明日香村にて(その3)
さらにここから、自転車で走って、今度は田んぼの中の道に入っていく。
するとあるのが亀石。
この石もやたらでかいんだよ。
でも、何の意味があって、これが造られたのか、
というはっきりとしたことは今もって分かっていない。
その近くにあるのが野口の大地蔵。
俺が以前来たときは、ここは田んぼの真ん中だったのに、、
今ではここにも住宅が、、。
そうしてここからまた南西方向に行くと、
天武・持統天皇陵がある。
この、お墓、こういう具合になっているんだけど、、。
もちろん一緒に埋葬、っていうんじゃなくて、正面の礼拝するこの場所は
ひとつだけど、中はそれぞれ天武天皇、持統天皇の墳墓に分かれている。
中大兄皇子が即位して天智天皇(てんじてんのう)になった。
天智天皇には4人の皇女がいたのだけど、その4人皇女
すべてが大海人皇子に嫁いだ。
そのうちの讃良皇女(ささらこうじょ)が大海人皇子が即位して
天武天皇になったとき、皇后になり、そうして天武天皇が崩御
した後は、即位して持統天皇になった。
天武天皇は皇后のことを大切にしていた。
奈良の西ノ京の薬師寺は、皇后が
病気になったときにこりゃいかん、と
言うので、祈願のために
天武天皇が建てさせたお寺だもの。
だから薬師寺、なんだよね。
天武天皇が685年ごろから病気がちになった時だって、
政治は皇后と草壁皇子の二人でみるように、と
言っているくらいだから。その信任は篤いものだったと思う。
そうして天武天皇が崩御した後、彼女は天皇に即位して
藤原京を完成させるべくがんばった。
それと飛鳥浄原令の制定と。この二つは亡くなった
夫の意思でもあったから、それをきちんと形に
すべく持統天皇は邁進された。
持統天皇の歌、っていうと、やっぱりあの歌が有名なんじゃないかなぁ。
春過ぎて夏来にけらし しろたへの
衣干したり 天の香具山
天の香具山というくらいだから、当然香具山が
間近に見える藤原京のどこかでこの歌は作られたのだろう。
で、やっぱりこの歌を見るときに考えておかなくちゃならないのはさ、
単に景色を詠んでる、ということもあるんだけど、この香具山のみえる
藤原京はさっきも言ったように持統天皇が作った。
ということは、自分が作った都の点景を見て、
まぁ、なんと目に鮮やかと、心が動いて歌を詠んだわけでしょ。
そりゃあ何たってさー、自分が指揮して作らせた都ですよ。
まぁなんて素敵な景色でしょう、という気持ちだって
普通の人以上に、もっともっと別の、苦労の末に都の建設も
ここまできた。と、いう感慨というのか、深い思いが
あったはずだと思う。
持統天皇の後も女性天皇がこの年代、何人か出てる。
ただ、元明天皇、元正天皇は、首皇子(おびとのおうじ)
を天皇にさせたかったけど、まだ皇子が子どもだったから、
中継ぎでとりあえず、という意味が大きかった。
しかし持統天皇に限って言えば、彼女は決して
中継ぎ、という存在ではなくて、自分の意志として
天皇になった、というような人だったと思う。
天武天皇の体調が次第に思わしくなくなった
最後のほうだって、すでに国政を
みてたし。
天武・持統朝のことについては、
書きたいことは多々あるのだけど、
ここでも何度も取り上げたので、(笑)
もうこれくらいで措いておくね。
さて、そこを出発して次のところに行こうとすると、
きれいな白い花が、、。
そばの花だよね。そうそうあの麺類の蕎麦。
このそばの花がやがて実をつけるから、その実を取って
よく乾燥させて、粉にして水を加えて捏ねて、細く切って
茹でたら、蕎麦。
明日香村でそばを作っていたんだ、と、ちょっと
そのきれいなそば畑を見て驚く。
ここからさらに南西に向かうと、あるのが、これ。
