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10. 12. 09

自分を押し殺して生きる

あれは高校の時のこと。
自分の中で、あ、東京に行った、と、はっきり
分かるようになってからの東京行きが
その時がはじめてだった。


それ以前には
鎌倉に父方の親戚がいて、その親戚に会うために
まだ小さいときに上京して、東京のあっちこっちを
見てまわったらしいのだけど、そのときのことは
ほとんど覚えていない。「東京タワーにも
銀座にも行ったんやけどな。」とオフクロは言う。
見せられた写真には、東京タワーの展望室に
いる自分が写ってたり、鎌倉の大仏の前で
不安げな顔をして立っている写真が確かにある。


高校の時に
東京に行って、うわーと思ったのは
すごい、みんな規則を守ってるんだ、ということ。
まずそれにびっくりした。

距離の短い横断歩道なんかだと、謙介の住んでいた
場所では、信号の色が赤だろうと、みんなさっさと渡って
しまう。 電車の乗車位置の辺で、ぐちゃっと集まって
いて、電車が来たら、みんななんとなく乗ってしまう。
でも東京は違ってた。

横断歩道の距離が短かろうと、信号が赤なら
みんなちゃんと止まって、青になるのを待ってたし、
公共交通機関の駅での乗車はみんな2列とか
3列に並んでの整列乗車してたし。
規則というのか、みんな公共のマナーを守っていることに
まずびっくりした。

いつも東京に行くと、最初の1日、もしくは数日、
こういう秩序正しさとかルールを守って人が動いていくのを見て
すごいなぁ、って、思う気持ちになる。
それからしばらく何日かは、その流れに乗って
自分も動く。
だけどそれが帰る前の数日になると
そういうことに疲れてきている自分に気づく。
「早く田舎に帰りたい。」と思う気持ちがおこって来る。

とは言いながら、たまにしか来ないこの大都会を
もうちょっと見ておきたい、という気持ちと、
人の流れにあわせるしんどさから
もういい加減解放されたい、という気持ちが
行ったり来たりはしているのだけど。

最近、都会からのニュースで
「どうして、そんなことをしれかしたのだろう? 」というふうな
理解に苦しむような事件の報道に
接することがよくある。

そういう事件を起こした、もしくは起こしてしまった
責任は、やはり人間として
取らないといけない。
だけど、それを起こした人間のその背景はどうなのだろう?

人はさまざまで
移り住んだその場所その場所に適応して生きていける人も
いれば、どこに行っても、なかなかその場所にうまく
適応できない人もいる。

自分の生まれた場所の生活が一番いい、と思ってた
人が仕事の関係で2,3年に一度転勤が
あるような仕事に就いてしまって、本当に転勤が辛い、
といつも言っている友達もいるし、逆に自分の生まれた田舎は本当に
人間関係が固定的で息がつまりそうだから、人間関係に
縛られない、都会の生活のほうがよほどいい、という人もいる。

そうかと思ったら、都会というところは
人に合わせないといけないような大きな流れが
あって、その流れに沿っていると息が詰まりそうで嫌だし、
外れてしまったらたちまち相手にしてもらえないし、、
本当に都会は嫌だ、という人だっている。

それは幸不幸と一緒で
あくまで「その人にとっては、どうなのか? 」というところで
見ないといけないのだろう。
都会に住むのが好き、というのか田舎の生活にうまく
適合する人もいれば、都会の生活の中で生き生きと
している人もいる。
はたまた田舎に住むほうがその人の性格とか適性から言えば
合うはずなのに、仕事の関係でどうしても都会にいないと
いけない、という人もいるだろうし、、。

そういうふうに住んでいる場所にうまく自分を
適応させられなかったり、住んでいる場所が嫌だ、という
人は、結局今住んでいる場所で自分を押し殺して
住むことになっているのではないだろうか。

