« 瀬戸内国際芸術祭(その1) | Main | 瀬戸内国際芸術祭(その3) »

10. 10. 15

瀬戸内国際芸術祭(その2)

今日はあんまりセトゲイと関係ないんですけどね。
どっちかと言うとお城好き、方面のお話かも。
お城の入り口で「こいのえさ」でなくて
「たいのえさあります」の表示があったのでした。
ちなみにたいのえさ、はなんだか黒っぽい緑色をした
はなくそ5ミリくらいの球形のつぶです。
それがプリンの容器のようなものに一杯入って
50円です。

お城の中に入っていきます。
ほどなくすると水門があって、そこから勢いよく
内堀にお水が流れ込んでいます。
その脇に「えさやりスポット」があります。

Tamamo2

鯉にしてはちょっと魚型が違う感じがしません?
もうちょっと近くに寄って撮れたらよかったんですけど、
これは鯉ではありません。
ええ。鯛です。
このお城は海辺にあるのでお堀の水は
瀬戸内海の塩水が水門から入ってきます。
昔はお城の北側はお堀はなくて、そのまま海だった
くらいでね。海辺のお城。
ですからお城の中に
鯛やひらめがいるわけです。
今日は、着見櫓が一般公開されている日なので
それを見にやってきたということです。
普通は月見櫓なんですが、
ここは港に着く船を監視する、という櫓なので
着見です。


Tamamo3

松の木の向こうにフェリーボートの赤い煙突が見えているのが
分かりますよね。今はちょっと埋め立てられてしまったのですが
港のすぐ横にお城です。

Tamamo5

近くから見上げるとこんな感じです。
横には水手御門があります。
全国のお城の中でも、門の外がすぐ海、という門は
あんまり残っていないんじゃないですかね。
ここからお殿様は直接船に乗ったりしていたそうです。

Tamamo4

櫓の中に入ってみます。櫓の中から外を見ると
こんな感じです。
Tamamo9
これが北の方向です。瀬戸内海が広がっています。

Tamamo8
(これが西の方向 正面のやたらでかい建物はJR四国のホテルです。)

これが東です。 やんやん屋島方面です。よく見てもらうと唐破風の上の部分に
葵の御紋の瓦が見えるのが分かります?
Aoi

江戸時代、御三家の分家はみんな2万石とか3万石くらいの
小さな石高の大名だったのですが、ここは12万石、
と破格に大きな石高でした。加えて表向きの石高は
12万石だったのですが、
実際は16万から17万石はあったようです。

松平家になって最初の藩主は水戸家の松平頼重が
ここにきて城主になりました。

本来であれば、長男である頼重が
水戸藩を継ぐのが普通です。
前回にも少しお話したように、水戸は
弟である光圀が後を継ぎました。実は、
頼重が生まれた時には、彼の父頼房
(徳川水戸家初代)の兄である尾張藩徳川義直、
紀州藩徳川頼宣には男子がまだ生まれて
いませんでした。そのことをはばかって、
頼房は頼重が生まれたことを対外的に伏せて
頼重を京都の天龍寺に預けたのです。やがて、
二人の兄にも子が生まれた後、
光圀が生まれたため、頼房は光圀を嫡男とした
のです。
その後、頼重の存在が三代将軍家光の
知るところとなり、頼重は16歳の
時に将軍家光に初見し、翌年、家光は
頼重を常陸国下館藩5万石の城主にし
ました。ただ、家光は本来長男でありながら
水戸藩主になれなかった頼重の
ことを気にかけ、高松藩生駒家の御家騒動を機に、
頼重を高松藩12万石の城主に破格登用したのです。
将軍家と近親関係にあった頼重は、中国・四国地方の
監察役を命じられていたとも言われています。
その後、徳川光圀は、兄を差しおいて
水戸藩主になったことを悔い、兄頼重の子を高松から
養子に招いて水戸家を継がせ、自分の子
頼常を高松藩主としたのです。以後、高松藩と水戸藩は
緊密な関係を保ち、しばしば後継藩主を交換
するということがありました。

なぜ長男ではない光圀が
水戸の藩主になったのか、というこの話は
それこそ歴史好きの人には割と知られた話ですよね。

南はこんな感じです。

Tamamo12

右のビルが四国電○で、左がゑちごやです。
手前の御殿風建物は披雲閣(ひうんかく)という
大正時代に旧藩主が建てた書院です。


Tamamo13

今、天守閣跡の石垣が崩れそうだったので、もう一度
基礎から、石の積みなおしをしているところです。
かつてはこんな天守閣が建っていたんですけどね、、。

Tamamojyo


市は天守閣を再建したい、と言っているのですが。
以前は大阪城とか岡山城とか広島城みたいに
コンクリートの天守閣でもオッケーだったようですが
最近は昔のままの工法でもちろん木造でないと
建築ご許可が下りないようです。

でも何せ写真が2枚しか残っていなくて、
詳細が分からないので、ちょっと困っているところ
みたいです。

桜御門も昔は立派な門があったのですが、
Sakuranogomon

今は石垣だけになってしまってます。
Sakuragomon2010


久しぶりにお城のあちこちを眺めて、のんびりして
帰ってきました。
うーん。
今回はセトゲイとはちょっと関係なかったですね。
それでは次回に。

|

« 瀬戸内国際芸術祭(その1) | Main | 瀬戸内国際芸術祭(その3) »

