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10. 06. 30

野村守隣のこと

今日、仕事帰りにちょっと回り道をして、
ある俳人のお墓に参ってきました。


Shurindo


野村朱鱗洞(のむら しゅりんどう)という俳人の墓です。
本名は野村守隣(もりちか)といいます。
明治26年11月26日に生まれ、郡役所の書記をしながら
夜学校に通います。ですが、明治42年に学校は中退します。
少年時代から柏葉と号して短歌を作っていましたが
その後、俳句を作るようになり、俳号を朱鱗洞と号しました。
明治44年に十六夜吟社を興し、翌45年には海南新聞
(今の愛媛新聞の前身)の俳句欄の選者となり
大正5年には荻原井泉水の俳句雑誌、層雲の選者にも
なりました。若くしてその才能を認められ、これから、
という時に、大正7年10月31日、当時流行していた
スペイン風邪(インフルエンザ)にかかり、脳膜炎を併発して死去。
わずか25歳の生涯でした。
手元の愛媛県大百科事典によると
葬儀は父親の切実な願望により、郡役所以外には通知せず
密かに行われた、とあります。
新聞に死が報じられた後に 追悼俳句会が喜与町の三宝寺で
行われた。来会者は本堂にあふれ、境内を埋めた、ともありました。

謙介が野村朱鱗洞の名を知ったのは
山頭火のことを調べていて、です。
実は山頭火がこの街に来たのは、
ここにその朱鱗洞が眠っているお墓があったから、なのです。
山頭火は彼の才能を高く買っていました。
そのあまりに早すぎた死を惜しみ嘆いた、と記録には
あります。
夜中、当時の山頭火の滞在場所から歩いてくるには
遠かったはずの、この墓地を探し回って、訪ね来て、
ようやく墓を見つけ、この墓石を撫でさすり、ひたすらに
泣いた、とあります。

山頭火の墓参は、朱鱗洞の死後21年が経過した年でした。
そうしてこの墓参をしたその足ですぐに四国遍路に
旅立ちました。ひょっとしたら、山頭火なりの
朱鱗洞に対する供養の旅であったのかもしれない、と
俺は思います。

朱鱗洞の句集から何句か彼の作品をあげてみます。
 


 風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜

 輝きの極みのしら波うち返し

 するする日がしずむ海のかなたの国へ

 いち早く枯れる草なれば実を結ぶ

 倉のひまより見ゆ春の山夕月が

 暮れなやめる海の色残雪澄めぱ月が

 御山残雪ばら色す夕日森のかなたに

 詠草かゝヘて会戻る苗代の雨

 心奢る日草餅に鞠の土手見る

 一筋町の湯屋前は畑や鴫く雲雀

 恋猫の屋根月夜湖畔眠る町

 恋猫に尚起きて火種絶やさざり

 虫下しなどのむ子に猫の恋ひ鳴く夜

 水車場出て唾気覚む蜂の高渡り

 昼は弓場の藤の月夜を境内に

 いち早く枯るゝ草なれば実を結ぷ

 はるの日の礼讃に或は鉦うち鈴をふり

 正しく鉦を打つ巡礼の子に報謝

 翻るゝ花に我が息をつたへし

 れうらんのはなのはるひをふらせる

 空のそこひゆく風を見きわめる

 風が落ちてゆくかすかなるめざめかな

 宵月流す汐瀬を淋しがる

 枯草藉(し)けば小さき音のまひるかな


謙介が山頭火を知ったのは、岡山の坊さん友達の
家に行ったときでした。その坊さんともだちの檀家さんに
大山さんという方がおいででした。
その大山さんから、山頭火の研究のあれこれを
伺ったのが最初です。
実はこの大山さんは、山頭火と直接の知り合いで
あった方で、山頭火の物質的・金銭的援助もずいぶんと
された方です。山頭火が世に知られるようになったのは
この大山さんの編んだ山頭火句集があったから、
と言われているくらいの方です。
その方から山頭火の話を聞くとともに、彼が慕っていた
野村朱鱗洞の話になったのです。
そういう理由で、謙介は朱鱗洞を知ることとなりました。
墓所の大体の位置はうかがっていていたのですが
ウェブサイトの地図で、その場所を見ると
何にも記されていません。
おかしいなぁ、と思って、仕事場にある重たい住宅地図を
見ると、ちゃんと大山さんのおっしゃった場所には
墓所の地図記号が記されていました。

場所はなんとなく分かったのですが、
今度は行く機会に恵まれず、、時間がいたずらに経過するばかり
だったのですが、今日、仕事の帰りにようやくのこと
行くことができました。
街外れの事務所と住宅が混在するような
今ではごちゃごちゃした街の中に
その墓所はありました。
しかし、おそらくは守隣が墓に葬られたころは
この場所は市内から遠く、ひっそりとした
田んぼの中の墓所だったに違いありません。

そうして今ではたくさんの墓碑が林立してしまって
狭い場所にぎゅうぎゅうにお墓が建てられて
いるのですが、彼の亡くなったころは、もっとゆったりと
した敷地で、あっただろうと思います。
たくさんのお墓の中で、彼のお墓の周囲は
普通の地面そのものでした。
たくさんの草が確かに生えてはいたのですが
むしろ玉石を敷くとかコンクリートで固めた
お墓よりも、自然の地面のまま、の彼の墓所の
ほうが好ましい気がしました。

明治の終わりから大正のはじめの一時期、
文字通り彗星のように現われて、
一瞬にして消えてしまった俳人です。

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Comments

 検索しても,あまりひっかからないんですねえ・・・朱鱗洞;;;

 見つけた句の中では,「甕の水にしばらくの月寄れり」「れうらんのはなのはるひをふらせる」「舟をのぼれば島人の墓が見えわたり」というのが,好きかな。
 定型を離れてるくせに,破格という感じがあまりしないのは,言葉をうまく選んでいるからでしょうか。

 25歳でこれとは・・・せめて40歳まで生きていたら,どんな展開をしたのか・・・惜しいです。

Posted by: Ikuno Hiroshi | 10. 07. 05 at 오전 10:48

---Ikuno Hiroshi さん
そうなんですよ。山頭火は有名なのですが、その山頭火にものすごい影響を与えたはずの朱鱗洞、となるとよほどの人しか知らない、という感じです。
でも、記録を見たら「追悼句会」にはものすごく大勢の人がきた、と、あります。若くして新聞の俳句欄の選者をするまでの才能を持った人ですから、やはり地元での評価はなかなかすごいものがあったようです。本当に、もっと長生きしていたら近代俳句の人脈地図も全然違うものになっていたかもしれない、と思います。

Posted by: 謙介 | 10. 07. 05 at 오후 11:13

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