人にあわせないといけないしんどさ。
自分は本当は「こう」なのに、でも周囲の状況から仕方なく、
自分の思いとは全然違うほうにあわせている、というのって、
相当のストレスが溜まることではないのかなぁ、、、。
俺、都会に住んでる人を見ていると
そういうことを思ってしまう。

確かに合う人もいれば、嫌だけど、しぶしぶ、という
人もいるだろうし、、。

そういう自分を押し殺した気持ちがあるにせよ、
どこか自分のほかの生活の中でストレスの発散が
うまくできていて、結果、ストレスを他に逃がしたりして
うまくバランスが取っているならそれでもいい。
たとえば仕事は辛いけど、プライベートな生活で仲のいい人が
いて、その人と話したり一緒に何かをすることで発散できる、
もしくは自分の趣味を持ってて、それで適当にストレス解消が
できている、というのであれば、それでいいと思う。

でも中には、人とうまくコミュニケーションだって取れていないし、、
だから親しくしている友達だっていないし、、
かといってこれ、という趣味とか楽しみもない、、
今の自分がつくづく嫌で嫌でしようがない、
っていう人だって結構いるんじゃないだろうか。
そういう人が毎日の生活の中でさらに
自分を押し殺して、辛抱に辛抱を重ねて行くって、
相当にしんどいことだと思う。

自分を殺して人にムリに合わせる、
ということだけでさえ相当にしんどいのに、さらに
そのうえ誰も話し相手がいない、友達がいない
ストレスの解消方法もよく分からないで、ひとり
自分を抑えに抑えた生き方をしている。


そういう生きかたって、本当にものすごく
辛いことなんじゃないかなぁ、俺はそう思う。

その人にとって、常に自分を押し殺して
自分の気持ちと全然別の表情をしないといけないことを
強いられている、辛抱をずっとしてきたのに、自分の周囲は
ちっとも変らない。我慢に我慢を重ねてきているのに
その我慢が報われない。そういうふうな思いの反動が、あるとき
何かのきっかけで不意に大爆発をして、その結果、
事件を起こす、ということにつながってきては
いないのだろうか。

(だからといって何かしらの事件を起こしてもいいか、という
ことにはならないのはもちろんだけど、)


都会で電車に乗っていたり、新宿とか渋谷を歩いて
いるときに思うのは、
本当に自分は一体何なのか。
自分の存在は何なのか。
何か自分が浜辺にある砂の粒のひとつに
しか過ぎないような、微小さと存在のなさを
感じてしまう。確かにそうはそうなのだけど
でも、みんな自分が大切、って思ってる部分って
あると思う。その自分の核の部分すらどんどん抹殺
されていくような感覚。都会に行くと
そんな気分になってくることがあるんだ。

確かに、隠れてひっそり生きたい、っていう人は
自分は見えないような存在だからいい、っていう
人もいるとは思う。

だけど、それとは全く逆で、自分はやはりこんなふうな
自己表現をして、こういうふうに生きていきたい、って
願う人だっていると思う。

そう思ってても、都会だとあまりに人口が多いから
自分は砂粒みたいな存在としか思えなくて、、
もっとこういうふうに生きたい、って思うけど
ちっともそれができないよ、っていうかなえられない
悔しい気持ちとか、いつまでも晴れない気持ちを
抱えて、毎日暮らしている人だって、
相当数いるんじゃないのかなぁ。

自分の存在って何だろう。
何ができて、何がしたくて、、
でも、そういうふうなことがかなわない、、。

都会で何かしら突拍子もない事件が
起こった、というニュースに接するたびに
その人の生きてきた背景はどうたったのだろう。
誰かと心の結びつきはあったのだろうか。
どんなふうなストレスが溜まっていたのだろうか。
そんなふうな、その人の「背景」のことを思う。


みなさんはどうでしょう?
誰かとアホな話はできていますか?
相手の話を聞いたり、自分のことを聞いてくれる友達はいますか?

