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10. 11. 02

『悪人』について

あっちこっちで『悪人』の感想を
断片的に書いてきたので
ここいら辺で自分なりに
まとめておいたら、と思います。

友達に『悪人』の映画見て、どう思った、って
聞かれたので、「情痴のお話だった。」
と俺は答えました。 
だってあの映画から感じたことって、自分の中では
「情痴」というしか適切な言葉が思い浮かばなかったのです。
友達は「情痴ねぇ、」って大笑いしてたけど、
謙介は真剣に情痴とだけしか思えませんでした。

ちなみに情痴とは、日本国語大辞典第二版によると、
「一途に愛情を尽くすこと。また、色恋に迷って
理性をなくすこと。」とあります。もちろん謙介さんの
指すのはこの説明の後半部ですが。
それだけの映画としか思えなかったのです。

原作にあった奥行きとか拡がりは全くなくて、
2時間19分延々と引っぱってきて、え? 
これでおしまいかよ、
というのが観た後の率直な感想でした。

実はこれを観てから、俺、自分の身の回りにいる
主人公の祐一と同い年くらいの人に聞いて回ったんです。
『悪人』観た? 祐一についてどう思った? って。
中には九州にいた人何人かにも聞いてみました。

一日にバスが3本しか来ないような
田舎に住んでいる人間から言わせてもらうと
祐一みたいな境遇の若い人って田舎に案外
普通にいたりします。
彼はたまたま男でしたが、
家の年寄りの介護をしている。通勤のついでに近所の
お年寄りを病院まで送ってあげる。
単調な毎日のしんどい仕事を黙々とこなしている。
なんていう人は男女を問わずいます。

唯一楽しみと言えば
車のチューンナップだけが唯一の楽しみで、という
そういう若い男の子だって、地方に来たら、ごく普通にいます。
この不景気のご時勢に、田舎に来ると、
やたら金をかけた改造をしている車が
走っていたりするのは、車しか金をかけるものがないから、
そういう趣味の人が結構いるからです。
今朝だって謙介、出勤途中でセルシ○の改造車を
見ました。

しかし、誰もが祐一にはなりません。
それでは祐一と他の人の差は一体何なのでしょうか?
それが映画を観るまで、頭にずーっとありました。
原作ではそういう彼の「日常」がきちんと描かれて
あったのに、映画になると、それが不思議なことに
全然こちらに響いてこなかったのです。
しんどい仕事しています。
じいちゃんを病院に送り届けています。
そう映画の場面にもありました。

でも、それは原作がそうだったから
とりあえず描いてみました、という通り一遍の描き方で
しかありませんでした。
そこから浮かび上がってくる彼の日常のリアリティが
まるでなかった。だからこちらに全くその日常が
大変なものとして迫って
こなかったのです。

さっきも俺、言いました。
あんな祐一みたいな若い人、地方に来たら
結構います、って。 だからこそ、彼の日常を
よほど丹念に描いておかないと、彼の内面が全然
浮かび上がってこないんです。

ましてや俺、前にも言ったはずです。エグザイ○の
『ふたつの唇』歌詞の分析の時に、
「男って身体言語の生き物だから、口に出して
あれこれ、ってあんまり言わないんですよ。」って。
たたでさえ、男という人種は口に出して積極的に言おうとしない奴が
多いです。
その上、祐一はさらに口下手のようです。
自分で自分の思っていることをうまく言えない。
彼は寡黙でありました。

ですが、原作にはそういう部分の拡がりがもっとあった
はずです。だからこそ文章を読んでいていかにも、あ、
こんな子普通にいるな、と俺も思えたのです。
そういう彼であったから、佐賀のロードサイドの
紳士服の量販店で働いている
結婚しないままにここまで来てしまった女の人が、
そういう彼に惹かれていくのだって
分かる、という部分につながっていったんじゃないのでしょうか。

で、あるはずなのに、
あの映画を見ただけでは、そんな男についていく、なんて思うか?
と思わず突っ込みを入れたくなるような
男にしか描かれていなかったように思えます。