おげいじゅつ」カテゴリの記事

Comments

謙介さん、こんばんは。仕事で、高松へは何度か行きました。ついでにお城へ時間つぶしに通いました。天守閣が再建されると、城下町でありながら、あまりそのイメージのない高松の(よそ者にとってですが)印象が変わるかもしれません。松山、高知は城下町の印象が強いのに、高松はフェリー、連絡線、支店の町、やけに立派な庭園の町という感じです。海辺のカフカ以来、図書館の町というイメージもありますが。

Posted by: ま | 10. 10. 18 at 오후 10:49

---ま さん
やっぱり松山・高知は天守閣があって、という印象が大きいかもしれないですね。高松はそれでいうと天守閣がないですし。ただ、地元の人の話をしたりすると、藩政時代からのお菓子のお店とか、栗林公園も藩主の庭でしたし、それからお茶です。高松って、裏千家でも表千家でもなくて武者小路千家が強いのですが、これは高松藩が武者小路千家をずっと庇護していたためなんです。そういう伝統的な部分を見れば、表立ってはないんですけれども、まだ濃厚に城下町の意識、っていうのが土地の人にはあるようですね。

Posted by: 謙介 | 10. 10. 18 at 오후 11:21

入っておらず、名前が何だか分らない人になっており、失礼しました。藩政時代という言い方は、関東、関西以外では良く使われるように思いますが、関東で使わないのは、やはり藩がそもそもなかったためでしょうか?水戸は藩でしたが、あそこでも藩政時代とはあまり言わないように思います。山川菊栄の「覚書幕末の水戸藩」を引っ張り出してみたら、旧藩時代と書いてありました。仙台では藩政時代と必ず使いますが。

Posted by: まさぞうと入れたつもりが | 10. 10. 19 at 오후 1:22

---まさぞうさん
こんばんは。 多分お書きの文章から何となくまさぞうさんではないか、とは思っていたのですが、、。はっきり分かってこちらも安心しました。藩がなかったので、藩政という意識がない、という話、史学科の人間にもそう聞いたことがあります。でも残っているところは本当に江戸時代の意識がまだ相当に残っていますよね。前に会津に行ったら、表札に元士族、と書いてあってぶったまげたことを思い出しました。この辺も多少はまだ残っているみたいです。松山と宇和島では人の意識が全然違いますもん。いまだに宇和島は伊達のご城下だ、と言う意識が強いみたいです。松山はどうでしょう。ちょっとこちらは都市化しているので、よくは分かりませんが、、。ただもし藩政時代が続いていたら、現在の御当主、元○HKの松平アナウンサーなので、具体的に顔を浮かべろ、と言ったらすぐに出てはくるんですけどね。
それからこんなところで私信を書くのもいかがかとは思うのですが、まさぞうさん、個人のメールアドレス、もしよろしかったら教えてください。前にいただいていたアドレス、今も使えますか?

Posted by: 謙介 | 10. 10. 19 at 오후 9:58

謙介さん、こんばんは。いつも楽しく読ませていただいています。筆の早いことに驚愕しています。私は関東の田舎の出なのですが、町に陣屋のある小規模な城下町でしたが、市民の意識として、城に誰が住んでいたか、まるで知らず、私も分らず(恥ずかしい限り)、城跡にはソース焼きそばの一族が確か住んでいた記憶がありますが、城跡と意識して買ったのかどうかも定かではありません。その程度の帰属意識なので、関東では(水戸を除く)、藩の意識や文化意識に乏しいのだと思います。領主が誰か、まるで知りません。従って、文化的景観の維持についても悲惨な状態で、歴史的景観を保つとか、地方の文化をどうのこうのという意識が(やはり水戸を除いて)ありません。東京の郊外という程度の認識です。悲しいな、と思うのですが、いかがでしょう。だから旅行をすると、色々同じ日本なのに驚くことが多いです。

Posted by: まさぞう | 10. 10. 19 at 오후 11:33

---まさぞうさん
こんにちは。関東はやはり将軍さまのお膝元、という意識が強くあったのでしょうね。近畿圏でも大阪・京都は別として、彦根はやはり井伊さんの城下町ですし、京都の市内は別ですが、園部なんかでも、俺が通っていたころは小出さんの城下、という意識があったように思います。(でも今は薄れてしまってきてはいるでしょうけれど。)中国地方でもこないだ行った広島だって、原爆で倒壊したお城をわざわざ再建までしたのは、やはりそれを希求する市民の意識があったのでしょうし、松江もそうした藩政時代の意識があるように思います。こうしたことはそこに住む人が、そういう旧時代のそうした治世をどう思っているかによるかもしれませんし、県民性とかそうした意識も濃く影響を与えているかもしれないですね。歴史的な流れとか地域的なものとか住民の意識とか、そうしたいくつかの要素が絡んで、そうした古いものをどう思うのか、という意識を作っているように思います。

Posted by: 謙介 | 10. 10. 20 at 오전 10:37

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91870/49726581

Listed below are links to weblogs that reference 瀬戸内国際芸術祭(その2):

« 瀬戸内国際芸術祭(その1) | Main | 瀬戸内国際芸術祭(その3) »