これ、って言われたって、一体なんじゃこりゃ、
っていうようなものですが。
高松塚古墳、
と言われたら、ああ、あの壁画の、とつながって
くださるんじゃないか、と思うんだけど、、。
俺ね、ホント、この高松塚の話を聞くたびに、
文化○のアホ役人、って思って腹立たしくなるんだよ。
だって、あいつ等が、菌がいっぱいついた服で
古墳の石室の中に入りまわったから、その菌が
中で繁殖して壁画にカビは生えるわ、色も退化するわ
折角今まで保たれてきた壁画が一気にひどい状態になって、
そのひどい状態をまたごまかそうとしてもっとひどいことに
なってしまって、、っていう感じで。
まぁ本当にろくでもないことをやってくれた、って思う。
どうしてそうなったのか、って言えばさ、
明日香村とか、高松塚の気候とか自然環境を
考慮に入れないで、東京の役所の机の上だけで
こういう保存をしたらオッケーだよーって思って
保存対策を打ってしまったから。
その土地の自然環境なんて、5、6年くらい調べたくらいじゃ
全然ダメだと思う。
それこそ、生まれてこの方何十年も、その場所に
住んで、こういう時期にはこういう気候だ、っていうのが
身体に染み付くような体験をしてきたとか、
じいちゃんの代から、その場所の気候のことを
ずっと聞かされたり経験してきて、十分分かってる
っていうんじゃないとさ。
役人が東京の役所の机の上で、こういう湿度だったら、こうなる、
なんて机上だけの予測で保存事業なんて
やったから、こんなことになったのだと思う。
ホントろくでもないことをしてくれたよ。
カビの生えた壁画はもう元に戻らないんだもの。
高松塚の古墳も目下修復工事中。
で、上の写真みたいな土木作業現場のような感じになってた。
今朝、奈良を通った台風で、この古墳、ノリ面が崩れたんだって。
そりゃそうだよね。こんな土むき出しだったら、崩れるさ。
その高松塚の古墳の保存のことでは
ちょっと文句があったりはしたのだけど、
でも明日香をのんびり自転車で回るのは
とても気持ちがいい。
普通に自転車で回ってても
こんな風景とか、
こんな風景に出会える。
大和国原(やまとくにはら)の周囲を
囲んでいる山は決して急峻、という感じではなくて、
歌のとおり「たたなづく青垣」 という感じで
この大和の国をおおどかな山容で包んでいるふうに見える。
そのゆったりとした感じがなんとも言えず好ましい。
今度は眼を下の方に転じてみると、
まだ田んぼの畦も緑の草が生えていて、そこに赤い
彼岸花が咲いて。そのコントラストがとても眼に
鮮やかだった。
高松塚から、歩いて今度は裏の文武天皇陵へ。
持統天皇の次の天皇。
しかしさぁ、どう見たって、秋、っていう感じは
全然ないでしょ。夏だよ、夏。(笑)
ここで明日香村での見学はほぼおしまい。
朝の9時からずっと自転車で回った。
時間は1時半。
お昼は、どこで食べようか、とか全然決めて
なかった。
どこでも良かったんだけど、、。
まぁ今から橿原に向かって走るから、
その道路沿いに何かあるだろう、という
漠然とした予想で、、。
しかしさぁ去年奈良市内を自転車で走った時にも
感じたんだけど、奈良県って、ホント、自転車を
走らすには劣悪な道路事情だと思う。
歩道がそこそこ広いし、段差を低くしているから
自転車が走ってもいいのか、とは思うんだけど、、。
さっきまで道の右にあった歩道がある地点で消滅
してしまうの。そうして消滅したまましばらく行くと
今度は道の左に少しの間できて、また消滅して
今度は道の左側。
自転車が走る、というより、歩道そのものが消滅して
単に路側帯だけになっていたり、、。
道路って、普通に人だって歩くだろうに?