祐一の描かれ方もひどかったけど
殺されてしまった生保レディの女の子もあれはひどい、
と思いました。
祐一が長崎から福岡までわざわざ車を飛ばして来る。
彼女に会うために来る。 確かに原作もそうなっています。
でも、俺画面を観ながら、この程度の女に会うために
わざわざ長崎から来ないといけないか? と思いました。 
あれなら(失礼な言い方をお許しいただくならば、)
ただの「ヤリマン女」じゃないか、って。
それくらいあの祐一に殺された生保レディのおねいさんは
ひどい女としか描かれていませんでした。

俺もあの祐一が飛ばしてきた道路何度も通ったことがありますけど、
そんなために、わざわざあの道路、あの距離を車を飛ばして来るのか?
それを思いました。

さらに言えば、その娘を殺されてからの
娘の実家の散髪屋の毎日がまるで描かれていませんでした。
だから、ある日、彼女の父親が
娘を峠まで連れていって、そこで車から放り出した
大学生のところに復讐に行くのが、映画を観てるだけの人に
とっては、父親が発作的にいきり立って、そういう行動に
出てしまったような印象になってしまっていたのです。

自分の腹を痛めて産んだ娘がああいうふうな
最期になってしまった、その母親の悲しみは
一体どこに描かれていたのでしょう。それは確かに
父親の腕の中で崩れるように泣く、という
ところで出した、と言えばそれまでですが、
娘を喪ってしまった悲しみは、そんな簡単な
ものではないはずです。もっと深いところから
こみ上げてくるような、重い癒されることのない
悲しみ、それは描かれてはいませんでした。

父親にしてもおそらく何万回も「なぜ、自分の
娘が殺されなくてはならなかったのか、」と反芻したと
思います。何千回とその問いを発しても、どうして?
と思っても、その答えは一向に出てこないのです。

毎日毎日、絶望感に崩れそうになる気持ちの中で
残された両親はどういう気持ちで過ごしてきて
いたのか。(確かに幼いときの写真を思い出して、、
というシーンはありました)でも、母親の悲嘆のシーンは
嘆き悲しむ場面がちょっとあっただけです。
どうして店も開けず、家事もできず、ただただ暗い部屋の
中でじっと過ごすだけ、という原作にあった残された両親の
深い悲しみの場面を入れなかったのでしょう。

それを入れることによって後で
父親がその男子大学生のところにスパナを握り締めて
詰め寄っていったことが、殺されて以来ずっと思い
続けてきた親のやり場のない悲しみや怒りから出てきた
発露の行動だった、と自然に解される、と思うのです。
そしてそれがまた『悪人』というこの話の主題とも
つながってくるはずではなかったのか、とも思えるのです。

でも映画の場面だけ観ていたら、単に娘を殺された父親が
発作的に赤坂まで出かけていって男子大学生に
復讐しようとした、としか映らないのです。
(赤坂は東京の、ではありません。福岡の地名です。)
ここの部分も中途半端だなぁ、としか思えませんでした。

後半の灯台での生活も
正直、何だあれは、と思いました。
灯台は海上保安庁が管理しています。
定期的に灯台のレンズを
拭きにくる人がいて、灯台の管理は
厳格にされています。そうでなかったら
船の航行にたちまち障害が出ますから。
あんなふうに、無人の灯台に勝手に入れたりする、
なんて馬鹿げたことは本当ならありません。
でもまぁ、そこはお話として目をつぶることにしましょうか。

原作のお話は最後のところで
それぞれの登場人物が、勇気を振り絞って
それまでの自分を破って新しい歩みをしはじめようとします。
祐一のおばあさんは、詐欺と恐喝の中で署名して買うことに
させられてしまった高額な薬の契約を破棄させようと
立ち上がりますし、娘を殺されてしまった久留米の理髪店の
店主の夫婦もまた新しい歩みをはじめるのですが、そうしたシーンを
最後、すべてを祐一の逮捕と同時進行で全部ほらよ、って
出してしまったがために、それが物語の希望として
十分読み取ることができませんでした。 
どうして、逮捕されてしまった祐一の「その後」
もあわせて、映画の最後に描かなかったのでしょう。

