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10. 07. 27

土佐へ(その2)

唐突な話ですが、
たとえば、女性で、自宅に軟禁された人、、というと
これをお読みのみなさんはどなたを想像されるでしょうか。
アウンサン・スーチーさんですかね。たぶん。
でもね、そんな遠いミャンマーではなくて、
この日本の土佐にも自宅軟禁の状況におかれた
女性がいたんですよ。
それは野中婉という女性です。

婉の父親は高知藩の家老野中兼山でした。
兼山は高知藩の改革をしたり土木工事をしたりと
藩政に辣腕をふるったのですが、その政治手法について
彼の方法をよしとしない連中から疎まれ、
恨まれるようになり、最後にはとうとう失脚してしまいます。
その時、兼山の娘の婉は4歳でした。

野中一族は高知の城下から150キロほど西に離れた宿毛に
幽閉されます。そうして兼山の息子たちはその幽閉された
家の中でそれぞれ病気になったり狂死していきました。
野中家の男子が全て亡くなり、男系の子孫が絶え果てたとき、
彼女にようやく山内家から赦免の許しが下されました。
そのとき彼女は44歳になっていました。
つまり40年の間、彼女はずっと自宅軟禁状態にあったのです。

そうして彼女は宿毛から高知市の西の端の朝倉の山陰に
戻り、そこで40年の間に学んだ医学で人を治しながら
生活をたてました。以後65歳で亡くなるまで彼女はそこで
暮らしたそうです。
その間、武士が診察してもらいに来たら、診察は断っていた、と
記録にはあります。もう武士の世界は見るのも嫌、
と思っていたのでしょう。

彼女の生涯を小説にしたのが、大原富枝さんの『婉という女』だったのです。
この作品を謙介は高校の3年の時に読みました。
でも、その人が隠棲していた場所は
ずっと分からないままでした。去年の暮れ、新聞のウエブ版の記事で
彼女の隠棲地が高知の朝倉だったことを知りました。
そして今回の旅で、時間があったら是非その彼女が隠棲した家の付近に
行きたい、と思っていました。
南国から高知の市内を抜けて、今度は西の郊外の朝倉に行きます。
今、彼女が住んでいたあたりには石碑が建っています。

Nonaka1

この石碑の文字、堂々としていてなんと品のある字でしょう。
NHKの大河ドラマのあの変な字とは比較になりません。
この字、本当にすばらしいと思いました。

ここを見学した後、今度はとでんの線路沿いに東へ、
高知市内に戻ります。
「とでん」 高知でとでんと言えば、もちろん「土佐電鉄」です。
市内をのんびりと走っているのはなかなか風情があります。
その土電の旭の電停から南に折れて川のほうに行きます。


Yokiro1

知らなければ、「別に? 」というふうな病院の一角
なんですが、、。
今はもっと東のほうの市内の中心部に行ってしまった得○楼が
昔はこの病院のあたりにあったようです。
得○楼というのは宮尾さんの小説の暉○楼のモデルになったところです。

実はこの辺、玉水のあたりは
高知の昔の西の廓のあったところなんですよ。
だからこの病院の前もこんな感じです。
川にかかる橋のたたずまいがちょっと意味深な感じでしょ。


Yokiro2


あっちこっち見ている間に3時が来ました。
ちょっと早めですが、ホテルに入りました。

休憩をしてちょっと市内中心部をぶらぶらします。
高知って、必ず頭に「南国」とつきますよね。
南国高知とか南国土佐、とか。
でもね、気温だけで言うと
実は高知って四国の中ではむしろ涼しい場所なんです。


毎日、四国の各都市の最高気温を見ていてください。
高松が35度、松山34度とあっても高知は32度
くらいだったりします。
高知のほうが南だから暑いと思っている人が
多いのですが、そんなことは決してありません。
この時期高知の気温は四国ではいつも涼しいほうです。
瀬戸内海側のほうがよっぽど気温で言えば、南国なんですよね。

市内の中心播磨屋橋の交差点に来ました。
以前はここに高知西武百貨店があって
それが撤退したあともその建物がしばらく廃墟のように
残っていました。市内の中心部、一等地にこんな廃墟が
あるとちょっとなぁ、だったのですがとにかく
そこにこういう建物があったわけです。

