「見える」ひとだけが気づく街
その店の前なんて、何度も何度も通っていて、
結構あっちこっち見ながら歩いているつもり
だったのに、、。
その店にたとえば友達の紹介ではじめて行った、とする。
何せ友達が、ここは謙介が気に入りそう、という
ことを念頭に連れていってくれるから、もう行ったら
あれま、ということで、とても気に入る。(笑)
そうして店のご主人ともすぐに話をするようになって
あ、この店は居心地がいい、ということになって
当然のように自分のお気に入りになる。
それまで俺は全然この店、気がついたことがなかったから
「最近できたお店ですか? 」って聞いたら、
「もう20年くらいやってますわ。」と答えられて、、
「えええ、全然気づきませんでした。」なんていう
ことがある。
店の前だって何度も通っているはずなのに、、
全然気づくことがなかった。
こういうことが京都の街ではよくある。
それを前に今も京都に住んでいる友達に言ったら、
「ああ、そういうことあるよ。通りでも、同じように
歩いているのに、何かしらの加減で、ひょいと
今まで全然通ったことあらへんようなところに
まよいこんだりすることあるし、、。気づけへん、、
ってあるねぇ。」という話だった。
何かの加減で気づく、誰かの媒介で紹介されて
いつも通っていたところに在ったものに改めて気づかされる、
そんな出会いがあるのが京都の街中の不思議さかも
しれないなぁ、と改めて思った。
日曜午後に読んでた本。
主人公の女の子は、友達のつきあいの関係で
員数あわせのために出かけた
合コンの席で、今までの「タイプ」とは全然
違う男の子に出会って最初は戸惑う。
(どうやら彼のほうも、員数あわせだったらしい。)
今まで彼女のつきあってきた男子は、話題も豊富、
ファッションだってそれなりに気を配っていて
歩くタウン誌みたいな男の子ばかり
だったのに、今度の男の子といえば、
そんなことには
目もふれず、ひたすら自分の専門の数学の研究に
まい進してしている硬派のヤツ。
最初は気になる、程度だったのがいつしかどんどん
彼のことを知りたくなって、、気がついたら、、。(笑)
表題にもあるように舞台は左京区の
百万遍を中心にした洛中のあちこち。
あるときは出町の商店街が出てきたり、
この場所↓で花火大会をやってみたり、
今度は二条あたりに下がって御幸町(ごこうまち)が出たり。
祇園の高級バーが出てきたり、と
洛中のあちこち出てきていてこれもまた楽しい。
最近、ネットにアップされてる「小説」、と題された
文章を読んでみたら、
「あらすじ」しか書かかれていなくて
がっかりすることがある。
どういうことか、って言うと
そこに書かれてあるのは、登場人物が何を話して
どうしたこうした、ということだけ。
ないしは誰とセックスをして、「あああ気持ちいい」
だけ。
小説って、時間の移ろいとか人の変化と同時に
自然の光とか、空の色、景色、季節の移ろい、
そういう風物の描写とか光景の描写というような
いろいろなものがその文章の中で
交錯しあうことで、文章に厚みが出るし、読んでいて、
はっ、とさせられるっていうのがあるはずなのだけど、
人物にしても、その人を表現するいろいろなお話とか
描写が欲しい。そういうものを総合的に書いていって
ひとつの作品はできる。
ところがそういう「あらすじもの」って書いて
あるのは人の動きだけ。
なんだか作品全体がやせ細ってしまってて、貧相なだなぁ、、
って思う。
こういうのって正直に言って、
小説以前のあらすじのラフスケッチじゃないか、って思う。
登場人物の動きしかないから、物語に
ふくらみ、もないし、人物の個性が全く感じられない。
だからそういうあらすじもの、って読んでて
それぞれの登場人物の書き込みが足りないから
みんな同じようにしか見えない。
名前は確かに書いてあるけど、そんなもの記号としか
感じられない。 だってみーんな似た人物設定で
画一的なんだもの。
だから途中でえ、っとこれは? こっちの彼は? って、
何度も何度も確認しないといけない。それじゃあねぇ、、(苦笑)
だから小説じゃなくて、あらすじのラフスケッチ、と
しか思えない。
そういうふうに見てみると、ここで紹介した
小説に出てくる人たちはみんな個性的で、
ちゃんとそれぞれ物語の中で息づいている
いや、息づいているどころか、読んでいるこちらにびゅーん、って
直球を投げてくるヤツもいたりする。(笑)
頭の中でキャスティングしながら読むのも楽しいよね。
主人公の女の子が好きになる数学少年は
「むかいおさむ」くんあたりが似合うかな、とか。(笑)
簡単に読めると思う。 それでいてわくわくさせるところが
いいなあ。
表題の通りの名は、
本当にある名前なのか
それとも架空の名前なのか。
案外、百万遍の交差点近くの通りを
ひょっこり曲がって、歩いていたら、
ふとこんな町名があることに気づくかもしれない。
今まで何度もこの辺を歩いたのに、
何度も何度も通ったのに、、
でも今までは全然気づくことはなかった。
ある日、そう、本当にちょっとした偶然か
何かの加減で、今まで気づきもしなかった
通りを発見してしまった。
「見える」人には、気づく町名。
でも、見ようとしない人には、そこにちゃんと在るのに
見えていない。分からない。
そこが京都の街のおもしろいところだと思う。
ふと気づいた目の前の通りを曲がったら、
もうそこはうららかな春で、
あたたかな日差しを浴びて、
向こうから自転車に乗ってやって来る彼らに、
出会えるかもしれないね。
(今日聴いた音楽 Good-bye school days
歌 ハイファイセット アルバム パサディナパーク
から 音源はLPレコード)
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