全然そういうふうに人が歩く、とか、考えて
歩道なんて作っていないんだね。
あまりに自転車に辛い道路だった。
橿原神宮前につくちょっと手前に
食堂があったから、そこでごはんをいただいて
再び出発。
自転車を返すのは、ちょっと後にして、
やはり「橿原神宮前」って言うんだから、
ちゃんと行かなきゃ、っていうんで
行きましたよ。ええ。橿原神宮に。(笑)
橿原神宮の石柱からして神々しい感じ。
橿原神宮自体は、そう古いお社ではない。
お社自体が出来たのは明治になってからだから。
なんで橿原にこんな大きなお社ができたか、
というと日本書紀の記録に、九州から東征の途につかれた
神武天皇は大和の国に入って、
観れば、夫の畝傍山の東南の橿原の地は
蓋し国の墺区(もなかのくしら)か。治る
(みやこつくる)べし
(畝傍山の東南の橿原の地は国を治めるのに
ふさわしい土地である。ここに都を置くことにしよう。)
と話されて、この橿原の地で即位された、ということが
あったから。その由来でこの橿原の地に広大なお社を
造営した、ということ。
参道。 大きな鳥居。
門。ここからが正式な境内。昭和15年(1940)が紀元2600年だったから、
今年がその看板にあるように2669年で来年が2670年。
入ってみたら、、、すんごく広い。
社殿の後ろがもちろん大和三山の畝傍山。
正面から拝殿を写すと、、。
お参りを済ませ、最後の見学地に行く。
近鉄の南大阪線の線路をまたいですぐお向かい。
それは、「うっふん」寺。
ここがそのうっふん寺。(笑)
いや、ちゃんと正しい名前がありまして、正しくは
久米寺っていうの。
え? 久米寺っていうまともな名前があるのに
なぜに「うっふん」か? って?
あのね、久米の仙人っていう仙人さんがいてね、
その仙人さん、女性のふくらはぎを見て、
神通力を失ってしまって、あわわわわわ、
っていううちに空から地面に落っこちてしまった、
その久米仙人のゆかりの寺だから。
え? 謙介はそんなうっふん、なんて、
関係ねえだろってか? 体育会系のがたいのいい野郎
おほん。
まぁそういう故事のあるお寺だったのでございます。
お寺は目下修理中。
以上で橿原・明日香のお散歩ツアーもおしまい。
自転車を橿原神宮前のお店に返しに行く。
そうしたら、もうびっくり。
朝、自転車を借りたとき見たら100台くらいは
置いてあった自転車がさ、1台も残ってなかったの。
がらーんとした店の中。
明日香村を回るときは、
道だって未整備なところはあるし、
やたら道のアップダウンだって
あるんだけど、やっぱり自転車でまわるのが
一番いいように思った。
自動車だと、地元車以外(おっちゃんの農作業用の軽トラ以外)
通行禁止、になってる道路があったりするし、
(それが結構重要な道路がそう。)自転車だと
急に細道に入り込んで、行き先変更、なんて
いうことだってできるし。
それに自動車は駐車場の料金を
あちこちで取られるし、、。
だから明日香村を回るときはやっぱり自転車が
一番いいように思う。
また再び橿原神宮前から電車に乗って阿部野橋に戻る。
そうして阿部野橋から天王寺を経て、JRに乗り換えて
JRの難波へ。
ちょっと時間があったので、心斎橋でお買い物。
心斎橋の十合、あっという間だったねぇ。
一度しか入ったことなかったけど、、。
こっちは大丸。
十合の建物、大丸の北館になるんだそうな。
そうしてもう一度OCATに戻って2階に上がってバスで実家の街へと
帰ったのでありました。
ふう。
帰りのバスの中ではさすがにぐったりして
ずーっと寝ていた謙介でありました。
難波で乗って、気がついたら、自分の降りるバス停の
2つ手前だった。
でもまだ風景も気候も夏、っていう感じでさ。
暑い明日香めぐりでした。
本編はこれにて終了。
ことしのお盆はテキストとにらめっこしながら
このまとめのノートをずっと作っていたわけです。
あ、これで今年の夏のいろいろあったことの整理も終わった、って
思えます。
めでたしめでたしだぁ。(笑)
あしたはおまけ編です。
「上方のはなし」カテゴリの記事
- 本当に速くなったのか?(2016.10.17)
- 止めるけど続けるんだって(2016.07.05)
- 阿倍野ハルカ○って微妙だと思う。(2014.03.17)
- 巡礼旅(7)(2013.05.28)
- 巡礼旅(6)(2013.05.27)
Comments
お疲れさまでございました(微笑)
って,あれ?
天武・持統陵って,てっきり合葬墓だと思ってたんですが,違ったんですね・・・;;;
歴オタ失格だぁ〜(苦笑)
Posted by: Ikuno Hiroshi | 09. 10. 10 AM 12:59
---Ikuno Hiroshiさん
なんだか中世に盗掘にあったそうで、その際に大体中の構造が分かったんですが、天武天皇の墳墓の部分と、持統天皇の墳墓の部分とふたつあったんだそうです。図が残っていました。
Posted by: 謙介 | 09. 10. 10 AM 9:29