Todenseibu2

それが今ではこんなふうです。
Todenseibu

以前いろいろな店が入るビルができる、という再開発計画が
できていたのですが、急激な建築資材の高騰やら、
不景気のあおりで計画は頓挫してしまいました。
この交差点は土電の電車が平面交差する交差点としても
有名ですよね。

Harimaya1

この交差点を振り返ると播磨屋橋です。

Harimaya3

播磨屋橋から大○のほうに戻ります。
以前は西○と大○と二つデパートがありましたが、
今は大○だけになりました。
Daimaru1

市内の北にでかい岡田屋ができて、今まで市内の商店街に
来ていた客が全部岡田屋に流れてしまったのです。

さて、晩ご飯はひろめ市場です。

Hirome2

ここの明神○でかつおのたたき定食をいただきました。
ここは高知の郷土食のフードコートのようになった場所が
あります。もちろん高知に来てたたきを食べないと、ねぇ、、。

Hirome4

以前は高知の特産の柚子ポン酢で食べるたたき、だったのですが
最近は塩で食べる塩たたきも有名になってきています。
ひろめ市場は最初期間限定の5年間の建物、ということで
できたのですが、それが好評につきもうずっと営業するものに
変りました。
高知のお土産を買おうと思ったり、おいしいものを食べようとしたら
まずここに来たら大丈夫です。

塩たたきを食べてちょっと市場の中を見て回って、まだもうちょっと
おなかにゆとりがあったので、同じく高知名物の
安兵○の餃子をたべることにしました。
注文をすると、どこの辺に待ってますか?
と聞かれます。たまたま店の前のテーブルが空いていたので
そこ、と言うと、こういうのを渡されます。

Hirome5

10分ほどするとにいちゃんが餃子を持ってきてくれました。

Hirome6

高知ではここの餃子、っていうのが人気があるそうなんですが
食べたんですけどね。
期待が大きすぎたんでしょうかね。そう大したものでもなかったです。
餃子を食べて再びたそがれの街に出ます。
追手筋を西に行くと突き当りがお城の追手門です。

Kochijyo

ひろめ市場でもらったパンフレットには
高知城が南海道唯一の木造の天守閣、とありましたが
それは間違いですね。
南海道の木造の天守閣なんて結構ありますよ。
松山城、宇和島城、丸亀城。全部木造の天守閣ですもん。
それに高知城で全部で4つもあります。

そうしてその追手門の脇に、さっきの野中兼山の屋敷のあとの
表示があります。

Nonaka2

そこから東に行くと酔鯨公とも呼ばれた
山内容堂の生誕の地の標識があります。

Suigei
ちょっと前に較べて旅の形もずいぶん変りました。
高知も老舗だった旅館とかホテルがどんどん廃業しています。
もう今は団体で来て、大広間で宴会をする、というような
旅行ではなくなってきた、ということなのでしょう。
実際研修後にお邪魔した高知の友達の話によると
今、そういう古いホテルはどんどんなくなりつつあるとか。
旅の形も大きく変化をしている、ということなのでしょうね。


そうしてホテルに戻って、、
次の日から3日間胃の痛くなるような研修があったわけです。

場所はのんびりした感じだったのですが、
研修は何にものんびりなんてしていません。
ひえええええという間に3日間が終わったのでした。
研修が終わったのは土曜の午後3時半。
疲れ果てた身体で高知の友人のところに転がりこみました。
優しい友達2人が励ましたり慰めてくれたので、

Azouno


ばったり倒れていて、すっかりやる気のなくなっていた
気持ちも少し上向きになりました。

友達のところに一泊させていただき、いろいろな話をして
日曜に仕事場の街へ帰ってきたのでした。


え? さかもと?
写真載せたし、、。
キーボード打つの面倒くさくなっちゃった。(笑)

あ、それから。

例のうちのソニーのテレビですが、いまだ
ソニーからのご連絡はありません。
なので、テレビはいまだうちの部屋にご鎮座したままです。


謙介がソニーに言ったのが6月の16日の火曜日の話でした。
その時に、10日くらいしたら引取りの連絡があるので
電話番号を教えてください、ということでしたから、
家の電話も、勤務先の電話も、土日の実家の電話も
全部教えてたんですが、、。
ソニーからの電話は今に至るまでありません。

