ゼロジュウ (その1)
学部の時、近現代文学を習った先生が二人いた。
俺の行った学校は上代から近現代まですべての時代の
文学と国語学の(今で言えば日本語学)
単位を取って、その上で自分の専門分野を
選んで専攻にする、というカリキュラムの方針だったので、
近現代文学の科目も何科目か取った。
その近現代の先生のおひとりにAという
センセイがいらっしゃった。
そのAセンセイの前頭部のおぐしは非常に寂しい状況だった。
が、サイドの部分のおぐしはまだ健在だったので、
センセイはその前頭部分のおぐしの寂寥を、サイドからの延長で
カバーしようと画策されたのであった。
結果、サイドの部分のヘアをエイヤ! っと伸ばして前頭部を
カバーする、というような髪型になった。
漫才の海原はるかかな○の、、と言うと分かります?
そのころタケムラケンイ○という大阪弁で喋る政治評論家が
いた。その人のおぐしも前頭部が寂しかったようなので
サイドからエイヤァと延長していた。
タケムラ氏のサイドの髪の分け目が、全体の頭の1:9の部分で
分けられていたので結果、世の人々は、氏のことを
一九分け(いちくわけ)のタケムラ
と呼んだ。センター分けとか七三分け、とか呼ぶ
その延長としての一九分け、ということだ。
ところがAセンセイの分け方は、そんな一九などというような
なまやさしいものではなくて、サイドにあるのものを根こそぎ持って行く
という感じなのであった。つまりは0:10の割合。
そうして、学生は、Aセンセイのことを「ゼロジュウのA先生」
もしくは単に「ゼロジュウ」と呼んだ。
「ゼロジュウ、今日、休講やて。」
「やったー。」
(センセイ、本当にごめんなさい。)
センセイは、とある作家の研究では
日本でまず第一人者であって、どの解説書を見ても
まずはじめに、センセイの書かれた論文とかご著書が
参考文献として挙げられる、というすぐれた業績をお持ちの
センセイだった。
(だからここでセンセイの専門は伏せる。
その作家研究で、ググったらすぐに名前が
出てくるから。)われわれの間では単にゼロジュウ
であった。
ゼロジュウ、いや、もといAセンセイと謙介は
気まずい事件が2回あった。
たまたま俺が黒板に書かれたセンセイの板書を見ようとして
前を向くと、先生が自分の講義用のノートに
目を落としているのが見えた。
そのとき、センセイがさらに詳しくノートを見ようとして頭を下げたのだ。
すると、頭を下げたために、サイドから無理に
カヴァーさせてあったおぐしがばらっと落ちてしまって、ハ、いや、まぁ
そのむき出しの前頭部が見えてしまったのであった。
その時、急いで顔を上げ、その垂れ下がっていた
おぐしを手でかきあげたセンセイと謙介の
目が合ってしまったのだ。たまたま前を見ていたら
前でそういうことが起こってしまい、俺はその一部始終を
目撃してしまった、という訳だ。
センセイは何もおっしゃらなかったけれども「見たな。」という表情が
一瞬その顔をよぎったのを俺は身逃がさなかった。
だ、だって、、。たまたま黒板を見ていたら
一部始終、見てしまったんだよぅ。
また、別の日。
今度はセンセイ、髪が垂れ下がるのを食い止めるために
眼鏡を前髪の上に置いて授業をしていた。
ひとあたりセンセイの研究している作家の文学作品について
語ったところで、センセイ、眼鏡の
ありかを忘れてしまったらしかった。
め、メガネ、、、と探していたようだった。
俺はそのときも黒板をジーっと見ていた。
センセイのメガネは前髪の上に在って、
それは当然分かっている、とおもっていたのだけど、、。
どうも机の上とか、テキストをあっちこっちやって、
何かを探しているようなしぐさをされた。
探している。探している。
でも見つからない。
横にいた友達のHが、「メガネ探してはるんと違う? 」
と小声で言った。
「そやかて頭に載ってるやろに。」
「いや、時々忘れてしまうことあんねん。」
その間もセンセイは何かを探していた。
最後には、手で身体のあちこちを触って、、
それはまるで踊りを踊っているかのようであった。
横にいたHがきっぱりとした口調で言った。
「タコ踊りやんけ。」
俺はブッと吹きだしそうになるのを必死で堪えた。
そうしてあちこちの試行錯誤の末、センセイは頭を触って、
「あ、あった。」ということになったのだけど、、。
その一部始終を見ていた謙介とAセンセイは、
またまた目があってしまった。
やはりセンセイは「見たな。」という顔をしていた。
それから数ヶ月経って、うちの国文学会の会報が出た。
それには「人間歳を取ると頭がはげてきたり、
腰が曲がってきたり、とだんだんと若いときに比べると
年齢による変化が訪れてくるものである。 しかし、その変化を
ものともしない気迫こそが必要なのである。」と書いてあった。
共同研究室で俺がゼミの発表レジメを作っていた横でその会報を
読んでいたHが言った。
「言行不一致やんけ。」
確かに、Hの言っていたことは
そうだと思った。俺もその時、何だよ、って思った。
往生際が悪いじゃねえか、とか。
ただ、それからウン十年が経過して
そのころのAセンセイの歳になってきて
俺は考えが変わってきた。
変わってきた、というのか、そうか、
と思うようなことにも遭遇して、じゃあ、自分は
どうなの? と言われて、、考え込まざるを得ない
という場面が出来てくるようになった。
確かに「それは間違っている」と言うのは
簡単なのだけれど、じゃあ、自分がその立場に
なった時に、それは間違いだからダメ、と言って
切ってしまえるかどうか、となったら、どうなのだろう。
周囲を見ていて、そういうふうなこともしばし考えるように
なってきた。
ちょっとそのことについてもう少し。
以下次回にて。
(今日聴いた音楽 教会カンタータ 第147番
”心と口と行ないと生命もて”から コラール
オルガン演奏 ピーター・ハーフォード
1982年8月 シドニー オペラハウス内
コンサートホールに於ける録音)
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