たとえば歴史のロマンとか。
今日は、最近目にした
古代史関連のイベントについて
自分の思ってることをまとめて書きたいと思う。
読○新聞がやってる「万葉のこころを未来へ」って
いうキャンペーン。
どうして当節万葉集なのか、って言ったら、
今年が大伴家持さんが万葉集を編纂して
1250周年になるから、それを記念して、
このイベントを立ち上げた、ということらしい。
誰が言い出したのか、俺は知らないんだけど
俺、このイベントを考えた人って
万葉集なんてろくに見もしてなくて、
ただ単に万葉集が出来た年代だけで
あ、1250周年だ、って思って
適当にイベントを考えついたのだろう、って思う。
だってさぁ、万葉集の最後の歌ってさ、
俺、ここでも何度も言ってるけど
新しき年のはじめの初春の
けふ降る雪のいや敷け吉事
っていう歌なんだよ。
年のはじめに雪が降っている
この雪が積もるように、せめて今年は
いいことがあってほしい
っていうの。ね。「せめて今年はいいことがあってほしい」
って家持さんは言ってる。「せめて」って言ってる
言葉の裏には、、これまでは本当にしんどいことしかなかったから、
せめて今年は、、、っていう意味をこめてる。
どうしてそうなのか、と言えば、家持さんがこの歌を作った
そのすぐ前に橘奈良麻呂のクーデター未遂事件って
いうのがあったから。
結局それは未遂事件だから、失敗に終わったんだけど。
家持さんは直接関与しなかったから、彼は生き残れた
んだけど、その時、家持さんの親友とか友達が
大勢捕まって、拷問にあって殺されてしまった。
確かに彼は生き残りはしたけど、生き残ったが故に
拷問で殺されてしまった親しい人たちへの思いや、
家持さんの中に抱え込んでしまった悲しみや苦しみは、
想像を絶するようなものがあった、と思うんだ。
それはやはりそれ以降の家持さんの
人生すべてのいろいろな場面で、ずっと尾をひくような心の
傷だった、と俺は思う。
ね。だから当時の世の中に対して、家持さんは
本当に暗澹たる気持ちでいた。
そういう気持ちがあるから、「せめて、今年は、、、」
って言う言葉になったのだと思う。
こうして彼を取り巻くさまざまなものを
考えたたとき、この歌を万葉集の一番最後に持ってきた
家持さんの意識というものが「祝万葉集編纂だぁ。めでたいめでたい。」
なんていうようなものでは決してなかった、と思う。
そうしてそういう家持さんの心情を考えたのであれば、
お祝いお祝い! っていうことにならないんじゃないか、
とも。
きちんと万葉集を読んでいたら、そんなお祝い、なんて
言い出したりしないよ。
それからさ。
「万葉のこころ」っていうのも一体何なのだろう?
あれも意味不明だなぁ。
万葉集を社会科の歴史なり、国語の文学史で
習ったときにどう習った?
「さまざまな階層の人々のさまざまな歌が集められている。」
って習わなかった?
さまざまな階層の人の心とか気持ちを
万葉のこころ、って、一まとめにできるものなのだろうか?
俺はまずそれを思うんだ。
歌を詠む、ということは、
歌を作ったそれぞれの人の中に、感情の高まり、とか
簡単には整理できない深い深い想いの沈殿があって
そうした感情が歌を作らせているわけでしょ?
だから、百首の歌があったら、
百通りの全く違った感情の動きが
あるはず、だよね。
そういう歌を作ったときの心の動きとか、その歌ができるに至った
歴史的な背景というような、各歌の成り立ちっていうのを
難しい言葉で言うと「作歌事情」って言うんだけどさ。
それぞれの歌の作歌事情なんて、100人いれば
100人それぞれが違うわけでしょ?
立場だって違う、作歌事情だって異なる。
そんな人それぞれの繊細な心の動きを、万葉のこころ、なんて、
雑駁な言葉で一まとめにしまっていいのか、って思う。
いろいろな人の想いのこめられた、さまざまな歌を集めたから
「よろづのことのは」で、「万葉集」ってタイトルがついてるんでしょ?
それを強引に「万葉のこころ」なんて、
一まとめにしてしまってさ。
じゃあさ、万葉のこころ、っていうのがあるんだとしたら
新古今和歌集のこころ、とか、後拾遺和歌集のこころ
っていうのもあるのかな♪
でさ、そういう万葉のこころ、なんて言う人は
大抵万葉人は心がおおらかで、とか純朴で、
とか言ったりする。
万葉人がおおらかで素朴で純心で、ってホントかよ?
じゃあ謀反とか、敵対する一族を皆殺しとか、拷問にするなんてことは
なかったんだね?