あれからもう1ヵ月半が来るんですけどねぇ。

たぶんきっと引き取りに来る、というので、
お江戸を出発して今、東海道を大八車でこちらのほうに
向かっているところなのでしょう。箱根八里も越えないといけないし、
大井川も渡らないといけないし、なんたって瀬戸内海だってありますし、、。
たらいの船で漕いで渡ってこないといけませんし。


やれやれ、今年中には連絡ありますかねぇ。

(今日聞いた音楽 ペギー葉山 南国土佐を後にして
音源はカセットテープ )


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Comments

研修お疲れ様でしたhappy01
「暉○楼」といえば、池上季実子と浅野温子のお手洗いでのバトルは忘れられません。カツラがポーンと飛んじゃってたし(笑)
研修会場の並木は椰子の木でしょうか?さすが南国。それにしてもすごく背が高い木でビックリ。上から落ちてきた実が歩いている人に直撃したら・・・と考えたら、ちょっと怖いですね

Posted by: mishima | 10. 07. 28 at 오후 2:51

---mishimaさん
「暉○楼」そうですよね。もう何か「女」と「男」というのがあれほどむき出しで出てた話も、、とお話を伺いつつ思い出しました。実際の「得○楼」は、今では播磨屋橋の東にあって上品な料亭、という感じなんですが、、。
研修会場の高い木、あれ、ワシントン椰子というものです。実はうちの仕事場にもあるんです。よく見る椰子の実のようなものはなりませんが、大風が吹くと、枯れた皮のようなものが吹き飛ばされて落ちてきて、、それが結構危ないです。背が高くなって、幹が折れないかとも思うのですが、庭師さんに聴くと、椰子の木は柔軟性があるので、まぁ大丈夫だろう、ということでした。でも大風が吹いていて、しなっている椰子の木は、結構怖いです。

Posted by: 謙介 | 10. 07. 28 at 오후 11:03

>謙介さん
 土佐の高知の播磨屋ば~しで
ぼんさん かんざし買うを見た。。
の播磨橋ですか?
 昔、この歌を初めてきいた時
高知のお坊様って、ずいぶん粋というか
お坊さんやのに、女性に贈り物、しかも
かんざしやなんてええの?って
思った陽子でした^^;

Posted by: yoko | 10. 08. 01 at 오후 10:26

---yokoさん
 そうですそうです。ここが播磨屋橋なのですが、実はここって高知の中心です。京都で言えば、四条河原町みたいな場所。東京で言えば、銀座の和光前です。そりゃ晩でもそんなところで坊さんが女の人にかんざし買ったら目立つわ、という場所です。 江戸時代から昭和の30年代までは、ここ、川がちゃんと流れていて、それなりの橋であったのですが、いまや東京の数寄屋橋みたいなもので、川はなくなってしまってたんです。それで「がっかり名所」って言われて、、ここ最近水路を作って一応川、っぽくしてみています。
 で、何がすごいって、このよさこいの話、実話なんですよ。高知でそういうことがばれてふたりは恋の逃避行をするんですが、伊予の川之江で見つかってしまって、しばらくふたり、この川之江でさらし者になっていたそうです。その後、坊さんは還俗して、女の人はなんと別の男の人のところに走って、その別の人と暮らして一生を終えたそうです。

Posted by: 謙介 | 10. 08. 02 at 오전 8:40

>謙介さん
 @@
目が点です。実話だなんて!
それより、なんで他の人のもとへ?

がっかり名所だなんて。。
私は、日本では「札幌時計台」
海外ではシンガのマーライオンが
あ~あでした・・・

Posted by: yoko | 10. 08. 02 at 오후 7:52

---yokoさん
そうらしいですね。前に日本3大がっかり名所、とか言うの聞いたことがあります。札幌の時計台と高知の播磨屋橋と、あともうひとつ忘れてしまいましたが、、。このお坊さん名前も名前で「純信」というんですよ。女の人の名前は確か「お馬」さんだったと思います。なんかお馬さんのほうは結構な美人だったそうで、この純信さんがふらふらっとなるのも分かるというような人だったそうです。どうして他の男のところに更に走ったかは、調べ忘れたのですが、最後は手習いのお師匠さんになって暮らしたということです。

Posted by: 謙介 | 10. 08. 02 at 오후 9:38

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