その希望が最後に来ることで、このしんどかった
お話の中で最後にかすかに曙光が見えて、
救いになっているのですが
それが、おしまいのところで、全部一緒にほらよ、って
出してこられたために、その「再生」のはずがゴチャゴチャに
なって整理がつかなくなって、その結果
うすっぺらい印象のまま、
エンドロールになってしまうのです。

最後に警察が逮捕しようと飛び込んできたときに祐一が
一緒にいた女の人を絞め殺そうとします。
それで祐一は女の人を連れまわした自分が
全て悪い、というふうに罪状を一人でかぶって
しまおうとしたのかもしれませんが、それも
原作がそうなっていましたから、そう描いてみました、という
だけです。筋立ての中に答えを見せて、ストーリーの
帳尻あわせをしろ、とは言いません。
でも、俺には、最後に来て物語の全てを
放り投げてしまった、としか思えませんでした。
あれで一体何を理解せよ、と言うのでしょう。

全てがちょっとずつ中途半端で、
原作を忠実になぞりはしていましたが、
それだけ、としか思えませんでした。

場面の省略はあってもいいのです。ですが省略を
するのなら、その分、背景にもう少し緻密さと
丁寧さがなくてはリアリティが出てこないのです。
いい作品になるはずだったのに、あの程度の志の
低いものにとどまってしまっていることが
惜しまれてなりません。

あの『悪人』について、
こういう感想を謙介は持ったのでした。

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Comments

>謙介さん
 私は、悪人の原作も映画も見ていない
のでコメントするのは、どうかなと
思ったのですが、
妻夫木君大好きな方か深津絵里さんの
ファンですの人なら、見る価値ありの
映画なのでしょう。。
 そういう私はジュリア・ロバーツさん
好きで「食べて祈って恋をして」をみた
のですが、内容もない、ジュリアンは
40過ぎのただのおばさんになってしまい
1700円返して欲しい映画でした(笑)

Posted by: yoko | 10. 11. 02 at 오후 9:41

僕は原作を読んだだけで、映画は観てないんですが、謙介さんの感想はこうだったんですね。

僕は別の映画を観てきました・・・。主人公がゲイの映画だったんですけど、主人公がノンケで女好きだったとしたら、この映画は成り立つんだろうか、ゲイだというだけで成り立ってるんだったら、それは成り立っていると言えるんだろうか。。。と見終わってから思ってしまいました。評判は結構良いみたいなんですけどね。

Posted by: ともぞう | 10. 11. 03 at 오전 12:10

---yokoさん
yokoさんの言葉で、あ、書き忘れてた、と気づいたのですが、配役は良かったんです。この映画に出演されていた方、みんなスクリーンの中で九州の風土とすっかりなじんでいて、違和感があるなぁ、っていう方はいなかったです。キャストはよかった。でも、いやだからこそ、映画の脚本が、、うーん、ということでした。あまりに原作どおりなんです。文章に書いたら、長々とするところだって、映像なら、一瞬で分からせてしまえる、っていう方法だってあるのだから、もうちょっと原作をはみ出す、というのか、出てしまっている部分だってあってよかった、と思います。あまりに原作に忠実にしすぎてしまったんじゃないかなぁ、という気がしています。

Posted by: 謙介 | 10. 11. 03 at 오전 10:04

---ともぞうさん
こんにちは! お元気ですか。急に気候が冷えてきたのですが、風邪などひいていませんか? 
どうしたことなのか、よくわかんないのですが、映画にゲイ、という設定があったりすると、途端に評価が若干甘めになったりする場合ってないですか? 前にも正直なんだよあれは、っていう映画が賞をもらったりして、どうして? って思ったことが何度かあったのですが。ゲイが登場人物の設定の中にあるのは、さして問題でなくて、果たしてその映画が、客観的に観て、いい脚本か、キャストはどうか、という視点で見ていかないと、って思います。ともぞうさんもおそらくは同意見なのだろう、と判断しているのですが。まだそういうことって、あったりしますよね。どうして「自然」に観られないのでしょう??

Posted by: 謙介 | 10. 11. 03 at 오전 10:15

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