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10. 06. 25

北原さんの「物語」

高校生の時、ある作家の話を聞く会に行った。
それは会場のキャパシティが数百人とか
1000人を越えるような大きなホールで行われる
文芸講演会というようなものではなくて、中央公民館の
小会議室で20人程度の人の出席であった
本当にこじんまりとした会だった。
もうずいぶんと前の話で正式なその会の名称は
忘れてしまった。
だからお話の会、とここでは言うことにしたい。

学校を卒業した直後の謙介なんて、
(最近あちこちで聞く中2病じゃないけど)
自分は何でもできる、って思ってたの。

それが現実社会の中にドーンって突っ込まれて
はじめて自分の程度がトホホ、っていうようなものであった、
って分かった。

学校で教わったことなんて、
家の建築で言ったら、柱があって屋根をつけた
という程度よ。
とりあえず建ってる、っていうだけ。

学校って、基礎基本のトレーニングをやるところだし
自分の専門だけやってたらいいからさ
それがマスターできて、なおかつうまくやれたら、
つい、そこにいる生徒は思ってしまうんだよね。
何だ楽勝じゃねえかとか。
それがもっと強く出たら、世間のやつらなんて
バカだ。それにくらべて自分はそこそこ行ってるんじゃないか、
とか理由もなくうぬぼれて舞い上がっているだけ。

ところが学校出たら、毎日毎日もうとてつもなく
難解な応用だらけな問題が押し寄せてきてさ。
俺の専門はこれです、って言ったって、

あんたの専門は聞いてない。とにかくこれやって、
って言われて、何でもしなきゃなんない。
その当時の謙介さんは、今と違って体力はあったから
コンクリートの土木工事だってした。
だってそれをしないと組織が回らないんだもん。
島みたいに、ひとりひとりが自分の専門以外に
いくつも仕事を分け合って持たなきゃなんない
ところじゃ、ボク、これ、自分の専門じゃないから
できません、なんて言ってらんないもの。
そうなったときに、自分のことを客観的に見たらさー
ホント、情けないくらいに何にもできゃしないの。
いや、専門を生かす部分の仕事もありはしたけど
そんなもの、全体の仕事の1割程度で、後は
もう全然関係のないような仕事ばっかり。

それで落ち込んだ落ち込んだ。
だけどそのうち学校出て、就職したほかの連中に
会ったり電話をして話を聞いたりしているうちに
それがまぁ普通、というか、まだ自分は恵まれたほうなんだ
ということも分かってきた。
今にして思えば本当に世間知らずもはなはだしい、
というようなものだったなぁ。

高校生の時の謙介さんときたら、
実はお話を聞きに行った作家さんだって
正直その時まで、どういう傾向の作品を
書いて、どういうものがあるのか、という
ことさえろくろく知らなかったのだ。
それでも、当時あれこれと本の話をしていた
図書館の先生が「是非、聞きにいきなさい。」
と強力に勧めてくれたから、出かけていった
ようなわけだった。

お話は、その作家がどういう生い立ちで
どういう青春時代を経て、小説を書くに至ったのか
というような話だった。

本当に進みたかった学校の試験に落ちたり、
両親が亡くなってしまった上に、結核にかかって
しまって、すっかり希望というものを喪ってしまった
話とか、こうして字に書いていくと本当に辛い
経験であるのに、その作家さんは決して暗く
重くなるようなこともなく、淡々と軽妙にさえ
自分の人生前半の話をしてくれた。
その作家はかねてから落語が大好きだったので
大学に入って、落語のサークルを作ったのだそうな。
もちろん自分で落語の有名な噺を覚えて
大学祭の時なんかに、落語会をやったり、というふうな
こともした、と。

でも、それだけでは面白くないから、っていうので
本職の落語家を呼んで来て学内で落語の会を
持つことにした、のだそう。
で、その時に、普通の面白い話では
あまり客が来ないだろうから、というので
色話を、と、お願いして、ちょっと仇っぽいのを、
することになった。
で、いよいよ落語会の当日。
場所は学内の体育館に場所を作って、にわかごしらえ
の高座を作って、、としたそうな。
開場をしてお客を入れ始めた。
客席を見て、落語研究会学生一同
顔色が変わった。「どうしよう。」

あ、言い忘れていたんですが、その学校は
学習○大学。
で、そのころは皇太子だった今の天皇が
楽しそうに級友と会場に入ってきた、と。
で、あげる予定演目は、色噺。
落語家さんも、高座に上がって、客席見て
心臓が止まりそうになった、って。
だって皇太子が座ってるんだもーん。

まさかそのまんま色噺をするわけにもいかず、、
どうしよう、って心の中で頭を抱えてしまって、で、
折角の色噺の色噺たる部分をすべて自主規制してしまった。
色噺のはずだった噺が、結局訳のわかんない枕だけの
落語をして戻ってくることになってしまった、と。

そういう話を作家は楽しそうに話してくれた。
もちろん小説を書くのが好きだったから、落語研究会に入る一方で
文芸部にも入っていて、作品を書いていたのだそうな。
そうしているうちに文芸部に入ってきた北原さん、という女の子が
かわいかったから、よくつき合うようになって、
「ええ。気がついたらカミサンにしてたんですけどね。」
ということになった、と。
かくして文芸部のふたりは学校を卒業して
それぞれ作家になった。

話はその後は小説の創作するときのポイントとか
気をつけていること、というふうな話になって
それで終了したと覚えている。

そうしてその作家は、先年病を得て
寝たきりとなった。その時、
身体に薬液を注入する何本かの
チューブが挿されていたのだけど
「こんなことまして生きたくない! 」と
言って彼はそのチューブを全部引き抜いて
しまった。そうしてその翌日、亡くなった。

去年の冬、俺が宇和島に行った時に
朝、入ったうどん屋さんにその作家の
色紙がかけてあった。

Yamako2
作家の名は吉村昭さん。

そうして残された夫人、「元文芸部員の北原さん」こと、
津村節子さんが悲しみの中から、夫のなくなる前後の
ことを作品に書いて発表することになった。

Henromichi


さっき本屋さんから到着しましたよ、という連絡をもらった。
この週末、ゆっくりと読んでみたいと思う。

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Comments

 今の天皇さん,けっこうくだけたところのあるお人のようなので,色噺でも別に問題はなかったんじゃないでしょうかねえ。
 俳句も作られるという話になった時に,「毎月苦界(=句会)に身を沈めます」なんて洒落たという逸話もあるそうですから(笑)

Posted by: Ikuno Hiroshi | 10. 06. 26 at 오전 1:00

---Ikuno Hiroshi さん
 カトリックのシスターに映画の「ハッシュ!」を見せて、こういう世界も知ってね、といった謙介です。(笑) 落語ですし、洗練された艶噺でしょうし、よろしいんじゃないか、とも思うんですが。 

Posted by: 謙介 | 10. 06. 26 at 오전 9:11

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