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09. 12. 01

森の中から里へ

さて。
大瀬から今度は、里に下りて行きます。
途中、柿の無人市があったので1袋買います。
この辺は柿の産地。
大きな富有柿が7個も入っていて100円。
柿ってやっぱり売れないんでしょうね。
果物は好き、という人も、柿については
苦手、とか、あんまりなぁ、、っていう人が
多いです。おしゃれじゃない、とか。
俺も小さい頃はあんまり好きじゃなかったんですけどね。
たまに無性に食べたくなります。
今年はどうしたことか
ずっと柿が食べたい、という気分で、、。
車から無人市をみかけると
ささっと降りて買いました。
道は再び大きな国道に。
しばらく行くと新谷というところに出ます。
そういえば、先日マキハラくんとマツモトさんの和解が成立した
とニュースにありました。
この新谷は、そのマツモトさんが小さい頃過ごした町です。


さらに車はいくつかの街や峠を越えます。
その街へ通じる坂を下りると、午前9時。卯之町(うのまち)に到着です。
大瀬を出たのが午前8時だったので、ここまで1時間ほど
かかっています。

ここは、事前に市の観光課の人に駐車場はありますか、
と聞いていました。お話にあった駐車場に車を停めました。
町並みの見学者は、駐車場は無料です。
というか、田舎って大抵駐車場なんてタダなんですよね。
何で車を停めるのにわざわざ金がいるんか、
という意識です。その辺に停めておいたって
別にいいじゃないか。 
そういう意識が抜けないものだから
どこに行っても「その辺に停めて、、」しまって、駐車違反になったり
停めた近隣の人とトラブルになったりするんじゃないか、って
思います。

まぁいいや。
車を停めて早速ここも歩いてみます。
駐車場の横にこんな家がありました。

Unomachi1

さらに行くとこんな場所に出ます。


Unomachi2

Unomachi3

別に人のいない時を狙いすまして撮ったわけでもなんでもなくて
俺がこの場所を見学していた最初っから最後まで俺以外の観光客は
誰もいませんでした。
歩いているのは、近所のおっちゃんおばちゃんばかりです。
家々を見ていたら、ちょうど江戸の終わりから明治の頃の
建物がそのまま、残っている、という感じでした。
前にも言いましたが、京都に住んでいたときは、太秦の隣の常盤
だったのですが。
映画村の江戸の商家は全部セットです。裏に回ったらがっかりします。
ですが、ここ卯之町は正真正銘本物(笑)です。
だから建物の存在感がまるで違いました。

この街に、江戸時代の末期二宮敬作という蘭法医が住んでいました。
こちらの土地の人で、長崎に出て、シーボルトに医学を学び、
そうしてまた故郷に戻って医者をしていました。
やがてシーボルトが国外追放になるとき、彼の娘イネを
医者にしてくれと、依頼されて預かります。
敬作は、彼女を引き取り、医学を教え、
彼女は日本で最初の産科の女医になりました。

また敬作は、シーボルトの鳴滝塾で一緒に
医学を学んだ高野長英をひそかにかくまったりもしています。

天保8年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃します。
長英は「夢物語」を、渡辺崋山は「慎機論」を書き、
幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄するわけです。(蛮社の獄)
入獄6年目に、獄舎が火災になり一時釈放されるのですが、長英は
そのまま逃亡します。
そうして諸国の数多い門人や学者、また宇和島や
薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、
宇和島、鹿児島などを巡り6年間潜行しています。
宇和島藩内には嘉永元年4月2日に入り、宇和島
横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠しました。
翌年1月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、
卯之町のこの二宮敬作の自宅裏の離れ二階に
ひっそりとやってくるわけです。
4月には鹿児島に向かったのですが、落ち着くことなく
再び宇和島を経由し6月3日卯之町に到着。
10日間余滞在しています。
8月には江戸を経由し、下総に潜伏。
翌年の嘉永3年再び江戸に帰り、
青山百人町に居を構え、医業を営んでいます。
そうしてとうとう10月30日、捕吏7人に襲われ、
自刃してその一生を終えることになりました。


これが、その高野長英がひそかに隠れていた
建物です。離れの2階部分だけ残して保存されたのが
この建物です。

Takano

長英の隠れ家を見学した後、今度は
街の中をぶらぶらと回ります。
歩いていたら、臨済宗妙心寺派のお寺の看板が
ありました。つい懐かしさに惹かれ、
坂を上がっていったら、びっくり。
こんな建物がありましたよ。

Kaimei1


開明学校です。
明治のはじめにここに建てられた最初は私塾だったのですが
後に公立の尋常小学校となりました。

観覧料(200円)を払って早速入ってみます。
中はこんな感じです。
ここは建物の中に二宮金次郎の銅像がありました。

Kaimei2

教室はこんな感じです。

Kaimei4

振り返るとあれま。
坂雲の作者の写真が。

Kaimei3

司馬さん、この街がお気に入りだったそうで、
何度も何度もこの辺に来ています。
そういえば司馬さん、宇和島に一時いた大村益次郎の
小説「花神」も書いてますもんね。
司馬さんがこの辺に何度も足を運んだ理由は
分かる気がするんですよ。
この辺、江戸の末期から、明治の初めの混乱の
時期に、歴史の表舞台に出てはいなかったけれども
結構重要な役回りをした人が出ています。
どうしてそういうふうに一気に人材が
出たのか。
人材が出る、っていうのは、ものすごく時間と
労力がかかることだと思うのです。
簡単に人なんか育てられないですよね。
人材というのは、親から子、孫くらいまでの
文化的な積み重ねとか、教育の蓄積があって、
はじめて人材が育ってくるように思います。
お金をドンドン使って、無駄なこともやってみる
いろいろな経験を積む。そうした時間といろいろな
経験と、お金を使う、ということでようやっと
人というのは育ってくるように思います。

予算の仕分けで、役にたたないから、
といって文化的なことやものがどんどん
切捨てられましたけれども、
文化なんて、そういう効率ということで
言えば、全然効率的ではないです。
「私が」「私は」と違っていたからといって
人類の発展に具体的にどう寄与するのか
と言われたら、「さぁ、、」です。(笑)
奈良で巻向に大きな3世紀と思われる時代の建物跡が
見つかった、と。それがそうしたの? と言われたら
俺だって一言も言い返せません。
文化っていうものは、そういう効率とか
予算を使用しての具体的な効果と言ったって
その成果を、目で検証なんて無理だと思います。
ですが、そうした目に見えない文化の蓄積は
やがてこういうふうに人とか豊かさというところで
出てくるのだと思います。

しかし、それにしてもどうしてこうすぐれた人が出たのか。
ひとつは、この辺の人たちは教育に熱心で、
また、お殿さまも仙台の伊達の分家だったために
外様で、江戸幕府の言うことは聞かず、西洋の
文化も積極的に取り入れようとした、ということも
ありました。時代とか、人の気風とか、いろいろな
ものが複雑に絡み合って、こうした人を生んだ、
ということになるのでしょうね。

俺は街を歩きながら、どうしてそういうふうになったか、
と考えていました。

さて。卯之町の見学も終わったので、今度は
浜辺の街に向かうことにします。

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