家持さんの深い悲しみは、どうして起こらざるを得なかったのか。
万葉のこころ、とか、昔の人は純真であった、とか
素朴だった、とか、、イメージだけの思い込みって、
実際を見ようとしないでイメージをあたかも事実だと
思ってさ、その結果、実際を誤解したり曲解して
しまう危険があると思う。
おまけに一度出来たそういうイメージって強固だから
それは違う、って事実を言っても、なかなかその
イメージを壊してしまうことができないし。
どうしても自分の中で作っちゃったイメージを壊さないようにしよう
っていう方向に行くから、自分の考えに都合のいいような
ものしか見ようとしないで、こうだこうだ、って言ってしまうし。
いつまでいっても固定概念のまま一歩もそこから
脱け出せない、なんてことだってよくあることでしょ?
イメージを固定化して、現実を直視しないようにする
っていうのは本当に怖いって俺は思う。
それからライトアップのイベントのこと。
ちょうど俺が明日香村に行った日の晩に、村内の遺跡とか
お寺をライトアップする催しがあることになってた。
俺さー、まだまだ暑い中、がんばってやってらっしゃる地元の方を
見てしまったから、そういう方々のご苦労を思ったら
あんまり批判のようなことを
言うのもどうかとは思うんだけど、、、
でも、敢えて俺の意見として言わせてもらったら、
そんなライトアップなんて俺はすべきじゃない、と
思う。
歌の枕詞に「ぬばたまの」っていうのがあるよね。
もちろんぬばたまの、って来たら、後には「闇」が
来るんだけど。
枕詞っていうのは、枕詞の次に来る言葉が、神聖なもの、
尊敬すべきもの、畏敬すべき存在だから、その畏敬すべき
存在を導くためにつけられた言葉なわけよ。
するとね、ぬばたまの、という枕詞があって、その後の闇を導き出す
ということは、その闇、というものを古代の人は、
「畏敬すべきもの」「神聖なもの」と考えたんだと思う。
「いにしえびとの思いにはせる」っていうのなら、
その古代の人が畏敬の念を持った「闇」を
生かすとか、追体験できるようなイベントなら俺も大賛成さ。
例えば逆に灯りを消して、ほとんど照明はなしにして、
月を眺めるとかいうような行事だったら、大賛成なんだけど、
そうじゃなくて、ライトアップとか
光を皓々と照らす、なんて考えるのは
どこまでも明るくなくちゃ、と考える現代の人の考えであって、
古代の人の闇を大切に思った考えとは、全く逆の考え方だと思う。
闇を殺してしまって、光を光を、っていう感じにしてしまったら、
闇への尊敬とか畏怖なんて、
全然感じられないんだもの。
暑い中、がんばっていらっしゃった方には
本当に申し訳ないけどさ、でも、そのライトアップが果たして
万葉の昔を偲ぶ行事になっているか、といえば
これは違うでしょ、って思った。
万葉集編纂記念も、万葉のこころも、ライトアップも、
だけどどうして古代史関連のイベントって、こんなふうに
なんだかなぁ、、、っていうふうになるんだろう。
たぶんね、その物の持ってる本質っていうものから、
全く関係なくなって、(本質はいつか別のところに
飛ばされてしまって)
一発イベントでもやって、金もうけしたろ、その隠れ蓑に
「歴史のロマン」とでも言っておいたら人も集まるやろ。
っていうふうなスケベ根性で、ことを起こそうとしてるのが
そこに透けて見えるからじゃないのかな、って思う。
まぁ、今日は文句たらたらの謙介なのですが、、。(笑)
読んでくださったみなさんを嫌な気持ちにさせた、としたら、
申し訳ないんですけどね。
でも、ホント、古代史関係になると、
「歴史のロマン」なんて言葉でぜーんぶ表面を塗り固めてしまってさぁ。
そこに見えるのは、つじつま合わせのイベント性ばっかりで。
そういうものばかりが全面に出てて
一番大切にしないといけない部分、っていうのが
ないがしろにされ過ぎなんだもの。
そういうのばっかりでさ。
だから、俺、そういう古代史関連のイベント、って
もう本当にうんざりしてるんだよー。
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Comments
ライトアップ,あれは無粋ですね。
エネルギーを無駄にして,わざわざ余計な細部をくっきりとさせてしまうなんて。
まだ,地面に蝋燭を置いてそのほのかな光で楽しむ方がいいです。
新古今の心・・・そんなものがあったら,僕も見てみたいです(笑)
家持があの歌を最後にまったく詠まなくなったのを考えると・・・よほど堪えたんでしょうね・・・。
おまけに,死後に名誉剥奪されちゃってるし・・・。
そう考えると,あの歌は賀歌に見せかけた絶唱なのかも。
Posted by: Ikuno Hiroshi | 09. 10. 10 AM 12:42
---Ikuno Hiroshi さん
本当におっしゃるとおりだと思います。万葉集の最後の歌、表面上はめでたい字面ではありますが、おそらくは永訣にも近い気持ちが家持さんの中にあったのではないでしょうか。そういう編者の気持ちとか時代を考えると、ちょっとなぁと思います。ライトアップも、このエコロジーのご時勢に、電力じゃんじゃん使って、、あかあかと必要以上に照らして、なんて要るのかなぁ、っていつも思っています。
Posted by: 謙介 | 09. 10. 10 AM 9:27