緊迫の1ヵ月半だったことでしょう。隠されたドラマに思いをはせるのも感慨深いです。

Posted by: mishima | 11. 02. 01 at 오전 1:14

---mishimaさん
実は、うちの仕事場に「赤穂御預人始末」という記録と「浅野内匠殿家来松平隠岐守殿江御預一件」があります。それを読んでみたのですが、大石主税ほか預けられた人は、藩邸内に作ったそれぞれの小屋に一人ずつ入って、そこで御沙汰を待ったようです。独房みたいかな、と思ったのですが、食事の記録もありまして、お料理は2汁5菜とありまして、さらには朝夕共菓子出之、夜食は1汁3菜ですから、決してひどい待遇ではないように思います。 寒い時期ですから火鉢も入れて、、という記録もあります。それから切腹の際の記録もありますが、やはり記録なので、詳細に書かれています。詳細な当日の図面まであります。(どこに誰が座ったのかが書かれています。)こういう生の記録を見ていくと、決して芝居の世界の話ではなくて、実際に起こった事件であって、それがどのように処置されていったのか、mishimaさんもおっしゃっているように、当時の人々の緊迫した息づかいが、この記録の行間から伝わってくるような気さえします。

Posted by: 謙介 | 11. 02. 01 at 오후 12:17

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