「オレは一人が好きなんだ。孤独を愛しているんだ。
そういう人なんて要らないよ。」っていうのならいいけどさ。
そうじゃなくて誰か相手が欲しいのに、いない、っていう人だって居ると思う。

たまには気持ちをパーッと解放したり発散できるようなことが
できていますか。

俺もねー、そういうの下手なんで、(だからこういう人の
気持ちも分かるんだけど、、。笑)


12月。忙しい忙しいばかりでなくてさ、
たまには、はじけてみたり、ぼんやりしましょうねー。

え、謙介は年中ぼんやりじゃないか?

きのうだって言われちゃいましたともさ。
「謙介って、あそこの温泉の街路灯みたいね。」とかなんとか。

(謙介の街の温泉の街路灯って、水銀灯とかLEDじゃなくて
明治時代と同じガス灯なの。だからいつもぼんやりと
しか明るくない。いつもぼーーーーっとしてる、って
いうことだと思う。)


えらい失礼いたしましたなぁ  ふん。


まぁ冗談はさておき。
忙しいときこそ、のんびりゆったりすることも
要るんじゃないかなぁ。
俺はそんなふうに思う。

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Comments

謙介さん、こんばんは。都会(ここでは東京の意味です)の良さは、「匿名性」でしょうか。電車に乗っていても、新宿のデパートで友達と一緒に歩いていても、知り合いに会う可能性はまずありません。ごく稀に、○○バーで、知り合いの知り合いが友達だったということが判明する、ということがあるらしいですが、普段街中で知っている人に出会うことはまずありません。

恐らく、京都や名古屋の昔からの家の人が、四条河原町や、広小路を歩いているとそうは行かないのでしょうが、東京では、よほど特定の場所、店に行かない限り、知り合いに出会い、挨拶を交わすことは殆ど想像できないし、まず起こらないことです。だから、二丁目のような客が匿名で通えるような町が存在しうるのでしょう。

田舎と違い、殺人的な電車に乗っていると、ストレスが溜まります。しかし、恐ろしいというか、興味深いことには、直ぐに慣れ(3ヶ月か半年か、一年かは人によるでしょうが)、なんとかなるようです。

田舎の濃密な人間関係と、対極にある無縁社会。どちらもそれなりにしんどいので、その中間が沢山選れべれば良いのでしょうが。

実際には東京にも、まるで田舎の村のような古い住民が住む町も存在していますが、そういった場所でも住民の大半は新しい人なので、殆どに人は周囲の住民のことを知らずに暮らしています。

考えて見れば不思議な町ですね。

Posted by: まさぞう | 10. 12. 11 at 오후 8:44

---まさぞうさん
田舎には田舎の特徴が、都会には都会の特徴がそれぞれありますよね。たとえばゲイのパレードでも東京とか大阪とか、地方都市でも比較的伝統ということを言わない札幌みたいな都市であれば、匿名性がちゃんとあったり、そういうものを許容する部分があって、可能ですが、それが和歌山とか富山でやったらどうでしょう?? やっぱり誰かが見てて、どこそこさんちの息子、あんなことをやってた、とうるさい噂の俎上に乗るのは間違いないでしょう。地方から東京に出てきてそのまま東京で暮らすようになった人の何割かは、そういう田舎の固定的な人間関係とか、変化しようとしない社会状況に嫌気がさしてきた方もおいでだと思います。田舎は人間関係が固定化していますから、日ごろの付き合いで、何かあったら、すぐに助けてくれたりします。家でできた作物をいただいたりして、そういう面では助かる、ということがあります。本当に一長一短ですね。前に友達が都会は仕事があるけど、生活がしんどいし、田舎は生活が楽だけど、仕事がないし、、と言っていたので、その中間の地方の都市は、と話したことがありました。 人それぞれ自分の適性とか、住む環境とか、なかなかマッチするのは難しいですが、、何とかその人にあった生活ができないものかなぁ、ということを思ったりしています。

Posted by: 謙介 | 10. 12. 12 at 오전 12:48

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